2009年9月アーカイブ

マザル・まざる・真猿?

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訪米した新首相のアメリカでの英語スピーチの発音の良さについて、メディアではネイティブスピーカーがあれやこれやと解説。新首相もなかなかの発音らしいが、残念ながら私には判断つかない。英語の発音に関する友人の話。北関東のとある地域で子どもに英語を教える学生時代のほとんどをカナダアメリカで過ごした彼女、英語教室で子どもに向かって、

「Repeat after me, "Mother"」、子ども達:「まざる」 ん?

「Repeat after me, "Father"」、子ども達:「ふぁざる」 はて??

「Repeat after me, "Here"」、子ども達:「ひーゆー」 はて・はて???

自分の発音が悪いかと、ネイティブが話すテープを聴かせてみるものの、変わらず 「まざる、ふぁざる、ひーゆー」。日本で生まれ育ち大きくなった彼女や、彼女の周囲にいる英語の先生にはそう聞こえるらしい。

ふと、大学生の時に初めて「分節」ということばを教えられたことを思い出した。 混沌を「分節化」で明確に理解することが理解、理解することで人にもきちんと伝えることができると。確かに。難解な文章を日本語で読んで分からなくても、英語で読むと理解できることもたくさんあって、膝を打った。

けど、待てよ。「まざる、ふぁざる、ひーゆー」の方がネイティブスピーカーに伝わりやすいならば、伝えることを前提とすれば、「分節化」経由「伝える化」がいる? 大人みたいに「Here」は「ひあ」、「Mother」は「まざー」と深く分節化に埋没していることを意識せぬまま伝えようとしたら、伝わらない時・コトもある。 年齢とともに手間を省き、楽しようとして「ひあ」「まざー」と発音することしかしなくなっている十分大人な私、今度「Here」で「??」って顔をされたら、日本語で思い切り「ひーゆー」って言ってみようっと。

ところで、「まざる、ふぁざる、ひーゆー」って北関東の方言じゃないよね?、私の住む奈良・南大阪・和歌山の一部地域の「どうきん取って、どうどよろしくおねがいします*」みたいに・・・

   *注 「雑巾取って、どうぞよろしくお願いします」の意。

狂い咲き

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車での出がけ、必ず通る道すがらの染井吉野。よく見ると季節はずれの花がついていました。

お昼寝がいやだと主張して通わなかった保育園に咲く染井吉野。近頃の地方ではありがちな財政難で閉鎖された保育園の庭に咲く染井吉野。

今年の春に閉鎖された保育園とともに、最後の命を燃やして初秋に花をつけたのかと心配したけれど、葉が早く落ちたせいで秋に花をつけた(んだと思う、いや願う)。よく見ると来年の春に向けて花芽がたくさん。あまりに意外性のある霞のない青い空の桜の風情も素敵だけれど、霞の空を背景に、あたりまえで、はかなくて、はらはらどきどき、落胆や憧れを与えてくれる春の桜の方が好きだな。

狂い咲きの桜.JPG

長距離走は全く苦手、ジムでも「ねずみ」と称してランニングマシーンには一度も乗ったことはないが、話のネタにと、時々ジムでランニングマシーンに乗っている「時々ねずみ」さんと一緒に、仕事帰りに大阪城公園でジョギングに挑戦。東京の駒沢公園、皇居に続き、大阪城もジョギング人口が増えたというニュースを聞き、季節も良いし、単なる物見遊山。 そういえば、高校を卒業して以来、電車の時間に間に合わないと駅まで走る以外は、長距離走ることなんて、ない。20年ぶりか。

事前に下見をしてルートも確認し約30分のジョギング計画を立て、ウォーミングアップの体操もした。30分なので「余裕」、と、たかをくくってスタート。一緒に走った「時々ねずみ」さんには「ペース合わせるよ、最初はスローな方がいいから」と言われたものの、「いやいや、大丈夫」と彼のペースに合わせて走り始める。なかなか快調、最初の5分間だけは。

