2011年11月アーカイブ

めがね

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いつものピンクフレームのめがねも早4年。

これもいいのだが、徐々に老眼が進んでいることもあって、

もう一本めがねを新調することにした。

 

知り合いから紹介していただいた「サエラ」という眼鏡屋さんはちょっとかわっていて、

大阪市内、中央区南本町のビルのB1に位置し、「glass & cafe」というわけでカフェに併設されている。

なので、12時から13時はランチタイムで忙しいらしく、それ以外の時間でお越し下さい、という

面白いナビゲーションがあったりする。

 

カフェ併設ということで、なんだか、眼鏡について大丈夫なんだろうか、と思わないでもなかったが、

検眼はものすごい手際の良さ、フレームの選択は秀逸。

フレームは数こそは多くないけれど、志が高くて面白い福井のフレームを扱っていて、

何の苦もなく、一瞬にして決定した。

 

実は今まで外国のフレームしかかけたことはなかったが、今回、

アラン・ミクリ好きの若い福井のデザイナーによるフレームを選んだ。

 

アラン・ミクリと言えば、今から30年ほど前、梅田の阪急百貨店、白山眼鏡店で導入されたとき、

勢い込んで買いに行ったブランドである。

 

私が最初にミクリを買ったときは、きっとまだ生まれていなかったデザイナーによるものだと思うと、

なんだか妙に可笑しくなってきた。

 

お披露目は来月。

お目にかかれる方は、私の新しい表情をお楽しみに。

ミッションの実現方法

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「人の気持ちや考えを、ラクに楽しく、ひきだし、ひもとき、くみたてるためのノウハウとツールを提供する」というのが

伝耕のミッション。

ミッションが果たされ、ある程度の継続性を約束するならば営利であろうが非営利であろうが構わない、が、しかし、

まあ一応、お金を廻さなきゃ何事もはじまらん、ということで、株式会社という形で伝耕を作った。

 

来年一月で、まる三年になる。

 

伝耕としての営利団体活動については、お客様と仕事に恵まれ、勉強になるプロジェクトに携わらせていただき、

一方、営利以外では任意団体としての非営利活動に賛同し、活動を担っていただく方に恵まれ、

ミッションを果たすための準備が、少しずつ整ってきた。

 

しみじみ考えると、これはすごいことである。

 

最近、そういえば手を合わせることに照れがなくなったが、

ともかくもありがたい、の一言に尽きる、

と、心底から思っているせいだろう。

Kniazevのチェロ

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いろんな奏者の演奏をとっかえひっかえ聞いているバッハのチェロ無伴奏組曲は、

バッハ直筆の楽譜が残っていないらしく、必然的に奏者の解釈が問われる作品である。

 

外の空気が冷えてくると、家にこもって、あれこれ本を読んだりしながら、

えんえんと無伴奏を聞き続けるのが私の至福のとき、である。

 

Alexander Kniazevの演奏、寒さが増した空気に寄り添うような純度の高いピッチと一緒に過ごす日曜の午後。

再会

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今日は、とっても素敵な女性と再会できて楽しい時間を過ごせた。

笑顔を大事にする、元気な人。でも、その実とっても繊細で優しい人。

 

4年ほど前に、ある研修でご一緒して、それ以来のおつきあいである。

お互いに忙しくて、昨年末来お会いできていなかったのだが、

ホント、一年ぶりにお会いできた。

 

おしゃれでおいしいおみやげまでいただいて、

恐縮するのである。

ありがたや。

 

「伝版」のNPO、トレーナーとして強力な助っ人。

いろいろ妄想を語り合って、本当に楽しかった。

で、メラメラと燃えてきた。

 

うん、時間がかかっても、現実化するぞ!

