2011年5月アーカイブ

同時代性異次元のなやみ

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きれいな空気を吸えることなのか、

今日一日とすこし向こうの未来まで、ご飯が食べられそうなことなのか、

来年について思いを巡らすことが辛がらずにできるのか、

 

今の地位を守れるのか、

お金の積み上げをイメージできるのか、

明日の地位と、お金の積み上げが現実味を帯びているのか、

 

同じ時代の同じ一日を過ごしていたとしても、個々人の悩みはありとあらゆる面について、

てんでばらばらで、主観的にきわめて深刻なありようで存在するようだ。

 

 

伝版の会

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今日は久しぶりの伝版の会、である。

重すぎる腰をあげて、これを組織化しようとしている。

いくつかの活動は始まっていて、それを息長く、系統的に続けるには、

組織が必要なのだ、ということはずいぶん前にわかっていたのだが、

要するに、腰が重すぎ、別のことで手一杯だったので、

いままで流していたのだ。

 

いや、でも、もとい源流に帰ろうとしているから、それでいいのだろう。

と、深刻ぶって書いているが、中身は楽しく、なごやかで、わくわくするものだった。

 

で、この際、いろいろと冷静にふりかえってみると、

気をつけていても、術後、すっかり体力が落ちてしまい、それによるロスもゆゆしき問題になっていることに気づかされた。

無理をしすぎない範囲で、 身体をもう少し動かそうと思う。

 

ストレートコーヒーそのまま、パンチのあるコーヒーゼリーを口に含み、

仲間と過ごす、恵比寿の喫茶店併設会議室「貴賓室」の午後。

コーヒーゼリー.jpg

そういうときもある

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いつも、ハイテンションじゃないといけないとか、

高いモチベーションを保たなきゃいけないとか、

そういうもんだと思わせるために、かっこいい魔法をかけてみせようとする人もいるけれど、

私はそんなの信じない。

 

それを保っているように見せる背後には何かの犠牲がある。

 

ひとつのペルソナとか、ひとつの成功原則とか、声高に言ってみるものの、

そういうものが透けて見えて、ウソ臭く思えるのが、

ソーシャルメディアに対して、平均的リテラシーが高くなった世界だろう。

 

ちょっとダウン気味のときもある、ということを見通せて、

それなりに対応できるってのが、おとな、っていうもんだ。

 

 

 

 

ある、いびつさ

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何が王道で、どうなれば邪道なのか、

どれが主流で、どこが傍流となるのか、

きっとここ数年で、「王・邪」、「主・傍」の定義が大きく変わるにちがいない。

 

生き延びるためと好奇心ゆえに、いずれの道にも歩き、いずれの流れにも漂っていた私は、

さらにその調整に注意を払いながら、じぶんといういきものの「けものみち」をたどっていかなくてはならないだろう。

 

じぶんの中の何かが変だ、と思って、

ここしばらく、徹底的に自分を俯瞰していたのだが、自分に巣くう、あるいびつさに気付いた。

 

「怖畏あるときは空観せよ」と空海。

 

俯瞰して見えた、このいびつさが元凶だな。

なにかが異常発生して、しこるのである。癌のように。

 

きっと、心情深くでは適応能力がないくせに、表現系としての適応能力が高いせいだろう。

ゆえに、生き延びることができてきたし、その結果いびつになる。

牡蠣の殻のように。

 

「海からのおくりもの」で、牡蠣の殻と自分のありようについて考察したリンドバーク夫人のように

あるいびつさ、と、どのようにつきあうか、が根本テーマである。

始動

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自らが被災者であった阪神淡路大震災よりも、

単なる量的な被害比較を越えて、

ある意味で、今回の震災の方が、こころにずしんと響いている。

 

なにかの前提が損なわれた感が日を追うごとに増してきて、

自分の根本を揺るがす。

 

前提をもう一度見直して、やりはじめるのだ。

地縁

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同じ土地を知っているという人とは、ある種の言い難い「地縁」を感じることがある。

折口信夫は大阪の木津の出身で、娘が通う中学校の先輩にあたる。

古くからの渡来人である秦氏の流れをくむ天王寺楽人や舞人が四天王寺に舞楽を奉納するために、

集まり住んでいたところが、私の現在の住処である。

 

なぜ、折口信夫が、天王寺界隈という古くからの都会の真ん中に育ちつつ、古代に思いを馳せ、精霊と交信しようとしたのか、

ふと気になって、ずっと前に読んだ本を読み直している。

なかま

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すてきななかまとひさしぶりにあって、

たくさんわらって、のんで、たべて、

ああ、いきててよかったとほんとうにおもう。

 

