2011年9月アーカイブ

秋本番

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9月の終わりは、本格的な夏との決別。

暑くなっても、夏の暑さではなくて、秋の日の暑さ。

間違ってもセミは鳴かない。

 

あ~よく遊んだな~夏も終わりだと感じた若い頃の感傷と異なり、

どこか取り返しのつかない感じにおそわれるのは、

私は大きな流れの時間の中で、確かに人生を折り返し、

秋にたどり着いて、もう夏に戻ることはないからだろう。

美しい季節

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今朝、いつものように四天王寺に早朝ウオーキングに行ったら、

びっくりするほど朝焼けがきれいだった。

うすいブルーと白とサーモンピングの鱗雲が東の空に浮かんでいた。

 

この上、どんなものが欲しいというのか、そんな美しさだった。

数字の校正

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6と9、7と9は数字の校正をするものにとっては鬼門である。

よくよく注意せねば、見間違う数字同士だ。

 

20代の頃は、すさまじい数の数字の校正をする編集者であったが、

激務で目がしょぼしょぼだったにもかかわらず、不思議とミスのない仕事をしていた。

 

ところが、である。

PCのメールに記載されていた27日の約束を29日と間違えて、スケジュール帳に記載してしまった私は、

昨日27日、「NO SHOW」の失態を演じてしまった。

明らかに、手元の字がぶれてかすむ老眼のせいである。

 

老眼は激務にもまして、厳重注意が求められる前提条件であることを思い知った、秋の日。

 

ある日の風景

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素敵なお食事の風景。

株主総会風景.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちらっと小さな子供も写っていますね。

大人5人、乳幼児が2人という編成ながら、

弊社株主総会です。

不思議な会社ですね。

目が腫れて

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朝起きたらなぜか右目が腫れていた。いやはや。

土曜でも開いている眼科が家の近くにあったので、朝一番に行く。

伝染性のものではないと聞きほっとする。

明日は、株主総会で乳児幼児にお会いするのであるから、菌は禁物。

ちなみに、株主総会と乳児幼児という不思議な組み合わせだけれど、事実は事実。

 

さて、訪れた病院の不思議さは眼科・形成外科・整形外科という組み合わせ。

目を治療したり、矯正してよくすると、そういえば顔のアラも気になるわけで。

「視力にあっためがねかけたら、しみしわだらけで、がっかりしたわ~。」

って、昔から近所のおばちゃんが言ってたっけ。

ならば、どうぞとばかり、ここの病院ではレーザーでしみとりもできちゃう。

なんと。

 

女医さんが診療するうすピンク色の病院は、

医療のショッピングバスケット(?)がよくよく洞察されていたものでした。

 

ふてぶてしくない太陽

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ここしばらく日課の朝の散歩。

夜明け前に家を出て、歩いているうちに夜が明けていく。

 

夜明け前は暗くて寒い。

日の出ともに少しずつ明るく暖かくなる。

 

そう、もう夜明け前は寒くなる季節なのだ。

あれほどふてぶてしく憎々しかった太陽が、

秋になって、妙に距離を置いて楚々としているようすが、

過ぎてゆく季節の流れを感じさせる。

クリームの予感

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台風が過ぎ去ったあとは、冷たい風がすうーっと頬をなでる。

今日は、会期終了が迫った大谷美術館の絵本原画展を見るために、香櫨園までやってきた。

夙川沿い、大阪に比べると、確かに肌寒いのである。

 

ああ、乳脂肪比率の高いクリームが恋しい季節になってきた。

確実に肌寒さと比例する、この感覚。

最初にクリームソースが恋しくなるときは、なぜか

家庭でつくるぼんやりしたクリームソースでなく、

リストランテの濃厚クリームソースで秋本番を確かめたい気がする。

大きな台風

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ゆっくりと大型化した台風が、

日本列島をなめるようにすすむ。

 

なめるような進路は、確率的にありえることだとするならば、

今回は仕方がないとしても、

どうかやさしくなめてくれ。

原発の上は、少し浮かせてなめてくれ。

 

虫の声が響いています。

もう秋、というかやっと秋ですね。

さてさて秋らしいことでもしてみようかと思いを巡らせてみると、

珍しく先取りしていたのは、「ひやおろし」をいただくことぐらいだったりする。

日本酒がおいしい季節になりました。

身を束ねる

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秋のトレーニング開始と称して、最近、早朝ウェイトをつけ、四天王寺境内を歩いている。

