2013年4月アーカイブ

自分の専門性を、

過度に守ろうとしない。これが適応と進化を育む基本的態度だと思う。

専門性のみで自分の塔を建てようとする人は、必ず、自分と他者の間に無意味な一定の距離を置こうとする。

それが、究極的には自分を守るためだけに塔を作りたいのだ、という意図から生じる距離なのだ、

ということを周囲に気づかれたとき(残念かつ不幸なことに、総じて気づかれる)、

その塔は、見上げられることがあっても、それを心から目標としたいと思ったり、

そこに上ってみたいと人々に思わせることは、ない。

 

(自分のための注意書きとして。)

まわれまわれ

ヒトモノよんであつめて、コトをかきまぜ、動かし進めよ、

ずんずんまわれ、場面よ変われ、時代よまわれ。

 

(黄色い家の呪文)

髪が金色に近い。

鏡をみている時間以外、つまり一日のほとんどの時間は、自分では見えないんだけれど。

この髪の色にも慣れたが、問題は髪が茶系だった頃の洋服が本当に似合わなくなったことだ。

紺とか黒とかこげ茶なんかを着ると、アタマだけがかえって悪目立ちするのである。

シックな私、さようなら。

逆に、白・ブルー・黄色・黄緑、なんかの一見派手な色が髪になじむ。

 

たかが色、されど色。

色とは恐ろしいものである。

 

いっそのこと、これまでの服を全部処分しまおうかと思うのである。

気持ちいい、かもしれない。

応援する気持ち

| トラックバック(0)

50歳を過ぎたら、意識して人を応援しなきゃと思って、キーワードは応援応援とばかりにいろんなことをしていたら、ホントに面白くなってきた。

応援ってきもちいいね。応援って楽しいね。応援しながら、何かとがんばれる自分になってたりして。応援ってすごい。

自由人

| トラックバック(0)

最近、数人の男性諸氏から、西道さん、自由人だよね、って言われた。

えっ?みんなも自由人じゃないの?この国は職業・住処・婚姻等の自由もあるし、あなたも自由人じゃないの?って思うんだけど、そうでもないらしい。しがらみを設定しているのはあなたの選択と対処に依拠するし、さらにその呪縛をどう意識するかによって、自由度の主観的認識はいくらでも変わると思う、って言い切ると、いじわる頭でっかちの回答かしら。

何くれと背負っている(ポーズの)俺を認めてくれってことかな?ならば、いくらでも「ヨシヨシ」とほめて差し上げますわ。

文楽

最初の1時間はいつも退屈する。国立文楽劇場は立派だが、人形浄瑠璃には大きすぎる。老眼の目には人形の表情など言わずもがな、細かな手足の動きも見えない。

結果、耳をそばだて浄瑠璃に聞き入るのみとなるが、ひとつのことをくどくどと言い回す独特の節回しに最初は食傷気味である。やっと1時間を過ぎる頃に気持ちが乗ってくる。

押し寄せる運命とがんじがらめの義理の中で、ああでもない、こうでもない、と逡巡し、なんやかんやとかき口説く。自由が利かず、寿命が短く、やり直しがきかない人生を生きざるを得なかった時代の人々のことを思うと切実さが増す。

 

ただ、こんなに寿命がのび、義理の縛りも緩くなった現代ですら、いつまでもぐるぐるしているのが人間。

浄瑠璃が生まれた時代と変わらず。

 

ふと、文楽、いや、人形「浄瑠璃」に堪えることができなくなれば、おそらく、商売替えをせねばなるまい、と思う。

ぐるりと廻って

十数年前にお仕事をさせていただいた方々とまた、めぐりめぐってまたお仕事の機会を得てご一緒することが多くなった。人間の生物的な寿命が40ぐらいだとすれば、もう二回り目にさしかかったということか。折り返しというよりも、地球にとっては余分な二回り目と肝に銘じて、単にトレースするだけではない実験をひとつひとつに仕込んでみる。あらゆる実験の結果を見届けてからこの世とおさらばできれば本望。

花冷熱

寒暖の差が激しく、種々雑多なことをノンストップで一気にやっていたせいか、いよいよ体調を壊し、発熱。今朝はおそらく2年ぶりぐらいだろうか、38度越えの熱。身体中から力が抜けて、うつろなままとろとろと寝入ること数時間、体温が下がってきた。

高熱は体のこわばりを解く力もあるんだそうな。どっか、りきみ過ぎてたかな。身体を緩めよう。

そういえば、ここしばらく、こわばった物言いが世の中にあふれているが、いたずらな戦闘モードは、他人を無意味に巻き込む正真正銘アホのはじまりである。

熱にうかされていても、いつか、それは覚めるのである。

偽りの効率

眼前のプロジェクトがしゃかしゃか進んでいる時は、それはそれで気持ちよくなってしまうのだが、疑い深い私は、これはもしや偽りの効率ではないだろうか、と思うことにしている。表層的な仕事が、表層的なりにうまくいきすぎて、もっと考えるべき事柄、深くとらえるべき枠組みに対峙しなくてもいいようにケムにまかれているのかもしれない、と。

考えてみれば、いつの世も大衆操作はこのやり口で行われるのだ。自分の人生は、そのように操作されてはならない。

雨の音

豪雨がやってきた。土曜の夜。屋根をたたき、土をうがつ。しみこみ、溶かし、流す。あの日、すべてを流した変幻自在の水は極限的に恐怖なるものの異型。同時に、水なしでは生きられず乞う。人間の正邪の基準など自然の前では無である。

積み残し整理の春

| コメント(0)

逢坂あたりでは昨日今日と名残の桜。何年ものあいだ、手つかずに放置していた仕事をお手伝いいただいて、やり切ることにした。小さなことを完結させる力。一定の目標に到達した今、次のステージに移行するに際して、重要なのはやはりここか。ありふれた手持ちのものの中に、別の視点から新しい存在意義を見出し、次元の違う完成度と表現方法で、それを世に問えるものにすること、そこに私の成長があるのだろう。昨日、4月4日の誓いは、積み残し整理の春、である。

斑椿の勝ち

今日は伝耕分室、黄色い家で、お花見なのだけれど、雨嵐になるらしい。

お花見日和としては最悪。

風にあおられて、無残にも散る桜を眺めるのも酔狂か。

 

一心寺の仁王でも、桜を長持ちさせることができない理。

皆が上を向いて愛でる桜も今日を限りの一心寺、ああ無情。

上目を下目に山門脇、斑椿(まだらつばき)が婀娜っぽく咲いていた。

 

斑椿

 

悪いけど、アタシは生き残るからね。

 

そりゃそうでしょうとも。

区切りは何回?

なんとなく、年の区切りは3回だった。まず、新年1月、そして、その次は、学校や多くの会社の新年度である4月。次は伝耕の新しい年度である7月。中二か月で年の前半は区切りがやってくる、のだが、7月から中二か月の10月は区切りを設けていなかった。ん~、なので、後半、緩みがちなのかしら、と反省。しかし、そういえば毎年、10月に入ると、「次に気が付いたら年末だから」と口走っていたような気がする。これは無意識の区切り、だったのかも。今年は10月の区切りをより意識的にしてみよう。リズムの良い一年にするために。そんな決心をした4月1日。