学びほどき(Unlearning)ノート「資本主義と向き合ってみる」①

学びほどき(Unlearning)「見える化」私家版

就任以来、大統領令やツイート攻撃を連打するトランプ大統領。芸能ニュースよりも、彼の言動の方が、「ニュース性が高い」。芸能人の敵は、今やトランプ大統領?

大衆を制すること、そのために主要メディアで露出度を高く保つことこそが彼の戦略。接触頻度が高いとだんだん好きになるというのは古典的な研究で示された通り。当初は女性蔑視と遠ざけてたのに気が付いたらトランプのことを憎からず思っているかも?!

トランプを実行力ある大統領として支持する人たちが落日の白人中産階級「hillbilly」であるとして揶揄する記事を何度となく目にした。いやいやいや、我々、揶揄できるほど高みの見物を気取ってられない。

経済学についてド素人の私でも、グローバル資本主義の行き着く先は気になる。しかし、行先は不明。50代も中盤に至って最近猛烈に反省しているのは、私が「根本から理解していること」の少なさである。「私、むっちゃアホやん。」最近、それがじわじわと沁みてきた。

学校を出てからウン十年、思考力トレーニングの圧倒的不足。というわけで、皆さんのお役に立てるかどうかは全く斟酌せず、「学びほどき(Unlearning)ノート」のブログは私自身のためのお勉強「見える化」記録。弱った頭で時代の節目に対峙してなすすべもないが、出張中の読書で心にひっかかったことを「なんちゃって自主ゼミ発表風」にまとめてみたら、ちょっとは衰えた頭の刺激になるかも?という淡い期待で、今回はその①「資本主義と向き合ってみる」と題してつらつらと(もちろんこのシリーズは不定期更新)。

 

グローバリゼーションなるもの

グローバリゼーションは、資本と国の分離を可能にする。

資本は「国という『元祖』主語」の事情にとらわれず、経済合理性によって活動拠点を自由に選択し、さらに富の蓄積の場所を操作できる。なので、儲けるしくみと儲けた結果を一国にしばりつける必要はない。チャリンチャリンと音がする場所をいち早く見つけて、そこに資本を投下して儲かるしくみを排他的にさっさと構築し、儲けながら、次のアクションを考えて富を蓄積し、次のチャリンチャリンへ移動する。このアクションを決めるのは資本であって、国ではない。資本に対して国はディールをするだけ。なので、その資本の主(株主)は多かれ少なかれ資本主義志向で行動しているから、規模の大きな資本がどんな世界を作りたいかという思想を持つ(「持たない」ということも含め)かによって結果的に世界が変わることを許すのがグローバル資本主義だ。ゆえに資本の投下と再分配は国内にとどまらず、生産して利益を得るまでにかかるコスト(場所・素材・インフラ・労働・税金等々)が低いところを選び続け、とある場所に労働者が大勢生活をしていても、うまみがなくなれば資本は去る。そして、資本ほどに移動の順応性がない人間は捨て置かれる。捨て置かれたと怒る人たち、それがトランプを支えているコアな人たちだ。一方、サンダースの支持層は顧みられないと確信した若者たちであった。

僅差で選ばれたトランプがやろうとしているのは、資本の投下と再分配を国内に留めること=アメリカファーストである。しかしこれによって、結果的にアメリカという国が求心力を失わず中産階級をどの程度救うことができるのかは不明だ。壮大な実験になる。

 

焼き畑農業の延長線

国というインフラを最大限活用しながら、効率的な生産と莫大な消費のある場所へと中心が移動していく。インフラを活用させてもらった国という存在を否定しながら移動を続けるグローバル資本主義が人ならばその人物像は、最初は気前がいいが、よくよく付き合うとご都合主義の恩知らずな奴、と評すると言い過ぎか。捨てられたインフラの残骸と民は国に残る。資本主義にとっての最後の楽園と言われるアフリカの寿命も計算してあるだろう。次のフィールドは宇宙。そうなれば、もう国って、人って何よ?ってことになる。

