2011年4月アーカイブ

日記

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ブログは日記だ。

「活用法」なんて下心満載のありようも勝手だが、基本は公開日記だ。

公開日記のいいところは、一応、公開だから、意味がわかる日本語で書き残そうという

自分なりのシバリ基準が満たされることだ。

非公開日記ならば、なんとはなしに張り合いに欠け、毎日は続かないだろうし、ミミズがはったような字で綴られ、

意味不明の文章となるに違いない。

 

それに対して、ちょっとは体裁を整えなくてはならない公開日記は、よそ様には価値がなくても

自分の記録としては最低限の客観性が保たれて、しばらく日が経ったあとのレビューにも耐える。

 

昨年の今日は、乳癌検査手術入院の退院翌日。

たしかまだ傷の跡が痛む胸をきつく巻いて、奈良、薬師寺に行き、

修復前の東塔を前に思いを馳せていたのだった。

 

修復後は生きているのだろうか。

修復の終わった10年後にまた来ようねという約束が、

申し訳ないけど、少女っぽく感傷めいて、ばからしく感じたことを強烈に覚えている。

 

だって、生きてるか、死んでるかわからないんだから。

会えないかもしれないのである。

だからこそ、今、ここにいるんじゃないの。

10年後、会おうなどと、安易なことを言うな、

そう思った、たしか去年は。

 

今年も、その心持ちに基本、変わりはないが、

会えないかもしれないしね、そのときはそれなりによろしくね、とやさしく言えるのだ。

具体的に、誰が、というのでも、どういう事情によって、でもなく、

人生、いろいろなことが起こるから。

 

日記による自分レビューが少しできるぐらい、ブログがたまってきた。

まずはそれができたことに乾杯。

重低音で、被災地のことをずっとおもいながら。

ご縁

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iguに会ったのは、2年前で。

紹介されて、ピンときて。

会ってみたその場で、発想カードのお願いをして、

描いてもらって、

プチ展覧会して。

東京まで行って。

そうこうしているうちに、

伝紋ワークショップのコーディネーターをしている古島君に紹介されて

あんりちゃんがやってきた。

あんりちゃんたら、わたしたちがiguにであう前からファンだったらしく、

すなおに降参してあんりちゃんにも手伝ってもらって、

そして、待望のigu伝のせかいができた。

あ、そういえば、昨年の今日は、結局、クロと出た乳癌の検査手術翌日だった。

生きているって面白いね。

 

きょうも、クツカーにのりにいこう!

 

ご縁、なのである。

死んでも、これをソーシャルネットワークなどとはよばない。

勉強

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展覧会なんかすると、いろんな方々に来ていただける。

どういう方かは存じ上げないが、

そのときお会いした第一印象をもとに、阿吽の呼吸で

お話させていただくこと自体が生きた勉強である。

パワースポット近くの茶臼山画廊、とにかく訪れるひとがさまざまで奥深く面白い。

今までお話したことがないような方と出会ってお話ができる。

 

すごいことだなあ、としみじみ思うのである。

ありがとう、iguちゃん。

「igu伝のせかい」展二日目

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「igu伝のせかい」展、二日目、である。

なんと言ってもエントランスを入ると、こんな感じなのだから、みなさん、目をむいてたたずんでらっしゃる。

巨大クツカー登場.jpg

 

 

さわっていい?

もちろんです。

えっ、これ、どうやって作ってるの?素材は何?

○○△△××○△×. ..。

(会場でご説明します)。

 大きなクツカーで、被災地まで行きたい!

どうにかならないかなあ...。

 

会期と展覧会場はこちら。 

5月2日(月)はお休みの予定でしたが、オープンします!

