21時頃に郊外のスーパーに立ち寄った時、思わぬ光景に遭遇。
「ほら、見て、わたし」
名前はぴいちゃん、手を出すとつつかれます。
「ほら、見て、わたし。車の屋根が私のステージ。
片足立ちはもちろんのこと、一般道(60km/時)なら、
このまま風を受けて風見鶏、いや、鳳凰にもなれるのよ」
21時頃に郊外のスーパーに立ち寄った時、思わぬ光景に遭遇。
「ほら、見て、わたし」
名前はぴいちゃん、手を出すとつつかれます。
「ほら、見て、わたし。車の屋根が私のステージ。
片足立ちはもちろんのこと、一般道(60km/時)なら、
このまま風を受けて風見鶏、いや、鳳凰にもなれるのよ」
「とりあえずビール(1杯目)」は好きだけど、おなかいっぱいになるのを避けるため、
2杯目は別の飲み物にスイッチするのが常。
この日は2杯目もビールの選択だったが、そのわけは、この黒泡と白泡。
どちらも同じハーフ&ハーフだが、黒ビールを先に注ぐと黒泡が、
普通ビールを先に注ぐと白泡があらわれる。
あらあらフシギ。
「白黒同時に並べてみたくなるでしょ?」という直球メッセージに、ふん、と思いつつ、
並べてみると、結構盛り上がります。小さな幸せだけど・・・。
毎年訪れるキャンプ場がある。
瀬戸内の小さな入り江、地形を活かした漁港の横、
砂利をいれて整備され、 水道完備、キッチン完備、シャワー完備、
必要であればサイトには電源も用意されている。
この快適さは、俄キャンパーには捨てがたい要素だ。
「似而非の自然?」「似而非の田舎?」
最初に訪れた年、キャンプ場の管理人兼漁師のおじさんはさごしのお刺身で歓待してくれた、
おじさんはさごしのお刺身とビールの後、リクライニングチェアで、午睡。
その翌年、夏休みのお手伝い中学生は、海蛍鑑賞会で我らを歓待、
海蛍鑑賞会は地元の中学生自身も楽しむ夏休みのイベントの1つ。
さらにその翌年、早朝の波打ち際でおばさんがで健康にいいという海藻を教えてくれた、
おばさんは、冬の自宅用の保存食品として海藻を持ち帰る。
キャンパーにも色々サービスしてはくれるものの、
サービス提供者の彼ら自身の楽しみや生活に必要なものが、そこにある。
ヒトは、ふだんの生活にはない、ローカルでエキゾチックな経験を求めて旅に出る。
10代-20代はエキゾチックな経験を求めて海外へ、この10年は同じ気持ちで国内への旅が増えた。
なぜか繰り返し訪れてしまうこの入り江は、
「似而非」「俄」キャンパーが快適に過ごせるように整備されてはいるものの、
同時に地方の漁師さん一家にとっても快適な場所、それが等身大・リアルな地方ではないのか・・・と。
「リアル」ってなに?「似而非」ってなに?
そんな問いを笑い飛ばさず、振り回されず、
入り江の漁師さん一家の歓待と寛ぎ・楽しみ・必要の気持ちに出会えることが
私にとってのリアルだと、今年も入り江を訪ねる日を心待ちにするのである。
「だいすきよ。だいすきだよね?こうめちゃん(私)のこと、しんじてる」
熱烈なメッセージのお手紙をいただきました。
一生懸命、一字一字を丁寧に書いてくれたことが伝わる筆圧の高い文字を見ると、
全身全霊で書いてくれたのだと、心がわりも辞さず・・・。
で、差し出し人は5歳女児。
なぜか小学生くらいまでの女児にモテます。、女児限定。
(子どもがいないので、「母親然」としたところがないというだけかと思いますが)
直球メッセージが妙にうれしいので、単なる自慢バナシ。
しかし、いろんなことを真似て学ぶこの年齢、
「だいすきよ」はさておき、「しんじてる」はいったい誰の真似かしらん?
