上澄みと沈殿

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きれいにアクをとった「上澄み」スープか、アク・オリ・カスが渾然となった「沈殿」物か。

 

一応、会社のブログなのに、酒を呑みながら一日目を書いてしまってから、

このブログは、今の私の思考やありようの「上澄み」披露ステージではなく、「沈殿物」の滞留場所となってしまった。

澄んだ味のソースを作る際に、沈んだ部分を集めて作った濃厚な「どろソース」、のような沈殿文章が、一日ひとつ増えていく。

会社なのに、最初に作っちゃったブログが、どろソーステイストだったとは、これ如何に。

 

で、今更なぜに、この話を書くかというと、急にFACEBOOKをやり始めたことによる。

FACEBOOKは私にとっては、自分の中の「上澄み」部分に近いところ。

一応、ご機嫌良くしている私を出してみたりしている。

基本的には明るい性格だとは思うが、そういつでもご機嫌がよいわけはなく。

しかし考えてみれば、憤然としている顔が、

告別式の写真として選ばれることはないのだし。

 

しかし、それはそうと、あの清冽な蓮は泥の中から茎を伸ばして咲くのだ。

きれいなだけのところから、すべてが生まれ出るのではない。

人間は弱くて、ずるくて、愚かで、さぼりがちな存在だとしたら、

それは私の中に捨てたくても捨てきれないほど、こんもりある要素であって、

さらに見渡せば世の中にもたくさんあるから、

自分の中に、周りに、

いついかなる時もずんずん沈殿してたまっていく。

 

沈殿すること自体を否定せずに、どうすれば、それを耕しながら、伝えるという茎を伸ばせるのか、ということについて

チャレンジするために、泥をかき回してみたりしているのが、ここである。

 

いや、それって、悪人正機説と似たような考えよね、と気づいて呆然とする。

人間ってぐるぐる回っているだけなんだな。

法然と親鸞の時代よりも進歩しているとしたら、科学の発展のおかげで、

蓮を育む泥の中には、いろんな成分が入っていて、実は泥はすごいんだ、ということがわかったことぐらいだろうか。

 

かたや、人間の思考の泥には、どういうすごいところがあるのか。

それは、今の科学でも答えは、ない。

なぜ、悪人正機説をとれば、みんなが幸せになれるのか、おそらく説明を尽くすことはできない。

きっと、このことは数百年たってもできない。

こういう部分をどうにもこうにも説明できない存在が、人間なのであり、

その限界を知りつつ生きる中に、逆説的だが、未来の希望が生まれるモトが埋もれているのかもしれない。

 

あ、すっごく、どろどろしてきた。これにてかき回し納め。

 

なんだか急に、どろソースでお好み食べたくなってきた!

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