お待ちしてます!

igu伝のせかい展:どうぐ

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というわけで、なぜか、バーベキューコンロなのである。それもUS、WEBER社のスモーク機能付きの赤いヤツ。

で、なぜか、こういうものが、伝耕逢阪分室の屋上にある。

不思議なことに、伝耕逢阪分室は、家が黄色いだけでなく、壁も黄色い。

さらに、すごいことに、黄色い家から茶臼山画廊はとても近いから、バーベキューコンロを引きずって移動。

今日から、「igu伝のせかい」展、開催です。

焼き印のベッド.jpg

あしたから「igu伝のせかい」です。

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直前になっての変更や、ハプニング続出なのであるが、

時計の針は待ってくれず、明日14時から天王寺「茶臼山画廊」にて、

igu伝のせかい、スタートなのである。

 

2年前、iguと私たちは、まだ出会ってもいなかったのに、ここまで来た。

 

多くの方々に感謝の念でいっぱいである。

こんな出会いとこんな手助けと。

会期中、すてきな出会いと楽しいハプニングを心待ちに。

 

集中力・好奇心・体力

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三つが同時にそろえばいいんだけどな。

最初の二つはあるが、最後の体力がない、というのが小さな頃からの私。

今は、年とともに、集中力と体力が落ちている。

 

でも、誰かの集中力を借りたり、体力をあてにすることはできる。

巻き込む、ということはそういうことだ。

 

igu伝、伝版、ひとふでんず、ちょっとお休みしている伝紋ワークショップ、

商品開発や調査のベースビジネスも今年はきちんと整備するからね。

 

で、巻き込んで迷惑だったらごめん。

でも、楽しかったら、一緒にもっとぐるぐるしようよ!

 

明日からは「igu伝のせかい」展開催、そして、伝版カレンダー2011年版もほぼできあがり、

まあ、傍目には地味だけど、楽しくぐるぐるしてます。

 

 

 

 

いいね!の反応構造

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最近フェースブックをやっていておもしろいのは、いいね!の反応パタン。

①ほとんどの人は結局分析されるものと了解しているだろうから(=前提)、

②自分が反応していいと思っているジャンルや、思想の中で(=枠組み規定)、

③その中で、じぶんがつながりたい、つながっていたいと思う人の(=ネットワーク願望)、

④ある程度以上、感情や考えが動かされた内容に(コンテンツレベル)

いいね!をするのがパターンのようだ。

 

前提、枠組み規定、ネットワーク願望、コンテンツレベルで反応パターンの予測ができそうな気がする。

ラフな仮説だけれど。

 

 

 

リスク

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311による放射能被害の長い戦いがはじまってから、

私は、自分が乳癌手術後の経過観察中の身であることを忘れていることが多い。

それどころじゃないからである。

 

目に見えない放射能が身体に与える影響をかんがえると、かならず甲状腺癌等のリスクに思いを馳せることになるが、

そのありがたくない可能性が生じる、将来ある子供の「今」を思うと愕然とする。

彼らは自ら環境を選べない。 

 

親がどのように身をほどこせばいいか、その判断が子供の将来を左右する状況になる。

リスクは低くない?、いや、やりすごせばいいかも?、とかあいまいな状況を押しつけられる母親の身になって考えてしまう。

 

私は、これまで好き放題してきたので、もういいけれど、

甘すぎる工程がすでに指摘されているから、マイルストーンがずるずる後ろにずれる可能性が低くはなく、

目に見えない放射能にさらされる危険が長期化する状況にある。

目に見えず、結果がただちに出ず、何年後ということも明確にわからなければ、

リスクを過小評価しがちな人間の合理的判断と認識の限界を見抜いて、

対策をやりすごそうとする状況から、子供たちをなんとかして守らないといけない。

 

***

 

今、何が本当かわかりにくい状況の中で、少々バカに見えても、良心に基づき、あいまいな中から正しいことを選ぼう、

とする人のプレゼンスが高くなっている。

 

すでに大小、公私を問わずいろいろな利権にからんで、抜き差しならぬ状態になってはいるが、

どこかに良心のかけらと子孫を残したいという気持ちがまだある人々は、

心の奥底でそういう存在を待ち望んでいる。

 

自分の守備範囲を決めてから、その範囲がばれないように、

ああ言えばこう言う、のらりくらりエリート種の存在価値は地に落ちたわけだし。

 

