伝版は、「伝」えるための「型紙(版)」です。

伝版はなぜ生まれた

伝えたい気持ちだけが先走る

人は誰しも、多かれ少なかれ、自分の考えや思いを何らかの方法で伝えたいと思っている。残念ながら、伝えることはたやすいことではない。「今、大切に思う自分の思いや考えって何?」って聞かれると、まず伝えるべき中身が出てこないではないか。出てこないならば、伝える必要はないことになる。だから、伝えられない。

いや、待てよ、何かはあるのだろう、あるに違いないと思いたいけれど、残念ながら、すぐには出てこない。ことばにならない状態で、身体のどこか奥深くしまわれている感じすらある。何か出てくるかなと期待して他人の顔や白い紙をぼーっと眺めても、いい大人であればもう頭も固いから、何も出てこない。えいやっ、と勇気を出して無理やり絞り出しても、出てきたものはこんぐらがっていて、よくわからない。

自分でよくわからないものは、他人だってよくわからないから、「なんか変なこと言っちゃった、ごめん」とか何とか言って、せっかく出てきたのに自主回収してしまったりする。自分はいったい何を伝えたかったのだろうと、自問自答して、また、悩みが深くなる。

「伝える」ということ自体、それをどこまで追求しても、完全に伝え切れた!なんていう瞬間は人生の中で数えるほどしかない、そういうあきらめもなくはない。けれど、ただ「生存のためだけに必要十分なシグナル」以上の「伝える」能力を持ってしまった人間にとっては、伝えたい何か、について、完全でなくとも、重要な部分だけは「ある程度伝えらえたな」という手応えは、生きていく上で、重要なことなのだろうと思う。

「ある程度」伝えるにしても、伝えるためには準備がいる。「伝えるための作業をして」、「伝えたい何か」を準備しなくてはならない。もしかして、その作業のありよう「こそ」が、のちのち、「ある程度」伝えられたという感覚を得るために、重要なのかもしれない、ということに、ふと思い至る。

中身さえあれば、簡単に伝えられるメディアはまわりにたくさんある

でも、そうだとしても、伝えるまでの、中身を準備する作業って、どうしたらいいのだろう? 

そんなこと学校で習わなかった。

とにかく、「うんうんうなって、やっとこさ出てきたことを何とか伝える」。なるほど、そういうやり方もある。でもなんだか、伝えるための作業って、苦行みたい!そんなこと、誰でもいつでもできるものではない。それ自体は、正しくても、しんどすぎるではないか。ならば、ということで、伝えるための作業そのものをあきらめて「とりあえず浮かんできたことを伝える」。

でも、それでは、中身を自分で確かめる前に伝えてしまった、ことになるから、ある程度伝えられた、とは到底思えず、満足感を得られない。

「伝える」ことってやっぱり難しいなあ、じゃあどんな作業をすればできる?という最初の問いにまた戻る。この最初の問いに何度でも戻ることができるならば、それだけでたいしたものだ。何度でも戻ることは、何度も自分なりの作業の方法を見いだしながら、その方法に甘んじることなく、新たな方法に挑戦して作業し続けることが可能な人だけができる。そういう人は、作家とかライターとか、あるいはもっと広く芸術家になる、とか、伝えること自体が仕事となるような人生の選択をするのだろうか。

だけど、ほとんどの人はそんな人生の選択をしない。別に仕事でもないし、伝えるための作業の方法を考えることをあきらめて、ついでに、「なにがしか自分にとって意味のある中身」を伝えようとする試み自体も、だんだんとあきらめてしまう。

「なにがしか自分にとって意味のある中身」は、残念ながら、コピー&ペーストではできない

そこで「待った」をかけて、「伝えることをあきらめないで」、これまでインタビューさせていただいた相手の人に、ワークショップで出会った人々に、たいした方法も提供できないくせに、呪文を唱えつづける私。

そんなあやしげな呪文を投げつつ、伝えたい中身を剥き出す作業を、脅したり、すかしたり、笑わせたり、ペンとマーカーとたくさんのポストイットを手に模造紙の海を右往左往しながらこれまでやってきた。そんな中で、ああ、うまく中身がでてきたな、その中身が伝えられたな、伝わったなという満足感を、その作業に関わった人と分かち合えること、そんな幸福な瞬間が、時たまあった。そんなときは、必ずといっていいほど、伝えるための作業が進行していたように見えた。中身を出して伝える作業は一人の中で完結することもあったし、「共同」作業になることもあった。

