2010年7月アーカイブ

雨に唄えば

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梅雨明け初のお休みの日に、3年越しの小さな夢が叶いました。 「どしゃぶりのなか、傘をささずに歩く」っていうだけですが。

3年ほど前、突然の豪雨におそわれて車から出られずに車中に不機嫌な空気が漂い始めたので思いついた、「どうせなら、雨に打たれてみる?」。 仕事帰りの服装はまずいと、ディスカウントストアで服を仕入れて準備万端の頃にはすっかり小雨。

それ以来、タイミングを見計らうこと3年。どしゃぶりじゃなかったり、雨にぬれると困る服装だったりでなかなかその機会がなかったものの、涼を求めて出かけた場所で、梅雨明けの夕立がその機会を与えてくれました。

中学生の頃、深夜テレビで初めて観た「雨に唄えば」で、ジーン・ケリー扮するドンがうれしさのあまり、傘を放り投げ、雨に打たれて、水たまりを蹴りながら唄い、雨タップを踏む姿を見て、ドンのうれしさが伝染した記憶があります。別にうれしいことがあったわけでもないけれど、頭で想像する「雨に打たれる」よりもずっと新鮮な感覚で、たぶん3年越しの待ち遠しさと、雨降る様子に共振して、ちょっと心躍る体験。

「あの人たち大丈夫かしら?」と周囲の人々に「恐怖」を与えないように、誰もいない場所で雨に打たれましたが、その翌々日、その場所を震源に地震発生。「雨に唄えば」に共振してくれた?もしかして。

地元のお祭り

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俗に言う「新興住宅地」に住んでいると、人間がどんなに古くなっても、地域的には「新住民」である。

このあたりも「旧住民」が住むエリアには、村の鎮守の神様がいて、自分たちの御神輿があり、それらを核にしたお祭りがある。一方、「新住民」の私には鎮守の森もなければ、御神輿もないが、なぜか「地元のお祭り」と思えるお祭りはある。 旧住民の鎮守の森の神様のお祭りである「ちゃんちゃん(奈良ではお祭りのことをちゃんちゃん、祇園祭りのこんちきちんみたいなもんですね)」を借りて、勝手に「地元のお祭り」と認識しているだけだが。

鎮守の森では小さな神事が行われ、森の周辺では屋台が並び、花火があがる。小学生の頃は、時には姉と、時には友人と、お祭りに繰り出し屋台で買い食いをして、花火を見るのが常だったし、大阪の学校に通うようになってからは友人達を呼びつけて鎮守の森近くに出かけたり、クーラーの効いた自宅から花火を眺める年もあった。今もお祭りの日に関西にいる年は何らかの形で「参加」している。同じようなお祭りは同市のなかに複数存在し、自宅から花火も見えるが、私にとって地元のお祭りは「野口のちゃんちゃん」のみ。なぜか?

私の通っていた小学校区内で行われるお祭りだったので、小学校に通っていた頃は学校も「お祭り」モードで、お祭りに出かける際の注意事項がさらっと話されていたこと、毎年お祭りに行くようになったこと、こんな小さな事実を積み重ねることでいつしか、「野口のちゃんちゃん」だけが「地元のお祭り」になった。

この「地元の」お祭り、 ありがたいことに、数百世帯の小さな村が支えるお祭りなのにそれなりの規模の花火があがる。靴下で財をなした会社があるおかげ。非常にありがたいハナシではあるが、風の噂に「今年は財政難で花火開催があやしいらしいよ」なんてハナシを聞く日が来たら(基本、来ないで欲しいと願っているが、もちろん)、氏子ではない周辺地域のわれわれも、「花火奉納寄付」とかするかもなーと思いつつ、「たーまやー、かーぎやー」と意味なくつぶやいてみる今年の「地元のお祭り」であった。

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日本デザイン学会春季大会

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私自身、デザインに関しては門外漢。 では、デザインをアカデミックな観点から考える人というのはいったいどんなことを考えているのか、興味津々で日本デザイン学会春季大会におじゃました。 大会のプログラムには、プロダクト、タイポグラフィ、ユーザーインターフェイス、デザイン史の文字が躍り、 私の興味と重なるのかしらと、いささか不安があったものの、 大会プログラムを見て、「んっ?」と気になった発表を選んで聞いていると、 ここで取り扱われるデザインの対象は、「モノ」のみならず、「場」、ひいては「仕組み」に及ぶことがわかってきた。

