2011年2月アーカイブ

時々チェックする、内田樹氏のブログを読んでいたら、こんな一節があった。

「平成の開国論」とりわけTPPについて、「いかがなものか」という持論を申し上げる。
TPPに限らず、アメリカのグローバリズム戦略の基本には、「最終的に人間は自己利益を最大化するように行動する」という人間観が伏流している。
つまり、市場に国産品より1円でも安い外国製品があれば、消費者は迷わずそちらを買う、という人間観である。
自国産業の保護育成なんか知ったことではない。1円でも安いものを買うのが消費者の権利であり、かつ義務である、と。
国が亡びても、自分の財布が潤うなら、アイドンケアー。
そういうのが人間の天然自然の姿である、と。
そういう人間たちばかりで世界市場は構成されているという前提から「国際競争力」という概念が導出されている。
私はそれは違うだろうと思う。
すべての人間が「金で動く」わけではない。
中には「金では動かない人間」もいる。
そして、「人間が金で動く仕方」は世界共通であるが、「人間が金で動かない仕方」は国ごと、地域ごとに異なっている。
私は「人間が金では動かない仕方」(言い換えれば「金以外のファクターで動く仕方」)にローカリティというものは宿ると考えている。
例えば、私は安い洋材を使わず、割高な国産の美山杉と飛騨檜を使って家を建てるのだが、それは「日本の林業を守るのは、日本人ひとりひとりの義務である」と思っているからである。
「日本の林業を守る」などというと一般論じみているのでやめるが、もっとスペシフィックに言えば、「美山の哲学するきこり」小林直人さんの育てた美山の杉で家を建てるという約束を20年前にしたからである。

人間は、自己利益を最大化するように行動する確率が高いだろう。

そして、自己利益の最大化は、購買行動に関して言えば、単に安いからではなく、自分が認識する「価値(Value for Money)」によって図られる。

なので、人間は「金で動く」わけではなく、「認識した価値で動く」のである。

値段と見合わせて、その便益(たとえば、品質や安全という「意味」に関するのものも含め)がすぐれていると判断されたときに、

高い価値が生まれ、そこに人々が連なる。

単に安いから、といって毒が入った食べ物を買う人はきわめて稀だろう。

残留農薬で騒がれた中国の野菜がぴたっと売れなくなったのは、値段にうるさい主婦ですら、

どんなに安くても、「安全性が担保されていない可能性がある」残留農薬野菜は、

「身体を作る食べ物」としての便益をもたらさないと判断されたので、買い控えられたのであるし、

アジアのお金持ちに、日本の高級果物が売れているのは、「びっくりするほどおいしい」という便益が認識されたからだ。

内田氏が、国産の材料を使って家をたてるのは、「美山の哲学するきこり」小林直人さんの育てた美山の杉で家を建てることが、

彼が信じたい、大切にしたいものと整合性があり、ゆえに高いお金を出してもその価値があると見なした所以である。

レベルが違う、とお叱りを受けるかもしれないが、自分が好きなブランドものに高いお金を出す人々と本質的には変わりがない。 

 

「国際競争力」は消費者の視点からだけで言えば、最大多数の消費者が値段の割に価値があると見なす判断によって上昇する。

それは、決して値段だけの要因ではない。

もちろん、値段だけで動く仕方については、国ごと、地域ごと、で違うだろうが、

値段だけで動かない理由は、値段だけで動かない理由がどのように呈示され、誰にどのように伝えられたか、というコミュニケーションのあり方に基づく。

内田氏とて、そういう国産材が日本に残っていると知らなければ、洋材を使っていたかも知れないし、

「美山の哲学するきこり」小林直人さんの存在を彼が知らなければ、別の「美山の哲学するきこり」○○○○さんの木を使っていたかも知れないのだ。

 

人間は、自分が認識する「価値(Value for Money)」で動く、という前提で考えると、日本という国の開国は、面白い側面もあるに違いない。

温泉がそこここにある日本の国土、まるで、世界のミニチュア模型のように、さまざまな地形がぎゅっとつまっている不思議さ、

高い安全性のある街や食料、医療など、価値あるものは山ほどあるから、それをどうひきだして、ひもといて、

誰に向けて発信するか、ということが重要なのだろうと思う。

すでに、日本の国内ですら、内田氏のように国産材の価値を認めて家を建てる人は少ない。

 

ローカリティはストーリーの文脈として重要だが、その中の何が良さとして発見され、

それがどのように良さとして発信され、

それがどのように受け止められているのか、というもう一歩踏み込んだ議論が必要なのだろう。 

具体的には、

①国産材の価値を認めれば家を建てるある程度裕福な人はいるだろうが、

その良さは伝わっておらず、

②大多数の人間は、そういうお金はない。

ある程度裕福な人の中に①の人々はどれぐらいいるのか、いったい、それはどういう人なのか、

彼らに価値を認識してもらうにはどのようにすべきなのか、現状どうなのか、ということである。

そして、その本質は、すべてローカリティに帰属しうるのかということである。

 

私は、必ずしもそうではないと思う。

いや、地理的な制限を取っ払った定義にすれば、そうであるとも言える。 

ローカリティとは、自分が認識する範囲によってのび縮みするものと考えれば、

ある人にとってはすでにグローバルであるが、別の人にとってはいまだローカルにとどまる場合もあるに違いない。

 

グローバルと言われると、なぜか目くじらをたてる人が多いが、グローバルか、ローカルかという議論の前に、

国内ですら、価値ある存在として認識してもらえるベースがどれぐらいあるのか、ということの見極めが必要なことがたくさんある。

価値ある存在として、育むべきものならば、そういうありようの発信を愚直に行い、PDCAを行ってみる(うー、無理かな)。

自国産業の保護育成というのは、まずはそれをきっちりやることなのだと思う。

単なる「よしよし」で済む時代ではない。

 

「国際競争力」にさらされてとぎすまされるのは、「いったい、何が自分の強みなのか(逆に弱みなのか)」ということだろう。

クラッシックなSWOT分析そのものだけれど、 その強みが、今の国際社会で、「価値あるモノ」と見なされるように

呈示できるかどうかが勝負となるし、さらに言えば「価値あるモノ」と見なされるようなしくみが、長期的な戦略になるんだろう。

「価値あるモノ」として見なすようにし向けるしくみ、それが教育や国・地域の役割と言えばきれいすぎるが、

たとえば「ハリウッド的な出し方」も「米国風礼賛の教育方法」である。

 

モノで開国しなくとも、何が価値を持つモノかという洗脳情報はどんどん配信され続ける。情報の鎖国は不可能だ。

モノに対する価値判断は情報の受発信の中で形成され、結果的にその文脈においてモノが選択されることを、

了解したうえでの勝負は、望むと望まざるとに関わらず、すでにもう始まっている。

その価値観で形成された基準と相対的な情報量に基づけば、たとえば、結果的に「洋材」を選択してしまう可能性は高まる。

 

グローバル、とかローカルとか、ことばの遊びはもうやめよう。

たとえば、それは「国際」でなくとも、「あなたと私」の違いをいい意味で際だたせて、発信して、

人生を豊かにすることのしくみを考えることと、 本質的には変わりがないことだろうと思う。

調査の仮説って何?

