2014年2月アーカイブ

インストールされた「何か」

チケットをいただいたので、巡回している日展に行ってきた。

展示会場は大阪市立美術館なので散歩圏内。家から歩いて10分もかからない。

 

日展を見に行ったのは初めてであった。

所狭しと展示されている作品を見ていると、バザールに迷い込んだような気にもなる。一貫性はないが、いろんな作風が一堂に見られて面白かった。

 

中でも日本の伝統技法を駆使しつつ、新たな表現に挑戦している工芸は一番見どころがあり、心惹かれる作品にいくつか出会えた。

 

工芸部門のあとは書道である。

日展に書道部門があることを寡聞につき、今日会場に行ってみて初めて知った。

つてを頼んで、来月から書道の手習いをはじめる。

勉強も兼ねて書道もざっと見て回ることにしたのだが、合計300作品ほどもあろうか、そのおびただしさに気圧されてスキャンするレベルでしか作品に対峙できない。

 

大きな展示室3部屋ほどもある書道展示の最後の部屋も、ちょっと飽き気味に駆け足スキャニング状態で見ていた。

ふと、ある作品に目が引き付けられた。単なる視覚情報が「この字、知ってる」という解釈に転換され、急に頭の中がスパークした。

 

何故に知っているのか、と書家名を確かめに近づくと、なんと、小学校の最初から中学生まで師事していた山根先生の名があった。

先生には文字通り、「一」から教わったのである。

半紙に「一」と書かれたお手本を見つめて、何度も書いた記憶がよみがえってきた。

「一」は難しかった。究極のシンプルだから。

 

この筆運び、余白、字の流し方、懐かしい。心がジンと熱くなる。

一生懸命真似をしようとしていた腕の筋肉が自然と反応する。

もともと品のある書をお書きになる方だったが、字がさらに優しくなられたようだ。

 

先生、お元気で何より。

 

展示室を後にして、鍋島や漆器のコレクションを見てからもう一度、先生の書を拝見しに戻った。

いったい何故に、「この字を知っている」と思えたのか確かめたかったのだ。

 

遠目でも近くで見ても先生の字であることには変わりはない。筆運び、余白、字の流し方等々、筆跡にはさまざまなモジュールが組み合わされているのだろうけれど、モジュール別に見て、どこが先生らしいのかと聞かれてもわからない。

ただ、全体としてみると、他でもなく、先生の書、なのである。

 

先生に師事したと表明すること自体、おこがましいことはわかっている。

ただし、字に関しては先生のパターンが確かに私の頭の中にインストールされていたのである。それも認識だけでなく、身体感覚を伴って。

ありがたく、懐かしく、そして、誇りに思う。

 

先生のところまでは行けないですが、また、書をはじめます。

御縁をありがとうございます。

どうぞ末永くお元気で。