我々は高度な文明を築き上げた気にはなっているが、実は焼き畑農業世界からちっとも進化していない。私の妄想を越える宇宙時代のことは捨て置くとして、フィールドが地球だとすれば、焼き畑農業の道具を入れる小屋は国ではなくこれからは都市になるという説がある。物体としての人間がビジネスをしている以上(AIが主体になれば変わるだろうが)、「世界都市」は「使える」ヒト・「売れる」モノ・「買える」ヒトの集積地としてカネが集まる「焼き畑道具つき販売・消費小屋」として残る可能性はあるが、それは必ずしも国を必要としない。「都市」ではない地方再生のチャレンジは日本でもきわめて難題であるがそれは世界規模でも同じことである。

 

たまたま上位15%に入っただけ

「資本主義の終焉と歴史の危機」を著した水野氏はこう述べる。

「ヨーロッパのためのグローバリゼーションが進んだといわれる1870年から2001年までは、地球上の全人口のうちの約15%が豊かな生活を享受することができました。この15%は、ヨーロッパ的資本主義を採用した国々で、当然アメリカや日本も当然そこに含まれています。日本の『一億総中流』が実現できたのもこの時代です。しかし、逆に言えば、世界総人口のうち豊かになれる上限定員は15%前後であること物語っています。」

なんと。私たち、たまたま全員が15%の定員に入れた時代に生きているだけだったのね。

資本主義・その進化形のグローバル資本主義の牽引国、アメリカで起きていることは日本にも起こるんだろうか?中産階級の没落はもうすでに起きているが、この国もいつか分断されるようなことになるのか?

 

もとい、資本主義の精神

なんだか暗い気持ちになってきた。資本主義の行き着く先については、いろんな視点でいろんな人が語り始めている。まずはそれを読んで勉強すべし。その前に、私はそもそもの基本がわかっていない。ここで恰好悪いけれど白状する。グローバル資本主義って言うけど、そもそもグローバルになる前の資本主義の始まりは何なの?

というわけで、困ったときは故・小室直樹先生。「日本人のための宗教原論」と「論理の方法」を紐解く。

一年生として資本主義を支える精神から学びほどいてみよう。

曰く、資本主義の精神には二つの側面がある。

①目的合理的な考え方

②労働それ自体が救済のための宗教儀式、すなわち、労働それ自体が目的であるという考え方

実は、②の労働それ自体が目的であるという考え方は日本人には大変受け入れやすい。二宮金次郎のような勤勉な人間がお手本になる。他方、①の目的合理的な考え方はあまり受け入れられていない。

 

予定説と資本主義

 

上記①が日本人に受け入れられにくいのは、なぜか。

これには宗教的な背景が関連する。まず、キリスト教の「救済」を起点に考えてみよう。

キリスト教は「誰が救われるか、誰が救われないか、あらかじめ決まっている」という予定説に基づく。対して、正しいことを積み上げていけば報われるという因果律が仏教。基本の考え方が全く異なる。

ちなみに最近、私は遺伝子検査をしたが、その結果、通常の日本人よりも乳がんにかかる可能性が高いという結果が出た。さらにそれを防ぐ方法は、データ上見いだされない、とご丁寧に付記してあった。「かかる可能性は高いが、かからないようにするにはどうしたらいいかという方法は今のところ、ない」。これは予定説に近い。で、ちゃんと私は乳がんにかかりましたとさ。幸いなことに、ホルモン治療も終えて生き続けていますが。一方、因果律。若いころから日焼けをちゃんと防がないとしみが増える。YES、私、防いでこなかったので、ちゃんとしみだらけである。これは因果律でしょ。しみは減らせていません・・・。いや、もう老人斑かな。