例えば、プロダクトデザイナーがとあるプロダクトをデザインを考える時、 順不同、いったりきたりも「あり」で、

1)「モノの形」をデザインする :極端にいうと、素敵な見た目にデザインすること

2)「使い方」をデザインする :極端にいうと、使いやすさをデザインすること

3)実際に「使う場」をデザインする :極端にいうと、プロダクトを登場させる回数を増やす機会をデザインすること

の3要素は必須である。この要素の中で「3)実際に使う場をデザインする」なかに、最近よく見かけるデザインの力を借りて(デザインをツールに)、地域振興や子ども対象のワークショップが行われる場合の、「場=しくみ」をデザインすることも、 この業界の人々が考えることの1つのようだ。

伝紋wsというプログラムの「場=しくみ」について、あれやこれやと考えを巡らせている今日この頃、デザイン業界に身を置いて「場」について考えている専門家のご意見をぜひうかがいたいものである。

片道5時間

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ふだん、仕事で移動する時は、できれば「どこでもドア」の力を借りたいと思っているが、私にはドラえもんのような素敵な友人がいないので、大阪-東京間の移動はもっぱら飛行機である。トータル時間は新幹線と変わらないが、「乗り物」に乗っているのに、ほとんど移動している体感のない、ある意味不自由な時間をなるだけ短くしたいのだ。(ちなみに、飛行機には高速移動しているんだ、という体感が少しだけあるので、「不自由感」が低い)。

この週末、日本デザイン学会に出席するため、上田市に赴くことになり、「どこでもドア」の次に早い移動手段を探すものの、大阪-信州間は現在飛行機が飛んでいない。飛行機を使って東京経由で行くのは、日本からヨーロッパに行くために、日付変更線を超え、アメリカ大陸の上を飛んで行く気分だし、仕方ないので、片道5時間電車の旅と割り切ることにした。

ルートは大阪から名古屋・岐阜経由、長野。長野で乗り換え、上田まで。 帰りは上田から逆ルートで、名古屋からは名阪特急。

往路、夕刻の車窓から山と、田植えを終えて1ヶ月ほどかと思われる青々した田圃の風景を見ていると、仕事からの帰宅途中であろうスーツ姿の男性が、バイクを停めて木陰に座り、携帯を見ながら(おそらく)缶コーヒーを飲んでいる。周囲には会社らしい建物も人が住んでいそうな家もない。あるのは緑の山と、緑の田圃。大阪なら、一杯飲み屋か、電車のホームで缶チューハイだろうが、ここでは木陰で缶コーヒー。周囲には人っ子1人いない夕刻の木陰、湿気と埃とお線香のにおいが漂う伝耕分室からの帰り道にはない爽やかな風が吹いているように思うのは、単なる妄想だろうか? 彼はそこに座って何を思うのか、電車のホームで缶チューハイのおじさんと、2人で話しているのを聞いてみたい。

復路、夕刻に上田で「お蕎麦は食べて帰らないとね」と、学会にご一緒した方が、遅めの昼食(早めの夕食)に付き合ってくださったにも関わらず、上田駅の売店を通りかかった時、5時間の旅程を想像すると、鉄道の旅にはつきものの「儀式の駅弁」がないとやってられんと思い、根曲がり竹の駅弁と、お供のワンカップ真澄を購入して、列車に乗り込んだ。往路の不思議光景に心奪われていたので、しばし車窓に釘付けだったが、風光明媚なばかりで不思議光景には会えず、次第に闇に包まれて車窓からの景色がなくなったので、「そろそろ」と、お弁当を広げた。といってもお腹は空いていないので、ちょこちょこ、ちびちび。

ちびちびやっていたワンカップの内側に目を向けると、なにやら書かれている。よく見ると、長野の主要都市の標高が書かれている。が、真澄(日本酒)が入っている部分は文字が見えない。ワンカップをくるっと回してみても、私が滞在した上田市の標高記載はない。そおっとカップを傾けると、まだ、真澄の入っている部分は文字が見えず、飲んでしまった部分だけ文字が見えるような仕掛けになっている。ちびちびやるたびに、次第に長野の全貌が明らかになっていき、飲み干すと、「真澄富士見蔵 日本一標高の高い酒蔵」の記載が登場。根曲がり竹、味噌、杏と、駅弁に詰め込まれた長野名物をつまみながら、ちびちび飲むワンカップ真澄。日本酒の味を楽しむだけでなく、長野について目一杯、思いを馳せる楽しい車中に早がわり。

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この楽しさ、5時間の車中でなければ、私はほとんど気づかんな。っていうか、5時間の車中以外でワンカップを手にすることもないなぁ。おっと、そういえば、初ワンカップ、これでまた「七十五日、寿命が延びた」かな・・・。