2011年1月アーカイブ

楽しく耕す、前提

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生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、

死に死に死に死んで死の終わりに冥し。

                      弘法大師 

界隈でひらくiguの世界

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街の中に、合理と非合理な要素が融合して成り立っている状態を、

都市計画の中で「界隈性がある」

という表現をするらしい。

界隈とは、もともと付近、といった地理上の範囲を記すだけではなく、ある種「猥雑」なものを包摂するというように場所の意味を含むことば。

「iguのせかい」のための搬入作業を夕方から実施。

まさに、銀座の大通りから外れたあたり、「銀座界隈」と呼ぶにふさわしいエリア。

老舗、飲食店、バー、画廊、いろんなものが雑多に入り交じっており、全体としてなんとなく銀座の雰囲気を漂わす。

 

合理的な世界を突き抜けて、非合理を楽しむ、といった、遊びのオーラが似合うそんな街。

「iguのせかい」、いよいよ明日、1/31(月)から2/6(日)まで、銀座月光荘画室2*にて開催です。

  *月光荘 画室2 :銀座8丁目7-18

ゆたんぽ登場

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いまどきのシリコン製ではなく、昔ながらのトタン製。

娘が足の外周に斑点状のしもやけを作り、これで足をぬくめるとごきげんである。

今時の小学生も結構レトロなのね。

撮影に際し、これほどフローリングに不似合いなものもないと思い、畳の上でカシャッ。

昭和テイスト満載である。

 

ゆたんぽ.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ほんとに冷えますね。

来週末企画している東京でのひとふでんずワークショップ、「ゆたんぽ」アイテムも入れようかな。

 

 

目の色が変わるヌーボー

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ワインではなく、オリーブオイルのヌーボーには目の色が変わる。

先日、帰郷して我が家を訪れてくれた在フィレンツェの彼女が置いていってくれたのがコレ。

絞りたてオリーブオイル.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もちろん、火なんか入れず、そのまま、醤油のように生のまま、何かにつけて食べる。

そういえば、オリーブオイルって、オリーブの実を搾ったもの、つまり果汁よね、

と、油という慣れ親しんだコードの前に、

鼻が、舌が、そういう緊急信号を送ってくる。

今晩のメニューは、

きのこと蕪のスープ、しまあじとたこのカルパッチョサラダ、じゃがいもとカチョガバロのグラタン、

そして、万能きんぴらごぼう。

ワインはイタリアワインではなく、なぜか南アフリカのフルーティ超お手軽ワイン。

いや、でもこれがまた不思議と抜群な組み合わせだった。

 

このオリーブオイル、がんがん使っているので、すぐなくなるだろうけれど、

それってすごく、すごく悲しい。

冬眠中

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ここしばらく、頭が冬眠している感じである。

いろんな本を読んでも、いっこうに頭の中がかき回されない。

かといって、整理もできない。

人の言語の力を借りるのではなく、

自分のもっと奥深くから、何かを掘り起こす必要があるんだろう。

 

そして、掘り起こされた「もの」を表現するために、

その「もの」の輪郭を言葉にすることから始めるしかないのかもしれない。

 

    「私の言語の限界が、私の世界の限界である」 ヴィドゲンシュタイン

 

鳥インフルエンザ

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渡り鳥が感染しているために鳥インフルエンザのひろがりを押さえることができない。

野鳥に近づかない、さわらない、という、今まで聞いたことがない対応が専門家から出された。

口蹄疫や鳥インフルエンザが起こると、「処分」という名の下に、たくさんの生き物が殺される。

 

殺処分されるにあたって、

いったい何のために生まれて、何のために死ぬのか、

ということについて問うことすら知らない生き物について、

それだけを考えて生き死にを決められる生き物が思いを馳せてみる。

陳皮

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農薬の使っていないみかんの皮を乾かして、

漢方の「陳皮」もどきを作ります。

で、お風呂の中に入れて、陳皮風呂。

 