考えてみると予定説はきわめて残酷で、救われるかどうか決まってるから、何をやっても仕方がないとふて寝を決め込みそうなもの。どうしてこれが資本主義の母胎となりえるのか?ここからまずは一回ツイストが入って資本主義の精神につながる。それは、カトリックの修道院の「祈り、かつ働け」というテーマの存在だ。これが予定説に対する救済の一つの軸と設定された。祈って、同時に働けば、救済されるかも…。しかし、約束はしない…。ここがミソだ。

天才カルヴァンは「救済される人間は救済されるように振舞う」としばりつけてみせた。救済を約束はしないが、「祈り、かつ働け」のテーマをサボると救済されない。サボれないようしばりつける行動指針の設定、それが「行動的禁欲」。祈り、かつ働き続ける。これが資本主義の進展を支える二回目のツイストだ。

 

「あらゆる他のことがらへの欲望はすべて抑えてしまって、そのすべてを目標達成のために注ぎ込む。こういう行動様式が行動的禁欲である(ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』大塚久雄訳、岩波文庫)

 

これを小室先生はさすがに平たく説明してくださる。

「日本語で『禁欲』と言うと茶断ち、酒断ち、断食など何かを『しない』ほうに重きが置かれている。行動的禁欲とは行動すること、すなわち何かをすることに重点がある。その重点の置き方も極端である。他のすべてのことを断念して(この意味では禁欲であるが)ある目的達成のためにただ一つの行動に全エネルギーを投入し尽くすことなのです。(中略)例えばパウロは自分の布教活動を行動的禁欲と呼んだ。(中略)最後の審判の日は近い。一秒でも早く一人でも多くの人に福音を伝えなければならない。こう思ったパウロは死に物狂いを遙かに上回るエネルギーで人々に福音を伝えていった...。」

「祈り、かつ働け」を行動的禁欲のもとに追求した結果、修道院では生産性が格段に向上した。これにより統制された継続的労働が莫大な価値を生むという発見につながる。しかし修道院は世俗とは別の世界だから、一般の人にこの考えが膾炙するには、さらにもう一回ツイストが必要になる。それは、「Beruf(ベルーフ)」。ドイツ語で「職業」と訳される言葉。これを宗教的に解釈すると「神から与えられた使命・天職」という意味となる。これが一般の人々に広まり「職業的な義務」として定着した。ちなみにBerufにあたる英語は「Calling」だ。

この発見により、修道院に居なくても娑婆の人々はそれぞれの自己救済のための「祈り、かつ働け(職業的な義務)」が実践できようになった。そもそもヨーロッパ人にとっては、労働は悪いこと、苦しいこと。何にもしないでぐうたらしていられるところがエデンの園。労働なんていやだけど、救済という目的に対して合理的な行動として労働が選択され、それは行動的禁欲のもとに実践されなければならない。

目的合理性はキリスト教の予定説を前提とした救済の在り方とつながっている。しかし、仏教は因果律であるし、救済はそもそもの仏教の目的ではない。仏教ではざっくりとした因果応報というコンセプトは伝えるが、煩悩を消滅させるにはどのような道筋を辿ればよいのかについて明示しない。それゆえ、仏教に馴染んだ日本人の思考には、行動的禁欲を伴った目的合理性は理解しにくい性質のものであった。

さらに、キリスト教では、「祈り、かつ働け」で得た財を仏教のように喜捨するのではなく、利子を認めるという離れ業をやってのけ、社会に還元(配分)するサイクルを築くことでキリスト教の愛他精神を具現化できるとした。結果、これが資本主義の拡張につながる。ベンジャミン・フランクリンなどがしきりに尊敬されたのはこの点による。ベンジャミン・フランクリンを日本で尊敬された二宮金次郎と対比すれば、社会を形成する価値の違いがよくわかる。

ここに至るまで、当時、儀礼的「秘蹟」を軸としたカトリックと聖書原理主義を掲げたプロテスタントとの間のあれこれも宗教の歴史としては重要だが、資本主義につながる精神にこだわってざっくりまとめるとこんな感じか(大まかすぎるかも。ごめんなさい。私の省力家事とフラクタルなんで、お許しを)。