バカに見られれば、そうよバカだもん、と笑いで返し、だってあんたも間違えてたんでしょ。

さ、顔洗って、早くやり直そうよ。

パンパンと泥を払って、次に進める強さのある人が、この状況にあっては「賢い」と言われるべきである。

生き延びる知恵=賢さの発揮が将来につながるのだから。

 

お金も力もあり、バカではない孫さんの試み。

単純に賛成!、というよりも、

クリーンエネルギーの一大利権を世界に先駆けて作りましょう、と言ってみた方が、

人が群がるであろうと想定されるわけで。

 

そんな人間の限界もあわせのんで。

活版印刷メッセ

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昨日、梅田大丸に入っている、東急ハンズにて開催中の活版印刷のイベント、活版メッセに行って参りました。

活版印刷、でこぼこの感触が素敵ですね。

で、その会場で活字ガチャポン発見。 500円入れると、活字カプセルが出てくるんですね。

活字がちゃぽん.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

で、これはやってみなくては、ということで。

活字がちゃぽん中.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 でてきたカプセルがコレ。

字は、ぼけてるけど、見えるかな? 「小」でした!

切符に押してもバレるよね(笑)。

カプセル.jpg

小.jpg

つづける・たのしむ

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なにかをするときには、

それをしたいひとといっしょにやるのがいちばんだ。

 

むりにおしつけたり、おかねをちらつかせたり、ひとからえらくみられるよと、とささやいても、

けっきょく、それは、ながつづきしない。

 

ながつづきするようにみえても、

あらたな、むりのいいかた、とか、もっとたくさんのおかねとか、いまよりもえらくなれるとか、

あたらしいえさがひつようになってくる。

 

よのなかのうごきにしたがって、あたらしいえさがいつもよういされるところ、

わたしは、

もうそこにはいない。

 

4月26日からの「igu伝のせかい」では、単に絵を見ていただくだけでなく、

クツカーの立体をさわれたり、igu伝の絵の中に神出鬼没のキャラクター、

「まっくろさん」の焼き印を押すコーナー、とかを企画しております。

というわけで、昨晩、やって参りました!まっくろさん焼き印、二つ。

まずは、「やあー!」してるまっくろさん。

 

まっくろさん焼き印①.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それから、 「わーい!」 してるまっくろさん。

 

まっくろさん焼き印②.jpg

ふふふっ、明日は押してみるのだ!

岡本太郎のことば

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最近流行っているらしき、岡本太郎氏。

時代がやっと彼に追いついたのかもしれない。

 

311後に、ずっと胸に刺さったままの彼の言葉。

 

「未来なんていう言葉を聞くとゾッとする。

過去も現在も何も決定していない時に、未来なんていわれると。」

(1969年1月)

 

 

 

猿山

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世の中、「転向」ばやりだ。

 

つい最近まで、原子力推進派だったひとびとが、

「浅慮でした」と反省する。

 

浅慮であることなんか、人間の歴史が語る前提ではなかったのか。

 

猿と神を線で結んで中心点を取れば、わたしは、中心点よりも「かなり猿側」にいる。

さらに、

ものすごくIQの高いひとといえども、中心点よりも「明らかに猿側」にいるというのが、わたしの人間観。

 

「かなり猿側」にいるひとたちは、怖いのはどんどん怖くなってイヤだから、「ぜったい怖くないの?」と

自分よりもIQが高い故に、かしこいと思われているひとたちに聞く。

 

この問いに対して、かしこいひとたちが仮に「神側」にいるならば、

「いいや、すごく怖いこともあるよ」と言うはずである。

なのに、「いや、怖くないはず、怖くないよ。」と言ったのだ。

 

結局、「明らかに猿側」にいる、ただの猿なのに。

 

神ほどの能力を自負して、神のような判断が可能な存在になりきることを、

自分を崇拝する周囲の猿が、さらに自らが、望んだから。

360度客観的になりきれずにそうした。

なりきれるわけないのに。

 

望みと現実は違うものである。

その違いからひとつひとつ学ぶしかない。

 

学ぶにしても、地震の周期は長すぎたが、

折しも、地震活動期に入ったといわれる日本。

レベル違いといえども、結局みんなただの猿、

ここらで仲良く集中講義ということか。

 

