小沢一郎氏が民主党代表選挙に出るというニュースがTVで流れたので何気なく見ていたら、
「きゃー、小沢さん」という黄色い声の主に、満面の笑みを浮かべて近寄る小沢一郎氏の姿があった。
難し顔の多い小沢氏も、さわがれると、満面の笑み。
さわがれたいって、どんな人も持っている素朴な欲求なのね。
さわがれたいから、代表選に出馬するわけでない、とはもちろん思うけれども。
小沢一郎氏が民主党代表選挙に出るというニュースがTVで流れたので何気なく見ていたら、
「きゃー、小沢さん」という黄色い声の主に、満面の笑みを浮かべて近寄る小沢一郎氏の姿があった。
難し顔の多い小沢氏も、さわがれると、満面の笑み。
さわがれたいって、どんな人も持っている素朴な欲求なのね。
さわがれたいから、代表選に出馬するわけでない、とはもちろん思うけれども。
我が家の玄関には庭木として植えた記憶のない、柑橘系の小さな木がある。
ある日芽吹いたのを、毎日せっせと水やりをして、母が少しずつ大きくした。
ふと気づくと、柑橘系の木を置いた玄関の御影石の上に、黒い小さな点々。
これは毛虫に違いない、木がぼうずになる前にと、一応母に報告すると、
「そうやねん、あげはの幼虫が住んでるねん」
どうやら、育てている、つもりらしい。
昔、姉と2人で蟷螂の卵をそっと庭に持ち帰り、蟻の行列ならぬ蟷螂の行列を見て悲鳴をあげた母、
毛虫は触るのも見るのもイヤな母は、なぜか昔からあげはの幼虫だけは大丈夫。
以来、毎日幼虫の様子を見て、「ほら、大きくなったやろ?」とか「柄がはっきりしてない?」と報告されていたが、
ある日幼虫が姿を消した。 どこでさなぎになったんだろうと心配していたら、
羽化したてと思われるぴかぴかの羽根のあげはが玄関先にとんできたので、報告したら、
「蝶になったんやね、よかった」
って、「ホンマにあの幼虫なん?」というヤボなつっこみは、「育てたい」母の気持ちにこたえてくれたあげはに免じて、やめにしました。
久しぶりに見た羽化したばかりの蝶の羽根は、本当に美しいものでした。
あ、私は蝶は苦手だけどね。
「メロンもらったんだけど、食べきれないから、いる?」とおすそわけしていただいた。
桃の毎日に、一服のメロンの清涼剤。
メロンさん、食べ頃を外すと、本来の実力を発揮できないままに終わることが多く、
「○月○日頃が食べ頃です」と説明書きがあっても、「えー、まだ食べ頃ちゃうやん」と思うことも多い。
結果実はメロンはあまり好きではない。
今回おすそわけしていただいたメロンさん、
「メロン、いる?」と言われてからいただくまでに日にちがあり、食べ頃管理済みだったので、
「どうぞ」と袋を渡された瞬間にメロンの香りがあたりに漂った。
尋ねると、メロンのへた(?タケコプターみたいなところ)がしなびてきたら食べ頃ということらしい。
ふーん、確かに食べてみると、完熟でおいしい。
メロン嫌いは、我が家の管理が悪かったせいね、反省。
話はかわって「ししとう」のこと。
唐辛子のグループに属してるが、辛みマイルドで八方美人な姿に扮してる「ししとう」くん、
時々「素」の自分が出てしまう辛い子が混ざっていることがあり、これを「あたり」と呼んでいるが、
いつも「あたり」は突然に出没し、食べる私には見分けがつかないもんだと思っていた。
先日「ししとう」農家を訪ねるTVを見ていたら、「あたり」は形で見分けがつくということが判明。
スーパーで見かける「ししとう」は真っ直ぐに伸びてプラスチックパックに整列しているものが多いが、
へそまがり(いや、失礼)、形が曲がっているものが入っていたら「あたり」。
確かに、曲がっている子は油断ならぬ「あたり」率が高い。
おっと、見た目は重要ってことね、今日はお化粧して出かけようっと。
梅雨明け初のお休みの日に、3年越しの小さな夢が叶いました。 「どしゃぶりのなか、傘をささずに歩く」っていうだけですが。
3年ほど前、突然の豪雨におそわれて車から出られずに車中に不機嫌な空気が漂い始めたので思いついた、「どうせなら、雨に打たれてみる?」。 仕事帰りの服装はまずいと、ディスカウントストアで服を仕入れて準備万端の頃にはすっかり小雨。