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マーケティングの調査で声高に言われるのは、「仮説が大事」ということである。

ならば、その仮説って何?ということが意味ある形で明確にされることは少ない。

というのも、

仮説をどう定義するかは、その調査を依頼したクライアントとクライアントが属する組織が

「そもそも調査で明らかにする問題をどのレベルでどのようにとらえているのか」に依存しているからである。

 

商品Aか商品Bがどちらがいいかという選択についての調査であっても、

その調査は、単に勝ち負けを決めるために行うものではなく、

「売れる商品を選ぶために、調査という方法を使った投資」であるから、

調査での選択結果を市場での商品選択と一致させて、その売上げを最大化するには、

自社で重視しているマーケティングの要素(クラッシックな4Pもしくは4Cを使ってもいいけれど)の視点から、

押さえておくポイントは何なのかを明確にしておかなくてはならない。

 

そして、明確にされたポイントの項目の中で、それらが今回企画されている消費者調査という方法で

どこまでカバーできるのか、できないものは代替としてどういう方法で明らかにするのか、という問題の見極めを経て

質問事項に反映し、分析方法およびそこから得られるアウトプットとアクションの関連を整理しなくてはならない。

それが、広い意味で仮説構築のある調査設計なのであろう、と私は思う。

 

自社の得意とするビジネスモデルとマーケティング戦略というスキームがあり、

目的に添った種々の調査方法がそのスキームと表裏一体となったプロトタイプとして用意されている一部の外資系はのぞき、

そんな考え方やシステムは、多数の日本企業では用意されていないのが普通なので、

そのようなプロトタイプがないクライアントと商品開発や調査という接点でお仕事をさせていただく折には、

「で、どういう戦略のもとに、この商品のありようを考えていらっしゃるのでしょうか?」

ということから始めなくてはならない。

 

まあ、そういう問いは、戦略コンサルティングでもない私がする質問としては、

「かなり偉そう」だから、「ぎょっと」されることも少なくない。

「ぎょっと」されてしまう理由は、

「自社で重視しているマーケティングの要素」についてはその考え方自体が

社内できっちり共有されていることは少なく、さらに数量化されていることはもっと少ないから、

上司や周囲を気遣うあまり、何が重要なのかという議論自体が成り立たないこともよくあるし、

たかが調査や小さな商品開発でそんなこと聞かれるのか、という驚きを併せ持った故である。

 

というわけで、戦略にまつわるあれこれをきちんと煮詰めて内容と理由を共有する組織状態にないことが多いから、

意味ある調査をやろうと思ったら、私は、クライアントにとっては、イヤな質問をにっこり連発しなくてはならない。

これは、エージェントならば一番面倒な、まったく泥臭い作業である。

商品を届けたいお客様にその良さを「伝える」ために「耕す」作業をクライアントと一緒にやっているのである。

実は、B to B故に、あまり表面に出していない私の仕事の内容は、まさに「伝耕」そのもので、

それは、問題解決のために、仮説をひきだし、ひもとき、くみたてていることに他ならない。

 

さらに言えばこの「伝耕」活動自体は、

伝版、igu伝、ひとふでんず、伝紋ワークショップなど、表に出している「親しみやすい(?)」活動と本質的には何ら変わりはない。

かっこよく偉そうにやらないで、親しみやすく問題をひきだし、ひもとき、くみたてる方法をしみじみ作っているのは、

やれ戦略だの、共有化だの、数値化だのという切り口の限界を感じているからである。

 

それらは論理的に見えてかっこよいからYES、と一応表明されているだけであって、

実践の定着には何らかの痛みが伴うのは必至、景気低迷で様変わしりたとはいえ、

家族形態に模された会社組織にぼんやり守られたまま発展し下降するこの国の人たちのマインドに、

その痛みをすんなり受け入れられる土壌が形成されることは、

総じて保守的な年寄りが人口の大勢を占める将来においてあまり期待できない。

 

というのも、私自身、戦略の明確化・共有化・数値化という方法で容赦ない外資系の会社にいた故に

複眼的視点を得ることができたが、そこにいた私とて、そのありようとして、

賛同できる部分とできない部分があったわけである。

人間というものに対する理解とその行動についての前提が異なることがそのベースにある。

 

さて、大多数の複眼的視点のない人たちに、痛みを伴うであろう新しい習慣を定着させようとしても

えてして賛同できない部分を過大評価する傾向があるから、選択は従来型になり、

そのうち自らが壊滅状態であると認めた結果に背中を押されて行動するまで、

たいして変わらない時代が続くだろう。

下降する国で生き延びることを考える若人は、たとえば、楽天やユニクロの行く末を見ると同時に、

たとえば高齢者が増えすぎた結果、「人が見捨てられる」ということが当たり前に起こる状況について

どうするか自分で決めるしかない、という私なりの見極め(=仮説)も半分あるからだ。

 

ならば、私たちができる範囲で、やりたいやり方で、

自分が自分らしく生きるための仮説をひきだし、ひもとき、くみたてるための「伝耕」を行う際に役立つ、

別のアプローチを作っておかねば、と勝手に思いこんで活動をしている。

誰のために?

もちろん子供たち(と、頭を柔らかくする必要がある、増え続ける老人たち)のために。

 

で、なんでしたっけ?

もともとは、国難と伝耕の話ではなかったですね。

「調査の仮説って何?」というのは、狭義に言うと、

明確にしたい問題(コンセプト・商品の選択・探索等々)があり、

その問題に関連する戦略のキーとなる部分をお客様視点で考えたときは、どのような表現系になりそうなのか、ということについて、

関係者で妄想するプロセスを経てまとめられた内容一覧であり、

調査の設計とはその内容一覧を確認するための方法なのだ、と思う。

 

「調査の仮説」をまともにつめて調査設計をやろうと思ったら、

「女性から、イタイところを指摘されたくない(総じて)プライドの高い男性」から

最初はいつも嫌われることを半分覚悟、である。

それは本意ではないので、いつも「偉そうですみません」と謝っていたりする。

 

ここで何度も書いているように、私のありよう自体、決してかっこよいものではなく、

決して上から目線ではないということを、

いずれ、理解してくださることも多いのだから、

ま、いっか、と思いつつ。

アホすぎる、たいせつな気づき

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今日は、たまりにたまった家事を片付ける予定であったが、

朝から頭が爆走して、

やりたいことの妄想がかけめぐっていた。

 

で、その爆走が終わった4時間後、

ふと気づいたのは、

「これ、全部やろうと思ったら、使いものになる自分の寿命がぜんぜん足りん」

ということであった。

 