 

われわれは、猿に近い猿しかいない猿山から、いつ、どうやって、どのぐらい脱却できるのだろうか。

もしくは、猿なりの限界を認めて、猿山にとどまるのだろうか。 

この国のことは好きだけれど。

 

他の国と地続きの国境がないせいかどうかはわからないが、

狭い国土の中で、

すぐに誰かを集中攻撃したり、

すぐにひとつになったりするのはうんざりだ。

そして、国外を無用に避ける。

 

端っこが海だから、なのか。

 

いろいろがんばってみることに最大限の努力をするが、

だからといって、ここだけは譲れない。

 

かつて。

現地調達というばかげた方法をとったロジスティックの甘さはどうしようもなく、

いっしょうけんめい作ったはずの暗号はすべて見破られており、

武器のつもりの槍なんかでは、戦闘機を落とせなかったわけだ。

 

今、十分に大人である人間は責任があるとして、

端っこが海だからといって、次の世代の全員がそこにとどまる理由もない。

造幣局桜の雲.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大阪造幣局桜の通り抜け。

咲いている花は空中戦の最中である。

太陽にほほえみながら、鳥や虫をどう魅了するかが問題であり、

ただ無為に散るだけが能じゃないのである。

滅びの美は、この世の役割を終えてから、の話である。

 

必要と判断する勇気は捨てずに、

桜の絨毯を蹴飛ばして、さらに遙か遠くへ。

造幣局桜の絨毯.jpg

池の泥

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蓮の花を咲かせようとしたら、葉っぱを浮かせ、茎をたゆらす水と、栄養いっぱいの泥がいる。

 

何かの折に、フラッシュバックしてくる重要な個人的な記憶があって、

それが自分の人生に与える影響の大きさに驚く昨今である。

 

咲かそうとする花にとって、それは水なのか、泥なのか。

そんなことをゆらゆらと考える金曜の深夜。

 

 

きれいな春の日

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ほんのり暖かくなった空気の中に、桜の花びらが散り、

空も青くきれいな春の日。

 

「igu伝のせかい」の展覧会準備や、期間中に実施するひとふでんずのワークショップ、

延期になっている仕事のアップデートなど、

いろいろすることはあり、仕事ははかどるはず。

 

仕事は実際、はかどっているのだけれど、

それよりも何よりも、

桜の花びらが散るこんな春の日、

心静かに取り組むべきは写経ではないだろうかと、

生まれてはじめて強くおもった。

 

 

典型

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なにか大事故や大事件が起こっても、

一ヶ月経てば、何とか目鼻がつくのが常套だったのだろう。

 

大震災から一ヶ月、と銘打つ企画がいくつかのマスメディアで行われたが、

空虚なことこの上ない。

 

何と言っても、つくはずの目鼻がついていないのだから。

典型の枠を外れる今回の状況。

 

「創造する復興」と言われているらしい。

 

創造の前提をつくるという目的のためには、

強力すぎるとしか思えない、

目に見えぬパワーをもつ破壊の神、シヴァのような存在が、

まだ、福島あたりにとどまっている。

 

おかいもの

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「igu伝のせかい」デビュー展!まで、あと2週間。

大阪は天王寺、堀越神社という知る人ぞ知るパワースポットの南側のロケーション、

昨年オープンしたばかりの「茶臼山画廊」にて、いよいよ4月26日(火)の昼下がりから、

5月8日(日)の夕方まで、どどーんと2週間、1F、2Fのフルスペースを使ってデビュー展開催。

もろもろ反省の必要なこのご時世、シニカルスタンスを忘れない一方で、

夢のある元気のでそうなこともやりまする。

というわけで、今日は、必要な材料の買い出し。

伝耕逢阪分室の玄関にアソートしてみた。

うーん、舞台落ち、ということは重々承知で、わくわくする感じ。

おかいもの.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、作家のiguはただいま、立体!作品の準備に邁進しております。