なにがやくにたつとか、なにがすごいとか、もういいんじゃないかとおもうしゅんかん。

こういうひとときが、あと、わたしのじんせいに、なんかいおとずれるのだろうか。

 

がれきと梅雨

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被災地ではまだまだ、がれきの山がある。

こわれたもの、濡れたもの、

気をつけて片付けないと、怪我をするし、衛生面でも心配だ。

 

まだ、お天気がいい日が続く季節だからいいのだけれど、

今年だけは、梅雨がなければ、と思ってしまう。

 

阪神淡路大震災のち、阪神高速湾岸線沿いの焼却場ではがれきの山が連なり、何ヶ月も、それらの焼却が続いた。

高速道路を通る度、いったい、いつ、これが終わるのか、呆然としたものだが、

今回は、まだ山にもなっていないがれきがたくさんあると聞いている。

 

がれき、と聞くと、なんともいえないあの焼却のにおいを思い出してしまうが、そこにも至らない状況に思いを馳せると、複雑な気持ちになる。

 

 

おやすみ

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自分で仕事をはじめてからというもの、なんだか、すっきり「おやすみ」というのが難しくなって、

ごちゃごちゃと頭で考えがちなのであるが、

それも善し悪しである。

 

連続することと非連続なものをうまく使わなきゃ。

というわけで、今日は、土日、集中的に仕事をしたので、おやすみすることにした。

 

ていねいにコーヒーを入れるとか、

やさいのポタージュを作るとか、

画集をぱらぱらめくるとか、

はなはだお籠もりのおやすみであったが、

気分転換にはぴったりであった。

 

また明日!

 

むしょうになにかをしたくなる

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「むしょうになにかをしたくなる」「知らず知らずのうちに何かをしてしまう」

そういう、いわば、認識と感情と身体反応が「合」となる場に引導する、「人間のけもの道」のような回路をさがしあて、

そこにお金をいただくルートを架設できれば、新たな分野だとしても、ビジネスとしてはかなり成功する可能性が高くなるのだろう。

 

土日は、その手の仕事で一日を過ごした。

 

それはそれでいいとして、

自分のしたい分野と、得意な分野をどう融合するか、ということを同時に考えすぎて、

「下手な考え休むに似たり」、になっているな、と反省。

明日は休もう。

 

楽しい仕事

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肩の力抜いて、仕事をすることは不謹慎だろうか。

人がどう思うおうと、ごきげんに自分の歌をうたおう。

術後検診のために訪れた病院脇、人にはほとんど気づかれないような日だまりに、

手入れされた小径。

小さくてもうれしい出会い。

 

五月の小径.jpg

石楠花

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黄色い家の近くで今年も石楠花が咲いた。

しゃ・く・な・げ、である。

5月の花②.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんだか、でかでかと派手派手しく、臆面もない花である。

こういう人って世の中にたまーにいるよな。

うん、こういう人、嫌いじゃない。

不義理

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ジャグリングを続けてこそ成り立つ生活というものも、

空中に浮いているはずのクラブやボールが、もう目の前を通り過ぎていたり、

床にころがっていたりして、

ジャグリングの体をなさなくなっている。

 

見たくもないが、そこここに不義理もころがっているようだ。

 

ああ、もうこのタイプのジャグリングにはもう対応できないんだろう、とハラをくくり、

じゃあ、どうやるか、を、「ジャグリングしながら」考えなきゃいけない。

 

ここで一度、ジャグリングをやめて、すべて置いて考えるという手もある気もするが、

いったん置いてしまうと、どのような方法を編み出しても、二度と空中にオブジェクトを投げられないような気もする。

 

できることの組み合わせとありようを、動きながら考えなきゃ、と思っている自分にそもそも限界があるのだろうか。

体内余震

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今日は朝からやたらに細かい地震が多いなと思っていたのだが、

地球が揺れているのではなく、自分が揺れていることに気づいたのは、

それが激しくなった昼頃。

 

ああ、しばらくぶり。

連続めまいだ。

 

昼から開店休業し、さきほど、復帰。

 

空を見上げれば雲ひとつない、青い空だった。

こんなに素敵な陽気と不調な自分とのズレを、

繰り返し感じていれば、

少しはひとに優しくなれるだろうか。

 

 

 

原点に戻る

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最初、なぜこれをはじめたのかが、あたりまえになって、ぼんやりしてくる。