滞りなく、自然となされていた「伝えるための作業」は、人の思いや考えが、するすると「ひきだされて」、ひきだされたまま、こんぐらがっている思いや考えの固まりが、「ひもとかれて」、いったん、ばらばらになった中身を、もう一度「くみたてる」ことができていた、こんな感じの流れになっていた。

ああ、そうか、「ひきだして」、「ひもといて」、「くみたてる」こと、これが「伝える」ために行う作業の「要素と流れ」だったんだ。そして、ありがたいことに、最後の「くみたてる」こととほぼ同義の「整理する」ための方法やツールはこの広い世の中にいろいろある。でも、案外気づかなかったのは、「くみたてる」ことの前提になっている、最初の「ひきだす」、「ひもとく」の作業を促進する方法の重要性だった。

「ひきだす、ひもとく」は、「くみたてる」ことよりも、「できた感」がない、だから、見過ごされる

有名なブレーンストーミング法なんかもひきだすための方法の例だ。でも、それ以外にどんなものがあるのだろう、もっと気楽に、一人でも、楽しんでできる方法はないのだろうか? 何か文字を埋めれば完成されるテンプレートも、「ひきだしながら整理する」手段には違いないが、不完全燃焼な感じがする。それは、「整理がすんだ形」にウエイトがかかりすぎている作りのせいか、ひきだされた、感があまりないからだ。一応埋まって「できた感」はあるが、十分に気持ちや考えがひきだされていない、ひもときに値する中身が出てきていない、おそらく、そんなことからくる欲求不満があるのだろう。

そんな手詰まり感を覚えながら、ぼーっと絵を見ていた。すると、いろいろな気持ちや考えが浮かんでくる。その気持ちや考えは、当たり前だけれど、「絵から出てきたのではなく」、絵を見ている間に、自分の中から出てきたこと。

絵の形が考えを制限している、という批判もあるかもしれない、が、制限のないところに自由の発露はない

もう少し言えば、「絵」を刺激として、ひきだされた、私の気持ちや考え。そんなこと、かき留めたことはなかったけれど、かき留めてみると、かなりぐちゃぐちゃと、こんぐらがっている。だけど、こんぐらがったものをじっと見ていると、いつの間にか結び目がぼんやり見えてきて、ほどけるような気もする。ひもとける一歩手前だ。

そうか、絵を観賞用のアートとしてではなく、コミュニケーションのためのツールとして使えばいいのかもしれない。別に借り物のテンプレートなんかを使う必要はない。人々がなんとなく共通して意味をとるもの、いわゆる「メタファー」を想定して、そのメタファーの意味にそって、気持ちや考えの発露を促すことができるような「伝えるための作業ができる絵」を用意して、それに絵の使い方として平易なインストラクションを添える。「美しくて、実用的」。これは優れたプロダクトデザインに冠されることばだ。考え方は、それと同じ。伝えるための作業に役立つ「楽しくて、実用的」な絵。「メタファー」という型があるから、「コミュニケーションのための型紙」。それを「伝えるための版」として、「伝版」としよう。

何が出てくるか待ちあぐねている他人の顔や、白紙を前に「うんうんうならなくても」、絵のメタファーにそって、思いや考えをめぐらせて、その中身を、そのまま絵の中にいれこんでいく。字だって、絵だって、写真だって、自由。出てきたものが、少々こんぐらがっていてもかまわない。そもそも、絵の中に入れていくのだから、変なモノがあった方が、かえっておもしろいし、楽しい。作業の時間はかかるかもしれないが、少なくとも苦行にはならない。

絵を見ながら、作業をする時間の中に、「ひきだし、ひもとき」が担保されている

作業に時間をかけていく中で、自然と気持ちや考えがひきだされる。それを一人でも、誰かとでも眺めていると、中身が自然とひもとかれて、整理されることを待っているような「伝える」ための孵化状態が訪れる。「伝える」ためのこんな作業こそが、実は、人間らしい黄金の時間なのかもしれない、などと思ってしまう。でも、ここではそんな風に構えず、伝えるための作業という大切な時間を、楽ちんに楽しくする、そういう役割を、「伝版」に託してみよう。

そんな妄想から伝版が生まれた。

伝版には、その絵が持つメタファーにそったインストラクションがある。まずは、それでやってみて、うまくできたら、別のメタファーを見つけて、あなたの見立てにそったインストラクションをすればいい。型があるから、型を破る自由がある。むしろ型は破られるためにある。そう思って、思いや考えをひきだして、ひもといて、くみたてる、そんな伝えるための準備作業が楽しめれば、コミュニケーションはもっと楽しくなる。そしてきっと、あなたらしい作業のスタイルだって生まれてくるに違いない。