あと、バックヤードの我らはご招待状や体験コーナーのしつらえ準備におおわらわ。

なんとかいいものにしたいと思います。

達成感の喪失

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せっかく作った野菜や牛乳を捨てる。

なにかを回復しようと懸命に努力しても、それを捨てなくてはならない不条理。

根本的な達成感をそぐものだ。

穴を掘って、その掘った穴を埋める、ということを強制することが拷問となるように、

人間は達成感をそぐ繰り返しの中で、少しずつ壊れていく。

 

ほんとうに、それは必要だったのか。

補助金やスポンサーに「配慮」して、簡単に疑問を呈することができない社会は、それ自体非常に危険を孕むものだった。

 

人間の力を越えるエネルギーをどう扱うのか、という問題のときは、

たかだか数十年のデータでしか判断できない科学者と金儲け計算組だけに頼るのではなく、

ほんとうは、

1000年スパンで人間の無知無能の歴史を知る人文学者や宗教家たちが語る、

「あやふやなこと」も交えて判断することが必要だった。

 

しかし、あやふや部分を我慢しながら、突き詰めて自分の頭で考えない癖があり、

科学と金儲け計算組以外の人々を低く見る癖のある「輸入知識」専門の我々。

もし、「今回」を乗り越えて、「次回」までの猶予があるとすれば、この癖は治るのだろうか。

そういえば、自分の知る外国に比べ、高い料金を払わされていたということについて、今更ながら気づく、こんな状態で。 

 

少なくとも私は、猶予があるなら、自分の子供には語りたいとおもうが。

鎮魂の場

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今日は、逢阪伝耕分室より一心寺を臨む花見。

この時期に亡くなった姑が眠る寺で、今年も桜が咲いた。

夙川の桜、芦屋の桜、六甲山の桜、どれも好きだが、

寺町の桜は生と死のかかわりをダイレクトにつなげてくれるからことさらに感慨深い。

一心寺参道の桜.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨日土曜は、かつての住処、夙川芦屋あたりを歩いた。

センスがよく、上品にまとめられた 街は、気持ちのよいことこの上ない。

しかし、当然ながら死の影はなく、鎮魂の場は隠されているかのようだ。

いつの間にか、私にはそれが物足りなくなっている。

 

そういえば、

山がちだったあのあたり、私が幼かった頃は、アスファルトで舗装されていない道も多く、

あちこちにいろいろな生き物の死骸がころがっていて、それを見るたびにどきっとしたものだが、

今ではもうそんな光景を見ることもない。

 

順風満帆とはいかない人生を歩んでいくには、

死の影を認め、それを鎮魂するための場が街に用意されていることはとても重要なのだ。

さらに、鎮魂の場は隠されず、にぎにぎしく扱われることによって、人はどこか安心するのだと思う。 

安心したいから、そういうところには大勢の人が集まる。

一心寺の例を見れば、一目瞭然である。

一心寺には、人骨でできた、骨の佛=「お骨佛」というおどろおどろしく聞こえるものが、

にぎにぎしく祭られており、たくさんの参詣者が訪れる。

 

その意味で、内田樹氏が提唱する「うめきた大仏」には、真剣に賛成である。

再会

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今日はほぼ30年ぶりに同窓生に再会した。

ああ、生きてて良かった。

 

自分というモノがよくわからず、ぐじゃぐじゃしていた時期もあったが、

ま、これでいいかも、と最近思えるようになって良かった。

 

全然変わってないし、昔からそうだったよね、と言われると、

何を迷っていたんだろうと改めて思う。

 

選民主義の親類の中、

能力が足りないと判断され、まったく期待されずに育った私。

若い頃は、とりあえず、見合いさせとけ、とばかり、積まれた釣書。

積まれた釣書の高さは、期待されていないレベルとほぼ同値。

 

興味を覚えないと、勝つことに意味も価値も感じないので、まったくやらない。

そういう自分に気づいたのは成人を過ぎてからである。

それに気づくのが遅かったという意味では、確かに能力が足りない。

 

あ、そっか、という気づきが何回も訪れて、その度に自分の人生を再定義できる。

生きていると、それなりにいいことがあるもんだ、と思う。

 

「伝版ダイアリー」作成中

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完全受注生産の伝版ダイアリー作成中。

 