まったく、アホすぎる。

そんなこと、気づいているはずだったが、全然刺さってなかった。

まぎれもない真実がそこにあるのに、

自分の胸に突きつけずにスルーするのはアホである。

 

寿命が足りないなら、賛同してくださるみなさんにお願いしなくてはならず、

そうするにはどうしたらいいか、ということを真剣に考えることにした。

これについてもわかったふりをしていたが、全然腑に落ちていなかった。

ダブルにアホである。

 

ええかっこし続けてきたツケがここにあらわれている。

そして目の前には、たまりにたまった家事も。

ああ。

 

 

 

 

何にもないところから

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固かった土をほぐして、

石ころをとりのぞいて、

種を植えて、

水をやり、光をあて、

注意深く見守って、

芽が出るのを待つ。

 

最初は何もなかったが、何かをつくろうとして、はじめた、ものすごく小さい試み。

芽が出るのを待つ段階に来たのかも。

それって、うきうき楽しいものだ。

 

 

紡ぐ

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自分が一生の中で見たい絵は、描くというよりも、紡ぐといった表現の方が似つかわしく思う。

紡いでいる手の動きは、絵の形とはまるで無関係のように進むが、絵を描くために

用意した手順に集中すれば、絶え間ない手の動きとともに、部分から全体像へ、

徐々につながっていく。

 

絵の形とはまるで無関係に動かす手を止めずに、倦まずに、

頭の中に見たい絵を少しずつ明晰にして、時とともに歩む。

典型と極端のプロット

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「典型」と「極端」がどのようにビジネスと関連しているのかを考えることは比較的簡単な話である。

「典型」を追い求めると、結局、今、世の中に存在しており、

その便益がよく了解されている商品・サービスが浮上してくる。

 

どこまでも「典型」視点を突き詰めても、出てくるのは「典型」軸に沿った些細なスペックアップか、

「典型」の中での競合よりも強いバリュープライスの商品・サービスしかない。

逆に、「極端」を追い求めると、ものすごくとんがっているが、

ほんの少しの人々にしかわからない商品・サービスしかできない可能性がある。

 

さて、商品開発に関わる調査は、調査論でいうところの代表性という言葉で、「典型」ということに偏りがちだが、

それは統計的把握のためのスタンスであって、人の欲望を先取りしてお金につなげるビジネスの将来を考えると、

「典型」も「極端」もどちらも意識していないと意味ある探索ができない。

重要なのは、「典型」を理解しつくすと同時に「極端」をプロットしながら、

どこに次世代の着地点を置けばいいか、シミュレーションする思考である。

「極端」のプロットには、どこまでいっても「極端」な内容と、次世代へのヒントが混じって入っている。

何が、本当にどこまでいっても「極端」な内容なのか、どこに次世代へのヒントが混じっているのか、それを見極める必要がある。

 

本質的には似たようなニーズの要素と似たような要求水準なのに、その解決策が全然違う故に、

「極端」に見えるもの、があるが、このプロットはニーズの要素と要求水準が似ているが故に、きちんと話を聞けば、

「極端」ではなく、「典型」の一例であることが比較的簡単に見極められる。

 

本質的には似たようなニーズの要素ではあるがその要求水準が異なる場合は、ニーズの見極めはちょっと難しくなる。

それは質的調査をすれば、対象者は全く違う反応をするから、違うニーズのように見えるからだ。

さらに要求水準自体、固定的ではなく、話の流れによって上がりもするし下がりもする。

年齢別商品を手がけている人にとってはその難しさは当たり前に経験することだ。

その要求水準をどう操作し、どう方向づけるかによって、同じニーズを違う便益であるかのように見せることもできる。

具体的にどんな風かと?

たとえば、たくさんのブランドがひしめいている商品カテゴリーならば、ニーズの種類は同じでも要求水準の操作によって、

いかに商品が異なって見えるかがわかる。

 

本質的にニーズ自体が異なるような「極端」を見つけたい場合は、普通の人に、当該カテゴリーの話を聞くだけでは見いだせない。

「典型」ではない人に、「典型」を意識しながら聞いてみると、その人が、如何に「典型」のありようを無視しているかが理解できる。

実はそれが「典型」の人に聞いても出てこないが、無意識に存在する洞察であったりする。

 

あ~、すみません、わかりにくくなりましたかね。

でも、私のブログを呼んでくださる、おそらくちょっと妄想好きな(?)読者の方なら大丈夫かと。

でも、ある商品について使い方がちょっとヘンだな、と思う人に、

その商品について自分が当たり前だと思う内容と対比させながら聞いてみてください。

意外と、あ、そうか、と理解していただけるはず(?)です。

調査のゆくえ

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何か物事を理解するために、「典型」というものがあるとすれば、

消費者というものを理解するための「典型」を形成して、

意思決定の役割のサポートをするのが、消費者調査の役割のひとつだった。

その「典型」はセグメントと呼ばれ、わかりやすいラベリングが施された。

その「典型」を作るにも、見ず知らずを理解するにはあまりにも手がかりが少ないから、ある手続きに従って、その像を導き出す手法が生まれた。

俯瞰するために数量的に。内実を理解するためにケーススダディとして質的に。

 

人間は、とどのつまり、他人のことなんか、愛しているか、

利害関係がない(「愛」すらも、生物的には利害関係の一形態と呼べるかも知れないが)と、

必死に理解しようとしないものだ。

ところが、自分とネットワーク関係が築けない・築くつもりもない不特定多数の他人にモノを売らないと、

愛する人もしくは利害関係のある人と幸せに暮らしていけないのが、消費社会の姿。

なので、 省くところはできるだけ省きグロスで扱い、どうしても必要な対象に対しては、

その見極めを厳格にしつつ、こってり濃厚なケースの理解を行い、その両者のバランスを考え、

最も効率的な価値の提供方法を考えるのが、

不特定多数への広告と特定顧客へのCRMをミックスしたマーケティング手法だった。

 

そのようなマーケティングを仮に動脈と呼ぶとすれば、

調査はその結果を反映する静脈の一部と呼べるから、基本的には動脈のありようと表裏一体となる方法論が用意されていた。 

 

さて、「マーケティング手法だった」内容が完全に過去のものになるには一定の時間がかかるだろうが、

ソーシャルネットワークのさらなる進展によって、

動脈となるマーケティングのありようがしみじみ変わっていくことに誰も異論はないだろう。

企業と顧客、顧客同士の間でつながるネットワーク型の社会で本当に何が起こるのか、その実験はまだ始まったばかりである。

ソーシャルネットワークの広がりによって、動脈となるマーケティングが徐々に変化すれば、

それと合わせ鏡にある、静脈としての調査を考えると、

SEOを越えて、ネットワークグラフから把握されるSGOそのものが、

潜在・顕在購買者についてのクラッシックな「典型」のタイプ・記述・影響力の度合いに変わる代物となる。

つまりクラッシックな手法で行われるセグメンテーションの抽出自体が無用となる可能性があるわけだ。

さらに、モノの購入に対して有効なキーマンがソーシャルグラフ上で明確になれば、そこで見出されたキーマンを惹きつけるために

導き出されたアクションと結果間のトランザクション分析がマーケティングの精度を決するようになるかもしれない。

 

ということを妄想して調査のゆくえなんかを考えてみるのだが、

もう今までのやり方には自分ながら飽き飽きしているので、

まさに、いいタイミングなのかもしれない。

 

静脈の世界も、VON VOYAGE!