 

 

 

幸せな瞬間

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力のある方にお仕事をおまかせできるとわかったとき。

新しくお会いした方が私よりも力があるとわかったとき。

子どもが私よりもしたたかだと知ったとき。

 

どれも幸せな瞬間。

調整

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日中寒くなってきたが、朝はものすごく寒い。

なので、四天王寺ウオーキングを四天王寺ランニングに変更。

背中の真ん中からツイストするように走る。

すると体中がぽかぽかしてくる。

寒中、自分だけ亜熱帯リゾートみたいになる。

 

ランニングをしたいわけではなく、

気候にあわせたいだけ。

 

でも、これ、なかなかいい方法だ。

 

自立

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自分で考えること。

自分で引き受けること。

そういうことを信じて生きていきたいと思う。

 

立川談志が世を去った。

確かに、若い頃は才が立ちすぎていた。

老年にかかって、人間の業とか弱さを引き受けたのか、

それを素直に出すようになってから、

自分で考えて、引き受けてきた人の深みがにじみでるようになって、

オーラの質が変わった、と思う。

 

だいたいこんなもんじゃないの、とかこうするとああなるからやめておこう、

あれを真似しておこうとか、

そういうの、まあ、80点はとれるんだけれど、

やり続けると、佇まいがだんだん下州になる。

80点の下州。

これから、私も、老いていくばかりで、醜くなる方向に足を引っ張られる力が強くなるわけだから、

これは避けなくてはならない。

自戒を込めて、本当にちゅうい!である。

私という他人

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伝耕の仕事のうち、顧客理解についてのご相談および調査関連のブログ準備のため、

このブログについて再編を考えているにあたり(注:個人ブログは残します)、

2009年7月末から書き始めたこれまでの内容を読み返して、大げさな話、ではなく、「驚愕」した。

 

驚愕の理由は、「誰、こんなこと書いてるの、私?」という印象を持ったことに、である。

体の成分入れ替わり の表を見ると、脳は一年、一番遅い骨で入れ替わりに3年程(70歳ぐらいで)かかるらしく、

まあ、まだ70にはならないから、2009年時点の骨もだいたい入れ替わっていると考えると、

「私」はDNAの設計図通りほぼ(老化)再生されているわけで、「私」は2年前とはほぼ違う人、になっている。

 

っていうのは、頭では前から知っていたことだけれど、今回は身にしみて思った。

自分で書いたブログに「はて?」と思えるのは、ブログなんかを書いているからであって、

要するに、日記をつけるということの根本的な面白さに人生はじめて気づいたのである。

 

そもそも人様より健忘症傾向がひどいという部分をさっぴいても、「私」は肉体的に入れ替わり、同時に、

自分自身の過去のあれこれについて忘れるのである。

 

そして、「あれこれの忘れ方」の特徴にも気づいた。

おそらく、脳の奥の方にしまわれるような、本能に近い反応、

好き嫌い、おいしいまずい、愉しい怖いという感情は、生存の可能性に関わるとされているせいか、

あるイベントを思い出せば紐付いて簡単に想起される。

しかし、他人事と思えるのは、脳のおそらくうすっぺらい表層部に浮かんでは消えている、

瞬間のアイデアとか、考え、を書き留めたもので、そういうものは、まったくといっていいほど覚えていない。

名前を変えて他人のブログに掲載されていても気づかないような内容がたくさんある(もしかして、ホントに病気??、そうかも)。

アイデアやその場の考えなんかは、シナプスの小さな花火、のようなものだろうから、書き留めなくては保持されず、

「その場限り」で、未来につながらないのかもしれない。

 

そっか、

「その場限り」の時空間から人間を解き放った、「紙」とか、「IT」ってすごい発明なんだ、と、妙に感心してみる。

 

同時に、

人間が同じ過ちを犯し、こざかしい話はすぐ忘れ、簡単な整合性も保てない理由、を自分の中に発見する。

「私」を「私」と思うなかれ。

5時半の弘法市

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朝、恒例の四天王寺ウオーキングも今日はちと普段と異なる。そうであることに寺にたどりついてはじめて気づく。毎月21日は「弘法市」、境内に露店が出る。5時半、寺は荷をつんだ車や人ですでにごった返している。いつものウオーキング仲間は市ゆえの喧噪を避けて半分以下。すいすい歩ける毎朝とは異なり、こっちの荷を避け、あっちの軒先のつるしをよけ、細道に乗り込んでくる軽トラをかわし、その合間に、半開きの露店の商品をチラ見し、いつも通り境内三周。もちろん夜明け前のこの時間、月も星もまだ現役、そして、しんと冷えている。