面ツケイメージをシミュレーションするために、

デザイナーのあんりちゃんが作ってきてくれたミニ伝版ダイアリー。

めがねと横に置いてみたら、こんな感じ。

かわいい~。

 伝版ダイアリー.jpg

才能との出会い

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非常時だから出会える才能もある。

日常の表面に泡が生まれた消えたのあたふたに左右されない力。

それを見極めには自分じしんの平常心も問われる。

 

自分の中に反響する、非常時のざわざわと、平常時のざわざわを聞き分ける力。

非常時だからこそ、平常時のざわざわをしっかりとらえないといけないんだ。

ありとあらゆる前提が崩れている世界を突き抜けるためには。

 

きっと、そういうものに出会えたと思える日。

私にとって、それは楽しい非常時なのだけれど、それが、今日。

技術だけじゃなくて社会が。

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極めてシンプルな原理で莫大なエネルギーを得られる原発。

しかし、莫大なエネルギーをコンスタントに長期間コントロールし、

有事があれば簡単におさめることができない暴走をどう食い止めるのか、ということについて、

自然災害はデータの範囲外だし、

工学的な範囲で話が済むヒューマンエラーに至らない、

とんでもなさすぎて笑えない状況についての想定はなかったらしい。

だって、電源車が役に立たないという現場管理のツメの甘さ。

これが私の好きな日本だろうか。

 

空に、海に有害物質をまき散らし続けることがしばらく続けば、同情は無能へのあざけりと憎悪に変容し、

世界から非難され、返すことばを持たないであろう我々。

この地震国に50機を越す原発があるというのに、どういうリスクヘッジをしていたのか、と。

 

この国は、技術的というよりもそれを支える社会的基盤においてそもそも未熟で、

生死にかかわる技術を飼い慣らすことはまだ無理だったのかもしれない。

儲かったり、便利だったらいいや、と深く考えることから逃げ、結果、社会システムが機能しない無能な状態から抜け出ていない。

民主主義もそれが必要だから獲得したのではなく、戦争に負けて押しつけられ、これに従った方が得かも、と、

戦勝国の顔色を見て功利だけで判断したように。

 

ゆるりゆるりと事態が悪化していく、ゆでカエルのような状況。

汚染された水を「夜」に海に放出して、漁業に大打撃を与え、諸外国の信頼を失う事態がこんなにたやすくおこなわれる危険については、

少なくとも、私が見た限りでは誰も予想していなかった。

水を出さなくてはいけないことはずいぶん前からわかっていたのに。

 

昨日も「夜」に窒素が注入されたらしい。

夜中に何か異変があったら、どうするつもりだったのだろう。

入学式

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今日は娘の中学入学の日で、おかげさまで天候に恵まれた。

小学校時代、ひとクラス25人程度の少数教育から、

なんと48人のすし詰め状態。

厳しいと有名な学校なのだけれど、それって締め付けがきつい、ってことなんだろうな、とか。

きゅうきゅうしていると逃げ出したくなる私は、学校から出たかった。

いや、私が入学したわけじゃないんだけど。

 

PTAのお誘いがあり、これはおかしかった。

PTA会長曰く、

「中学になると、子供がいろいろ自分たちでやるので、活動自体はラクになります。

親同士のつながりや交流をするという楽しみの目的で参加してください。」

おっと、「かくあるべし」にもとづいて参加する行動の強制、ではなく、

「かくありたい」から生まれる行動への勧誘は、まさにマーケティング的。

時代を感じますね。

明るい反省

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まあ言えば、極東支局で本部から降りてきたノウハウが世間では新しかったのをいいことに、

深く考えもせず、仕事をしてきたもんだ。

ノウハウの上っ面とやり方は録音再生状態で説明できて、

やってみせることができるだけのことである。

 

そのノウハウが生まれた背景とそのノウハウの裏にある本質的な価値や意味を

自分のことばを使って説明できるか、となるとできない。

 

戦争は自分が生まれるとうの昔に終わって、占領下ではないはずなのに、

なぜか占領されているかのような前提にとらわれて、自分の頭で考えない癖。

 