はっ、ほっ、にこっ、の本質

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人の気持ちをとらえるものの共通した特徴とは、一目見て、「はっとして、ほっとして、にこっと」という反応を引き起こす条件をすべてそろえているもの、

というのは我が恩師のことばである。

 

非常によくできたキャッチだな、とは思っていたが、それほどその意味について深く考えていなかった。

しかし最近、ある言葉と非常に関連がある、ということに気づいて、目からうろこが落ちた。

 

世阿弥による言。

「花と面白きと珍しきと、これ三つは同じ心なり」

「花」を感じる中に、「あっ、花!」という気づきと、それがもたらす晴れの感じと、その花との出会いの妙をミックスした心象が、

非常に短い時間=「刹那」の中に一緒に閉じこめられている、という意味だと私は解釈する。

世阿弥が求める「花」へのこだわりを考えれば、「三つは同じ心なり」、というのは、

「花」と呼ぶならば同時に満たさなければならない要素を列挙しているということであろう。

 

言葉自体は一対一対応とはならないが、

「花と面白きと珍しきと、これ三つは同じ心なり」を、具体的な人の反応として表現すれば、

先ほどの恩師の言である「はっ、ほっ、にこっ」となるような気がする。

 

さて、

買い物はハンティングである。そして、それはどこか「花」摘みに似ている。

特に、商品のトライアルは「花」摘みである。

売れる商品はどんな「花」であるべきか。

「花と面白きと珍しき、これ三つは同じ心なり」という要素が組み込まれて、

見る人の反応が「はっ、ほっ、にこっ」とさせるように呈示できていると、

価格についてネガティブがなければ、かなりの確率で、成功するのではないか、と思う。

 

というのも、

かれこれ10数年以上前、販売予測がらみの分析に熱心に取り組んで、

トライアルを予測するために、さまざまなコンセプトについて膨大な量の相関分析を行ったが、

私が得た結論は、結局、「花と面白きと珍しき、これ三つは同じ心なり」と「はっ、ほっ、にこっ」を越えるものではなかったように思う。

 

その時にすでに、

風姿花伝を読んでいたのに、自分の仕事が世阿弥の言葉と結びつかず、恩師の言葉すら思い出せなかったくせに、

分析結果だけの数字を振り回して報告していた自分の浅はかさについて、今更ながら恥じるのである。

 

本当のビジネスには、血肉になった教養がベースとなるはず、と最近とみに思う。

人情相撲と水平線

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八百長問題で激震の角界だが、人情相撲として落語にあるくらいだから、昔から当たり前の話、なのである。

公然の事実であったが、今回、携帯で証拠らしきものが出てしまったから大もめにもめている。

 

さて、

相撲は「スポーツ」なのか、「共同体の神事」なのか。

世界にあまねく広げようとすれば、主義や思想の違う人たちにも受け入れられる必要があるから、

厳格なルールをもった「スポーツ」として位置づけなくてはならない。

となれば、今回のことは徹底的に粛正されるべきだろう。

 

しかし、

「共同体の神事」ならば、スポーツとしての基準では判断できないファジーな要素も入るから、

それはどうやってもファジーさを共有できる範囲のローカルにとどまる類のものだ。

国際化に向けた気遣いはいらない。

異邦人が参加したがっても、人情相撲が行われても、

「これは、共同体の神事で、場合によって不可思議なことも起こります。

つまり、ルールは明確ではありません。それでもよろしかったらどうぞ。」

と、はっきり言えばいいのである。

 

ここしばらく日本はお金持ちだったし、時流として国際化しておけば格好いいし(もしくは、しなきゃ格好つかないし)、

トラフィックが増えれば儲かるし、という、スケベ根性のせいかはどうか知らないが、

「スポーツ」化にかじをきったつもりで、内実「共同体の神事」の枠組みをひきずったまま下手なことになったというのが、

「日本の国技」だった、というのは示唆的である。

「国際化」または「普遍化」を目指すと、その対象がもっている、ある部分を強くするが、すべては残されない。

発祥地の人々にとっては、この上なくファジーで甘美な部分がそぎ落とされてしまう辛い側面が必ずあらわれる。

 

ちんまりした国土、四方を海に囲まれて、水平線を目にすることが何の不思議もないこの国の中で、

このそぎ落としに耐えられる人口がどれほどいるのか。

 

すぐ見えてしまう水平線のはるか向こう、そのもっと向こうに相撲を伝えたい、と思う多くの人の願いが集積したパワーがないと、

何を残して何をそぎ落とすのかという見極めと合意のプロセスには到底耐えられそうにない。

 

この話、相撲だけの話ではない。

「共同体の神事」なのか、「スポーツ」なのかよくわからない仕事にぶち当たることも多いので、

それらを思い浮かべながら書いてみた。

いい悪いではない。何を望んで、何を選ぶか、だと思う。

スタンス

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優秀で数多くの仕事をこなせる人が周囲にはたくさんいて、

男の人である確率が高いことも日本の現状を考えれば当然なんだけれど、

彼らはほぼ24時間仕事モードだったりする。

 

その時点で、彼らの言う「できる人」という基準において、私は一番最初の落第生である。

「毎日」のこととして8時間以上仕事を連続して行うと、きっと生活が壊れてしまう。

いっぱい働かなきゃだめ、とか、何もかも忘れるぐらい仕事に没頭しなくては、とか、

いちいちごもっともなんだけれど、

彼らがどこに行きたいのか、という目的が私とは違うのに、

そんなあれこれをあんまりまともに聞いていると、自分がダメな人間に思えてくる。

 

なので、

ずいぶん前に、そういうことに合わせるのを辞めた。

私は私、なのである。

 

会社を始めるころに、なんとなく決めた私のスタンスがあるので、

ちょっと文章化しておこうと思う。

 

・顔(ありよう)

仕事のことだけを考えている顔をして子供と接すると、どんなに幼くてもそれを見抜く子供。

人間は自分のことがかけがえがない存在だ、と思い続けるために、

子供時代は、そう思われていることを十分確認したいのだ。

仕事のことを考えている顔、ときどきならばいいけれど、毎日は、だめである。

忙しくても、瞬時にモードを替えることができて、ゆったりした顔を子供に向けることのできる人はいるけれど、

私はそんなに優秀ではない。

心の修行のできていない私が、ゆったりした顔を子供に向けるには、物理的な時間に余裕がないといけない。

働きすぎてはいけないのだ。

これが私のスタンス。

 