入浴する時に感じる「極楽感」は

あちらとこちらが融け合って、

境界がなくなる感覚のこと。

それは、

他人と自分、自分と世界の結界をゆるめるもの、

というように語る人がいました。

 

とにもかくにも、

境界があやふやになる極楽感を味わいつつ、

じっくりあたたまりましょう。

iguちゃん、銀座で個展します

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ひょんなご縁で、急遽、1月31日から2月6日まで、東京は銀座月光荘画室2ギャラリーにて、

iguのせかい ~iguの猫・igu伝・iguのカードあれこれ~

と銘うって、iguの個展を開催させていただくことになりました。

 

月光荘といえば、あのホルンのマークで有名な画材屋さん。

月光荘ブログを見ていると、素敵な画材や、個展の案内、なんだか

心躍る内容です。

 

igu伝コーナーで詳細お知らせしますが、iguちゃんファンの東京近郊のみなさん、

お運びいただけるとうれしいです!

 

それにしても、なんとも素敵な店名ですが、その由来は下記とのこと。

 

歌人の与謝野鉄幹、晶子ご夫妻が、
創業者の故橋本兵藏を可愛がり
 
  大空の月の中より君来しや
     ひるも光りぬ夜も光りぬ
 
と詠んで「月光荘」と名付けたのが由来です。
トレードマークは「友を呼ぶホルン」
当店の誇りは自家製品だけを扱い、
これまでに26の製品に特許を得ていることです。

 

店名に恥じない、26製品の特許ですって。

すごいですね。

 

 

イタリアより

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毎年、友人がフィレンツェからこの時期に帰郷。

語る。

 

フィレンツェに在住して、早12年である。

 

フリーでひとり、海外で生きていくこと。

12年前、比較的安定した仕事を捨てて、

そんなリスクの低くないことをなぜやろうと思ったのか、

いまだに説明がつかないという彼女。

 

説明がつかない重大な選択、

誰にでもひとつやふたつあるような気がする。

きっと、そういうことはこざかしい論理を超えたものなのだと思う。

 

 

 

Unlearn(学びほどく)

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いったん、知識としていれたものを自分のものにしようとすると、

そのまま取り入れようとしても自分のものにならない。

何かのプロセスが必要になる。

 

ヘレンケラーは知識を血肉化するために、自分がたどったそういうプロセスを、

Unlearn、と表現し、

彼女から直接その話を聞いた鶴見俊輔氏は、

「Unlearn」を「学びほどく」という日本語に訳した。

 

「学びほどく」という日本語は、伝耕という社名の由来、

「耕してから、伝える。そうすれば伝わる。」という

考え方に通じる部分があって、うーんとうなってしまった。

 

 

伝耕2年目

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1月21日は伝耕の設立記念日である。

やっと2歳。

支えてくださった方々、ありがとうございます。

というわけで軽いお祝い。

伝耕お誕生日会.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何ができるようになったか、何ができていないか、

ということをつらつらと考えつつ、語りつつ、過ごすひと時。

 

 

寒いからこそ

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新しいことしよう。

アタマとカラダを動かそう。

よく笑おう。

おいしいものを食べよう。

出会いを楽しもう。

 

寒さに弱いので、こんなこと言い聞かせてます。

 

 

 

 

 

 

東京出張

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今年初めての東京出張。

明確な方向性を示唆できる内容まではなく、

ただし、 ある重みを含むことは可能。

非常に悩ましいのである。

 

仕事ってなかなかに難しいですね。

 

あかるい俯瞰

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最近、ちょくちょく手にとっては目を通している、鶴見俊輔先生、「もうろく帖」より。

 

1996年1月14日(日)の記。

 

 しばらく人間になれて

 おもしろかった。

 

こんな風に書いて、からからとわらう

おばあちゃんになりたい。

 

震災の日に

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今年も1月17日がやってきた。

この日、住み慣れた実家と、結婚を機に住みはじめたマンションの両方が壊れ、

親と私たち夫婦は同時に住む場所を失った。

 

