超高齢化社会は生命の大誤算

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「ゾウの時間、ネズミの時間」、歌う生物学者、本川達雄先生(朝日新聞 耕論)のインタビュー記事より。

 

 命を永遠にしたい、ずっと続いていきたいというのは、生物本来の欲望です。しかし、それは個体が生き続けるのではない。

体は使っていれば、すり切れてガタが来るに決まっています。生きているのも大変だし、エネルギーも余計に使う。だったら

定期的にまっさらの新しい個体、つまり子どもをつくっちゃおうと。適当なところで、すっと消えて、子どもに譲る。そうすれば、

「私」は次の世代として生きていくことになります。これが生物が続いていくやり方です。

 生物学的には、人間も次世代を産む能力があるところまでが本来の部分で、老後は医療や科学技術が作り出した命です。

子どもが暮らしやすい社会をつくるのならいいのですが、現実には老後を支える膨大なお金やエネルギーは、若者が負担

しています。お年寄りに優しい長寿社会は、裏を返せば若者いじめの社会なんです。親が生きながらえて次世代を圧迫する

のはまずいんじゃないでしょうか。生物学者としては、私はそうした議論が可能だと思っています。

 

そういう議論、もっと活発であるべき。

しかし少なくとも、年寄り票で成り立っている政治家には不可能な議論だ。

 

生物が累々営みを続けるための方略とそのシステムとして、生死がある。

DNAという設計図、それだけ伝えて、設計図を覆う「鱗」ははがれていく。

その単なる「鱗」こそが、「私」というものである。

とすれば、「私」に固執しすぎることは、もともとの「私」の存在理由と合致しない。

「鱗」としての「私」を俯瞰し、妄執を避けるために輪廻思想が生まれたのだろうと思うが、

科学が発展する前にすでにあったこの思想の直観性と先鋭性に、心打たれる。

 

医療や科学技術によって作り出された命のために、さまざまな資源が投下され、そして、

また延長された命のために、次なる資源が投下されるという社会が超高齢化社会だとすれば、

この有り様は、生命を伝えるという大目的に対する資源の配分方法としては、根本的にずれている。

生命システムという大方略の中で、生命の継承から遠ざかった50才以上の人間は、

どういう心持ちで生きなくてはならないのか、ある時期で再教育されねばならないという気もする。

 

たとえば生物学と仏教界がコラボして、50才からの人生を考える「寺子屋」なんてのはどうだろう。

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