・食事(エネルギー)

出来合いのものを食べることの善し悪しではない。

単に、そういうものを食べて育っていないので、

いわゆる売っているお総菜は自分が食べられない。

なので、結果的に子供に食べさせられない。

結構、この味覚の許容量のなさが時間を食う。しかし、仕方ない。

できるだけ夕食は作る。

外食できる機会は限られるが、家の食事の方が何倍も重要である。

これが私のスタンス。

 

・オフィス(場所)

何回か、このブログでも書いたが、いわゆる、オフィスビルは苦手である。

私には効率の牢獄にしか見えない。

なので、クツをぬいで上がっていただく一軒家で仕事をする。

変な会社、と思われるが、まあ、その感覚を共有できない人とビジネスは長続きしないだろうと見切っている。

これが私のスタンス。

 

「ありよう・エネルギー・場所」についての3つのスタンスを守ると、

たいして多くの仕事はできないのだが、

それでも、もう若くもない子持ちの女が、

たくさんのみなさんの力をお借りして、

できることをやっているのが、伝耕という会社なのです。

出会い

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午前中は、iguの作品の額の打ち合わせ。木工作家の先輩が黄色い家に。

プロトタイプ作りにおつきあいいただけるか、の、お話。

「ひろみちゃんの話やから来たけど、こんなもんめんどくさいだけやし。」

はい、仰せの通り。

まあ、でもやってみてくださいよ、ということで。

お願いすることになりました。

「こんなふうに巻き込まれていくんやな。」と、にやっと、ひとこと。

はい、仰せの通り。

どうせなら、楽しく巻き込まれてくださいね(笑)。

 

その後、神戸での用事を済ませて、JR三宮駅にたたずんでいたら、

ん?と高校時代の同級生を発見。

勇気を出して声をかえてみたら、やっぱりそうで。

きゃー!というわけで、

新快速、三宮から芦屋までが同窓会状態。

「会社やってんねんね。何か、やってたよね、昔から。」

なーんて言われて、どきっ。

自分でやってみないと気が済まないタチなのである。

 

春が近づいてきました。

プロトタイプ作りの春。

みなさん、よろしくお願いいたします!

 

 

100の指令、より。

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日比野克彦、100の指令から、今日、目に入った一節。

 

「一日で見た生き物を全部覚えておこう」

 

というのを覚えて家を出たら、

今日は、まだ鳴き声を聞いていないが、今年初めてウグイスを間近で見た。

山茶花の蜜をついばんでいた。

花の赤と、あのうぐいす色の緑のコントラストがとてもきれいで、

足を止めて見とれていたら、さっと飛び去ってしまった。

 

さりげないが、今日、目に焼き付いた、一瞬の美。

 

 

 

企業使命という、お題目の地層

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企業の使命とは難しいものだ。

「お客様の生活を幸せにする」という類の使命はよく見かける。が、「幸せにする」って何をどんな風にどのレベルで?という問いについて、 きちんと答えているものは少ない。

何かを答えていたとしても、 その答えははなはだ表層的で、企業の事業内容と必ずしも合致しない内容であることも多い。

 

何かを売ろうとすると、何かを伝えなくてはならず、 何かを伝えるには、それが伝わるようにするためにお金がかかる。

お金をかけるのは、①商品の認知、②その商品の便益、③チャネルでの露出、さらに、④その便益を理解してもらうために必要な情報や知識の提供だったりする。

 

①、②、③は、とにかくそれがお客様に届かないと、お金を出して買ってもらえないので、ある程度の手間暇をかける。

しかし、④についてはお客様にとって、新しすぎたり、馴染みのない内容だとすれば、「啓蒙」になるから、①、②、③よりも、はるかに手間暇お金がかかってしまう。

 

となれば、企業使命は「お客様を幸せにする」であっても、お客様の幸せを先取りして考えて④ばかりをしていると儲からない。

幸せについて深く考えて、本当にいいものを作っている会社が思いの外、ビジネスで苦しむのはこのせいである。

売上げと利益を重視する企業は④をできるだけ回避する。

それは、「お客様が、今持っている知識で、幸せになれるだろうと判断するレベルの幸せを提供する」ことが最も効率的であるということを知っているからだ。

そして、それは表層的ながらも、「お客様に幸せを提供する」という使命と齟齬がない。

お客様が思いもつかない、がしかしその企業が本質的だと信じる幸せ(実はこれこそが使命ということばに最も近いのだが)、を提供することはすばらしいことだけれども、それが理解されなければお金は支払われず、ビジネスしては非効率なので、そういう使命を具現化することは自然と回避される。

というわけで、マーケティング上、有効なストライクゾーンにある商品コンセプトは、「お客様が、これまで得た自分の知識の範囲内で、これを買えば幸せになれるという確信がもて、伝達や商品などの点でアプローチにいくぶんかの新規性のあるもの」となる。

結局、最初の「お客様の生活を幸せにする」という使命の地層は、さほど 深いものではなく、地表面に近い層の幸せを提供しているにすぎない、ということがよく起こる。

ここからは飛躍なのかもしれないが、一つの観察の結果として、立派な企業使命をもち、売上げも利益もあげている会社の中に、 精神を病む人が少なくないのは、単によく言われる人間関係とか、実力主義が、ということ以外に、もっと深いところで自分の時間と努力と引き替えにしているもの=立派な企業使命の下で提供している「幸せ」のレベル、に心底納得していない人が多いことも理由の一つなのだろう、と思う。

かつては、「作ったモノが自分とは無関係な存在である」という「モノを軸とした労働の疎外」が問題となったが、

モノがあふれる今は、「モノやサービスが提供しようとしている幸せのレベルに、自分が納得できていない」という「意味を軸とした労働の疎外」が起こっているのかもしれない。 

 

この「意味を軸とした疎外」を避けようとすれば、提供者である自分の幸せと、「お客様」の幸せ判断自体の差が埋まる以外にない。

 

インターネットがない時代は、お客様は、さまざまな商品やサービスが提供する内容について、 それを使えば、どの程度自分が納得するレベルで幸せになれるのか、を判断する情報も手段も少なかった。

かつての時代の井戸端会議での口コミは参加者が求める幸せと得られる幸せの認識レベルを調整するものであったが、その内容は、違う井戸端に波及するものではなかった。 リアルな口コミの場であった井戸端は今やカフェやランチに場所を移し、それは井戸端と同じように場所を越えはしない。

