2015年1月アーカイブ

第二のふるさと、四天王寺。この街のすごいところを国内外のみなさんに発信して、この街のWOW!な情報に触れて、この街に来ていただいて、WOW!と楽しんでいただくためのポータルサイトを作りたいな。まずは、英語。できたら中国語、韓国語。あと、街のお店に英語メニューを導入してもっと、おもてなしが伝わるような工夫したい!ってなことを有志と熱く語り合って、クラウドファンディング始めちゃいました。

https://faavo.jp/osaka/project/428

ちょっと、我々の熱い思い、四天王寺ラブな感じ、拡散&ご支援いただければ幸いです!

ありがとうございます!

積極的諦観

ここ数年、ワタシ、ちょっとは大人になったんだろうかというチェックとして、

「苦手な人・嫌いな人リスト」というのを、頭の中に展開してみることにしている。

 

この1~2年、そのリストの人数が激減した。

その理由は、ワタシがいい人になったのではなく、

人間の限界=固着した態度はなかなか修整できない、ということを身を以て知ったからである。

 

人間としての基本的な態度が形成される青年期、誰もが主観的にパーフェクトと思える環境が与えられるはずもない。

主観的に何かが足りなくて、何かがゆがんでいて、何かが過多な刺激のある環境で大きくなる。

そこで、対処方法として、とあるスキルが突出して高くなるということと、ある態度が損なわれるということがおそらく同時に起こる。

 

きっと、ワタシもそうなのだ。

 

自分にとって、苦手・嫌いだった人に特有なのは、単にその人のスキルと態度の組合せが、

ワタシが力を発揮しやすい環境を「直接的に」形成しないことである。

 

この「直接的に」というところがミソで、

「直接的に」形成しない人であっても、ワタシにとって「間接的に」メリットがあるように組み替えることは可能である。

 

何も考えず、「直接的に」メリットがある人とだけ付き合うのではなく、

ワタシを殺しには来ないどんな人との間でも、

「間接的に」望ましい環境を創造することができるというコントロール感の元に考えて、行動する方が、

自分にとって最終的にメリットがある。

 

人には殺されないかもしれないが、自分自身は死に向かって進んでいく。

自信のあった集中力は落ちているし、肌はたるんでいるが、

せめて、どんなリソースもうまく組み替えて、人生ハッピーにした方がいい。

 

積極的諦観に基づく、リソース配置についてのパラダイムシフト。

丈夫な子

昨日、珍しく娘が喉の不調を訴え、あーしろ、こーしろと世話を焼いていたら、

彼女は一瞬、そこはかとなくうれしそうな表情をした。

 

仕事をずっとしてきたから、小さい頃なんかは頼むから病気をしないでくれと祈り、

幸いなことに丈夫そのものだったので、彼女が病気になって仕事に支障が出たことは一度もなく、

気が付いたら、めったに風邪もひかず、インフルエンザにも罹らない子に育っていた。

 

でも、手がかからない分、放置プレイが多かったから、

さびしい思いもしてきたんだろうと、ふと気づかされ、

人は無意識にもらっているものには感謝の念を忘れるという真実をつきつけられる。

 

今晩は、あなたの好きなシチューにしようね。

成長の欲

ホントは自分がすごく成長したい大人は、人の成長を助ける。

成長したい大人=私のコト。

いやしかし、結構がんばってもなかなか成長できないんだ、この年になると。

新しいように思えたもろもろはどこか、今までやってきたことの親戚みたいなもんだから、なんとなく片目でできちゃったりする。

それで、ふふーんとつぎはぎスキルで乗り切って、結局、パーツは進化なく、モジュールは解体されて元通り。

なにやってんだろ。

 

どうも年齢を重ねるってことは、成長の幅が小さくなることらしい。

 

イイ年のおばさんである私は、

だからこそ、若い人に成長の機会をサービスしてみたり、

何になるのかわからないものに、時間とお金をかけたりしてみるんだな。

はっきりいって、こんなあれこれは、自分の成長の欲が満たされないことに対する補償行動にすぎない。

 

