人情相撲と水平線

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八百長問題で激震の角界だが、人情相撲として落語にあるくらいだから、昔から当たり前の話、なのである。

公然の事実であったが、今回、携帯で証拠らしきものが出てしまったから大もめにもめている。

 

さて、

相撲は「スポーツ」なのか、「共同体の神事」なのか。

世界にあまねく広げようとすれば、主義や思想の違う人たちにも受け入れられる必要があるから、

厳格なルールをもった「スポーツ」として位置づけなくてはならない。

となれば、今回のことは徹底的に粛正されるべきだろう。

 

しかし、

「共同体の神事」ならば、スポーツとしての基準では判断できないファジーな要素も入るから、

それはどうやってもファジーさを共有できる範囲のローカルにとどまる類のものだ。

国際化に向けた気遣いはいらない。

異邦人が参加したがっても、人情相撲が行われても、

「これは、共同体の神事で、場合によって不可思議なことも起こります。

つまり、ルールは明確ではありません。それでもよろしかったらどうぞ。」

と、はっきり言えばいいのである。

 

ここしばらく日本はお金持ちだったし、時流として国際化しておけば格好いいし(もしくは、しなきゃ格好つかないし)、

トラフィックが増えれば儲かるし、という、スケベ根性のせいかはどうか知らないが、

「スポーツ」化にかじをきったつもりで、内実「共同体の神事」の枠組みをひきずったまま下手なことになったというのが、

「日本の国技」だった、というのは示唆的である。

「国際化」または「普遍化」を目指すと、その対象がもっている、ある部分を強くするが、すべては残されない。

発祥地の人々にとっては、この上なくファジーで甘美な部分がそぎ落とされてしまう辛い側面が必ずあらわれる。

 

ちんまりした国土、四方を海に囲まれて、水平線を目にすることが何の不思議もないこの国の中で、

このそぎ落としに耐えられる人口がどれほどいるのか。

 

すぐ見えてしまう水平線のはるか向こう、そのもっと向こうに相撲を伝えたい、と思う多くの人の願いが集積したパワーがないと、

何を残して何をそぎ落とすのかという見極めと合意のプロセスには到底耐えられそうにない。

 

この話、相撲だけの話ではない。

「共同体の神事」なのか、「スポーツ」なのかよくわからない仕事にぶち当たることも多いので、

それらを思い浮かべながら書いてみた。

いい悪いではない。何を望んで、何を選ぶか、だと思う。

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