一方、最も大きな変化として、ソーシャルメディアのそこここに疑似井戸端が出現し、それらが、時間と空間を越えはじめている。その疑似井戸端で、お金を払うお客様は、自分が求める深さの「幸せ」度と、提供される「幸せ」度の落差について、 解を求めればさまざまなソースの情報である程度埋めることができるようになった。商品を入り口にして、企業使命、その内容が目指す本当の意味と深さ、さらにそれを受けた表現系と整合性について、チェックをすることができるようになったのである。

企業使命の表現系と整合性がチェックされるようになる一つの前兆として、広報と広告の区別が薄れてきた、ということが起きている。今後、広報と広告の差がどんどん縮まり、一つの言葉になるような状況になれば、そのうち、企業の有り様を根本から変えていくような地殻変動が起きるのではないか、と思う。 

 

ソーシャルメディアのさらなる広がりによって、「意味を軸にした疎外」が解決していくのか、期待しつつ見ていきたいと思う。

データの結縁

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ありあまるデータがあっても使いきれていないところがある。

それは、分析ができていないから、という人が多い。

 

これはどこまでも正しい答えだが、「使いきれない」という問題の解決には中途半端な答えでもある。

 

分析ができない最大の理由は、あるデータを別のデータと結びつける、という作業が不十分なことによる。

データ同士を「結」びつけて、その「縁」を作ってみること。

そして、その「結縁」からどういう世界が見えるか、思考のシミュレーションをしてみること。

そのシミュレーションをするところからが、分析。

その「結縁」→「分析」のパタンの集積が、新たな思考を生むのだから。

 

そういえば、このデータの「結縁→分析」、「料理」に似ている。

素材と素材の組み合わせから、その組み合わせの結果となる、

味や食感、香りを想像してみること。

新たな組み合わせと、結果の想像、そして、現実との比較、その結果の蓄積、そして新たな創造。

データの結縁によって生まれるのは、分析結果と呼ぶよりは、新たな世界の青写真と呼びたい。

そうなって、はじめて、データが使えるということになるのだろう。

中庸の利

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貴き者は恐怖を免れず、賤しき者は飢寒を免れず。

                            弘法大師

 

(身分が高くお金を持っている人は、その地位や財産を失いたくないという

恐怖から逃れることができず、身分が低く生活に困っている人は、

飢えと寒さという現実から逃れることができないでいる)

 

これから凋落するであろう日本で思うこと。

明日を考えすぎることは、「今」を見越すことでもある。

ビジョンとか展望とかいう言葉で、明日のために今日を見越すことが奨励される。

 

しかし、一方で、どこまでも「今」に集中することこそが、生き物の根源的な幸せなのに、と強く思う私がいる。

この次の食事のおいしさに全身全霊をつぎ込める環境を作るにはどうしたらいいか、というように

近い未来を紡ぐことの方が正しい場合があるのではないか。

今を見越さずに、明日を考えるやり方。

「今」に集中して、明日はその結果にすぎないと考えてもいいではないか。

 

「今」を同定して、貴き者でもなく、賤しき者でもない人の人口が

これほど多い時代と国が今までにあっただろうか、と考えてみると、

あなたが「今」に集中して生き切ることが、幸せにつながる、と、どうして誰も言ってくれないのか。

 

そんな時代が今までになかったからである。

 

活版エキスポ盛況でした。

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「活版印刷から始まる 古い未来 の旅」と銘打たれた活版エキスポが、

大阪キタのブリーゼ・ブリーゼ2Fパブリックスペースで行われている。

関西活版倶楽部による展示。2/11(金)から27(日)までの開催。

展示会場では、見て、さわって、また、見て、さわって。

文字について、視覚と触覚の相互作用の連関を楽しむことができる。

感覚の相互作用を繰り返すことは、人間は好き。

だって、食べること、愛することは感覚の相互作用なのだから。

 

いらしていたお客様は、知らず知らずにそんな感覚の相互作用を楽しんでらしたように思えた。

決して大きくないスペース、しかし、

活気に満ちあふれた幸せな場が生まれており。

 活版印刷会場.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「活版印刷メッセージカード」と活版印刷切符を購入すると、

12文字までのメッセージをカードに印刷する活版印刷を体験するワークショップに参加できる。

 

参加チケットとしての「活版印刷切符」がコレ。

アナクロ切符.jpg

 

この切符、

アナクロ駅発、ですって。

かわいいですね。

 

で、好きな活字を12文字まで拾います。濁音も含むカタカナとひらがな12文字。

活字拾い.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

で、自分で決めた活字を組んでみます。

活字.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

活字の「組」が醸す、すてきな風情だと思いません?

 12文字の活字.jpg

 

 

 

 

 

 

 

で、「手金」の機械にこの活字を入れて(あ~、写真が切れてて残念)、

しっかり握ってがっちゃんこ。

手金.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

できあがりが、これ。

今回は、「ひとふでんずで あそぼう!」と声がけしたので、

次は、「ひとふでんず」そのものの、カードですね、高崎社長。

 活版印刷カード.jpg

人間は真実だけでは、

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生きていけない。

山田太一氏のことばが、新聞の広告特集で掲載されていた。

マーケティングのことについて書くのは大嫌いだけど(うー、この天の邪鬼ぶりが毎度問題なのだけれど)、

「人間は真実だけでは、生きていけない。」

という「真実」は、単に芸術表現だけの話ではなく、

金儲けをもくろむの上でも、この「真実」を深く咀嚼した上での思考・企画・実施が肝要なんだろうな、と思う。

 

えっと、こんなこと、深く咀嚼しなくても、感覚でこれがデキル人はいるだろうが。

きっと、そういう人は私のブログの読者ではないはず。

 

歯が白くなるとか(洗濯物でもいいけど)、 しわがなくなるとか、やせるとか、

いろいろごにょごにょぐちゃぐちゃ希望はあっても、

最後は焼かれてくすんだ白いスケルトン(骨)だけになるってことはみんなわかっている。

そうなんだけど、それまで、たくさんの夢を見させて、美しくだまして。

と祈念するのは万人共通なのだ。

 

そうなのだ。

人間は真実だけでは、生きていけない。

 

真実でなければ、それはだまされているということに思いが傾きがちだが、それはもうちょっと含みがあって、

だまされているというように、認識させずに、どうその気にさせるか、ということが問題になる。

 

閑話休題。

だます、と、その気にさせる、の違いについては、実のところ、あんまりない。

故意、と、未必の故意、ぐらいの違いである。

 

なので、それを意識するかしないかの話だとして、まあ、両者ぐっちゃにして、

だますとか、その気にさせるとか、というのをかたーく言い換えてみると、

「対象に前のめりにさせて、お金を出させる」ってことんなんだろうと思うけれど、

そのためにはどうするかってのが、マーケティングの主題である。

 

「本質的には意味がないかもしれない前のめり」のために、いらない(あ、失礼、「余分な」、と言うべきか)お金をやってるんだからね、

というのをお互いに了解しつつ、意味があるのかないのかわからない表現系に向かって、

一応それらを価値あるものとみなして、生を充実させることにブレーキをかけずにドライブするのが、消費経済のルールってもんだし。

いや、それが、いい、悪いを言っているのではないですよ。

いい、悪いは、私には語れないです。

 

