死にかけ度

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今日は術後の乳癌検診の日であり、今年初めての病院である。

私の通う病院は、乳癌の専門クリニックなので、待合いに居る人たちは大きく二分されている。

①乳癌の手術を受けて、経過観察の人たち

②乳癌が疑われて検査中の人たち

 

私は①。

ホルモン剤を投与されている少なくとも5年間はこの病院にお世話になるので、

病院の待合室はもう待合いリビング。日常の一コマに近い。

 

②の人にとっては、病院の待合いは宣告までの止まり木のようなものだろう。

乳癌などと宣告されれば、たちまち、そこから落ちてしまうような不安と戦っているに違いない。

 

②らしき人たちを観察していると、

「乳癌と診断されたら」といったようなパンフレットを熱心に見たり、

そうかと思うと、次の瞬間は、じっと、フロアの一点を凝視していたりする。

たしかに、私もそうだったのだ。

 

いや、そうだった、とも言えるし、

私だって100%治ったなどとは言えないから、

この路線での次のステージの宣告を待つ身である可能性も考えると、

自分で気づかぬうちに、フロアの一点を凝視ししていることもあるのかもしれない。

別の病気にスライドして一生を終えるシナリオも考えながら。

 

生きているということは、どんな場合でも本質的には死にかけの宙ぶらりんなんだ、と声をかけてあげたいけれど、

死にかけ度の絶対的なレベルと、それに対する認識の組み合わせは人の数だけ無限にあるわけで、

概念的には正しいが、その概念の正しさを知ったところで、

無数にあるパタンの方略もまた無数に存在することを了解するだけである。

そして、

究極的には、お互いの孤独を思い知ることになる。

 

お互いの孤独を知る、ということは、深く正しいことなんだろうけど、

じっとそれを知って見つめるには、覚悟がいるのだ。

 

それも、力のはいった覚悟ではなく、力を抜いた覚悟が。

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