関西文化圏の家人に「桜餅買って帰ろうか?」と問う時、
思い浮かべるのは、つぶつぶの道明寺粉でつくられた桜餅(関東風に言うと道明寺)。
東京に行った時、友人に「桜餅のお土産いる?」と問う時、
「いつもと違うクレープ状の桜餅、食べたい?」の意味となる。
ソメイヨシノには全く興味を示さない相棒に「そろそろ桜餅の季節かな?」と問う時、
「桜餅のような花を咲かせる八重桜は咲いたかしらん?」の意味となる。
私が「身も蓋もない」と言う時には、「あからさますぎて風情がない」という意味だが、
一昨日おじゃました貼箱屋さんでは「身も蓋もない」と言えば、
「容器(下箱)も蓋(上箱)もない」の意となるそうな。
貼箱屋さんの「身も蓋」のように、そのコトバが業界でしか通じない専門用語だと思う時は身構えて、
何を意味するのか注意して考えを巡らせるが、
日常生活にフツウに登場する事柄を表すコトバだとたかをくくって気軽に聞いている時には、
相手が話す△△と、私が想像する△△が同じものかなんて、
疑問にも思わないのが「ヒト」だと思う。
「さぼり」な私は、すべてのコトバに「それって、なぁに?」と問うていたら、
頭が忙し過ぎてダウンするに違いない。
ただ、「ん?」とか「あれ?」とか「しっくりこない・・・」と思う時は、
「それって、なぁに?」の問いが必要かも。
ご注意くださいませ、こんな「炭焼珈琲」も存在しますから。
絵を見るのも、自然の中に身を置くのも、桜を見るのも、 舞台を観るのも好きな方だと思う。
なかでも劇場で「生(ライブ)」の舞台を観ることには特別な思い入れがある。
劇場に行くと、「こころ、ふるえる」体験ができる機会がたくさんあるから。
絵を見ていても、自然の中に身を置いても、時には「こころ、ふるえる」けれど、
やっぱり劇場は特別にその機会が多いと思うので、
「こころ、ふるえる」体験を求めて、ついつい劇場に足を運んでしまう。
(たまたま、私がそういうタイプだ、というだけだが)
劇場への思い入れについて話した友人に、劇場に行ったことを告げると、
「今日はこころ、ふるえた?」と毎度のように聞かれるが、
そんなに簡単に、たびたび得られる体験ではない。
あまりにもたびたび聞かれるので、
私にとっての「こころ、ふるえる」体験とは何かと考えてみた。
きれいな夕陽を見ることができたら、
「あー、きれいだなぁ」と、ふーっと長い息を吐き、とても幸せな気持ちになる。
満開の桜を見たら、「今年も春が来た!」と、うれしくて、心躍る。
でもこれらは「こころ、ふるえる」体験とは別のもの。
劇場で文楽を観たり、歌を聴いたりしている時、
ふと自分のなかに何やらざわざわと落ち着きない感情の小さな揺れを感じ、
小さな揺れと舞台上で起きていることのつながりを意識すると、少しずつその揺れが大きくなる。
すると、まるで自分の手や足、自分の出す声など、
これが限界と感じていた可動範囲を超えて何でもできそうな気持ちになり、
一方で、その可動範囲は容易に超えられるものではないことを知って打ちのめされる。
この「こころ、ふるえる」体験は、うれしくもあり、幸せでもあるが、
自分の信じている感覚を打ち砕かれる瞬間でもあるので、「衝撃」という言葉にも近い。
衝撃だけれども、「自分の感覚の範囲が伸びた」と感じられる得難い体験なのだ。
ただ、3月11日以降、ここのところ、
ふーっと幸せな息を吐く瞬間を求める方に気持ちが傾きがちになった。
今はきっとそういう時なんだと、そういう時もあってもいいなと、近頃は思う。
旅先で何気なく棚田を散策していたら、畦に四つ葉のクローバーを発見。
そういえば、昔から四つ葉のクローバーを見つけるのが得意だった。
クローバーの葉が群生している場所にしゃがみこんで、一生懸命四つ葉を探す友人を横目に見ながら、
歩きながら群生場所をさあっと見ていると、3つしかない葉の図柄とは違う図柄が飛び込んでくる。
と、それは四つ葉のクローバーなのだ。
四つ葉のクローバーは単なる変異体だが、
「いいな、いっぱい見つけられるから、幸せになるよ」と羨ましがられ、
「やっぱり?私もそうやと思う、ふふっ」と不遜な態度で返していた。
久しぶりに四つ葉のクローバーとの遭遇に、その過程(私の場合)を振り返ってみると、
まず、三つ葉のクローバーの図柄をパターンとして認識、