いや、あたりまえなのか、思うよりむずかしいのか、

きっと、ここが、「ためどき」なんだろうと思う。

倦まずに、耳をそばだて、目を澄ませて、まずは静観しよう。

 

赤く燃える大阪城

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今日から大阪城のライトアップ。さすがに見に行けなかったが、ニュースで報道はされていた(赤い大阪城)。

大阪は赤でいいのだ、派手でいいのだ、にぎやかでいいのだ、と思う。

え、なんでなん?とつっこみを入れ、

そんなのおかしいやん、と異議申し立てをする。

KYじゃないかと怪訝な顔をさせる前の一打。

 

国の中心じゃないからこそできること、きっとある。

 

 

若冲の蓮池図

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蓮池図。

虫食いの穴の空いた葉が、ぶらさがるように枯れ垂れかける寂れた水墨画。

印象はただただ寂しい。

しかし、よく見ると、朽ちかけた蓮の後ろ向こうに、小さな白いつぼみがすっくと立っている。

 

(この蓮池図、リンクしようと画像を探したが見つからず。)

 

小さな白いつぼみは、小さな希望なのか。

希望はよく見ないと見つからないものだ。

国芳の視点

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歌川国芳展に行ってきた。いや、ほんと、勉強になった。

特に、グラフィックデザイナーは、今のトレンドなんか追っかけるよりも

江戸の歴史と風俗をきっちり勉強して、同時に、国芳が何にチャレンジしたか、を確認していったほうが

よっぽどいいと思う。

構図の完璧さとユーモアと諧謔と風刺がつまったスーパークリエーション。

 

禁令ぎりぎりのクリエイティブチャレンジ、国芳はロックなのだ。

版元と国芳のチャレンジ、今の時代のマスコミとクリエーターよりも、

はるかに高級じゃないか。

野晒悟助.jpg

Bettina Rheimsの魔法

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ベッティナ・ランス写真展「女神たちの楽園」、東京都写真美術館B1で見てきました。

この日曜まで。おすすめします。

 

ホントのこころ、とか、ホントの気持ち、とか、ホントの自分などという、ホントに還元的しようとする考え方は大嫌い。

むしろ私は、還元しきれないぼやっとした塊があって、それが状況即応的に表現系を変え、その表現系の分散が、ある範囲にある、という人間観を持っている。

被写体の多面性を認めて、その中から、「ある部分について」根源的な一つを切り取って独特の世界を構築するランスの視線や手法に、どこか共感するものを感じた。

 

自分を出す、ありのまま、と評される表現であっても、それは表現なのであり、そこに常に演出が込められる可能性がある。

ありのまま、を表現以前の還元物として、かつそれらが固定的であることを臨むのは、効率的にその対象を攻略したい奴らが考えることである。

「奴ら」には、いろんな顔があるけれど。

 

ランスは、そんな「奴ら」に、挑戦しているのだ、きっと。

ベッティナランス写真展.jpg

 

久しぶりの東京

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311に東京出張から二ヶ月。

しばらくぶりであった。

節電によって、街は確かに暗く、

いつも慣れているはずの地下鉄の出口が違うところに見えたり、

ホテルのエレベータが一機止まっていたり、

黒い服の多い街であるが、さらにその比率が高まったような気がしたり、

違う、のである。

 

どこへ向こうとしている、違い、なのだろうか。

 

 

夏の気配

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雨がざあざあ降っている。

連休中のさわやかな日々はどこへ行ったのか。

べたっとした暑い季節が、すぐ先の角までやってきた。

 

今年は、

節電のためにクールビズを前倒しにするという話。

 

そういえば、昨年、

黄色い家にまだクーラーがなく、導入しようと思った矢先、

あまりの猛暑にクーラーが売り切れ続出、

その結果、

あの猛暑の中、冷房なしで乗り切ったのである。

 

東西に風がふきぬける上町台地であるが、

さすがに、一日中吹き抜けるわけもないから、

汗だくの時間帯もあり。

 

夏は、術後療養しながらの軽い仕事のはずであったが、

現実的には術後サウナであった。

最近、代替療法として注目されている温熱療法を会社で実施、

ということにしておこう。

 

なので(それでも)、今年は元気でいる。

暑い夏の気配を感じながら、

生きている自分をどう活かそうかと思う。

さて。

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連休が終わったら、もう一年が半分終わったような気がする。

 

それにしても、

ぼんやりとした衰退への不安で始まった年は、

あまりにも大きな破壊と、目に見えない恐怖に覆われ、呆然とする年になった。

 

目をつぶって、見開いたら、すべてが元通りになっていたら、どんなにいいだろう。

歩みを進めようと気を奮い立たせようとしても、疲れる時期である。

天任せ、人任せ、現実からの逃避の時間も認めよう。

 

テレビに写るがれきの山や、防護服を着て自宅に入らなくてはならない人々の姿を見て、

そう思った。

 

 

 

 

わからない

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この2週間で、少しすっきりしたことがある。

 

それは、わからない、ということを天下晴れて言える身になったということだ。

アートなんかわかんないんだから。

わ・か・ん・な・い!