いやしかし、

成長の欲を自分で満たすことができずに、結局麻薬のように手を出す補償行動を、

どうしておこうかという選択によっては、

世の中のためになる、のであれば、それもまたよし、なのかと。

20年、矛盾の恩寵

阪神淡路大震災から20年目の朝、ぬくぬくと布団にもぐりこんだまま、ずぼらな黙とうをしていた私は幸せ者である。

あの朝、目を押さえて、私が手渡したランタンを受け取ったマンションの階下に住むお嬢さん、

ガラスの破片が目に入って、後に失明されたと聞いた。

命を失われた方々、一生抱える負傷を追った方々、そして無事な私。

 

震災の混乱が収拾し、最初の春を迎えた頃に感じた、なんとも収まりの悪いさまざまな矛盾。

 

したたかに生き抜いて、利を自分のためだけに使う、焼け太り。

あの日から踏み出せない人々の暗闇。

万人平等に襲われたように見えた災害も、日が経てば、

焼け太った人々の跋扈と暗闇から出られず、ただうずくまる人々が同時に存在する世界となる。

大災害によって起こる、修復に時間のかかる社会の病理とはこのことか、と頭では理解したものの、

心の中での収まりの悪さをずっと抱えて生きてきた。

 

今でも、結婚のお祝いにいただいたものが破損したり、取り出せなかったりして何も残っていないことに、

小さな小さな心の痛みがある。

被害は極小なのだけれど、自分事として感じられる心の痛みがある。

 

振り返ってみると、

20年間、収まりの悪い矛盾を感じる心と、小さな心の痛みを捨てようとは思わない自分がいて、

微力なりに、焼け太りではない何かを創造する形にしようと試行錯誤してきたような気がする。

 

今年はやっと、その試行錯誤の結果が小さく見えてくるはず。

 

無事に生き残らせていただき、ありがとうございます。

 

仕事冥利

今日、私がパッションを持って取り組ませていただいているクライアントさんのお仕事がひとつ決まった。

提案書には書いておらず、打ち合わせもしていない遠くの射程にある「ありたい姿」について、会議開始直後にまるでお互いに打ち合わせをしていたかのように、ピタッと方向性が一致して、それを具現化すべく双方がメラメラと燃える瞬間があった。

数か月にわたる仕事の段取りを確認し、では実際の準備にとりかかりましょうと言って、会議室のテーブルを立ったのは、会議開始後たったの40分。

まるで天啓のような仕事はなぜか、最初から目的とアウトプットと理想とみんなの野心がきれいに串刺しにされ、その周りには、私達の成功によって幸せになる人々の笑顔が見える。

絶対、成功させてみせる。

そういう力が湧いてくる瞬間、それは、本当に仕事冥利に尽きる。

 

金曜の夜、さてどんなふうに成功させようかと、

つらつらと考えを巡らすことを楽しめる私は、幸せ者である。

伝紋®ワークショップ

今の自分を伝える紋=伝紋®というものを定義し、伝紋®をアーティストの卵たちが、クライアント役の参加者に対して作るワークショップのプログラムを設計し、最後に実施してから早くも数年が経ち、本日久しぶりにそのワークショップ開催の機会を得た。

お陰様で今日のセッションは想定外にスバラシイ結果がたくさん見受けられたのだけれど、その上で、つくづく、私の作るものは、やってみなきゃわからないものが多いな、と思った・・・。まあ、いいものだけれど、アウトプットが想定できにくいテーマを扱うので、興味を前提とした認知の獲得となれば、その努力は大変なのである。

いや、しかし。今日はありがたいことに、ひらめくものがあった。

明日は、ひらめきに導かれて動いてみよう。

脆弱であることの代償

 