そのパターンからズレたパターン(図柄)を発見、そして、その場所をじぃっと見る。
すると、四つ葉のクローバーが見つかるのだ(もちろん、空振りのこともあるけれど)。
私の場合、いきなりクローバー群生地にしゃがみこんでは、四つ葉のクローバーは見つからない。
まだ衰えていなかった四つ葉発見力に、「よしよし、やっぱり、幸せは私のモノやな」とほくそ笑んでみたものの、
一方で「大人私」が自問する? 「なにが?」と。四つ葉のクローバーが見つかるから幸せなこと・・・。
1つありました、四つ葉のクローバーを見つけるのは、
観察やインタビューで、つっこみどころ(プローブポイント)を発見できることと似ています。
観察やインタビューでは、聞いた話・見た行為(事象)を、対象となる像を組み立てるべく、
まず頭の中でぼんやりした「絵」を描いてみて、
その「絵」に、目の前で話される内容や事象(情報)を当てはめることで、「絵」の輪郭や色をはっきりさせる作業をする。
と、「ん?これ今までのパターンと違う」という瞬間がたくさん訪れ、その話や事象が「絵」に合っているかどうか確認し、
そもそも元の「絵」が違う場合は、「絵」そのものに修整を加える。
この「ん?」と思う瞬間がつっこみどころ、だと意識して観察したり、話を聞いたりするが、
「ん?」の瞬間は、歩きながら遠目にクローバー群生地を眺めて、
「あ、ここに四つ葉がありそう」と思う瞬間と、全く同じなのである。
まあ、風が吹けば桶屋が儲かる、みたいなもんですが、他にも良いことあるか探してみようっと。
「不安だから、エレベーターで合った人に「おやすみなさい」って声をかける。 」
「買いだめするよりも、周りの人と仲良くなったほうが安心じゃない?」
と知人がつぶやいていた。
読了記録中心だったつぶやきのなかに、3月11日を境に混ざり始めたつぶやき。
また、この数年間、外出すると言えば、私と食事するだけだと話していた友人。
3月に入って新しい生活に踏み出す決意を固めたらしく、
3月11日を経ても、その決意は変わらず、着々と準備を始めている。
3月11日がきっかけになった「始まり」と、3月11日には影響されない「始まり」。
どちらの「始まり」にも、心をこめてエールを!
同時に私は「始まり」にチカラをもらうのである。
月光荘さんでiguのせかい展を開催した時に、リトグラフやシルクスクリーンで印刷してみたらどうだろう?とご提案をしてくださったお客さまがいらっしゃいました。ということで、とある方のご紹介で、奈良の岡村印刷工業さんにある車木工房をおたずねすることに。
岡村印刷工業さんが創業されたのは今から約80年前。当時、すでに色々な印刷方法があったようだが、岡村印刷工業さんのなかには、石版印刷(リトグラフ)で技術を磨いた職人さんがいらっしゃった。1970年代にオフセット印刷が主流になりはじめた頃、大量印刷のビジネスの場をオフセットにとってかわられた職人さんに蓄積された技術力を集結させたのが「車木工房」だ。現在の車木工房は石版画、銅版画の2つの主な方法を用い、作家の表現方法に合う版画の方法を試行錯誤・ご提案してくださる。
車木工房の入り口を入ると、19世紀後半から20世紀初頭に活躍していたイタリア製のリトグラフ印刷機がお出迎え。かつて一度もいかなるリトグラフ印刷機も見たことはないものの、ボウリングのボウルのようなおもりと、石版に圧をかけるための木でできた星形のハンドルを見るだけで、両手を広げるほどの大きさの星形ハンドルを回す職人さんの姿が浮かび、印刷機から目を離せなくなってしまった。おっと、いけない、まだエントランスでした。
エントランス横は、歩く度にカタンカタンと床板同士が当たって音がする床が印象的な石版画の部屋。壁際には5-6mはあろうかという長机と印刷機、そして印刷機の上には石の板。
車木工房で使われているのは厚さ10㎝ほどの石版である。足の上に落とすと痛そう・・・。カタンカタンという床板は石版を落としても問題のない硬い栗の材を選んでつくられているとのこと。よくよく見ると板金途中か打ち出し途中の銅のよう叩かれた跡がそこかしこについている。確かに、これでは松も杉も檜も楢も破壊されるな。