 

労働自体が価値の日本

対するに、日本の最高神、天照大神は、機織りをしておられる。エデンの園に漂う、うだ~っとした風情とは無縁である。天皇陛下も自ら田植えをなさる。労働するのは何のため?そんなことには答えられない。労働自体が目的なのだから。

そういえば、この休日「この世界の片隅に」と「君の名は」を見た。日本のアニメーションはここまで来たか。個人のスーパー集約的労働をさらに集団で集約させてしまうアニメーションが日本で隆盛したのは、好きで好きで描きまくって、それをみんなでやったらすごいことになっちゃった、ということに近いんだろう。労働自体が楽しく、楽しさを追求しているうちに、すごい境地に至る、さらに集団でそれをやってのけてしまう感じはいかにも日本らしい。しかし同時に、アニメーション業界では正しく対価が支払われていないという問題が長らく取沙汰されていた(上記の2作品のことを指しているのではない。念のため。)。これはある意味、儲けるという文脈での労働が目的合理的に位置づけられていないということだ。労働自体の価値が楽しさであって、対価には結びつかないので見ようによっては搾取的になる。仮に日本の会社を題材にしたアニメを企画し、キャラ設定をしてみる。会社で「この仕事には、そもそもどんな意味があるんでしょうか?」と目的合理性に軸足を置く問題提起的発言をするキャラは、「普通の人」ではなく「学校を出たての青臭い新入社員」か「疎んじられるKY社員」。奇跡的な実績を伴えば「英雄」になるだろう。死に至るまで働いてしまう過労死の問題は労働の価値が絶対化されており、目的合理性があいまいな状況で発生率が高いというのが私の仮説だ。

さらに別の視点からみると、労働自体に価値があることに敬意を表して、それを守護する視点に立てば、こういうものを買いたたかれないようにするための方法の一つがブランディングの役割なんだろう。労働自体の対価をどうするかを含めたあれこれが結局、企業の戦略につながる。そういう意味ではクラウドファンディングで始まった「この世界の片隅に」を「世界に」どう発信・展開し、作品の質にふさわしい対価を獲得していくかには注目したい。

我々の会社は日々の食い扶持を確保する過程で、幸いなことにいろいろな業界・会社を拝見する機会が多い。概観してみると会社のミッション(会社の目的)がお題目にとどまっている例が多いことに驚く。さらに、トップダウンで決めるべき戦略的部分がうやむやのまま、ボトムアップで改革を試みるアプローチもやたらに目につく。要するに、何のために何をやるのかを「目的合理的」に考え、振る舞うことが苦手なのだ。仮に「大目的」を明確にしても、「目的」をさらに下位の目的にして検討をしながら適切に進めるのが下手なのである。

これをマーケティングのフレームのWHATとHOWの例で考えてみる。労働そのものが目的になると、思考を明確化するために概念レベルでWHATを議論するのは苦手になる。一方、どうやるかという具体的なHOW、つまり実際に自ら動いたり、人を動かせてやるプリミティブな「労働」に関するアクションを考えるのは大得意分野。我々の仕事はWHATに関することが多いが、HOWの「イケてる」具体例について丁寧に言及せずに、WHATの議論をするのはほとんど不可能なのが現状。極端な話、HOWについて多くを語らないと、仕事をしたことにならない。それは物事をWHATから考えるのではなく、どうやるかというHOWから考えるという癖(その方が気持ちいい)からくるのだろう。なぜか?(プリミティブな意味での)手を動かし、身体を動かすHOWにあたる労働自体が価値ある目的なのだから。こう考えるとすっと腹落ちする。

 