個人としてどんなことがあっても何を大事に生きていくのか、それを保持することは思ったより簡単ではない。

個人は脆弱だ。

守ってくれると信じるあらゆる拠り所、友人・恋人・家族・学校・会社・社会・思想・宗教・・・。

脆弱であるからこそ、信じるものに帰依する。それが守ってくれると信じ切る。

心理社会的な安定生存のための思考停止のように。

個人の帰依の在り様は、他の個人、他の団体、にとって、さらには、帰依の対象自体が変化しようとしたとき、脅威となり得る。

帰依の排他性は共生、融和、変化、成長の足枷になる。

帰依が起こす、ある種の過剰適応の病理として。

人の脆弱性に社会として目を向けること。

プラス思考の陰で、封印されているような気がする。

 

最近、非常に気になることの一つ。

n進法とビジネス

10進法の世界が当たり前ではないということを最初に習ったときは驚愕だった。コンピュータは2進法なんだ。そういえばダースというのは12だから12進法なんだ。10進法ってすごく馴染んでるけれど、その存在はn進法の一つにすぎない。

今月、株式会社伝耕は7周年を迎える。面白いことに今、まさに過渡期にある気がする。無意識に10周年まであと3年あるなーと思っていたのだが、10周年を一区切りとするのは10進法のコンセプトの中の話なのであって、考えてみればビジネスの在り様とは本質的に何も関係はない。

感覚的に、だが、6年目でビジネスの在り様をゼロから見直し、7年目で準備をし、8年目で実行するというのは、伝耕の実態に合っているような気がする。どういう区切りでプランするか、ということは無意識であるが故に、ベースの組み立てを決定づけてしまうから非常に重要だ。

えいっ、伝耕は7進法にしてしまおう。

さてと。NPO楽伝の方は何進法だろうか。7か?10か?いや12か?もっと短く、5の可能性だってある。とにかく、伝耕と同じn進法であるとは限らない。ビジョンを達成するまでの道程における、伝耕との流れの違いを認識しながら歩みを進めよう。

二つの法人を同時に回してみること、それは寿命の違う生き物を同時に飼うことに似ているのかもしれない。

「ふいご」のような役割

今朝、何気なくテレビを見ていたら、「くまもん」の生みの親、小山薫堂が対談で自らは「ふいご」のような存在になりたい、と語っていたのが妙に胸に刺さった。

そういう役割、私も担いたい、というかむしろ、冷静に考えてみると今やっていることのほとんどすべてはそうだし、こういうスタイルを一生続けるとしても、ずっと楽しく愉しくできるような気がする。結果として、自分が納得する何かに結実するんじゃないかと、そんなこんながびっくりするぐらい、すとんと胸に落ちた。

「ふいご」のような役割、今までもそう評されてきたような気がするが、今、すとんとはまるのは、自分の中の納得感ゆえだろう。

自他の認識がぴったり合った今、また次の力が生まれてくる予感がする。

「楽しむ」ということの次元

孔子によると、

「子曰、知之者不如好之者、好之者不如楽之者」

これを知る者はこれを好きな者にかなわず、これを好きな者はこれを楽しむ者にかなわない。

 

「知る」ということは、対象についての知識だけが頭の中にある状態で、感情が動いていない。

「好き」ということは、対象に対して、知識があり、感情は動いているが、身体が動くまでには至っていない。

「楽しむ」とは、対象に対して知識があり、感情が伴い、身体が動いている状態。

人間まるごと、その対象に対して、働きかけている状態のこと。

 

さて、

「持続する」ことは、何かを成し遂げるために必要なこと。

「持続する」とは、言い換えれば、一度しかない命の時間をその対象に賭け続けることに同じ。

「知る」・「好き」を越えて「楽しむ」ことができない対象に、一度しかない命の時間を賭ける必要はない。

 