5分走ると、まずはお腹が痛くなる。これは経験あり。そんなこともある。しばらく走ると今度は頭と耳が痛くなる。うん?これは経験なし。「ジョギングって身体によくない、急に始めて倒れる人っているよね」という言葉が頭をかすめる。この頭痛ってまずい?そして吐き気。ますますまずい?「時々ねずみさん」に話すと、「血流があがって血管の拡張が追いついてないんじゃない?けど大丈夫だよ」と。ふん。なら、しばらく歩いてみよう。歩いていると頭痛が治まったので、再度走り始める。今度は手を振るのがしんどくなるほど肩胛骨の下がだるい。確かに小学校の頃から長距離走は苦手で足がもつれたことはあったけど、肩胛骨がだるいって何?先に1週して追いついた「時々ねずみさん」に症状を話すと、「そういうもんや」。あ、そう。

たった30分間のジョギング、余裕のはずが、自分の身体が思うように動かないとは、これいかに。老化?

そういえば、同じようなことが一昨日もあった。友人にもらった超簡単レシピのガトーショコラを焼いてみた時、10年ぶりにメレンゲをつくるのに泡立て器を持った。「卵白2個だし、電動泡立て器を出す方が却って手間」とたかをくくっていたものの、「角」を見るまでに、場所をかえ、手をかえの四苦八苦。リビングにいた母から「代わろうか?」の声。いえいえ、自分でやります。

どちらも頭では「余裕」のはずが、身体がついてこないとはこのことか・・・。ジョギングはしないけど身体を動かしていないわけではない、メレンゲはつくらないが泡立て器も使う。 身体を動かすこととジョギングの差、泡立て器を持つこととメレンゲをつくることの差について、似非ジョギングでかいた汗を流そうと向かったお風呂屋さんの湯船で、思いを馳せた連休前の夜・・・。

 

美容院に行った帰り、ちょうどお昼時だったので、大阪では甘酸っぱいキャベツのピクルスで有名なカレーライスのお店に向かう。

 時は金なり.JPG

お店に入った瞬間「いらっしゃいませ」。入り口から右手に進むか左手に進むか一瞬頭をかすめたものの迷う暇なく、カウンターの比較的人の少ない場所を指さして「こちらへどうぞ」のナビゲーション、なんかホッとひと息。さぁてと荷物を隣の椅子においた瞬間に氷入り水グラスとキャベツピクルスそしてピクルスを食べるための小フォークが私の目の前に置かれ、「何にしましょう?」。なんだか妙に自分の動きと店員さんの声がけが「はく、吸う」の呼吸みたいで居心地がいい。まいどまいど、訪れるたびに「カレースパゲティも食べてみたい、けどなかなか来る機会もないからやっぱり定番のカレーライスと卵か」と10数秒はメニューとの真剣勝負。その10数秒、店員さんはなーんとなく私の前にいるけれど、次にやってくるであろうお客さんのためにグラスに氷と水を入れて、グラスを待機させ、私の注文を待っているような・そうでないような体勢。メニューとの10数秒の真剣勝負を終えた私は今日も「カレーライスと卵」を注文。

いつもはここで終了する観察モード、今日は一人ゆえ、食べながらも観察モード。

店員さんは、店の外から中の様子をうかがうお客さまが、入ってくるかどうかをほとんど百発百中で当てる。ようく見ていると、人が入ってくる場合は店の外でお客さまが動く直前に「いらっしゃいませ、どうぞ~」のかけ声。と、同時に手はボウルからお皿にピクルスを盛りつつ準備。グラスとピクルスとフォークが用意され、入店したお客さんが席に着くと同時にカウンターに3点セットをのせる。さっきの私の時とまったく同じ。この一連の動き、シロウトの私には「あ、あの人入ってくるかも」と思っても、なぜか店員さんがボウルからピクルスを盛らない時もあり、確かにその時はお客は別の店へと去って行く。いったい何が違うのか?