優秀さとは関係ない

ものすごく優秀な社員がワンサカおられる、ある会社さんとお仕事をさせていただいた。そこでは、すばらしいKPI管理プログラムが導入されており、目的合理的に事業をされていることに当初感心していたのだが、しばらく観察していると完全に失敗ということがわかった。階層構造自体も各階層の項目もすさまじく細かいKPIのシステム。結果、KPI間の整合性を保つために生じる膨大な業務を延々と残業をして取り組み、社員の皆さんが次々に壊れている...。ちょっと待って。その努力自体が目的合理的ではないから、「やめたらいいのに」と思うが、「やめない」。きっとがんばってやるという「労働」自体に価値があるモデルの上でシステムがまわっているからなのだろう。

問:私なんかよりずっと賢くて優秀な人たち。なのに、何でこうなっちゃうんだろう?

で、さらに調べてみる。

歴史的に見て、中世ヨーロッパの識字率なんか10%だった(なのでほとんどの人は聖書を読めなかった)。対してサラセン諸国では識字率100%に近く、ギリシア語を解する人もいた。その時のイスラム世界においては、「福音書」も「コーラン」に次ぐ、第二の聖典であり、「旧約聖書」の多くが聖典とされていた。ゆえに、イスラム世界においては、「福音書」も「旧約聖書」もギリシャ語の原典で活発に研究されており、なんとキリスト教研究のレベルが低かったヨーロッパから、その中でも有力な神学者がサラセン諸国に留学してキリスト教神学を学んでいたという事実もあるそう。キリスト教史から見ればイスラム世界に対して歴史的に大きな恩義がある。イスラム諸国がこれほど優秀なのになぜ近代化につまずくかと言うと、イスラム世界では法律も社会倫理も道徳もすべて宗教に依拠するから、キリスト教の考えを下敷きにする近代化つまり近代資本主義その他法律・制度を完全に取り入れることができず、徹底を欠くゆえだ。

つまり、企業ならずとも社会の基盤がどのようなモデルでできているかという基盤の性質が鍵だ。この基盤の性質が現状優勢な資本主義で成果を出す基盤とどの程度整合性が高いか、ということによって成果が左右されるに過ぎない。よって、成果は成員の優秀さとは総じて関係がないというのが今回のシンプルな学び。

私は20代から30代にかけて、思想とシステムがまさによくできた宗教のように完成されたアメリカの会社で目的合理的かつ行動禁欲的に仕事を行うことを学んだ。それ故の違和感から上の「問」が生じたのだろう。考えてみるとそれは日本における基本的な社会のモデルに対して私が外様な位置にいたから浮かんだ「問」だったのだ。そして、仮に私が成果を出したとしてもそれは私の優秀さ故ではなく、資本主義モデルに沿って効率的に仕事ができる環境と方法が提供され、私が及第点でその方法を使えたということにすぎない。

 

次のモデルは?という問い、ふたたび

しかし、もとい、資本主義・グローバル資本主義を牽引したアメリカがここに来て、分断している。資本の主、つまり株主としての個々人(多くは生活領域の周囲の人々に対して愛他的な良き人なのだろう)が目的合理的に行動するうちに、社会を分断することにつながってしまう。これがグローバル資本主義の問題だとしたら、モデルそのものが問われている。

すでに指摘されているように「神の見えざる手」は喪失した。労働なんかせずとも、金融市場で時間を際限なく刻み、そこで富を生むことができるしくみを可能にする資産を持つ主体が目的合理的に振舞えばその主体はさらに富む。一方で、自分の賃金と比べて数千倍の報酬を得る大企業のトップは自分の数千倍優秀だろう、対して自分の優秀さは数千分の一と信じさせられて、永遠に目的合理的かつ行動禁欲的に刻苦勉励しなくてはならない資産のない若者がいる。貧富の差が埋まる確率は低い。労働の価値自体が否定されているとしか言えない現象が散見される。アメリカン・ドリームを信じられなくなった人の割合が経年的に増加しているというデータを見たが、理由はおそらく上述の内容だろう。