なので、いい、悪いは置いておいて、

「今と、予測可能な先にある、私の生」を充実させてくれるように思わせてくれる、

いろんな些末のプラスαになりうる、「商品・サービス・システム」ってものがさまざまにあるんだけど、

選ばれたプラスαを確実にお届けするのが、マーケティングで言うところの「価値」を形成するシステムってもんなんだろう。

 

さてさて、何であろうとも、

本質的な理解というのは、自らが対象とするものの存在の根幹を揺るがす洞察の上に立って、

その洞察が正しいとしたならば、その表現系について、十分な分散が考慮された上でなされることである。

 

上記の3行を了解せずにマーケティングを語っているであろう人の言葉については、

私はいつも違和感を感じてしまう。

 

えっと、私が違和感を感じたところで、n1に過ぎない、ってことを勘案した表現にすると、

私という生物にとって腑に落ちないだけなんだけど。

上澄みと沈殿

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きれいにアクをとった「上澄み」スープか、アク・オリ・カスが渾然となった「沈殿」物か。

 

一応、会社のブログなのに、酒を呑みながら一日目を書いてしまってから、

このブログは、今の私の思考やありようの「上澄み」披露ステージではなく、「沈殿物」の滞留場所となってしまった。

澄んだ味のソースを作る際に、沈んだ部分を集めて作った濃厚な「どろソース」、のような沈殿文章が、一日ひとつ増えていく。

会社なのに、最初に作っちゃったブログが、どろソーステイストだったとは、これ如何に。

 

で、今更なぜに、この話を書くかというと、急にFACEBOOKをやり始めたことによる。

FACEBOOKは私にとっては、自分の中の「上澄み」部分に近いところ。

一応、ご機嫌良くしている私を出してみたりしている。

基本的には明るい性格だとは思うが、そういつでもご機嫌がよいわけはなく。

しかし考えてみれば、憤然としている顔が、

告別式の写真として選ばれることはないのだし。

 

しかし、それはそうと、あの清冽な蓮は泥の中から茎を伸ばして咲くのだ。

きれいなだけのところから、すべてが生まれ出るのではない。

人間は弱くて、ずるくて、愚かで、さぼりがちな存在だとしたら、

それは私の中に捨てたくても捨てきれないほど、こんもりある要素であって、

さらに見渡せば世の中にもたくさんあるから、

自分の中に、周りに、

いついかなる時もずんずん沈殿してたまっていく。

 

沈殿すること自体を否定せずに、どうすれば、それを耕しながら、伝えるという茎を伸ばせるのか、ということについて

チャレンジするために、泥をかき回してみたりしているのが、ここである。

 

いや、それって、悪人正機説と似たような考えよね、と気づいて呆然とする。

人間ってぐるぐる回っているだけなんだな。

法然と親鸞の時代よりも進歩しているとしたら、科学の発展のおかげで、

蓮を育む泥の中には、いろんな成分が入っていて、実は泥はすごいんだ、ということがわかったことぐらいだろうか。

 

かたや、人間の思考の泥には、どういうすごいところがあるのか。

それは、今の科学でも答えは、ない。

なぜ、悪人正機説をとれば、みんなが幸せになれるのか、おそらく説明を尽くすことはできない。

きっと、このことは数百年たってもできない。

こういう部分をどうにもこうにも説明できない存在が、人間なのであり、

その限界を知りつつ生きる中に、逆説的だが、未来の希望が生まれるモトが埋もれているのかもしれない。

 

あ、すっごく、どろどろしてきた。これにてかき回し納め。

 

なんだか急に、どろソースでお好み食べたくなってきた!

ぶちこみ。

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そういえば、この会社を始めるとき、これまでの人生ぶちこみでやろうと決めたのだった。

 

大阪は淀川区、身体障害者が独学でエレクトロニクスを勉強し、起業した零細な計測機器メーカーの長女として、

父の会社の東京進出時に生まれた私。父の直観的、といえば聞こえはいいが、

ふつうには理解できないワンマンぶりを幼いときから見聞きしていて、

それに辟易しつつも、身体のそこここにそのDNAが潜んでいる自分を否定できずにいた。

 

しかし周囲は、なぜか自分よりもはるかにお上品でインテリな人たちばかりだったので、

その面倒なDNAを、知らず知らずのうちに封印していたのだった。

でも、その面倒なDNAも強みになるのかも、と思い直し、勇気を持ってルーツに戻ろうと決めた。

ええかっこしてても、仕方ないし。 

 

きっとそれは、昨日、大阪の活版印刷の雄、高崎社長にお会いしたことが引き金になったのだろう。

そう、きっと、私、すっごく、ええかっこしてたのである。これまで。

 

さて、その「ルーツ」イメージつながりで、自分の根っこを大事にしているまた別の人と一緒に仕事がしたくなって、

今日は、脱サラして、木工作家になられた先輩にものすごく久しぶりに連絡をしてみた。

iguの額を作ってもらおうかな、と思いついたので。

 

クリエイティブで、面白い先輩に連絡をとってみたら、すぐに返事をいただいた。

相変わらず、図体は大きい(はず)なのに、それに似合わず(失礼!)、お茶目なトーンでメールが送られてきて、

なんだかとってもうれしいのです。

 

どんどん新たな展開が生まれるような気がします。

あ。

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通行手形を得るために、思いの外、きっちしご縁があったところと、

もともと自分という存在そのものがぴったしはまるところと、

ちょっと混同してたな、というのが今日の学び。

 

そうか。そうだったのか。

最終セッション

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バイリンガルモデレータトレーニング、第二グループ、最終セッションである(第一グループは先週終了)。

6月から開始して、しみじみ5回目。今日は模擬のインタビュー。

みなさんは、テーマについてのフローを作成して、

実際に約1時間のインタビューのためのフロー準備中。

途中で話が終わっちゃったらどうしよう。

いえいえ、改善のためのアイデアは無限なので、

ありとあらゆる方向から話を聞いてみてくださいね。

トレーニング風景.jpg

 

 

 

 

 

 

インタビュアーになっていただいた方にいろいろ感想をお聞きして、

こんな風に感じた、こうすれば良かった、意見を交換させていただきました。

学びの会、私もすごく勉強になりました。

みなさま、本当にご苦労さまでした!