石版画は、出したい色の数だけ石版を使い、作家が直接石版に絵を描いていくので、作家の筆のタッチをそのまま再現できるというが、色別に厚さ10㎝50cm四方もの石版を印刷機に運ぶだけでもひと苦労の様が浮かんで「はーっ」とひたすら感心して立ちつくしていると、実際に1色ずつ色を乗せていった過程が分かるように刷った絵を数枚の壁際の長机の上に並べてくださった。

なるほど、この工程があるゆえの長机ね。全ての色を乗せた絵は通常の印刷で見る2Dの画面とは別物だ。ふだんは美術品と印刷物を全く異なる文脈でしか見ていないので、横並びで比較したことはなかったが、こうやってみると、技術の根本は同じでも、美術印刷における再現性とは各色の要素を完璧に再現することで得られるものではないことを実感する。印刷の工程で、いったん色に要素分解してみるものの、絵の世界を複製するためには、分解された色をパーツとして集合させるのではなく、分解された要素を、どの順序で・何と何をつなげ、また、何と何は離しておくのかを考えつつ再構成される必要があり、そうすることで2Dであるはずの版画が3Dのようなニュアンスを持てるのだ。次の間にはさらなる石版の数々。なかには某専売公社のパッケージデザインや某薬品会社のパッケージなど、懐かしいデザインの石版もある。これら石版は資料としての価値を考慮して保存されているものだが、通常石版は、1つの絵を刷るために使い終えると、表面をうっすら削り、新品として再利用される。そして石版の厚みが印刷機に耐えなくなると印刷所の下に埋めたり、海や川に沈めたりしていたらしい。石版印刷を生業としていた印刷所の下には今でも石版が埋まっているとかいないとか。石版が主流だった頃の町の印刷屋さんも、床下を掘り返すと石が出てくるのではないかと、つい想像してみる。
そして次の間が銅版画の間。銅版画にしても写真製版を用いる方法、版全体に無数の線を縦横斜めに刻んだ上で絵柄を入れていくことでいわゆる「べた塗り」部分に微妙な印影をつけることのできるメゾチント、粉末にした松脂を雪のように降らせて、いわば偶然の力を借りつつその腐食の時間でインクの付き方を調節するアクアチントなど。

(写真はメゾチントの最初の工程)
小学校の頃にストローで絵の具を吹いて、「偶然」の力を借りて絵として楽しんだのを思い出したものの、「毎回刷る際、インクのつける際の偶然も「味」なんでしょうか?」という問いに対しては、きっぱりと「毎回同じクオリティを出すことは大前提です」と。なるほど。インクの色は毎回同じ数値の配合で色を出しても必ずしも同じ色にはおさまらず、同じ手順で刷ったとしても同じように色がつくとも限らないものの、「毎回同じクオリティを出す」。刷られた絵の最下部に、小さな鉛筆の字で印刷手順のメモを発見。
そのメモに書かれた手順通りに他の人が刷ったとしても同じようには仕上がらないらしい。聞けば聞くほど職人さんの世界。
岡村印刷工業さんは、オフセットで1000線という印刷の技術もお持ちだそうだが、印刷の良さと版画の良さ、これは全く別のもの。「紙に絵(字)を刷る仕組み」という球根は同じでも、開く花は全く違う種類のものだと認識しました。igu伝の版画も挑戦してみたいなぁと車木工房さんを後にしました。
世の中知らないことだらけ、退屈しているヒマなんてありませんね。
先日、なくしものを見つけた時、思わずVサインで喜びを伝えた自分にびっくり。Vサイン?
「おっ、やったぁ」とか「マジ?」と感じる思いがけないうれしさに遭遇したら、
どんなジェスチャーが出るか、周囲の人に聞いてみたけれど、「Vサイン」との回答はなく・・・。
「ふん、Vサインなんて10年以上出した記憶ないのに、ふんっ」と思っていた。
で昨日、「カイリー・ミノーグが20年ぶりに来日するらしいよ」と言われ、
懐かしさを覚えたものの、ピンと来なかったが、
「ラッキー・ラブは聞いたなぁ」との言葉に、高校生の頃にいわゆるディスコというやつで、
「Lucky, Lucky, Lucky」と口ずさみながら、
両手万歳でVサインをたなびかせていたことを思い出した。
おっと、咄嗟に感じるうれしさにVサインの訳は、われらコーフォートの刻印なのか?
おそるべし、時代の刻印。
無意識ゆえの行動なので、Vサインしてたら、ご指摘願います。
プロフィール
伝耕PROJECT
伝耕人のブログ