8月29日、日曜。新聞の求人欄上にあるコラム「福岡伸一が語る仕事」4回目。そうだよなーと思ったので、備忘録として前半部分をここに抜き書き。
生態系の中に人間を位置づけてみる
人類には約700万年の歴史がありますが、その大半の時間、飢餓と不足と欠乏にさいなまれていました。そのために足るを知るリミッターのほうはほとんど必要なかった。だから現在、どんなものでも必要以上に占有しがちになるのですね。土地を占有し、お金を占有し、男は女を占有し、女は男を占有する。
他のほとんどの生物は、分を知っていて、自分が食べる食べ物はこれ、自分が行動する半径はこれくらい、鳴き合う周波数はこのくらいというように、資源をすみわけて禁欲していますね。すべての生物が、ありとあらゆるところに棲息しつつ、自分の分を守って、そこで、情報、物質、エネルギーをパスし続けている。それはものすごく多数でたくさんの球をけり合い、勝ちも負けもないサッカーをやっているようなもの。動的平衡を支えるために、できるだけ多種多彩なプレーヤーがいればいいというのが、生物多様性の理由です。
ところが人間は、根深く占有という呪縛に固執して、そのパス滞らせ、結果、自然が持つ持続可能性を阻害してしまう。この世の中の生物すべては、絶え間ない合成と分解の中にあってそれに身をゆだねているわけですが、人間だけは自分を担保する分子的な基盤がないと不安で仕方がない。だから、外的な制度に依存してしまいます。ロハス(Lifestyle Of Health And Sustainability/健康で持続可能なライフスタイル)という考え方は、外的な制度から人間を自由にしてくれる思想ではないでしょうか。
私たちのパラダイムを占有から少しだけ共有のほうに戻すことができたら、本来の生物の生態系の中に、人間を位置づけることができるんじゃないかという発想ですね。
「経済活動において、過度の占有の欲求を持ち続けられるヒト」というのは、世間的には「やる気がある、パッションがある」などと肯定的に評価され、そういう欲求を持ち続けられないヒトは、「やる気のないヒト」と扱われ、総じて評価が低くなりがちである。
過度の占有とは、もう少し言うと、「対象となる領地が明確で、そこにおける競合との競争に勝ち寡占すること」、つまり、「すでに数値化された領域での経済活動での勝者」。そこで活躍する可能性が高いのは「過度の占有欲求=競合と競り合い続ける欲求のあるヒト」。企業はそういう人材を欲しがるし、転職者や新卒者もそれを知っていて、道具としての能力が自分に伴っていることと同時に、本当はそうでもないのに、自分の欲求エンジンのタイプが「競争系」であるフリをすることになる。
競り合いを前提としない、勝ち負けの制度すら存在しないオープンスペースでこそやる気が出るヒトもいる。経済が牛耳る世界でその活動自体が窮した今、オープンスペースに向いたやる気から何かが生まれる仮説は成立しても、現実のものとしてその価値を斟酌する余裕も基準も周囲にはない。福岡センセイがお書きのように、すでにそこにある外的な制度に身をゆだねるのが人間なのであるから。
一方で、人間は、他の動物に比べて長寿であるから、欲求のない対象に対して、欲求のあるフリを瞬間的に演じることだけで人生を終われない。長寿ゆえに、欲求のあるフリをし続ける呪縛をかけつつがんばってみても、結局、あとに残るのは、多大なストレスである。人間が営む活動の中で、経済活動の割合が寡占である、と言ってもよい日本の中では、欲求のあるフリをすることによって生じる社会全体のストレスは膨大なものであろう。米国にいたっては、これで破綻しかけている。
あー、なんだか、いっぱいため込んで安心するためにがんばっていたつもりが、気がつくと、モノだけは山盛り、でも、自分は老い、子供は少なくなり、周囲の自然は消え、みんななぜか不幸そう、というのが日本の現状であるとすれば、「じゃあ、どうして、過度の占有欲求があるフリをしなくちゃいけないのか?」と思い始めたヒトは多いんじゃないかと思う。過度の占有欲求の残骸をみてしまった今の若い人や、過度の占有欲求があるフリをしなきゃ認められないんならやってやるわよ、と思って化けた男女雇用機会均等法組のなれの果て組(過度にオヤジ化したおばさん)とか、最近会社を辞めた人、過度の占有競争を興じた肉食系男子の腐敗を目にして転じた草食系男子とか。
しかし変わってきたのは、社会の空気として、そういう人たちを「負け組」と呼ぶことに、ちょっとためらいのある空気。
もしかしたらそれは、人間が、どこまでいっても自分を担保する分子的な基盤がない存在であることを認めはじめ、そういう存在自体が招く限界について、具体的にイメージしはじめたのかな、と肯定的にとらえてみる。
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