たかが商いされど商い。すでに、煌々と明かりをつけ、店開きしている雑貨の店にダウンをきこんだ若者が立ち寄り、廃盤レコードで有名らしきとある露店には、懐中電灯持参の常客がすでに真剣な物色を始めている。人の営みは自分の営みだけに注目しているとその面白さに気づかないが、ことに他人の商いに目を凝らせば、どこまでも飽きない様相である。来月師走21日は「終い弘法」、今年一番の喧噪であろう5時半が楽しみになってきた。

十年の計・予感

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45歳を過ぎたとき、四捨五入して50歳のつもりで生きようと決め、

そういうスタンスで生きてきたが、本当に50歳になるまで、あと一年ほどになった。

 

この4年ほどを振り返ると、

若い頃は勢いでできていたものが、なんだかんだと考えて時間がかかる一方で、

若さが抜け、自分としてはお呼びじゃない部分の「女性要素」に関しては世間向きに斟酌無用とするぞ!方針、

がとれるようになった結果、

うれしいことに、すんなりと可能となった本質の追求だったり、

まあ、いい按配ででこぼこに満ちている。

 

この4年でできたことは会社を作ったこと。

基本ビジネスについての発信は、まったくできておらず、ま、これも辺境極小企業の生き残りを左右するけものみちを考えた場合、

果たしてどれほどオープンにするのが正しいのか迷いがあったのだが、まあ、いいや、来年早々、出すことにした。

手術なんかをする機会をいただいたことが、この、まあ、いいや、の原動力であることに気づくと、人生面白いものである。

ひと目には「うらばん」に見えるこのブログは、自分としては「おもてばん」なのだけれど、

人様に「おもてばん」と見えるものも発信してみよう、というわけで、「おもてうら」をセットにして出してみることにした。

 

閑話休題。

 

そういう「おもてうら」を着物の合わせ目のように見せるやり方も、SNSの進化で可能になり、工夫次第の時代になった。

着物の半襟・重ね衿の選択、もしくは、着物の袖からチラみせする長襦袢、裾の八掛の色。

一貫性よりも「おもてうら」という合わせ技のセンスが問われる有り様が、そもそも日本らしい教養の発露であり、

奇しくも今、そういうことが功を奏する時代が近づいている、と思う。

そもそも人格はベースがあっても複合的なものであるから、

伝達経路がかつてマスコミのみだった故に、

つねに一貫性のある一枚岩の人格をベースとすることで信頼を担保し効率を保っていた企業ブランディングの方略についても、

これから少しずつ変化せざるを得ないだろう。

 

SNSの浸透により、まず個人というミクロベースで、一個人の多面性についてお互いが期待する素地がまず耕される。

そこでは個人に起こる必然的な変化、もしくはある範囲の複合性を見せた方が信頼性が向上する傾向が高くなる。

それはリアルな場面における対個人の評価に近似する形として。

 

フェースブックで見られる面白い現象として、ほぼ毎日趣向が同じ花の写真を出している、いつも景色の写真を出している、

そういうアップは最初は毒が無くて万人受けし、最初「いいね」が多いのだが、だんだんその数が減ってくるようだ。

推測に過ぎないが、それは要するに、「きれいなんだけど、嘘くさくて、それが退屈」と判断され、

ある日突然プラトー化し、反応が降下するんじゃないかと思う。

いつも同じでおもしろみのない人間だと判断されると、質の高い対人関係が結べないのと同様に。

 

