2013年1月アーカイブ

やりたいことを区分けしてやるときの注意

むちゃくちゃベタなタイトルであるが、最近気になっているのがこのテーマである。

やりたいことはある、それをどう区分けするかによって、結局やりたいこと自体の創られ方が変わる。

やりたいことの具現化の形は無限大にあり、それの最終形が、区分けの時に自分にフィットするものかどうか、

どうやって考えるんだろう。

 

やりたいことは概念であるが区分けしたあとの中身はアクション。

概念は重要だが、概念の具現は、日々のアクションに依存する。

 

概念を具現化にするにあたって、アクション可能なモジュールに区分けするときの割り切り、

そして区分けしたあとアクションを起こすときのポイント。

どっちも大事なんだろう、しかし、それって、どんなもんだろう、って考えてる。

 

たとえば、ブランディングというものもそうなんだろう。

でもブランディングをどうやってやるか、とか具体的なノウハウといったものではなくて、

その向うにある、もっとジェネラルなものって、いったいなんなんだろう。

 

最近、いろいろやってはいるが、同時にすごく考えてる。

 

そういえば、いろいろやり始める前に、ブログが書きたくなったので、会社をはじめてしばらくはずいぶん一生懸命書いた。

で、いろいろやり始めると、書くよりやる方に重点が行った。それは一昨年と去年あたり。

ブログがつまんなくなった。

 

今年は、もう一段階進まなきゃいけなくなって(注:横・縦・ななめ/直線・曲線などの進み方は不明)、

頭の中に次元の異なる「概念」の備忘録が必要になったので、

ここに書くことにしている。

 

ちょっと、また、ブログに恋してる。

今年はブログで壁打ちだな。

冴えわたる月

大阪では雪こそ降らなかったが、冷え冷えとする一日であった。

こんな日は寒空の下、ほど近くの買い物ですら面倒になる。

ああ、寒い、と下を向いたその瞬間、街頭がないエリアなのに、妙に明るく降り注ぐ光に違和感を感じて、上を見た。

冴え冴えとあかるい光を放つ正体は、なんと、お月様、あなたであったか。

 

月をきれいに撮影するのは携帯ごときでは無理である。

なので、肉眼で見た画像を脳裏に刻むことにする。

ぼわんと、月の輪のように、明るい後光が月の周りにひろがっている。

この美しさを共有できる全世界の皆様、こんばんは。

 

月に照らされて、宇宙を感じた。

今、ここに生きている感覚を味わった贅沢な晩。

 

頬を冷たい空気で紅潮させたまま、家で赤ワインでも呑もうか。

たこつぼ脱出

似たような人々と一緒に居ると、なんだか、自分が自動的に承認されたようになって、楽ちんなのだ。

楽ちんと退化は紙一重。

 

もう進化なんて大手を振って言うのはうんざりなんだけど、

というか、もうちょっと考えると、進化ということばに込められた直線的な軌道がいやなのであり、

螺旋状な軌道で進化が進むとなればそれはいいのかもしれないが。

 

螺旋的かも、と信じてみることにして、自分の言葉がよく通じないかもしれない場所に身を置いて、

なんかやらせていただける面白さとありがたさを感じた週末であった。

 

たこつぼでじっとしていたいほど、ナイーブで引きこもりなのよ、ホントは、わたし。

と、言いたいところだけど、ちょっと、先っぽぐらい切れてもいい足の一本をちょろっと出して、

たこつぼ脱出、と言ってみるのだ。

「封印していた自己」の封印切

人って、いい人ぶったりする方がラク。

基準はぼんやりしておいて、ん~、なんだかこっちの方がいいよね~ってことで物事を決めていく日和見主義。

確かに、日和見主義の方がいい人ぶれる。いっつも八方美人。

 

かくあるべしという使命は、はるか向こうに。

しかし、そこに至るルートは五里霧中。

わかんないけど、えいやってばっさり基準を決めなきゃ、なのだ。

ものごとが全部見えていないことを所与の条件として、

ブリコラージュ状態でのえいやっ、ルール。

嫌われても仕方ない。やるっきゃない。

そういうこと、集中的にやってた時代があった。

そういうこと、嫌いだけど、できた。

でも、ここ数年、不要になったので封印していた。

 

最近、必要になったので、封印切することにした。

いいかっこ、八方美人、やめなきゃ!