いったいあれはどこにしまったんだっけ?と

いまだに、時折思いつくものがあって、

ああ、あれは震災の時に壊れたもの、とか

どうしても取り出せなかったもの、と思い返して、

諦めるときがある。

 

そのときに感じる、何とも言えないやるせなさ。

単なる、もの、ですら、16年の月日が過ぎても、そうなのである。

 

悼むとなれば、いかばかりかと。

 

 

 

小正月の日曜

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お正月を過ぎた今頃が好きだ。

年末年始のバタバタから解放されて、儀礼的なご挨拶も終わりほっと一息。

 

時期をずらして海外から帰省する友人、

年賀状になんとなく刺激されて、毎年会うことになる古くからの友人、

遅ればせで開催される本音の新年会とか、

ま、そういう感じである。

 

昨日1月15日の小正月は、年末年始忙しい女性がゆっくり休む正月という意味合いもあって、

女正月とも言われる。小豆粥など食べる風習もあるそうですね。

すっかり忘れていたので、今日、我が家は女正月ということにする。

 

あいにく小豆がなかったので、この前作ったバナナケーキに続いて、なんかケーキでも焼こうか、と。

残った黒豆とさつまいもで、素朴なケーキを焼いた。

こんな感じ。

小正月ケーキ.jpg

 

 

単純反復作業

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最近、急激に視力が落ちて、めがねが合わなくなった。

ホルモン剤の副作用として起こりえる、とは聞いていた。

そのせいかどうかはどうでもいいのだが、

あまりにも急に、なので、びっくりである。

というわけで、合わないめがねをかけ続けていて珍しく頭痛。

字を見るのを極力さけて、ざっくり手作業ベースの日に。

あまり細部を見なくてもいい、単純反復作業に限る。

 

なので、ささがきごぼう。

きんぴらでも作ろうか。

 

おお、そういえば、いりごまを使い切ってしまっていた、ということに気づく。

ならば、洗いごまをいりごまにするしかないか。

単純反復作業の次元がさらにあがった、スーパー単純反復作業。

とろ火にかけて、ひたすら混ぜる。

 

洗いごま炒り始め.jpgいやそれにしても、

並行処理がしみついた私に、

おとなしくこれだけができるわけがない。

そういう修行が必要なくらい、

落ち着きがないのだ。

 

というわけで、

この間に、米の精米をして、

米をとぎ、

胚芽の栄養のいっぱいはいった

洗い水を植木にやり、

そしてどうでもいいようなブログを書く。

なんてこった。

 

 

 

私の母は昔からいりごまを店で買わずに、いつも家でいりたてのごまを作って、

ごま和えなどを作ってくれた。

たった、これだけの手間で、何気ないごま和えもすごくおいしくなるのだ。

 

それだけのことで、おいしくなるとわかっているのだけれど。

何も難しくないのだけれど。

時間を見つけようと思えばできるのだけれど。

そういうものが単純反復作業すぎてくだらないと思うタイプではないのだけれど。

 

しかし、

効率とか、お金になる価値とか

そんなものがカラダのあちこちにすり込まれた私のTO DO LISTの中には、

面倒くさい、というコトバに逃げて、

じっくり「ごまをいるだけ」、という行為がしっくり収まるところがないのであった。

 

さて、ごまがぱちぱちはぜてきたので、火を止めて終了。

写真ではわかりにくいけど、ごまはきつね色に変化しており。

 

さて、一つ手前の単純反復作業の成果、ささがきごぼうを、

この、いりごまをいった鍋で作れば、きっと香ばしいだろうな。

 

いりごま.jpg

みえない物質

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なんといっても、「効率的」と言われるオフィスビル嫌いの私。

グレーやベージュベースの樹脂とガラスでできた、機能的なオフィスビルに押し込まれて、

毎日働かされると思うと気が狂いそうになる。

冗談みたいだが、収入やポジションといったことは、ほとんど二の次なぐらい嫌いなのである。

 