「少しずつ違う角度で見せる一枚岩」もしくは、「少しずつ形がかわる一枚岩」の選好、

まるで、着物は同じでも合わせ方を変えることで別のように見せる方法を楽しむように、

一貫性と多様性のバランスとスタイルが問われ、結果コミュニケーションのありようも変化するのではと思っている。

そしてその動向が、しみじみと企業発信のコミュニケーションを変えていくベースになるのではと思う。

どこかから借りてきたような、底が浅い内容は料理のしようがなく、結果的に淘汰されるだろう。

 

さて、妄想は置いて。

次の一年を考えるのは11月が一番いい。12月になると気がせわしくなるから。

 

来年は、

・「おもてうら」を出して活動する年。 NPOの始動も含めて。

・2月にUS、3月にイタリア、可能なら8月にもう一度USに行き、外に出て学び、チャレンジする年。

 

たった、これだけなんだけれど、

来年は、次の10年を左右する年になるんじゃないかという予感がある。

超高齢化社会は生命の大誤算

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「ゾウの時間、ネズミの時間」、歌う生物学者、本川達雄先生(朝日新聞 耕論)のインタビュー記事より。

 

 命を永遠にしたい、ずっと続いていきたいというのは、生物本来の欲望です。しかし、それは個体が生き続けるのではない。

体は使っていれば、すり切れてガタが来るに決まっています。生きているのも大変だし、エネルギーも余計に使う。だったら

定期的にまっさらの新しい個体、つまり子どもをつくっちゃおうと。適当なところで、すっと消えて、子どもに譲る。そうすれば、

「私」は次の世代として生きていくことになります。これが生物が続いていくやり方です。

 生物学的には、人間も次世代を産む能力があるところまでが本来の部分で、老後は医療や科学技術が作り出した命です。

子どもが暮らしやすい社会をつくるのならいいのですが、現実には老後を支える膨大なお金やエネルギーは、若者が負担

しています。お年寄りに優しい長寿社会は、裏を返せば若者いじめの社会なんです。親が生きながらえて次世代を圧迫する

のはまずいんじゃないでしょうか。生物学者としては、私はそうした議論が可能だと思っています。

 

そういう議論、もっと活発であるべき。

しかし少なくとも、年寄り票で成り立っている政治家には不可能な議論だ。

 

生物が累々営みを続けるための方略とそのシステムとして、生死がある。

DNAという設計図、それだけ伝えて、設計図を覆う「鱗」ははがれていく。

その単なる「鱗」こそが、「私」というものである。

とすれば、「私」に固執しすぎることは、もともとの「私」の存在理由と合致しない。

「鱗」としての「私」を俯瞰し、妄執を避けるために輪廻思想が生まれたのだろうと思うが、

科学が発展する前にすでにあったこの思想の直観性と先鋭性に、心打たれる。

 

医療や科学技術によって作り出された命のために、さまざまな資源が投下され、そして、

また延長された命のために、次なる資源が投下されるという社会が超高齢化社会だとすれば、

この有り様は、生命を伝えるという大目的に対する資源の配分方法としては、根本的にずれている。

生命システムという大方略の中で、生命の継承から遠ざかった50才以上の人間は、

どういう心持ちで生きなくてはならないのか、ある時期で再教育されねばならないという気もする。

 

たとえば生物学と仏教界がコラボして、50才からの人生を考える「寺子屋」なんてのはどうだろう。

愛着の供養

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金曜の夕方、仕事を終えて東京八重洲から新幹線に。週末に帰郷する人でごった返している。

そういえば昨日はボージョレー解禁日。

いつもはビールばかりが目立つ新幹線車内にも、

ボージョレーのボトルを持ち込む人が居て、軽い酒宴が始まる。

 

今週のあれこれを溶かして忘れてしまう時間がやってきた。

考えに考えて、最後は捨てる。

捨てるに惜しいすばらしいアイデアを、それでも数多く捨てて、そして残ったものが今のビジネスを作った、と、

そうジョブズは言ったと記憶しているが、それでも愛着のあるものを捨てるのは気持ちの良い作業ではない。

 