愛他精神のもと「祈りかつ働け」で糧を得て、その糧が再分配されるしくみで始まった資本主義をどこまで信じられるのか。目的合理的に振舞おうとも、いつの間にか自分の前から労働ははぎとられていく。どれぐらいの速さで時代の変化に対応すれば、目的合理的に振舞うことが可能なのか。自分の生き残りに影響を与えるという前提で愛他精神を発揮すべき対象は、家族を越えたところで、「地域」なのか「都市」なのか「国」なのか「企業」なのか。

国を越えて、社会の基本モデルの違い、つまり宗教の違いに抵触するところまで至る。それを焼き畑農業の資本主義で束ねることは限界があるとするならば、代替として誰・何が、どのように束ねるのだろう。世界規模での本当の多様性をマネージメント(多様性:間違ってもこれは日本国内の女性活躍などという矮小化されたダイバーシティとか、もう少し広い意味であくまでもグローバル資本主義的功利性を核としたダイバーシティマネージメントを意味するのではない)するのは、誰・何なのだろう。未来の世界を束ねる主体・・・。束ねようとして束ねられない時代も続くだろう。無理やり束ねたり、分けたり。

ちなみに、「企業」におけるマナージメントを専門とする研究者だと思っていたミンツバーグ氏が最近「私たちはどこまで資本主義に従うのか」を著し、あれ?と半ば驚いて読んでみた。氏曰く、今や人類を束ねる「マネージメント」がこの地球には欠けている、と。その視点には合意。ところで、それは誰(何)の信託(神託じゃなくて)に基づくマネージメント?という問いに対しては、Public・Private・Pluralのパートナーシップに基づくべし、と。Public(政府)・Private(民間)に加えて、Plural(多元的な存在・NGOなど)を第三の軸として大きく位置づけて、合議を形成するとの提案。うーん、自分とその周囲という範囲でしか発揮されない動物の愛他性からそんなに進化していない人間が、世界レベルで鼎立バランスを取りつつ原資の流れをコントロールし、物事を決定し進展させるというそんな高度なことできるんだろうか・・・。

いやいや、また大きな問題につながってしまった。全体像はとても手に負えない。しかし、これからの激動、海なんかものともしないAIつきITもあるし、島国の市井の人々にも直接的な影響が及ぶ。

個人レベルでは、目の前にまだ問題は迫っていなくても、対処方法についてのイメージトレーニングは、無力感に陥らないためのバカバカしい余興コンテンツも交えての予防接種となる。因果律の上に資本主義が乗っかったこの国(仏教に由来する言葉を日本語から取り去ると日本語として体をなさないらしい。)で、ささやかに存在する私にも、会社とNPOという小さな二つのフィールドがある。未来の事態もちらと射程において、小手先でもいいからちょちょいとトレーニングしてみるしかない。お金に依拠しすぎる目的合理は溶け始めている。未来の目的合理はまだ霧の中だ。まずは、依って立つ地の理、因果律をベースに歩んでみる。生きてるって楽しい。ここを原点として。

家事からの解放!国内出張連打の2ヶ月、細切れ移動時間は集中力が持たない頭の読書との相性よし。

西道広美 拝

参考文献

マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』大塚久雄訳、岩波文庫

ヘンリー・ミンツバーグ『私たちはどこまで資本主義に従うのか』池村千秋訳、ダイヤモンド社

ロバート・B・ライシュ『最後の資本主義』雨宮寛/今井章子訳、東洋経済新報社

小室直樹『論理の方法』・『日本人のための宗教原論』東洋経済新報社

米国国家情報会議編 『2030年 世界はこう変わる』谷町真珠訳 講談社

マッキンゼー・グローバル・インスティテュート(リチャード・ドップス ジェームズ・マニーカ ジョナサン・ウーツェル)『マッキンゼーが予測する未来』吉良直人訳、ダイヤモンド社