2010年5月アーカイブ

竈金(かまどきん)

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京都の中心部を歩くと、統廃合よって使われていない学校跡が、建物はそのまま、壊されずに残っている姿を目にすることが多い。児童減少による統廃合で学校機能を果たさなくなった建物は、更地にされて別の機能を持つ建物に変身するはずだが・・・。

京都の学校、明治維新後に町衆の力を借りて設立されたものらしく、現在は市の持ち物であるべきはずの土地だが、今でも市の意向だけで自由に使うことができない力が働いているらしい。明治維新後、都としての機能を失った京都が、自分達の町の復興を願って、家にある竈の数を基準にした拠出金を元手に「地域立」の学校をつくった。その「地域立」の流れが受け継がれ、かつて竈金を拠出した自治会の意見を無視して、市が自由に使うことが許されない廃校跡も多いようだ。

1千年の都であった、という京都の特殊な状況はさておき、どんな地域であも、自分が住む場所で、次世代に十分な教育を受けさせ、日々の暮らしに必要なものを調達し、日々の楽しみを追求できる環境があれば、と願う気持はあるし、それらを求めて居を移すという選択も、もちろん、ある。都が京都から東京に移されると同時に、天皇さんと一緒に引っ越しを余儀なくされた多くのお店しかり、時代を現代にうつせば、子どもにより良い教育を与えたいと学区を選んで引っ越しをする人しかり。

明治維新後の京都の町衆のなかにも、きっと今の町内会みたいに、「せやし、そら竈金ださなあきませんなぁ」と言わはる人もいれば、「えー、家には竈3個もあるやん、そんなお金出すのいややしぃ」 と言わはる人もいたに違いない。そんななかで、竈金が出されるにいたるには、どのような経緯としくみがあったのか。町の復興を願って、残された町衆が出した竈金で設立された学校群が、京都のマンガミュージアムや京都芸術センターに姿を変えて残っていることを考えると、「昔のこと」とか「京都だしなぁ」と自分たちに関係ない話にしてしまうにはあまりにももったいない例なんだろうな。と、プラハで出会った地域運営のビアホールに思いを馳せながら、ぼんやりと考える週末の朝である。

上を見るといいことがある日

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昨日の夕方、東京からのゲストを見送ったあと、

大きな夕陽が見えたので太陽に向かって西へ向かって車を走らせると、夕焼けに飛行機雲。

20100516185101.jpg

さらに西へ向かうと、今度は青い空に細い金星と月のセット。

携帯で撮影を試みたものの、ちっぽけ携帯カメラでは画が撮れないと思ったら、

西道が伝耕分室に住むフォトグラファー長谷川氏に撮影してもらったらしい

上を見るといいことがある一日。

「肌ざわり」で学ぶこと

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少し前のこと。「お久しぶり。しばらくどうしてましたか?」と友人と近況を報告しあっていたら、何年か前に亡くなったはずの「祖母のお葬式に行ってきた」と。98歳で亡くなったお祖母さまは、100歳で「献体」のお役目を果たして埋葬されたらしい。焼き場には、家族の他、「献体」に携わった医学生も集まり、100歳になったお祖母さまに手を合わせ、遺族と話をしたりもするとのこと。

将来、人の身体にメスを入れるという「特異」な経験をしたり、生死を日常のこととして考えさせられる「特異」な環境に身を置く職業者として生きるであろう医学生は、日常のなかに生きる人々と、職業として「特異」な環境に生きる自分たちとの橋渡しをする必要があるからこそ、葬儀にも参列するんだろうなと勝手に想像したりしつつ、献体葬儀の話を聞いた。

ふと、初めて「ご愁傷さまです」とことばをかけた日のことを思い出す。

身近な人を亡くした方にかけることばは難しい。ゆえに「ご愁傷さまです」と言うもんだと、子どもの頃から見聞きする周りの振る舞いから知識としては理解していたが、なかなかそのことばを使う日は来なかったし、その日が来たらきっとふつうに「使える」ことばとして頭の片隅にしまわれたままになっていた。

立派に(?)大人になったある日、確か30歳になる直前、電話で「ご愁傷さまです」と言わなきゃいけない場面に初めて出くわした。悲しみに暮れる相手の気持を感じながら、逆立ちしても同じ気持ちにはなれない第三者として「悲しみ」の気持に少しでも届くことばを発することを求められる。悲しみの気持を「肌ざわり」として感じながら、どんな間合いでどんな声で「ご愁傷さまです」と言えばいいのかわからず、素っ頓狂な「ご愁傷さまです」だったように記憶している。

頭で理解していることと、その場の「肌ざわり」を感じることで初めて理解できることは確実に違うなぁと、しみじみ感じる今日この頃。あ、ちなみに「ご愁傷さま」は言い慣れたけど、あまり使う機会に遭遇したくないです、はい。