鎧と牢屋を捨てて

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転職された方と久しぶりに会食。

「なにが楽って、スーツから解放されたこと」とすがすがしいお顔でおっしゃる。

スーツは男の鎧、なんて粋がる風情もまだある。が、B to Bの業界ならまだしも、

B to Cで生活関係のメーカーならば、仕事の場面のほとんどでスーツなんか不要だろう。

 

前々から「スーツとオフィスビル」は、「男一匹、すごい仕事をしてるぞ」と思わせるための

「妄想小道具と大道具」のセットだと思っていたけれど、男性の中にもその無意味さを

認める人が多くなったものだと思う。

 

きちんとした印象のカジュアルな格好なら、そっちの方が気持ちいいし、

いい発想は生まれるし、長い目でみたら効率的だよね、ということになれば、

首を絞めた鎧で仕事をすることもなかろう。

 

さらに言えば、カジュアルな格好が主流になってきたら、その格好で、

牢屋のような無機質色のビルの中で仕事をすることについても違和感を覚えるようになる(ことを期待してみる)。

 

遊びたい、怠けたい気持ちを縛るために、鎧を着て、同一時間、みんなで一斉にものごとを処理するために、牢屋に入る。

そういうことが社会として必要な時代だったから、

人間の「かたちから入る」性質を利用したのが、鎧と牢屋、つまりスーツとオフィスビルだったのだろう。

 

安全基準や、耐震耐火性などのさまざまな要件はあろうが、

学校もオフィスももっと自由で創造的な建物にならないものかと思う。

建物が創造的ならば、そこで生まれる商品やサービスが創造的でないわけがない。

 

建物がもっと楽しくて創造的なものになれば、

子供や老人が入っても風景として違和感がないような作りになれば、

「かたちから入る」性質がそれなりに駆動して、

働くことと生活が融合した、

ワーク・アンド・ライフバランスな生態系が醸される可能性もある。

 

社会資本を楽しく、創造的なものにするということはただしくて、素敵なことに思えるけれど、

しかし、その価値はなかなかに数量化できないから、投資の対象にはなりにくいだろうな。

このあたりが、人間の限界とおぼしきところである。

 

でも願わくば、この国で生きていくことの幸せを考えると、

数量化しにくい価値を認めて、それにどう資源を振り分けるかということに知恵を使いたいと思う。

 

景気が悪くなって、経済をなんとかしてほしい、という町の声をよくきくけれど、

その経済をなんとかって、また、お金のため、会社のために、ばかみたいに忙しく働くだけの時代に戻りたいわけではないだろうし、

ほどほど、ってことだろうと思うけれど、でもその「ほどほど具合」が、哀しく、せつなくならないためには、

目に見える「しつらえ」についての質的な豊かさが、基盤として重要なんだろうな、と思ったりする。

 

鎧と牢屋をいっさいがっさい捨てたら、日本はどんなふうに見え、私たちはそれを見てどんなことがしたくなるのだろうか。

そんな妄想ワークショップやってみたりして。

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