ウオーキングコースとなっている境内は、ウオーキングをしながら早朝の参詣をされている人が多くて

不思議な風景である。

 

いや、そもそも参詣の場所だから当たり前といえば当たり前の話なのだが。

 

さすがに総本山だけあるから、本堂だけでなく、太子堂、地蔵堂、大黒堂、弁天堂、さらに、そここに普賢菩薩やら、如意輪観音やら、とにかく

お祈りする対象に事欠かない。ウオーキングでたどり着いては、お祈りして、また次にすすむ。

 

最初の数日間は、参詣でなくて、ウオーキングに来ているのだから、と手を合わさなかった私であるが、

なんとなく、折々に手を合わせていたら、最近は気持ちよくなってきた。

 

なぜだろうと考えて、ふと思いついた。

 

ああ、そうか。

祈るということは、祈る内容というよりも、祈る動作に意味があるのだ。

認識でできているものが自分というものならば、

その認識は日常生活においてはあちこちに散らばるのである。

それがあまりにも度を超すと、いつまでも「有漏有漏(ウロウロ)」ということになるのだが、

そうならないように、認識を一つに束ねるのが、祈ることの根幹であろうと。

身体の前で手を合わせるのは、身体を一瞬結束しそこに意識を集中させるため。

そこで、一足飛びに「無漏」とはならないが、少なくとも、

「有漏有漏」とならないように、

束ねられた結束感を身体にしみつけるためなのだろうと。

 

合掌。

 

無漏と有漏

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心を亡くす忙しさから、抜けて読みたくなるのは唯識の本。

今日、その愛読書をひもといて、印象に残ったことを日記代わりに。

 

ウロウロする、という言葉を使ったりする。

この語源は「有漏」で、「無漏」の反対語。

で、「漏」とは煩悩の異名という。

なので、「無漏」とは煩悩のないこと、

「有漏」とは煩悩のあること。

「ウロウロする」を、「有漏有漏する」と書いてみると、

煩悩だらけで定まらない様子を表すことになる。

 

思えば「ウロウロする」ことが多かったような気もするが、

それは煩悩のせいなのだ。

 

「有」ということに価値をおいてはいけない。

「無」ということに価値があるのだ、と

当たり前のことに気づく朝。

 

 

 

101個の用事

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朝食を用意し、洗濯を2回して、メールをチェックして返事をし、娘のお弁当をつくって、

掃除をし、もろもろ片付けをして、適当に昼を済ませ、贈っていただいた本を読んで、今午後三時前。

 

先ほどから、滝のような雨が降ってきた。

 

今日は何をしたの?と聞かれたら、本読んだ、としか答えられない。

家事とはなんと数えにくい、ぼんやりした仕事だろうか。

 

家事を仕事とカウントすることにシバリをかけて、それに苦しんでいた自分を

解放しようと決めたはいいが、どう数えた方がいいかわからない。

モジュールに分解すると100ぐらいはあるから、ふつうに家事をした日は、100からカウントしよう。

 

スコールみたいに降ってた雨が、やみそうだ。

もう少し片付けよう。

 

100個の家事と1冊の本、今日の仕事の数は101個になるかな。

「想定外」の終了

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想定外の地震に津波で「想定外」があまりにも大きいことに衝撃を受け、

同時に人間の考える「想定内」のちっぽけさに少しは気づいたのだろうか。

先日の大雨による川の決壊や土砂崩れの災害も、

「想定外」の出来事だったのだろうが、

このことばがあまり使われなかったように感じ、

使われているのを耳にしたときも、どことなく、話し手の使い心地が悪そうだったのは、

広く世間に行き渡ったそんな気づきの影響かな、と思ったりして。

 

おばかの認識

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何かに心と囚われ、柄にもなく必死に考えてしまうと、

限りある私の脳のCPUは使い尽くされ、

あとはカスである。

カスな日にちを数日すぎると、

世の中が変わっている。

 

ま、はやくいえば、カスな日にちを数日過ごしている間に、

カスではない事象が起こってしまったら、

私の存在は、自分で認識せぬままゼロとなる。

 