あー、気持ちいいこと!

 

でも、2週間過ぎてみたら、結構、あ、そっか、とわかってきたことも多かった。

学びはじめだから学習曲線の勾配が急上昇しているのである。

 

一方、

調査とか、マーケティングとかそのあたりのことは、下手にキャリアが長くて、

わからない、と言いにくいのだ(けっこう、言ってるけど)。

だって、日進月歩のSNSの潮流の中で、何が短期的に効率的で、

長期的に意味のあるマーケティングとコミュニケーションなのか、そのためには何をどのように調べればいいのかなんて、

実は、わからないことの方が多いのである。

でも、あんまり「わからない」と言っていると仕事にならない。

なので、FBもTwitterもブログもやり、自分の中でラーニングプロセスをしくんで微調整したりしている。

それでも、検証不可能なことが多いから、わからないことも多いのだ。

 

ある軸の設定ですでにプラトーになった学習曲線を、

別の違う軸が書いてあるグラフに移して、もう一度書こうとしている状態に近いのだが、

横軸の時間推移に対して、いちはやくプラトーに達しようとするあせりと、実際のプログレスの間に差が常に生じて、それ自体がストレスとなって進まない。

これも、だってわかんないもん、って言っていいのだと思う。

 

わかんないけど、今のところ、仮説①・②・③があるよね、っていうことが本当は求められている。

仮説に対してさえ絶対を求める相手がいるということも仮説の中に入れて、仮説として対応する。

 

わかんないから、わかる範囲で仮説を作って、それを自ら問うてみる。

きっと当座の正解はこうだろう。

カオスの街から

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アートものは大阪ではダメだと言われた。

ご助言いただいた内容をざっくりまとめると、

①アートを受け入れる素養・素地がない

②金銭的余裕のある層が少ない

③興味をひくような企画が少ない

 

なーんてことらしいが、果たしてそうなんだろうか、と思ってはじめた「igu伝のせかい」展。

私の判断はYES & NO.

非常に玉虫色だが、要するに、「価値」にうるさい地盤だから、YES & NOになる。

 

もちろん、これは投機的価値のある作品についての話ではなく(そんなの知らないし)、

私が語ろうとする価値は、

iguのような、これから売り出し中の若い作家の作品についてのことだ。

若い彼らの作品を購入いただくお客様にとって、

「価値」とは、楽しめて、取り入れやすくて、そして手頃なもの。

楽しめて、は、見るひとの好みと呼応するものだから、必ずしも、万人にとって美しい、ということではない。

どこがどう楽しめるのか、というチューニングが必要となるわけだが、

ギャラリー会場では、お客様に対する瞬間セグメンテーションの結果発動されること。

また、対象がアートだから、「取り入れやすくて」と表現されるけど、

日用雑貨の商品ふうに言うと、「使いやすくて」っていうこと。

 

なーんだ、基本はどんな商品(投機ノゾク)でも同じなんだね。

カオスのような天王寺、その茶臼山に現れた「igu伝のせかい」が、

終了して学んだこと。

アートだから、というわけのわかんない特殊なもの、と思うと

可能性を狭めて難しくなるんだ。

 

じゃあ

アートってなに?

概念的定義の世界にどっぷりつかって議論するつもりはないが、

操作的定義は自分なりに決め、それを実行してみる。 

ラスト2日

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土曜の今日は、ご縁の深い方々が「igu伝のせかい」展にお運びくださいました。

天気のよい土曜、いろいろとご予定があるだろうに、わざわざお越し頂きました。

本当にありがたいとおもいます。

 

自分のわがままで始めたようなあれこれが、

わがままを突き抜けて、どこかみんなの願望とつながるところまで、

少しずつ、進められたらと思います。

 

 

 

 

連休の狭間

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ラスト二日の連休を前に、ぽかんと平日金曜。

お休みの人は遠出しているだろうし、仕事している人はしている。

というわけで、街の人通りは少なく。

 