 

 

中村藤吉本店のチョコ

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昨日、月光荘お越し頂いた、伝耕サポートメンバーの方から、

素敵なお菓子をいただきました。

宇治の中村藤吉本店の濃いめのチョコ詰め合わせ。

茶色いのが濃いめのほうじ茶チョコと、緑色のが濃いめの抹茶チョコ。

 チョコレート.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

抹茶チョコを開けるとこんな感じ。

チョコ全景.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お味は、どちらもトリップ感満載の危険なおいしさ。

甲乙つけがたいですが、あえて言えば、私は、

最初から華やかな香りと味の抹茶チョコも素敵ですが、

最後にぐっとくる、ほうじ茶派、かな。

いつも滋味あふれるおみやげ、ありがとうございます。

銀座での最終日

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作品は好き嫌いがはっきりするものがいい。

iguの作品はそういうタイプ。急遽決まった、iguのせかい展、最終日。

iguのせかい.jpg

 

実際にお見せしてみると、

いろいろな反応がわかって、

ホント、勉強になりました。

 

思わぬところで、iguの絵を見つけてくださって、

わざわざ足を運んでいただいた方、

ふと通りかかって、

大好きになっていただいた方、

いろんな有り様が、

まったくご縁、としか言いようがなく。

このご縁、大切にして参ります。

 

 

 

同時に開催した月光荘さんの8B鉛筆を使ったひとふでんずワークショップも

楽しかったですよ。

また、別途お知らせしますね。

バイリンガルモデレータ

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トレーニング最終日。今日は模擬インタビュー。

さて、どうなることやら。

みなさんがんばってくださいね。

 

午後は、友人が訪れてきてくれて、旧交を温め、

夕方は「ひとふでんずワークショップ」と「iguのせかい」展、日曜が最終日。

東京は銀座に向かいます。

 

ではでは、みなさんも,

HAVE A NICE WEEKEND !

とりとめのない私

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首尾一貫しているとか、筋が通っていることが重要、とか言われると、

どうにもとりとめのないように見られる私は、

なんだか、後ろめたい気になったものだけれど、

最近は開き直っている。

 

というのも、一見とりとめもなくおもえるのは、

ほんとうにチャレンジしたいことがあって、

その第一ステージにものぼれないから、

あっちから、こっちから、むこうから

アプローチしていたことの結果なわけで、

早い話、試行錯誤ということなんだろうけれど、

試行錯誤、という言葉が使えるのは、

目的が主体と客体で共有されているときに限られる。

 

共有されていないときは、

何に対しての試行錯誤か、ということが相手にはわからないから、

とりとめもなく思えるのもいたしかたない。

 

目的が阿吽の呼吸で共有できる時代は終わった。

 

わかりやすい地位とか、お金とか、世間体とか、

そういうものを目的として共有出来ない、しない、したくない、今の時代は、

個々人がとりとめもなくやっているのは、

他人の模倣がさして有効ではないからであって、

一見とりとめもなくみえても、

努力の質に関しては、

その前の時代よりも、

じょうとう、なのかもしれない。

うごめき

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伝耕逢阪分室黄色い家は、おかしな空間で、

仕事部屋として数ヶ月になるのに、

いまだに、不思議な感覚にとらわれることがある。

 

今日は、最近の動きについていろいろ話していたら、

なんだか、話していることは聞こえなくなって、

うごめいているだけの我ら、が見える瞬間があった。

 

うん、よい兆しにちがいない。

 

こんなこと書くと気持ち悪がられるかな。

単に、目がだめになってきただけでなく、

耳まで遠くなってきたのかもしれないけど。

しっかり生まれてきた人たち

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いろんな仕事をやりながら思うこと。

一緒に仕事をしていてすごいな、楽しいなという仲間を見ると、なぜか、しみじみと、

「しっかり生まれてきたんだなあ」と思う。

もちろん、しっかり「育ってきた」という成長の過程を軽く見ているのではない。

その前提として、

各人が生まれてきたことをしっかり受け止めて育む場があった、にちがいない、

という過去の文脈に思いを馳せ、

それで、「しっかり生まれてきたんだなあ」と見てもいないのに、

妙に納得してしまうのだ。

 

生まれ出た後、たどる運命はいろいろでも、いったん、それは無視。

しっかり生まれてきた、という、「ある特異な時と場所の中で祝福されているイメージ」

を自分の中に持つことが、

いつ何時でも、はじめ、に返るために、重要なんだろうと思う。

しっかり生まれてきたな、と思わせてくれる人たちは、

なぜか、どんなときでも、はじめ、に還れる強さがあると思う。

だからこそ、一緒にいて、すごいと感じるし、楽しいと感じられるのだ。 

 

貧相な厩、しかし祝福のもとに生まれたキリスト生誕のシーンがなぜ重要なのか。

今までは、単に、キリストの話、としてしか見ていなかったのだが、

そうじゃない、と強く思った。

スイッチONのまま

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縁というもの。

人間にはいっぱいスイッチがあって、ON・OFFの切り替えを意識的・無意識的にしているんじゃないかと思う。

縁がつながるときは、スイッチONのままが普段より長く続く、ような気がする。

今回の月光荘画材店画室2の「iguのせかい」の開催について、こんなことがあり。

 

ちょうど銀座の月光荘のギャラリーに突如、空きがあったのを東京メンバーが見つけて、すぐさま電話をくれた。

その電話を受けて話を聞いているうちに、単に「空いているギャラリー」についての話でなくて、

「絶好のギャラリーがみつかった」というように聞こえたので、素直にそう受け取ることにした。

 

リードタイムが1週間ほどしかなかったので、どうしよう、と、iguに意向を確認すると、iguが最初に個展をした京都の恵文社で売られていた月光荘の商品が大好きで、

彼女は、まだ訪れたことのない月光荘のギャラリーに自分の作品が置けることを喜んだ。

「やってみたいです。」 

 

ふーん。

 

なんせぎりぎりに決まったので、お仕事関係も含め、ゆかりのある方々に、もう、展覧会が始まってからご案内を出すと、

ある方から、

月光荘は私の大好きな場所なので、ぜひ!」

というご連絡があり、

その方と月光荘のイメージがかぶるような印象を持ったことをメールでお返しすると、

「実は、関西から東京に出てきて、いの一番に寄ったのが、月光荘。それは、京都で、月光荘の商品と恵文社で出会ったご縁なので、機会があれば恵文社にぜひ。」

という京都の恵文社へのお誘いをいただいた。

「あ、実は、iguが2004年、最初に個展をしたのは京都の恵文社でして...。」なんて返事をお返しして、

なんだか、時空間を越えた、ぐるぐるしたご縁に、その方とメール上で、いい意味でぞくぞくしたのであった。 

 

そういうもの、ほんとうに、じっくり、大事にしたいと思います。

 

で、「縁スイッチ」ということについて、サービス・物・人をつないで金儲け的視点で人為的にくくろうとしているのが、

セグメンテーションの本質なのだろう、とか、そこで考えるべきタッチポイントのコントロールとか、チャネル戦略とか、とか、考えるわけですが、

それって、

なんだか、「てっぱん」で未婚の母になるであろうキャリアのおねえちゃんが揶揄されているような、

一見すごそうに見えて、そんなふうに表現しなくてもいい偉そうな話になるのでやめときます。