今日は、どうしても自宅に居る用事があって、ちまちまと仕事をしながら過ごした。

そういう日に、「ながら」、でできるのがオーブン料理。

完熟しすぎたバナナを冷凍しておいたのを思い出して、

ついでに冷蔵庫の端っこに埋まっていたチョコチップを発見し、

ちゃちゃっと、完熟バナナケーキ(チョコチップ入り)を焼いてみた。

完熟バナナケーキ.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

後半20分、家中がなんとも言えない幸せないいにおいである。

空間のすべてが変わったような感じすらする。

 

拡大すれば、そのにおいの粒子は見えるのだろうけど。

私には見えない。

 

目を転じて、

広く宇宙には、目に見えない物質やエネルギーがたくさんあるのだそうだ。

目に見えるのは宇宙全体の物質の4%ぐらいとか。

残りは暗黒物質とか暗黒エネルギーとかよばれるものらしい。

 

見えないものに囲まれていても、目に見えるものだけにすがり、見えるものだけで

幸不幸の判断をしがちな日常である。

が、今は、目に見えるものが大事とされるオフィスビルのような環境から遠く離れて、

目に見えないにおいに癒されている金曜の午後である。

調査手法の区分

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ここ数日調査レポートを書きまくって、昨日、何とかその怒濤の日々をくぐり抜けた。

なので、たまには仕事のはなし。

 

調査レポートといっても、マーケティングのための調査なのであるが、

その調査手法自体は、マーケティングから発祥したものではなく、

「何か知りたい、調べたい」テーマに対して愚直な歩みを進める学問の方法としてはじまったものだ。

 

その方法の中には、そもそも「売るためのネタを得る」調べ方は入っていない。

しかし、当然ながらマーケティングのための調査とは、要するに何かを売るための調べごとであり、

極論すれば「売れるために役立つ結果」以外は意味がないことになる。

では、「売れるために役立つ結果」とはいったい何なのか?となると、とたんに話が怪しくなってくる。

 

「売れるために役立つ結果」とは、

実は、「その結果を使うクライアントが売るためにコントロールできる範囲のアクション」

が予見されていてはじめて成り立つ。

そしてその予見をベースに、結果は構成されていないと、その結果は「役に立たない」ことになる。

 

では、「その結果を使うクライアントが売るためにコントロールできる範囲」について、

クライアント自身がどの程度明確なのか?

というと、これが実にさまざまなのである。

 

極端な例を二つ。

 

①売るためにコントロールできる範囲を明確に語ることができるクライアントは、

そのクライアントのビジネスのフレームが非常にがっちりしたものか、

そのクライアント自身の思考フレームが非常に固いか、のどちらかなので、

そもそものありようとしてファジーな調査などというものはいらない。

仮に調査を行うとしても、何かを探索するための調査ではなく、いくつかのオプションが用意されており、

その中のどれかを数字の力を借りて選ぶ、意思決定の補助のための調査となる。

シンプルな多数決を可能とする調査手法の出番である。

 

②一方、売るためにコントロールできる範囲を明確に語らないクライアントは、その時点で、何を調査結果として出せば

売れるために役立つのかという理路についての予見がない、ということである。

これは決して善し悪しの問題ではなく、そのようなタイプの問題も多い、ということである。 

この場合は、何らかの調査が必要なのかすら不明である。

まずは調査を前提としない仮説づくり、が必要になる。

調査手法だけに詳しくても意味がない。

 

マーケティングの調査を概観すると、

たいていのケースは①と②の間にある。

あるケースは①に近く、その調査は単に周囲の人々を数字で納得させるための重し、であり、

また別のケースは、仮説を作りつつ、仮説を壊すような事象を同時に調べることによって、新商品の開発をする、②に近いものであったりする。

 