カウンターにある楊枝入れは、きれいに平らにならされているのではなく、必ず5~6本の爪楊枝が階段状に飛び出させてあるし(どうやら、お客さまが取り出しやすいように)、「お水、ください」と声を発する前にピッチャーを持った店員さんがグラスの前にやってくる。お皿をすっかり平らげて紙ナプキンで口を拭き終わりカウンターの上から視線を移し財布に手を出すが早いか、小銭=1000円からの釣り銭(カレーライスと卵で780円なので、その場合は220円)を用意した店員さんが「ありがとうございます」と近づいてくる。

ああ、書き始めるときりがない。カウンターだけのカレー専門店、おそらく急ぎで食事をしたい人が多いであろうお客さんの呼吸にぴったりはまるすばやい動き。カレーライスと卵で780円のお昼ごはんで、背筋が伸びた、なんだか「いってらっしゃい!」と言われたみたいに。

思わぬ収穫

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家族が旅行中、水遣り仕事を任されているので、久しぶりに裏庭におりてみた。

例年、この時期は日焼けで茶色くなる葉も、今年はまだ緑が多く、関西の夏の暑さも今年はマシだったんだ、と実感。水遣りしながら、久しぶりの庭をじぃっと見ていて、マスカットを発見。ほとんど小さい雑木林のような我が家の裏庭、葡萄棚をつくっているわけではなく、となりのさざんかにマスカットが巻き付いている有様なのに、1本で5房。しばらく一人なので、家族の帰宅まで4房残して1房もいでみる。

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年に2回、植木屋さんが来てくれる以外はほとんど手を入れていない我が家の裏庭で収穫できるものといえば、痩せた土地でも勝手にできる(であろう)、むかご、と、茗荷。ともにかたく踏み固められた倉庫の前あたりで忘れ去られたように実をつける。むかごは塩ゆででビールのお供で今年は終了、茗荷は甘酢漬けで茗荷ごはんとして食べるが今年はまだ実が小さいのでこれから。その恩恵をありがたく頂戴しているので、むかごと茗荷にも感謝しているが、両者はいつのまにか、庭にとんで来たのであって、唯一、意思をもって植えたマスカットなだけに、これがなると、妙にうれしい(まったく手をかけていなくても)。

あ、ちなみに味は、例年「これでもか」というくらいすっぱくて、種なし葡萄が当たり前のこの世の中で、外れなく種のある「ガマンのフルーツ」。これでも子どもの頃はおいしいと喜んで食べていたはず。 うれしくなって、ついついもいでみたけれど、食べたらいつもの「ガマンフルーツ」。しかし、思わぬ収穫なので、お肉にかけるソースにして食べようっと。

「じゅう、わる、さん」の世界

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正直にいうと、数学や数字はあまり好きではない。小さな疑問には答えてくれなかったからだ。

小学生の頃、どうして「10÷3=3あまり1」「10÷3=3.3333・・・」なのかとふと疑問に思った。二人姉妹の私は、ふだんは「これはお姉ちゃんとはんぶんこね」と言われるだけだったが、たまに友達や従兄弟が混ざって「3人で仲良く分けなさいね」と言われたら、カステラをちぎる不器用さから誰かの取り分が少し多くなることはあっても、二人で分けるのと同様、ちょうど3等分できるもんだと確信していた。にも関わらず、数字の世界では10cmのカステラがあるとしたら、3等分できない?私の小さな頭は軽いパニック・・・。数字の考えることと、私の感じる世界は別なのかと。 

それから30年ほど経ったつい先日、インターネットの対談番組で数学における「点の定義」について話しているのを見た。「点とは面積も体積も持たず、2つの線の交わるところ」で、位置を表すのみだと。「そうなの?点には、面積も体積もない?点が『ある』ということはそこに何らかの実在がある=たとえ、0.0数ミリでも面積はあるでしょ?」またしても私の生活実感とはかけ離れた数学のきまりごと。10÷3だけで十分なのに、と。

でも今回の話には続きがあった。数学における点の定義は数学的実在であって、必ずしも世界の真実ではないとの解説つき。ただし、数学上の点が定義されていることによって、空間上の位置を示す実在として作用すると。確かに、点の定義ないと困る・・・。私の見る世界を見やすくするために数学や数字があるだけで、それは世界の真実ではなく、ある意味ではツールであると。そうか・・・。

いったい何が上位概念なのか、何が手段なのか、私が感じる実在との整合性はどうなのか?について、もっと小さい頃に、ハナシをしてくれる人がまわりにいたら、ちょっとは数学や数字が好きになったかしら? 「そんなことも知らなかったの?」と「いやいや、それでもやっぱり好きにはならないでしょ」っていう親しい人からの声が聞こえなくもないですが・・・。

そうそう、igu伝のiguちゃんが、ご自身で数字を使った楽しい作品を制作されたようです。また、ご紹介しますね!