それ以来、タイミングを見計らうこと3年。どしゃぶりじゃなかったり、雨にぬれると困る服装だったりでなかなかその機会がなかったものの、涼を求めて出かけた場所で、梅雨明けの夕立がその機会を与えてくれました。
中学生の頃、深夜テレビで初めて観た「雨に唄えば」で、ジーン・ケリー扮するドンがうれしさのあまり、傘を放り投げ、雨に打たれて、水たまりを蹴りながら唄い、雨タップを踏む姿を見て、ドンのうれしさが伝染した記憶があります。別にうれしいことがあったわけでもないけれど、頭で想像する「雨に打たれる」よりもずっと新鮮な感覚で、たぶん3年越しの待ち遠しさと、雨降る様子に共振して、ちょっと心躍る体験。
「あの人たち大丈夫かしら?」と周囲の人々に「恐怖」を与えないように、誰もいない場所で雨に打たれましたが、その翌々日、その場所を震源に地震発生。「雨に唄えば」に共振してくれた?もしかして。
俗に言う「新興住宅地」に住んでいると、人間がどんなに古くなっても、地域的には「新住民」である。
このあたりも「旧住民」が住むエリアには、村の鎮守の神様がいて、自分たちの御神輿があり、それらを核にしたお祭りがある。一方、「新住民」の私には鎮守の森もなければ、御神輿もないが、なぜか「地元のお祭り」と思えるお祭りはある。 旧住民の鎮守の森の神様のお祭りである「ちゃんちゃん(奈良ではお祭りのことをちゃんちゃん、祇園祭りのこんちきちんみたいなもんですね)」を借りて、勝手に「地元のお祭り」と認識しているだけだが。
鎮守の森では小さな神事が行われ、森の周辺では屋台が並び、花火があがる。小学生の頃は、時には姉と、時には友人と、お祭りに繰り出し屋台で買い食いをして、花火を見るのが常だったし、大阪の学校に通うようになってからは友人達を呼びつけて鎮守の森近くに出かけたり、クーラーの効いた自宅から花火を眺める年もあった。今もお祭りの日に関西にいる年は何らかの形で「参加」している。同じようなお祭りは同市のなかに複数存在し、自宅から花火も見えるが、私にとって地元のお祭りは「野口のちゃんちゃん」のみ。なぜか?
私の通っていた小学校区内で行われるお祭りだったので、小学校に通っていた頃は学校も「お祭り」モードで、お祭りに出かける際の注意事項がさらっと話されていたこと、毎年お祭りに行くようになったこと、こんな小さな事実を積み重ねることでいつしか、「野口のちゃんちゃん」だけが「地元のお祭り」になった。
この「地元の」お祭り、 ありがたいことに、数百世帯の小さな村が支えるお祭りなのにそれなりの規模の花火があがる。靴下で財をなした会社があるおかげ。非常にありがたいハナシではあるが、風の噂に「今年は財政難で花火開催があやしいらしいよ」なんてハナシを聞く日が来たら(基本、来ないで欲しいと願っているが、もちろん)、氏子ではない周辺地域のわれわれも、「花火奉納寄付」とかするかもなーと思いつつ、「たーまやー、かーぎやー」と意味なくつぶやいてみる今年の「地元のお祭り」であった。

私自身、デザインに関しては門外漢。 では、デザインをアカデミックな観点から考える人というのはいったいどんなことを考えているのか、興味津々で日本デザイン学会春季大会におじゃました。 大会のプログラムには、プロダクト、タイポグラフィ、ユーザーインターフェイス、デザイン史の文字が躍り、 私の興味と重なるのかしらと、いささか不安があったものの、 大会プログラムを見て、「んっ?」と気になった発表を選んで聞いていると、 ここで取り扱われるデザインの対象は、「モノ」のみならず、「場」、ひいては「仕組み」に及ぶことがわかってきた。
例えば、プロダクトデザイナーがとあるプロダクトをデザインを考える時、 順不同、いったりきたりも「あり」で、
1)「モノの形」をデザインする :極端にいうと、素敵な見た目にデザインすること
2)「使い方」をデザインする :極端にいうと、使いやすさをデザインすること
3)実際に「使う場」をデザインする :極端にいうと、プロダクトを登場させる回数を増やす機会をデザインすること