要するに、マーケティングでの調査のありようは、第一義的に調査手法によって大きく異なるのではない。

クライアントがコントロールできる範囲について、どのようにとらえるのか、ということによってまずは大きく異なるのである。

それによって、調査担当者が何をサポートするかが大きく変わる。

そして、何をサポートするかを見極める巧拙が、クライアントのアクションにいくばくかの影響を与え、

その影響度合いによって、「結果が売れるために役だったかどうか」が斟酌され、

その結果の評価が、最終的にそれを導き出した「調査」という製造物に帰属されるのである。

つまり、調査そのものが評価の対象とはなっていないのだ。

 

さて。

研究手法上では、もちろん、①が仮説検証型、②が探索型の調査というように区別されており、

それは学問の話であるから、①、②の選択はすべて研究者にゆだねられている。

 

この研究手法上の区分は、そのままマーケティング調査の手引き書の中に引用されていたりするのだが、

マーケティング調査の中では、たいてい、クライアントと調査担当者という二者がおり、

それ故、両者の関係性によって調査というものの形式や質が決まり、

それが、学問とは異なったダイナミズムで語られるという現象について、

あまりこれまで語られることはなかったように思う。

 

ま、年末から連続した仕事に、今日、句点を打つ意味で書いてみた。

楽花生

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落花生が入った、千葉のお菓子「楽花生」をいただきました。

年末年始、帰省していた伝耕店子くんの故郷が千葉です。

 

昨年末の怒濤の仕事の続き、

ちまちまるんるん報告書をこさえる極寒1月のコーヒータイムに、

早速いただきました。

「楽花生 Dacquoise」

素朴な中に、落花生の香ばしさがひろがって、素直においしかったです。

ありがとうございました。

 

いつものように、漆器の蕎麦猪口に入ったコーヒーとあわせて、こんな感じ。

楽花生.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このお菓子のお店は、千葉にしか店舗がない「オランダ家」さんだそうで。

「郷土菓子」というわかりやすい打ち出し方が、素材の「落花生」とリンクしてて、

お商売のありようとして、ブレがないですね。

他の土地に行っても、ああ、あの味ね、と思い出してもらえる「郷土菓子」は

真に代替不可能なポジショニングとそれにふさわしい商品のおいしさで、

自然と全国区になりますね。

 

ホームページを見ると、ほんといろんな落花生ものがあり。

その中で、あれっと思う、レトロなデザインの生ケーキにも妙に感動したりして。

地元で長い間愛されていたんだな、という感じが伝わってきて。

 

スイーツも格好いいものが増えましたが、

いたずらに見た目スタイリッシュな有り様よりも、

オランダ家さんのこういう感じ、今の時代だからこそ、重要ですね。

ミャンマー漆器

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年末年始にミャンマーに仕事で行っていた旦那がつい買ってしまったという、

かなり真剣に漆器を作っているバガンの工房の象のティーセット。

祈るように彫り込まれた模様に緑と黄色と赤の漆が塗り込まれた食器は、

好き嫌いとか、趣味がどうの、という域を超えている。

 

何かよくわかんないけど、すごいものなんだから、これでいっかな、

というものの中にずっぽり埋もれて、人生を終えるのもいいだろうな、と。

 

そんなありように思いを馳せながら、模様のどこを取っても曲線、

どこまで追っても行く末のない道を、

あてどなくたどってしまうのである。

ミャンマー漆器.jpg

 

 

沈殿しているものの描写

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最近になってやっと、自分がなぜ活字中毒なのかが少しわかった。

ほんと、今ごろ、やっとである。

 

私という人、

できることならば、

自分の奥深い、根っこの近くに、しん、と、

沈殿していてじっと動かないなにかを、

よく見つめて、

その正体を見極めて、

描写したいのである。

 

がしかし、

動かないなにかが、なんなのか、よくわからないのである。

昏くてよく見えないし、

いや、見えているのか見えていないのかさえわからない。

 

だから、誰か他の人が書いたものを拾い読んでは、

そこに描写されている部分だとか、シルエットだとかが、

私の中の動かないなにかの気配と

どこか似ているところがありやしないかと、

つねに探しているのである。

 

