鎮魂の場

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今日は、逢阪伝耕分室より一心寺を臨む花見。

この時期に亡くなった姑が眠る寺で、今年も桜が咲いた。

夙川の桜、芦屋の桜、六甲山の桜、どれも好きだが、

寺町の桜は生と死のかかわりをダイレクトにつなげてくれるからことさらに感慨深い。

一心寺参道の桜.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨日土曜は、かつての住処、夙川芦屋あたりを歩いた。

センスがよく、上品にまとめられた 街は、気持ちのよいことこの上ない。

しかし、当然ながら死の影はなく、鎮魂の場は隠されているかのようだ。

いつの間にか、私にはそれが物足りなくなっている。

 

そういえば、

山がちだったあのあたり、私が幼かった頃は、アスファルトで舗装されていない道も多く、

あちこちにいろいろな生き物の死骸がころがっていて、それを見るたびにどきっとしたものだが、

今ではもうそんな光景を見ることもない。

 

順風満帆とはいかない人生を歩んでいくには、

死の影を認め、それを鎮魂するための場が街に用意されていることはとても重要なのだ。

さらに、鎮魂の場は隠されず、にぎにぎしく扱われることによって、人はどこか安心するのだと思う。 

安心したいから、そういうところには大勢の人が集まる。

一心寺の例を見れば、一目瞭然である。

一心寺には、人骨でできた、骨の佛=「お骨佛」というおどろおどろしく聞こえるものが、

にぎにぎしく祭られており、たくさんの参詣者が訪れる。

 

その意味で、内田樹氏が提唱する「うめきた大仏」には、真剣に賛成である。

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