自分で意識していないということが多いほど、

民主主義が徹底されていない、ということになる。

タテマエでなく、ホンシツ的には、

ミンシュシュギ以前の国がここにある。

往復書簡

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多田富雄と鶴見和子の往復書簡が書籍化されたものを読んで、

その内容にずいぶん刺激されたのだが、

あとがきで、「往復書簡」とはいっても、鶴見和子からの書簡は「ビデオレター」であったことに驚いた。

腹筋から出る声、と多田富雄が評した鶴見和子の声はどんなのだったろう。

語られた明快な論旨を確かめるべく、思わず、もう一度読み直してしまった。

 

あの時代に留学を経験して英語も堪能であった鶴見和子は、論文を書くときまず英語で書き、

そして日本語にするというプロセスであったが(このパタンは留学経験があり、グローバルで

活躍しようとする人がよく行うやり方))、この方法では、どこまでいっても単に借り物に過ぎないと

後年強く思い、まず、内容についていくつかの短歌を書き、それを再構成したそうである。

実弟鶴見俊輔が、水俣研究以降の鶴見和子を評価しているのもそういうところから来ているのかもしれない。

 

どこに到達するかわからず、ハンドルの遊びのように思える教養が、のちのち独創の扉をひらく。

 

 

 

 

底打ち

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絶望で終わる映画を作っていた監督が、希望の種を描かずに映画を撮れなくなったという。

それは震災があったからだ、という。

現実世界で絶望の底打ちがあって、フィクションの世界を創るならば、もう上にあがるしかない、と、心に決めたらしい。

 

そうだったのか。

 

数々の作品が世の中にあるが、作者がもうこの世にいないものも多い。

希望を感じさせる明るい作品の背景について、あまり考えてみたことがなかったが、

そこにも作者の底打ち感があったのかもしれないと思うと、

一筋の史実が、なまなましく思えてくる。

 

ロンドンオリンピック

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なでしこジャパンの試合が明日に迫った。

10代の選手が多い北朝鮮とどう戦うか。

身体の大きさも似ている。

若い自分と戦うような厳しさがあるに違いない。

ぜひ、勝って欲しい。

秋の風

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あっという間に、

秋らしくなり、気持ちよくなると思ったら、

それにしても、

台風の被害甚大。

 

 

要領の得ない現場

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早朝からはす向かいのマンションの外壁工事のための足場組が始まった。

足場を組むための金属音は致し方ないとして、朝から罵倒しづづける人間の声。

二杯目のコーヒーはただ苦いだけで不味かった。

 

ふと見ると、作業責任者とがおぼしき人物が「要領の得ない」作業員を、

「要領の得ない」指示で罵倒し続けている。

罵倒され続けている作業員に目をやると、たしかに、身体の筋が通って折らず、

手元もおぼつかない。

罵倒されるのもさもありなん、

そう思った瞬間、なんとその作業員は、足場に使う金属のポールを

手をすべらせて4階の高さから地面に落とした。

けたたましい金属音が近隣に鳴り響く。

通行人がいなかったのが不幸中の幸い。

それにしても、ああ、危ない。

 

「要領を得ない」指示の下で、「要領を得ない」人間が動く、この組み合わせ。

危険を孕む現場で、まともな仕事などできないだろう。

とにかく、はす向かいのマンションにはしばらく近寄らないようにしよう、と思い、

娘にも注意しておこうと心づもりする。

 

それにしても、この組み合わせ、どこかに似ている。

 

原子力発電所の事故の処理、

今まで人類が経験したことのない現場作業だらけだと聞く。

ならば前提として、作業の指示は「要領の得ない」ものが多くなるに違いない。

 

さらに、

被爆の限度が決まっているゆえに、原子力発電所では、表向き上、

真の「熟練労働者」を生みだすことができないということが言われてきた。

よって、この現場では作業員にとっても常に「要領を得ない」作業が前提となる。

 

要領を得ない指示と要領を得ない作業。そういうものの危険は、日常レベルならば

簡単に察知して避けようとする自分だが、

もっと大きな枠組みで避けようとすると、ただただ非力な自分がいる。

 