なので、いろんなものが読みたくなってしまう。

他人が書いたものを読みたいだけなので、

それは自分を表現することとは全く異なる作業だと思っていたが、

それは、大間違いで、

自分にあるなにかを描写し、他人のことばを借りて

自分の心の中で表現したいせいであった。

 

読まなくても見たい、という人もいるだろうし、

聞きたい、という人もいるだろう。

 

私の場合は、読みたい、なのだ。

 

自分の中に何か沈殿しているものがあって、

それが自分ではよくわからなくて、

誰かに表現してもらうことをそっと待っている。

きっと、この傾向は私だけのものではなくて、

ほとんどすべての人にあるのだ、とも思う。

 

いろんな定義があるかと思うが、

それはたとえば、マーケティングで、

それがインサイトと呼ばれるものとつながっているのだろう。

 

この手の話、

お金がからむ仕事関連のことだし、

こざかしく表面的に流してしまいたい、という気持ちも正直あるが、

ここは逃げずにゆらゆらと進んでみよう。

 

身銭を切ってモノを買うということは、何かを失って何かを得るという、

リスクをはらむものなので、

どこか、自分の奥深く沈殿しているものと呼応することによって、

リスクに対する不安というゆらぎを、

まさに鎮魂しようとする本能が働く。

 

たぶん、インサイトがマーケティングにおいて効力を発揮するのは、

この鎮魂の本能ゆえ、なのだと思う。

 

鶴見俊輔先生の、もうろく帖

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髪にピンクと赤を入れて、つんつんにカットした日曜の午後、

ふらふらと入った本屋で、

米寿を記念して昨年出版された、鶴見俊輔氏の日々の覚え書き「書き抜き帳」をそのまま書籍化した本に出会って買った。

もうろく帖」と題されている。

 

京都の編集グループSUREのひとびとによるナマナマしくも素敵な本で、

奥付には、

「狸男」、という鶴見俊輔氏の雅号が添えてある。

鼠男や狼男じゃあるまいし、鶴見先生、自らを「狸男」、とは。

 

ま、「狸男」でもなんでもいいから、こんな波瀾万丈、博覧強記なおじいちゃんの、

コーヒーを入れる係とか、せめて入れ歯を洗う係(入れ歯なのかどうかは存ぜぬ)に、

任ぜられたいものだと夢想しながら読むのである。

 

その「もうろく帖」より、

たとえば、おそらく75歳であられたある日のことば。

 

75年はあっという間。

一日はゆっくり。

 

なるほど、そうなんだ。

 

また、別の日は、

 

自分個人の考えなどというものが

あるかどうかうたがわしいが、

あるとして、

それが人に理解されるかどうかを

棚にあげて、

理解されないではじきかえされる

という形で人の動きのなかでまじる

ことがある。

 

なんてぐあいなので、

そーーーーだったんだ、と

いちいちやられる。

そろえること、そろえないこと

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気に入った食器は10ずつ。

ホームパーティ仕様で食器をそろえていたので、

いったい、どれぐらい揃っていたのかわからないが、

阪神淡路大震災で洋食器のほとんどは割れた。

 

バブルもはじけたついで(?)にリーデルのシャンパングラスをホームパーティで使ったのは、確か地震の一週間前。

そうだ一月八日。

みんなで乾杯している写真は残ったが、シャンパングラスは残らずガラスの粉になった。

結局、生き残ったのは漆器。

割れないからね。

 

なんだか悔しくてそのあと買い足したワイングラスはどれぐらいあるのだろう。

とはいうものの、

最近、重めの赤ワインは飲めなくなってきたので、ボルドーの赤ワイングラスなんかもういらない。

奥深くしまわれたまま。 伝耕分室では、何を飲むのも黒い漆器の蕎麦猪口。

温度も伝わらないから、口をつけるまで何かわからない。

闇鍋みたいな闇飲み。

 

中身を伝えないからこそ、生き残るもの。

そろえてもつかわれないもの、そろえていないのにつかわれるもの。

 

