身を束ねる

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秋のトレーニング開始と称して、最近、早朝ウェイトをつけ、四天王寺境内を歩いている。

ウオーキングコースとなっている境内は、ウオーキングをしながら早朝の参詣をされている人が多くて

不思議な風景である。

 

いや、そもそも参詣の場所だから当たり前といえば当たり前の話なのだが。

 

さすがに総本山だけあるから、本堂だけでなく、太子堂、地蔵堂、大黒堂、弁天堂、さらに、そここに普賢菩薩やら、如意輪観音やら、とにかく

お祈りする対象に事欠かない。ウオーキングでたどり着いては、お祈りして、また次にすすむ。

 

最初の数日間は、参詣でなくて、ウオーキングに来ているのだから、と手を合わさなかった私であるが、

なんとなく、折々に手を合わせていたら、最近は気持ちよくなってきた。

 

なぜだろうと考えて、ふと思いついた。

 

ああ、そうか。

祈るということは、祈る内容というよりも、祈る動作に意味があるのだ。

認識でできているものが自分というものならば、

その認識は日常生活においてはあちこちに散らばるのである。

それがあまりにも度を超すと、いつまでも「有漏有漏(ウロウロ)」ということになるのだが、

そうならないように、認識を一つに束ねるのが、祈ることの根幹であろうと。

身体の前で手を合わせるのは、身体を一瞬結束しそこに意識を集中させるため。

そこで、一足飛びに「無漏」とはならないが、少なくとも、

「有漏有漏」とならないように、

束ねられた結束感を身体にしみつけるためなのだろうと。

 

合掌。

 

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