愛着の残るアイデアは、その中でどうしても残したいものだけを残して、

後は、アルコールで流してしまおう。

それが働き人ができる金曜の晩の流儀。

同時に、捨てられることになった、すばらしいアイデアを供養する方法。

今宵は、赤いワインで流せ。

責任をとるという練習

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子供から大人の階段をのぼる間に、責任を取る練習はいついかなる形で身につくのだろう。

ふと、そう考えてしまう。

原発がらみの進捗、そこには「責任」というコトバが存在していないかのように思える。

 

まさか、勉強が人様よりできさえすれば、

地位は与えられるが、責任は免除されると勘違いするのか。

自己を中心にした資源配分に違和感を感じないような特権を与えられている、と思いこむのか。

 

ユリアンナ・アブデーエワ

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チェロ好きであるが、最近はあまり、チェロを聞かず、ピアノばかりを聞いている。

昨日、シンフォニーホールで行われた、ユリアンナ・アヴデーエワのピアノリサイタルに行った。

2011年ショパンコンクール、45年ぶりの女性優勝者である。

 

長身で細身、無駄な肉がない、アスリートのような彼女。

手を見るとものすごく大きい。リストも手が大きかったらしいが、「女リスト」みたいと妄想する。

 

ピアノの前に座った、その瞬間に間髪入れず弾き出した。

いやはや、すばらしい「舟歌(ショパン)」だった。

 

とにかく、音がきれい、なのであるが、それは彼女から受ける印象と全く同様で、

透明感があって、強い。

 

鍵盤に向かう彼女は、美しいサラブレットのようで、鍵盤の上を跳ねて音を出しているようであった。

そうかと思えば、ある時は、彼女の音は、ピアノではなく、ハープを弾いているような透明な音の余韻がある。

 

アンコールの最後、ショパンのマズルカ ロ短調は、今まで聞いたこの曲の演奏の中で、最高のものだったように思う。

 

 

 

アヴデーエワアンコール曲.jpg

静かな雨の日

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しとしとと、細かくて冷たい雨が降る11月11日。土日に続いた仕事も今週はなく、

かつて勤め人であった時のように、休日へとなだれこむ金曜の午後。

とても静かだ。

 

片付けなくてはならない本の山を横目に見ながら、

あれこれ自分の欲について思いを巡らせてみる。

 

自分の欲は何でできているのか、

今まであまり突き詰めて考えていなかったが、

最近は少し思いを巡らせてコトバにしようとしている。

何を捨てて、何を選ぶのか。

 

あえて損でもやってみて、利を横目に通り過ぎる。

最近、そういう人を間近で見る機会を得たから、そういう人の抱える欲についても考えたりしている。

 

別に直に聞いてみるまでもない。

いろいろな人との距離感を保ちつつ、その距離感を構成している要素について、想像力を働かせることこそが、

思いやり、ということばの意味じゃないか。

そんな考えが、しんみり冷たい、1だらけの日の空気に漂う。

 

震災から8ヶ月が過ぎた。 

病院にて

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定期検診に行ったブレストクリニックにて、

受付に張り付いてクレームを述べ立てる患者の声に待合室全体が凍り付いていた。

 

いわく、

①一年ぶりに一ヶ月前に予約したのに、担当医の診察ではなかった(担当医制はこの一年の間に廃止された)。

②超音波とマンモグラフィーの検査技師が変わっていたが、その技師にモノのように扱われた。

 

①は制度変更による応対のナビゲーションが標準化されていなかったためであり、

②は技術だけではカバーできない、その病院の質を決める対応のノウハウが受け継がれていなかったからである。

 

そういう問題に、病院のオーナーは気づいているのかいないのか、気づいたとしてシステムとして解決しようとするのかしないのか。

受付のベテランに、全部クレームをのみこませて、何も変えないんだろうな、結果、

きっと、進歩はしないんだろうな、と思い、その場をあとにした。

 

エライとかすごいとか誰にも言われず、でも大事なことかもしれないあれこれは、仮に進歩するとしても、

その進歩がわからないほど、ものすごくゆっくりになるから。

 

 