そんな風に思います。

新年に寄せて

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我が家は毎年、1月2日に主人の実家の近くにある神社への初詣が恒例となっている。昨日も例年に従い、家族で初詣へと車を走らせた。生まれ育ち、幾度となく通った道にもかかわらず、主人は珍しく道を間違え、あろうことか宛もない高速道路へハンドルを切り、向かうはずの神社を眼下に過ぎ越した。そして、1キロも進まないうちに、前方のどこかで起こった自動車事故のせいで、高速道路は鈍速道路になった。いったい、どのぐらいノロノロ運転が続くのだろうと、車中は、新年早々重苦しいムードに包まれた。

高速道路に上がり、彼が間違えた、と気づいた直後、実は最初の分岐点があった。とっさに私は、ならば阪和道に出る左に行こうと進言したのだが、彼は泉南に降りる右に進路を取った。確かに泉南に出た方が距離は短く戻りやすかったのだ。しかし、突然前方に起こった事故のせいでそうはならなかった。結局、最初の出口まで、本来ならば10分弱のはずが1時間半もかかったのだから。

私は車中で一瞬非常に不機嫌になった。その理由は、彼が道を「間違えたこと」にではなく、「こういう時の判断で、ロジックを越えて判断が正しいのは私の方だ。」という自負があったのにも関わらず、彼がロジック通りに進んだことに、である。もちろん責めるべきではない。そんなことは重々承知だ。直観がロジックに負けることはよくある。しかし、今年もそういう風に一年が始まるのか、前途多難かも、というイヤな考えがよぎったその瞬間私は非常に不機嫌になってしまった。

いや、しかし。気持ちを高速で切り替えた。新年早々そんな風にスタートしてはあまりにもつまらないではないか。こういう時こそ、愉快に楽しくせねば、と気を取り直し、私は出口に近い泉南市の神社をスマホで検索し始めた。

すると、修行キャラの私が尊敬する修験道の開祖「役小角」に由来し、周囲は「大阪みどりの100選」に選ばれた地の「信達神社」が検索にかかった。私は、先ほどまでの不機嫌も忘れ、その神社の説明にすっかり心を奪われ、「せっかく泉南市に行くから、信達神社に行こう」と宣言し、慣れぬ手つきでカーナビをセット(ふだんはやらない)した。ノロノロ運転の外は、強風の中、雪が激しく舞っていた。目的地まであと50分。

最初の出口まで数キロに達した頃、道路は高速に戻り、風も雪も収まり、薄日がさしはじめた。無事高速を降りると、ものの3分ほどで目的地の信達神社に着く。車を降りるとおだやかで清々とした空気に包まれた。目の前に、山に向かって、参道が続いていたが誰もいない。正月2日なのに我々家族だけだ。まるで貸し切り。新年早々、神社の貸し切りってあるんだろうか。そんなバカなことが頭に浮かんだ。

拝殿には天然記念物のナギの木があって、天空にそびえ立っていた。そっと触れてみる。強くて美しい木に触れると、いつも私は幸せに包まれる。道を間違えたことや、道中の悪天候のことなどすっかり忘れてしまい、瞬時に御機嫌になった。

その御機嫌にまかせておみくじを引いた。

すると、そのおみくじは今まで見たことがないほど薄くて美しい和紙に刷られていた。

第十番 大吉。それがこれだ。

曰く、

「このみくじにあう人は古く悪いしきたりを改め新しく時代に適した姿を求める相で再生の喜びが運を導き枯木に春が来て花咲くようである」

春とか花とか楽しげなことばで終わっているが、個人の幸福を越えた重い役割である。

なんと、これが大吉なのか。

ふむ。

 

***

明けましておめでとうございます。

2015年、新しい年が始まりました。

1月2日の顛末で、私は、自分をごまかさず、天命を意識して、それを実践し、少々のリスクや想定外にめげず、きちんと結果を出す、ってことが求められているのかも、と肝に銘じました。

はい、ならば、鼻唄まじりに、楽しくやらせていただきましょう。

「花咲OUTRAGEババア」を目指して。

 

本年もバタバタと目まぐるしいことでしょう。

皆様、何卒、よろしくお願い申し上げます。

 

合掌。