 

というわけで、

がっしゃ~ん(小判がばらまかれる音:文楽 冥途の飛脚・ 封印切の一場面より)。

みんなに責められて、お縄になるのを避け、自害するはめ?!になっちゃいけないので、

派手に音でも出して、ここで厄落とししとこ。

さらけだす

今日、ある人と話してて、ふと気づいたのは、私ってどっか、まだまだ、いいかっこしてんだな、と。

ややもすると、自分だけ良く見せたい、素敵に見えたいという欲がまだある。

その欲自体は悪くないけれど、自分が良く見せたい部分を突き抜けて、さらけだして、周りの人も良く見える、素敵に見えるような

手立てを見つけ出し、整理し、発信しないと今やっていることが全体として価値がない。

 

そういう意味では、また、一つ壁にぶち当たった感じ。

粒粒(つぶつぶ)しく

お正月のごまめが珍しく余っていたので、ぽりぽりとスナックがわりに口に掘り込んだ。

ごまめ、ってまめまめしく働けるようにという願いを込めていただくものらしい、が今年はなんだかありがたみを感じない。

以前のようにまめまめ働いていもかつてのようなスピードで物事が進まなくなった。

体力低下も無関係ではないが、盲目的に、がーっとやるには、ちょっといろいろ気になってしまうようになったせいかもしれない。

 

「いや、まてよ、これでいいかな?」と折々に疑問が増えて、「じっ・・・」としてしまうことが少なくない。

という具合に、自分としてはまめまめ働いていない感じに直面することが多く、なんだかすっきりしないのである。

 

どうしてなんだろ?と考えをめぐらせていると、「丁寧に取り組みたい」という気持ちが、

年々強くなっているんだろうという答えに行きついた。

がーっとやると、その直後は成果が出たような気になるが、たいていはそれは自己満足だけのもので結局見直すべき点が多い。

 

ひとつひとつ足場と景色を確かめながら登るといったアプローチの方が、結局、歩みが確実で、気分的にもしっくりくる。

取り組む対象はまさに、ゆく川の流れとどまりたるためしなし、なのだが、

対象を川という水のかたまりではなく、水の粒(つぶ)とみる。

水のひとつぶひとつぶが重なって流れになる。流れのもとは粒である。

 

つぶつぶの流れとどまりたるためしなし。

 

今までは流れしか見えなかったものが、水のつぶ、まで見えるような気がする。

スピードは落ちたが、仕事の本質を見抜く、「本質動体視力」は高まっているのかもしれない。

 

まめまめしく、進化して、つぶつぶしく働こう。

シンガポールのプラナカン文化

   昨年11月末、はじめて訪れたシンガポール。アジアの中で人種のるつぼ、とも言われるこの地について「プラナカン」という人々の存在を知り、興味を惹かれました。新年が開けて、ちょっと間が開きましたが、こちらでご紹介することに。

  「プラナカン」とは15世紀後半からマレーシアやシンガポールにやってきた中国系移民の子孫のことを指し、マレー語で「この地で生まれた子」という意味。中国系移民は現地の女性と結婚し、元来の中国の文化にマレーの文化と、この時期に歴史的にかかわりのあったヨーロッパ列強国の文化をミックスさせ、独自の文化・生活スタイルを築きあげたそうです。

   下の写真はプラナカンの建築が集まる、シンガポールのカトン地区の様子。プラナカンの建築物は、一階が店舗や事務所、二階が 住居になっていて、「ショップハウス」と呼ばれています。間口が狭くて奥行きの深く、数件が繋がった長屋風で、作り自体は京都の町屋と似ているのですが、外はパステルカラーで西洋のスタイルが取り込まれた建物は、かなり華やかな印象で、ズバリ女性好み。ところが、このパステルカラーで外壁を維持するのはお金がかかるとのこと。剥がれなくきれいに維持できているということは、その家が豊かであるとみなされ、ショップハウスは上に高くなるほど、商売が繁栄している証拠であったとも。きれいな色で塗られた、間口は狭いけれど中に入ると、天井が高く、空にむかって伸びていくような家は、単にかわいいだけではなく、一家の富をプレゼンテーションする役割もあったのですね。