ヒラメ横並びオヤジ退場後の風景

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オリンパスの事件、投資先としての日本を揺るがす事件になる(なってる)。

誰かの帝国(会長共同体)を守る以外に、偉そうにできる自分の人生がないと決めかかり、理路なき行為が継続してきた。

 

会社に限らず、地域でも共同体復権と言われているが、私は疑う。

何のためか、誰のためか、と常日頃から、天を仰ぎ見ることができ、

まさかの折のために、自浄作用を発揮できる共同体を仕組み、守り育てるほど、

高潔なオヤジがいったいどれぐらい日本に棲息しているのか。

 

ヒラメ横並びオヤジ退場!と叫んではみるものの、いったいどこの誰が残るのだろう。

 

そこにはオヤジの手札を知り尽くし雌伏していた、オバハンしかいないのか。

 

秋掃除

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逢阪伝耕オフィスは、本日秋掃除。

冬は寒くって、冷たい感触の多い掃除がいやんなっちゃうから、

冬が来る前に、今年の埃ぬぐいをする。

 

いらないものを捨て、レイアウトを少し変え、

床を拭き、屋上の掃除をし、水回りをきれいにする。

う~ん、さっぱり。

明日から、気持ちを切り替えて

たまった仕事をはりきって片付けるぞ~。

 

納得できる目的の不在

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「効率」を追求して、あらゆるところにITの網がはりめぐらされ、PCや携帯やらがずいぶん普及し、「美しさと楽しさ」を標榜する「i」製品が世間を席巻し、その教祖は他界してしまった。効率も楽しさも美しさも手の平におさまるガジェットから得られるとされているけれど、今、我らは自分たちの生活が効率的で楽しく、美しいものになったと認識しているのだろうか。Strategyというものは基本目的を前提して構成されるのだけれど、自らの生計を成り立たせるための生きる方略の前提としてさて何を目的とするのかと問われ人は漂う。目的よりも前に資源としていろいろなモノやサービスが過剰に提供されている。生きるとは、足し算ではなく、引き算の中に答えがあるように思えるが、納得できる目的に到達するための引き算に集中することこそが、最も難しい時代であるように思う。

 

大いわき祭

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六本木、東京ミッドタウンの裏手の檜町公園で、

昨日から「大いわき祭」が行われており、出張がてら、夕方お邪魔してきた 。

出し物あり、物産あり、手作り感満載で楽しい感じである

今日はあいにくの天候だけれど、開催されますので、みなさん、よろしかったらどうぞ!

 

秀嶋賢人監督のもと、FACEBOOKつながりで、実現した企画らしく、時代を感じさせる。

 

震災後、何にもできていない私。

ゆるり、と行動をおこすきっかけになるかも。 

最後の一花

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我が家の「朝顔」、8月から延々と咲き続けて、昨日、おそらく最後の花を咲かせたと思ったら、

今朝はしおれていた。

 

いったいいつまで続くのかと思わせる、ありとあらゆるしつこい所業もいつかは終わるのである。

いったん終わってしまえば、綿綿とした時間の記憶は消え、滅びゆくものについての同じ運命を確認するだけである。

 

今日は蒸し暑いけれど、秋を生き延びた朝顔がそのうち冬を連れてくるだろう。

進化した日常

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しばし、ブログをお休みしておりました。あっという間に2週間以上が過ぎ、そして、11月に入りました。

その間、小さなチャレンジを定着化させておりました。

 

9月から、生活パターンをさらに朝方にシフト。

朝4時すぎに起床。家の水回りを掃除、その後体操をし、ウエイトをつけて四天王寺境内ウオーキング。

その間洗濯。帰宅して、洗濯物を干し、お弁当をつくり、朝食の用意をして7時。

ま、ようするに、無視して勢いでやっていた家事にきちんと朝の時間を配分して、

はじめて、きっちりするようにしたわけです。

そういう習慣も、一ヶ月半を過ぎ、日常化してきました。

で、あとは仕事、ですね。

 

うん、すっきり。

とっても、いい感じです。

こうでなきゃ、です。