その危険は意識していたはずなのに、それ以外できない自分。

3.11以降の無力感はこの認識に関連する。

 

頭がメリメリ言うぐらいの深掘りができていなかった、という大きな反省。

でも、今から勉強して、メリメリ言わせるから、いいのだ。

 

明るい反省。

ベリーダンスのおなか

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今日、なにわ人形芝居フェスティバル盛況のうちに閉会後、出演者、出展者向けの内輪の会があり、

フェスの中で披露されたパフォーマンスが一部再演された。

出演したり、出店したりしていると、フェス自体を見ることができないというわけで企画された主催者の粋な計らい。

 

ベリーダンスのグループが出演して、その中に、明らかにレベル違いの踊り手。これはおそらく先生ですね。

このひとのおなかにすっかり見とれてしまった。

ご存じの通り、ベリーダンスはおなかが重要。

しっかりした内筋の上に、ほどよい脂肪がのっており、柔軟で8の字状によく動くおなか。

いつまでも動くおなか。

 

セクシーとか、色っぽいとか、いう言葉が出る半歩手前の、「肉」の美しさ。

生きているって、すごいな、きれいだな、力があるな、魅惑的だな、輝いてるな、ということを

メッセージするためにこの世に現れたようなおなか。

 

食べて、分泌して、排泄し、その合間にいろいろな動静が埋め込まれた生。

生というプロセスは陰陽の組み合わせだがその中に、こういうおなかが出現しちゃうんだ、ということを発見。

トランスへと誘われる原始的な踊りにも似た、脳幹に響く喜び。

 

ことばにならない「生」のパワーを伝えるために、被災地でも踊って欲しい、と真剣に思う。

同じ気持ちにはなれません。

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阪神淡路大震災で家を2軒失ったと言っても、

ばらばらに壊れたものを片付けるプロセスの中に、鎮魂の要素もありました。

マンションの前の大きな木造住宅が何軒もつぶれて、亡くなった人も多かったのですが、

人が家につぶされる場面を見たわけではありません。

 

家が土台からすっかり流されて跡形もなくなって、片付けするものすらない状態や、

お互い呼びあっているのに波間に消えていった人のこと、

どんなに想像してみたところで、私の中でリアリティはありません。

 

想像力の限界があり、

本当に申し訳ないけれど、同じ気持ちにはなれないと思います。

 

昨日の教訓を明日に生かすということは体のいいフレーズだけれど、

思うほど簡単ではなく、昨日の教訓は役にもたたないというのが、正直なところです。

 

人は30年でほとんどいろんなことを忘れてしまうのに、地球は、それよりももっと長い

周期で似たようなことが繰り返されるようです。

 

ある人が、ある経験をして、次に役立てる、と言ってのけるには、

その人の一生が短すぎるということもあるようです。

 

ずいぶん考えて、やっとここまで来ました。

同じ気持ちにはなれないという前提で、できることをします。

命をかけて、事態を収拾しようとしている作業員とか、

火事じゃないのに、出動している消防隊とか、

「現場」の彼らの努力はそれ自体賞賛に値すべきものだから、

この際、名前をオープンにして、全員に国民栄誉賞を贈ろう。

 

同時にそういう人々が命をさらすことになってしまった危険が起こる前提を

これまで、 誰がもしくは、どこが、どのように考えて、どう判断していたのか、

分析してみようではないか。

私が一人の国民としてそれに荷担していたとすればそれはどのように。

 

この国に、自分の保身ばかりを考えずに、国民のために働ける、本当の意味で、

ノーブレス・オブリージュを意識したエリートはいるのかいないのか。

 

そんなこんなをするのが怖くて、イヤだから(つまり、責任の本体は「空」だから)、

すりかえとして、現場を褒めたたえておく、という体のよい風潮があるような気がする。

 

なんでこうなるの?というストレートな問いができる今、

戦争に負けたから輸入してみただけ、の、民主主義のシステムの中に巧妙に仕込まれた、

「結局、顔のないみんな」の責任という「空」から逃げないチャンスである。