巨大システムとして生み出された危険に対しては、結局、

ひとりひとりの人間のレベルでは、マンションの足場工事をさけるように、

「遠巻きにする」ほどの危機管理しか方略がなく、

なにか本質的なシステムを構築して対抗する用意がないというのが現実である。

 

「危機管理システム」をということばが、どこまでも虚ろに感じ、

それを誰にどんな風にまかせてきたかということに、心が曇る朝。

 

 

 

 

 

帰宅して

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家の中を見回してみると、

なんだか、いるのかいらないのか明確でないもので埋め尽くされている気がして、

全部リセットしたくなる。

 

リセットしたいのは、家の中ではなくて、自分の心の中なんだろうと思って、

いきなり掃除機などをかけてみる。

人のことを気にせず、

多くを求めず、

ちょっとたのしいことと、ちょっとたいへんなことが、

織り交ぜておこり、

それも気がついたらなんとか日々が過ぎていく。

それってとてもしあわせなことなんだろうとおもう。

 

今、これを書いている環境もかなりふしぎなんだけど、

わたしの場合、ちょっとしたふしぎさがブレンドされているのが、

さらに、うれしいではないか。

 

 

スティーブ・ジョブズの声明以降、彼の名言集やスピーチをSNSにアップする人々が多く、

つい私も幾度となく見たスタンフォードでの彼のスピーチをまた見ることになった。

その中で、彼が死について語る中で出てきたフレーズを、

今日のブログのタイトルとした。

 

はじめて気づいたが、

こりゃすごいインサイトである。

 

人間、

死について考えない人はいないだろうし、

死後の世界が、地獄ではなく天国(に近い桃源郷のような場所)であることを望む人は多いだろう。

しかし、ひとびとが天国についつい思いを馳せ、

宗教が死後の世界を美化しようとするのはどうあっても「死ぬのが怖い」という人間の本質から来るものである。

それを「死ぬのが怖い」、ですまさずに、

それを、「天国に行きたい人でさえ死にたくない」と言うこの人のすごさ。

 

鶴見俊輔が、1998年の9月、おそらく75才のときに記した語録、

 

「自分の死体を自分の足もとに

おいてながめることができる

ようになった。こどものころ、

若いころにできなかったこと。」

 

おそらく、

ジョブズは、若くして癌の診断を受けたときに、

鶴見俊輔のような境地に至ったのではないかと思う。

 

そして、ころがしてみた自分の死体を眺めながら、

天国に行きたくても死にたくない、と思ったのだろう、

と妄想してみる。

 

「そのように表現されたときにはじめて輝きを放つ当たり前すぎる真実」というものがある。

生と死と天国と。

誰もが考えるこの3つをそんな風に結びつける彼のありように、

常識、プライド、過去の栄光をいつも反古にできる、強靱さを感じる。

 

聴衆の前で、見えない自分の死体を横に置いて、未来を語るジョブズ。

どちらのジョブズが真でどちらが虚であるかなんて、

誰も決められない。

 

 

水底の底

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仕事にも人生にもおそらく役に立たない私のブログを読んでいただいている方がいらして、

一ヶ月ほど、更新していなかったのでご心配をおかけしていたようである。

本当に申し訳ない。

 

というのも、ここで書かれている内容は、直接的には私の仕事とは関係のないことばかりで、

むしろ、わたしという人とわたしの仕事を直球だけで理解したい人には、

「そんなこと思いながらやってんの」と退かれそうなこともあるだろう、と思い、

更新なし状態もそれはそれでよいのかと思っていたのである。

でも、そうでもないらしく。直球である必要はないようである。

 

仮に甕のぞきがあれば、そこに見える底が本当に底なのかと思って、

つい目を凝らしてしまうのがわたしという人である。

 

科学的とか論理的とかいう言葉を頻出させる人の思考の地平線がびっくりするぐらい近くにあったら困るなと思い、

ついついその人の言うことと地平のありかについて、諸々観察を平行して走らせることばかりしている。

 

それは何のためか。

 

おそらくわたしが、

遠くに行かなくても遠くまでいける方略のオプションに思いを巡らせ、

結果的にその方略を使っても使わなくても、使える状態にあることを確かめたい「雌」だからなのだろう。

 

でも、ここ最近の日本、私がその手の方略を、実際に使わずに済む幸せのままに往生できるとも限らない、と思っている。