プラナカン建築1

  プラナカンの敬称として男性はババ、女性はニョニャと呼ばれます。男性側は中国系としてのアイデンティティを守るために中国の古いしきたりを守る一方、その妻となった現地の女性(マレー人やバリ人など)は彼女たちの文化を合わせて、プラナカンならではの新しい文化を創り出したそうです。列強植民地政策の下、語学堪能で交渉上手であったゆえに東西貿易で豊かな財力を得たプラナカンが輩出しました。この財力をバックボーンに、女性(ニョニャ)の力が強かったプラナカンは、東西折衷様式による女性好みの華やかな文化を生み出しました。

   ニョニャたちの手によるビーズがふんだんに施された衣装や、単に辛いだけではなく、さまざまなスパイス使いで奥深い味の料理の数々、色鮮やかだけれど自然の美味しいデザート、パステルカラーのお花に彩られた陶器、そして、心躍る美しい街並み。プラナカン文化は「きれい!おいしい!かわいい!」三拍子揃い踏みの女心をくすぐるものに満ち溢れ、女性の嗜好の影響力が強いことがそのまま文化に表れていました。

  今回、ショップハウスが軒を並べるカトン地区を訪れ、歴史について思いを馳せつつお土産などを物色しておりますと、ふと、私も女性による文化ミックスの一端を担いたいような気持になりました。そんなことを考えながら何軒かのショップハウスを出たり入ったり。とあるお店で、インドネシアのバティックでよく見かける図柄、しかし色合いが優しいパステルカラーという「ニョニャ好み」のシルクが目に飛び込んできました。そういえば誕生日の自分へのプレゼントに羽織でも仕立てようと反物を用意していたことを思い出し、この「ニョニャ好み」のシルク、この羽織の裏地として合わせると面白いかも・・・と、いうわけでお買い上げ(笑)

  ちなみに、下の写真、反物が右上、プラナカンのシルクが左下です。ソフトな色合いですね。

プラナカン生地

  単に伝統など古いものを守るだけではなく、日常の中で自分たちの楽しみを追求すると同時に人々を魅了するものを生み出したニョニャたちの営みは「きれい!おいしい!かわいい!」プラナカン文化を花開かせ、代々受け継がれています。生活に根ざした文化はいつの時代でも女性が鍵を握っているのですね。ともすると、大資本がビッグビジネスを仕掛けるイメージが先行するシンガポールですが、プラナカン文化のような一面も見つけるとホッとします。もちろん、プラナカンが手掛ける商品にはついつい購入意欲をそそられるようなものが多いですから、これ自体、重要な観光資源にもなっており立派なビジネスなのですが、なんといっても印象がソフトです。

  持ち帰った「プラナカンのシルク」と「日本の反物」の取り合わせ。どんな表情の羽織になるかしら?と、できあがりが楽しみです。

新年の気づき

冷え冷えと冬らしい逢阪の黄色い家より、遅まきながら、新年おめでとうございます。

年頭所感に変えて、新年の気づき。

ここ数年で結果が出たことをつらつらと振り返るに、残っているものは「自分だけでしなかったこと」ということに尽きる。ものごとを続けて結果を出すには、1人の情熱だけでは不可能である。いや、不可能ではないかもしれないが、無理がかかる。無理がかかると、続かなくなる。そうすると、それはいつの間にか日の目を見ないところにおいやられてしまい、結果が出ない。アンチ体育会系ビジネスを回している私としてはこれは非常に重要なポイントである。

さて、自分だけでしなかったこと、の次に成果を左右したのは、やる気の波長の合う人と一緒にやる、ということである。やる気の波長が合うということは、総じてお互いに好印象を持っているわけで、うまくいかないわけがない。注意すべきは、やる気はあるけれど、お互いの波長がうまくかみ合わない場合。面倒なのは、お互いに決して嫌いなわけではなく、むしろWINWINでありたいという気持ちは満載なんだが、なぜか努力のタイミングと方向が合わない間柄。言い換えると、コミュニケーション時のチューニングがうまくいかず、そこで認識したずれについて気づきながらも、その修正を面倒と思ってしまう関係性の場合。昨年、かなりの努力をしてみたが、結果が出なかったことが一件あった。それはまさにこのパターンだった。

そういう自分を変えてみたいと思わなくもない。自分を変えてみることが最も人生を変えることになるが、それはかなりのチャレンジだ。それを思い知った上で、いつもの私よりも20%ほどリスクを取ってみようか。それが自分を変えることに対するストレスを感じずに、結果的に自分を変えてみることにつながるんだと気づいた。残りえびすの昼下がり。