私の手に最後に握られる杯は何でできているのだろう。

高級が高級らしくなく、

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安物が安物らしくないと、

らしくないモノについて、お金を交換するときの気持ちと行動が、だんだん、変質してくる。

 

少し時間をかけて、ダナ・トーマスの「堕落する高級ブランド」を読んでいたら、

ここ数年のブランドものの品質やセンスの低下が納得できて、なるほど、と思った。

ごく一部の金持ち用であった高級ブランドが、金持ちの気分を味わいたい中間層に向けた

大量生産戦略でグローバルに拡張した末の堕落、について語られている。

 

グローバルに人材の交流もあったらしいから、高級ブランドを大衆化するにあたり、

そもそもが大量生産の日用品プレミアムラインみたいなビジネスモデルで

アプローチしちゃった輩もいたのかも。

さもありなん。

堕落する高級ブランド.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

セレブやハリウッドと組んで価値をつりあげてきた高級ブランドも、

今や生き残りをかけて、H&Mやユニクロなどファストファッションと

手を結ばないと存在が危うくなっているという皮肉な状況。

 

ファストファッション x 高級ブランドの商品なんか目にすると、

「このお金を出して買っている価値はいったい何なのか?」と、

誰しも少しは考えるだろう。

 

これって、

いつでも飲める酒に、正月だけ金粉をふりまいて気分を盛り上げる、ということに近いのかもしれない。

実は、その金粉ですら、いったい、どんな金粉であるのか、知ったこっちゃあないな、と思いながら、

金粉をふっているわけで。

ま、でも金粉だから、気持ちだけ、ね。

 

でも、杯を重ねるごとに、そんな金粉はどうでもよくなる。

金粉に関わりなく、うまい酒はうまい。

ちょっとはじめは物珍しくてやってみるけど、

結果的に金粉はたまーにしかいらないものとして処理される。

 

そうよ、金って高級品だもの。

金塊のような高級品が中間層を狙って、金粉になったところで、

ホントは、たまに、で、いいのよね、と気づいちゃう。

気づかせちゃったらその時点でおしまい、じゃないの? 

 

とにもかくにも、

この異常とも言えるコラボの損益分岐について、長期的なブランド価値も含めて、

いったいどのような時間軸と、どれぐらいのマーケットサイズで考慮されているのか、

興味がありますデス。

 

きっと、そんなこと聞かれたくないと思うけど。

死にかけ度

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今日は術後の乳癌検診の日であり、今年初めての病院である。

私の通う病院は、乳癌の専門クリニックなので、待合いに居る人たちは大きく二分されている。

①乳癌の手術を受けて、経過観察の人たち

②乳癌が疑われて検査中の人たち

 

私は①。

ホルモン剤を投与されている少なくとも5年間はこの病院にお世話になるので、

病院の待合室はもう待合いリビング。日常の一コマに近い。

 

②の人にとっては、病院の待合いは宣告までの止まり木のようなものだろう。

乳癌などと宣告されれば、たちまち、そこから落ちてしまうような不安と戦っているに違いない。

 

②らしき人たちを観察していると、

「乳癌と診断されたら」といったようなパンフレットを熱心に見たり、

そうかと思うと、次の瞬間は、じっと、フロアの一点を凝視していたりする。

たしかに、私もそうだったのだ。

 

いや、そうだった、とも言えるし、

私だって100%治ったなどとは言えないから、

この路線での次のステージの宣告を待つ身である可能性も考えると、

自分で気づかぬうちに、フロアの一点を凝視ししていることもあるのかもしれない。

別の病気にスライドして一生を終えるシナリオも考えながら。

 

生きているということは、どんな場合でも本質的には死にかけの宙ぶらりんなんだ、と声をかけてあげたいけれど、

死にかけ度の絶対的なレベルと、それに対する認識の組み合わせは人の数だけ無限にあるわけで、

概念的には正しいが、その概念の正しさを知ったところで、

無数にあるパタンの方略もまた無数に存在することを了解するだけである。

そして、

究極的には、お互いの孤独を思い知ることになる。

 