そんなわけで、ギャラリーへお越しの方々と、ふだんより、ゆっくりお話させていただくことができた。

これはこれで貴重な経験である。

みなさまのiguに対する感想、評価はおおむね共通していて、

要するに世界観がはっきりした作家だということを、改めて思い知った。

 

あとは、これをどう深め、どこに広めていくかだ。

 

作家のプロデュースなんて、専門じゃないし、やったことないけど、

「何が強みとなる特徴なのか」ということに焦点をあわせつつ、

アートの世界のありようを意識はしても制限は置かず、

専門じゃないからこそ、できることをやろうと決めた。

こどもの日

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年寄りばかりの世の中。

こどもの日は、子孫にどういう世界を残すのか、

いい大人と年寄りが真剣に考える日にしてはどうだろう。

 

もう学校に行く必要がなく、

少しの才覚があれば、限られた世界でなんとか生きていく術を身につけ、

その術の老練さと、視野の広さを引き替えにしてきた黒い取引を認めることもなくやり過ごすことにたいして、

少しでも良心の呵責があるのなら。

 

どうしてこんな世の中になったのか、ということについて、十分な事前情報がなく、

偉そうな物言いができない子供たちを前に、やすやすとごまかす者たちによる自省のために。

他流試合

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寺町にあるギャラリーに訪れる人は千差万別で、それこそ作家から一見さんまで、とりどり。

そのときどきでお話をさせていただくのだけれど、場はまったく他流試合である。

 

2週間にわたるigu伝のせかい展も残すところあと4日で、なんとなく頭の中では今回のレビューが

始まっているのだが、気づきや反省を思いつくまま羅列してみると。

 

①自分の視野が狭かったな。

②力のある人は、目の奥から光るな。

③自分のやっていることを発信したい人は多いな。

④人が惹かれるものというのは、共通点があるな。

⑤土地の力、というのは大きいな。

⑥何をやっている人かっていうのは、透けて見えるな。

⑦作品は人と人とをつなぐんだな。

 

なーんて感じで、自分の生き方がまた、問われた感じがしている。

あしたはこどもの日。茶臼山ギャラリーでひとふでんずワークショップをやる。

たのしみ。

 

 

 

 

赤いクツカー・赤のちから

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igu伝の世界展で、正面にど~んとあるのは、赤いクツカー。

大きいから赤の面積も広い。

 

赤をたくさん目にすると人は、なぜか特別な気分になるのだろう。

みなさん、入ってくるなり、目が見開いて。

 

花の色だから、麗しく、

血の色だから、おぞましく、

いつも、接近・回避の緊張のただ中にある色が赤。

 

この「igu伝のせかい」展開催の2週間、

人が左脳でつべこべいう前に反応してしまう要素について、

刺激そのものという視点で、人の反応を観察・思考してみる期間でもある。

泣きたくなるぐらいのいい天気で。

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本当にきれいな五月晴れだ。

いのちがかがやく、ということばにふさわしい陽光。

 

こういうかがやきをうけとめる存在でありつづけるには、

どうしたらいいのだろうか、と考える。

きっと、いのちがかがやくことを信じることだ。

かがやきは損なわれたり、失せることもあるが、それを取り戻すことはできると信じることだ。

 

朝から快晴の今日、

ナショナルジオグラフィック、東日本大震災の動画を見て泣いた。

たくさんのかがやくいのちが失われたことに泣いた。

 

80年代に学生時代を過ごし、バブル真っ盛りで育ったわたしは本当に馬鹿な学生だった。

たくさんのエネルギーを使って、消費し、浪費することがもてはやされ、

それを可能にする、地位やお金を早く得るよう動機づけられた。

その前の世代がもがいたような、知性がよってたつ場所への思索がないまま、

お金でまわる社会からの要請をはやく身につけ、経済活動に従事し、

消費し、浪費し、それらを誇示する存在になれるよう努力していた。

すべてがまちがっていたとはいえないが、完全に思慮の欠けた努力である。

どういうものに依拠して、知性を発動するか、ということが問われず、求めようともしなかった愚鈍な時代。

 

そういうわけで、我らの世代は、ひときわ馬鹿で、その因果が今のフクシマにあらわれている。

 

泣きたくなるぐらいのいい天気だ。

 

「秤に載せて、

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まだ揺れが止まらないうちは目盛りを読むことはできませんよ」

                       宮部みゆき・『龍は眠る』

 

実際、揺れは止まっていないし、目盛りを読もうにも針が振り切れているし、

読めずともそのことを知らしめる人がそこにはいない。

 

かなりはなれて伝える人だけがいる。

つくった、つぎはいだ、選んだ数字だけで。