市場調査DEPOSITIONING

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市場調査は「無味乾燥で、新しいひらめきがなく、センスがないもの」というイメージがあり、

一部のマーケターからは「やっても意味がない」などと悪口を言われたりする。

 

これは巧妙に仕掛けられた認知的なトリックの結果、である。

今まであまり指摘されたことはないが、

このトリックには、日本において、

属人的感覚に頼りすぎず、出来る限り人々の共通感覚と独自性を論理に転換しながら行うマーケティングというものが

いまだに少数派で、むしろ胡散臭いと思われている状況があり、さらに、一部の外資系をのぞいては広い社会的文脈において

さほど確立していないマーケターというものの存在の脆弱さが関係している。

マーケターの他者に対する「もっと評価されてしかるべき」望ましい自己のありようと、そうはならない自己についての印象管理形成へのあせりが関連したトリックなのだ。

そのために、報われない彼らにしてみれば、

市場調査をDEPOSITIONINGしておき、冒頭のようなイメージにブロックしておくということを無意識に行ってしまうことがある。

 

しかし、皮肉なことに、日本ではまだまだマーケターの地位が低いから、市場調査はもっと低く見られ、さらにセットでもっと低く見られている。

洞察にすぐれたマーケターならこの状況に気づかないわけはない。 

 

そもそも、マーケターという人々は、

多かれ少なかれ、「確かに」、データ(質および量)を必要とし、それらを意思決定の判断基準にするのである。

しかし、それらに頼りすぎると、

センスのないマーケターと思われるかもしれない潜在的恐怖を抱えている。

マーケティングが科学とアートの融合であるということに端を発する恐怖である。

マーケティングに関するアクションについてデータだけで判断できるのであれば、彼ら自身がセンスのない、

代替可能(つまり、属人的無能な)マーケターであるというレッテルを貼られることにリスクを感じている。

 

言い換えれば、

データとのつきあい方をどのように見せておくか、ということと、彼らの存在意義の建て方は、密接に絡んでおり、

実は、そのあたりに存在不安が絡む「イタイ」種族がマーケターというものである。

 

なので、

「市場調査を信用しすぎるな」と声高に言うマーケターは、

自分が調べるという行為を「あまり」行わずとも本質を見抜くことが出来、

市場価値を創造するための方向性を示せるのだという属人的能力を誇示したいからに過ぎない。

つまり、シーソーのように、一時的に調査の位置づけを相対的に低下させて、反対側に座る自分を高くあげてみせているのだ。

もちろん、数多く間抜けなマーケティングがあるように、数多く間抜けな市場調査がある。

間抜けな市場調査を見過ごさず、そういうものに頼らない自分はすぐれたマーケターである、と。

要するに、間抜けな市場調査にお金を使うよりも、

自分に使え、と。

彼らはそう言っているのである。

 

ふしぎなことに、

そのマーケターが現在、仮に非常に優秀であったとしても、

彼らが、その成長に際して、

「間抜けでない」市場調査と「間抜けな」市場調査をたくさん経験してきて、その経験の中からはぐくんできた、

本質を見抜く習熟過程の重要性にはほとんど触れられず、さらには、

どれが間抜けでどれが間抜けでない調査なのかということいついては驚くほど語られない。

 

なぜならそれは、 極言すれば

そういうことを誰もが習熟可能な能力として、ではなく、彼らの本来的な属人的優秀さに帰属させたいからである。

 

ま、生き物とは、

自分を絶対的に価値のあるものに見せたいものなのだろう、

そう思わなきゃ、生きてるの辛いよね、とも私は思うから、

それは仕方ないのだろうけれど。

 

でも、本当に自信があるのなら、そんなこと言わなきゃいいのに、とも思ったりする。

 

どっちも地位をあげようよ。

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