お互いの孤独を知る、ということは、深く正しいことなんだろうけど、

じっとそれを知って見つめるには、覚悟がいるのだ。

 

それも、力のはいった覚悟ではなく、力を抜いた覚悟が。

方向音痴

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テレビで方向音痴がテーマになっていてふと思い出した。

私は「疑似」方向音痴である。

それも、手がかりが多いほど、家に近いほど方向音痴になる。

東京よりも、大阪、それも近場で方向音痴になる。

明らかにおかしい。

 

方向音痴の「疑似」具合について、どのように自分で認識したかというと、

それは20代のはじめにさかのぼる。

英語の地名標記がない極寒オーストリアの地方、それまで方角と道案内については頼り切っていた友人とはぐれて、ほぼ日も暮れ、周りに人の姿は皆無。

私はそのとき地図も持っておらず、その時代には携帯電話なんてなかった。

「ここどこ?マズい」と思った瞬間に、

まるで鳥になったような自分が居て、自分が立っている場所が俯瞰して見え、人気のない道をたどって人里の方向に歩いて行き、

なんとか宿を見つけて凍え死にをのがれた。

今日、ここでこうして、のんびりブログを書いているのも、そのときの俯瞰視線のおかげである。

 

でも、この俯瞰視線、日常は出てこない。

なので、近場で迷う。

生存の危機を関知しない限り、作動しない怠慢機能なのである。

さすがに、東京は日常ではないらしい(東京が日常ではなくて、よかった)ので、ひどい方向音痴にはならない。

なので、方向音痴ぶりを発揮し、俯瞰機能怠慢を享受できる状態は、私にとってSAFE & SOUND。

ということは、私の方向音痴はある種の幸せセンサーなのだ。

 

だから、方向音痴、直す必要ないもん。

ことば

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幼き頃、「書き初め」は一年を決するから、心して書く必要がある、と教わった。

 

仕事始めの今日、年始のことばを、文字にして残す、ということをいつもより重く考えたい。

 

文字がなければ、

時空を超えて、自分の願いを伝えることはできない。

たんに話すのではなく、文字を記すというのは、願いが起こるべきこととして、広い範囲にわたって未来を規定するのだから、

かつて、文字を操る人は時空を手中にするという意味で、国を操る人であった。

 

そんなふうに考えれば、自分のことや自分の会社について、文字にするということは、それらについて、

時空を超えて何かを予言することなのだ。

 

という重みを意識して、

今年は、

盤石な基礎を作ろう。それは、目立たなくても、地中深く埋め込まれたものであるべき。

ぬか

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今年はじめてのごはんを炊いた。

精米器を使ったので、5分つきにした後に、ぬかが残る。

 

ぬか。

ためておいて煎ってもので、ぬか床を作ろうかな、とか、

石けんとまぜてスクラブにしようかな、とか、

家具を磨こうかな、とか、

いろいろ考えてみる。

 

とにもかくにも、

ぬかを貯めておくための容れ物をきれいに洗って、

ことしはじめてのご飯でできた最初のぬかを入れた。

 

なんか、ちょっとうれしいな。

 

すこししかすすまないこと

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すぐにできることとか、

あしたけっかがみえることとか、

いっけん、

かしこそうなやりかたとか、

もう、いいんじゃないかとおもう。

 

どうせ、そんなの、すぐあきるし、

ながもちしないし。

 

すぐに、てのとどくみらいなんかにけっかをもとめると、

かえって、

みらいがくらくみえるってこともあるとおもう。

 

20ねんかけて、

やっと、

もようがうきあがってきた、

うるしぬりのじゅうばこをみて、

はっけんしたこと。

。のつぎ

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あけましておめでとうございます。

静かな元旦です。

 

新しい年の封が切られ、

さらさらと流れおちる時間の砂音が聞こえるような、

そんな朝。

 

いのちというものは時間であり、

時間はいのちである、ということに思いを馳せる特別な日。

 

今年もみなさまとご一緒に、すてきな時間の音に耳を傾けたいと思います。