の3要素は必須である。この要素の中で「3)実際に使う場をデザインする」なかに、最近よく見かけるデザインの力を借りて(デザインをツールに)、地域振興や子ども対象のワークショップが行われる場合の、「場=しくみ」をデザインすることも、 この業界の人々が考えることの1つのようだ。
伝紋wsというプログラムの「場=しくみ」について、あれやこれやと考えを巡らせている今日この頃、デザイン業界に身を置いて「場」について考えている専門家のご意見をぜひうかがいたいものである。
ふだん、仕事で移動する時は、できれば「どこでもドア」の力を借りたいと思っているが、私にはドラえもんのような素敵な友人がいないので、大阪-東京間の移動はもっぱら飛行機である。トータル時間は新幹線と変わらないが、「乗り物」に乗っているのに、ほとんど移動している体感のない、ある意味不自由な時間をなるだけ短くしたいのだ。(ちなみに、飛行機には高速移動しているんだ、という体感が少しだけあるので、「不自由感」が低い)。
この週末、日本デザイン学会に出席するため、上田市に赴くことになり、「どこでもドア」の次に早い移動手段を探すものの、大阪-信州間は現在飛行機が飛んでいない。飛行機を使って東京経由で行くのは、日本からヨーロッパに行くために、日付変更線を超え、アメリカ大陸の上を飛んで行く気分だし、仕方ないので、片道5時間電車の旅と割り切ることにした。
ルートは大阪から名古屋・岐阜経由、長野。長野で乗り換え、上田まで。 帰りは上田から逆ルートで、名古屋からは名阪特急。
往路、夕刻の車窓から山と、田植えを終えて1ヶ月ほどかと思われる青々した田圃の風景を見ていると、仕事からの帰宅途中であろうスーツ姿の男性が、バイクを停めて木陰に座り、携帯を見ながら(おそらく)缶コーヒーを飲んでいる。周囲には会社らしい建物も人が住んでいそうな家もない。あるのは緑の山と、緑の田圃。大阪なら、一杯飲み屋か、電車のホームで缶チューハイだろうが、ここでは木陰で缶コーヒー。周囲には人っ子1人いない夕刻の木陰、湿気と埃とお線香のにおいが漂う伝耕分室からの帰り道にはない爽やかな風が吹いているように思うのは、単なる妄想だろうか? 彼はそこに座って何を思うのか、電車のホームで缶チューハイのおじさんと、2人で話しているのを聞いてみたい。
復路、夕刻に上田で「お蕎麦は食べて帰らないとね」と、学会にご一緒した方が、遅めの昼食(早めの夕食)に付き合ってくださったにも関わらず、上田駅の売店を通りかかった時、5時間の旅程を想像すると、鉄道の旅にはつきものの「儀式の駅弁」がないとやってられんと思い、根曲がり竹の駅弁と、お供のワンカップ真澄を購入して、列車に乗り込んだ。往路の不思議光景に心奪われていたので、しばし車窓に釘付けだったが、風光明媚なばかりで不思議光景には会えず、次第に闇に包まれて車窓からの景色がなくなったので、「そろそろ」と、お弁当を広げた。といってもお腹は空いていないので、ちょこちょこ、ちびちび。
ちびちびやっていたワンカップの内側に目を向けると、なにやら書かれている。よく見ると、長野の主要都市の標高が書かれている。が、真澄(日本酒)が入っている部分は文字が見えない。ワンカップをくるっと回してみても、私が滞在した上田市の標高記載はない。そおっとカップを傾けると、まだ、真澄の入っている部分は文字が見えず、飲んでしまった部分だけ文字が見えるような仕掛けになっている。ちびちびやるたびに、次第に長野の全貌が明らかになっていき、飲み干すと、「真澄富士見蔵 日本一標高の高い酒蔵」の記載が登場。根曲がり竹、味噌、杏と、駅弁に詰め込まれた長野名物をつまみながら、ちびちび飲むワンカップ真澄。日本酒の味を楽しむだけでなく、長野について目一杯、思いを馳せる楽しい車中に早がわり。

この楽しさ、5時間の車中でなければ、私はほとんど気づかんな。っていうか、5時間の車中以外でワンカップを手にすることもないなぁ。おっと、そういえば、初ワンカップ、これでまた「七十五日、寿命が延びた」かな・・・。
