京都の中心部を歩くと、統廃合よって使われていない学校跡が、建物はそのまま、壊されずに残っている姿を目にすることが多い。児童減少による統廃合で学校機能を果たさなくなった建物は、更地にされて別の機能を持つ建物に変身するはずだが・・・。
京都の学校、明治維新後に町衆の力を借りて設立されたものらしく、現在は市の持ち物であるべきはずの土地だが、今でも市の意向だけで自由に使うことができない力が働いているらしい。明治維新後、都としての機能を失った京都が、自分達の町の復興を願って、家にある竈の数を基準にした拠出金を元手に「地域立」の学校をつくった。その「地域立」の流れが受け継がれ、かつて竈金を拠出した自治会の意見を無視して、市が自由に使うことが許されない廃校跡も多いようだ。
1千年の都であった、という京都の特殊な状況はさておき、どんな地域であも、自分が住む場所で、次世代に十分な教育を受けさせ、日々の暮らしに必要なものを調達し、日々の楽しみを追求できる環境があれば、と願う気持はあるし、それらを求めて居を移すという選択も、もちろん、ある。都が京都から東京に移されると同時に、天皇さんと一緒に引っ越しを余儀なくされた多くのお店しかり、時代を現代にうつせば、子どもにより良い教育を与えたいと学区を選んで引っ越しをする人しかり。
明治維新後の京都の町衆のなかにも、きっと今の町内会みたいに、「せやし、そら竈金ださなあきませんなぁ」と言わはる人もいれば、「えー、家には竈3個もあるやん、そんなお金出すのいややしぃ」 と言わはる人もいたに違いない。そんななかで、竈金が出されるにいたるには、どのような経緯としくみがあったのか。町の復興を願って、残された町衆が出した竈金で設立された学校群が、京都のマンガミュージアムや京都芸術センターに姿を変えて残っていることを考えると、「昔のこと」とか「京都だしなぁ」と自分たちに関係ない話にしてしまうにはあまりにももったいない例なんだろうな。と、プラハで出会った地域運営のビアホールに思いを馳せながら、ぼんやりと考える週末の朝である。
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