外食続きにうんざりだし、とお弁当持参で出かけることになり、冷蔵庫を覗きながらメニューを考える。 ムシムシべたべた払拭メニューに、冷たい茶碗蒸しが頭に浮かぶものの、卵以外茶碗蒸しにふさわしい食材が何もない。
仕方がないので、この次期冷蔵庫から姿を消すことのないトマトだけを茶碗蒸しに入れて、 お弁当持参で外出したものの雨。 ついてない。
雨のなか、車中でお弁当を広げる羽目になったが、トマト茶碗蒸しが、意外と好評で、ご機嫌やや回復。
食後、雨がマシになったので、目にやさしい光を放つ奈良盆地を見おろせる特等席に出動したものの、 いつもは静かな場所に電気が煌々とついている。
仕方がないので、10mほど山を降りた場所に移動すると、蛍の乱舞。 今年は蛍を見に行く機会がないな、と思っていたので、 思いがけない場所での遭遇に、私も乱舞。
行き当たりばったりの効用、棚からぼたもち、ひょうたんからこま。計画性のなさに時には良いこともあるなっと。
もちろん、言い訳ですが・・・。
1週間足らずの休暇を海沿いに住む友人の家で過ごした。
ふだんは大人だらけの生活だが、今回の休暇は8歳と4歳の女子2人と一緒に過ごす。
ビーチからの帰り道、
歩いて10分足らずのアパートまでの道のりを8歳と4歳女子と一緒に歩いていたら、
持っていたおもちゃをネタに、突然アイデアバトル勃発。
「せんぷうき」「たいよう」「おはな」「えんぴつ」「シャワー」「マイク」「ひまわり」「かたたたき」「でんき」「ドリル」・・・。
アイデアが出るたびに、歩きながらもジェスチャーつき。
1つアイデアを口にするたびに徐々にテンションがあがっていき、
道路にはみ出してジェスチャーするのを、後ろから「こらー」と諫めるものの、
見ているだけで結構笑える。
「マイクっ!」と言いながら、4歳のくせに、
なんで80年代の歌謡曲風の歌の熱唱やねん、というのはさておき、
「ぐりぐり!」 それ何やねん、というのはさておき、
ネタが尽きて同じアイデアを口にしても、
異なるジェスチャーならOKというルールを瞬時につくりだしたようで、
アイデアバトルはやむことを知らず、
家に着いて、アパートの庭に咲くプルメリアの花に話題がうつらなければ、
10分では止まらなかったに違いない。
齢、一桁の妄想力と楽しみ力、おそるべし。
バトルのもとネタって、これなんだけど・・・。
大阪総合デザイン専門学校主催、 コミックアートフェスタ010のコンペティション表彰式とレセプションにおじゃました。
「漫画やアニメーション、ゲームから生まれ、 独立した新しいアートであるキャラクターイラスト」がコミックアート。 (大阪総合デザイン専門学校Webサイトより)
今回レセプションにおじゃまするまで、ほとんど接点のなかったコミックアートだが、 マーケットの成り立ちはとっても興味深い。
1)作品をつくるためのノウハウが、さまざまな形で提供されている
作品をつくるプロセスが雑誌などで公開され、 例えば「萌えキャラの上手な描き方(誠文堂新光社)」など、 作品をつくるノウハウ本が存在し、誰でも簡単に描ける学びの場がある。
2)作品を投稿・閲覧できる場が整備されている
「pixiv」のように誰でも作品を発表したり、発表された作品を見ることのできる 身近な「場」が存在し、作品を社会につなげることができる。
3)描き手と買い手がほぼ重なっていて、買い手の姿がよく見えるマーケットがある
自分の好きな作品を描いて売り、自分の好きな作品を買う「場」が確立されていて、 つくった冊子が売れることで、自分の作品が、確かに誰かに評価されていると実感できる。
そしておそらく、評価される人(≒成功者)が生まれることで、作品をつくって評価されたいと「学ぶ」人が増え、「 学ぶ・世に出す・評価される」の各プロセスがくり返されることで、 そこから生まれる作品の質が底上げされる、そんな良い循環がある。
コミックアートは、きっとまだまだ限られた一部の人のものだし、 私自身、コミックアートのことを、まだまだよくわかっていないが、 大切に保護しないと廃れてしまうものではなく、自律的な「血流」を感じるアートの一形態として、しばし見守りたい対象である。
プロフィール
伝耕PROJECT
伝耕人のブログ