役には立つが中身のない方法

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A:「これだけやればできる・これさえしておけばよい」

こういうのは、自分の嫌いな分野、しかもしなければならない作業(試験とか)に対してやっつけるための方法であり、

それをクリアすればあとは、

B:「いくらやってもできない・それができても一部でしかない」かもしれないけれど自分の好きな分野について、

思い切り時間を使えることにするのが人生の幸せ、と私は思う。  

 

問題は、あんまりにも小さい頃からAばっかりやっていると、自分が選んだ分野ですら、Bに耐えられなくなること。

さらに、刷り込み効果を考えれば順番の効果は絶大に違いない。

人生の初期にじゅうぶんB時間を費やしたこどもは、B→A→Bの流れで生きることになるので、長じて、成果の出ないB時間ですら、どこかに楽しみを見いだすことができるが、

B時間が十分とれず、実質的にAで始まった人は、Bの数は同じでも、A→B→Bは苦痛でしかない。

Bを経験しながら、いつもどこかにあるかもしれない(ないけど)Aを探し続け、Aはどこにあるのかと焦燥感でいっぱいになる。

自分にぴったりのAなんかないから、Bを経て、自分で作ることにしなきゃいけないんだけど。

 

こどもは、入学試験に代表されるA作業に組み込まれる前の幼少期に、試行錯誤だらけの、いくらやってもたいした結果のでないB時間を「じゅうぶんに楽しめる」ように育てることがたいせつだと思う。

そういう意味ではふんだんに自然のある環境にこどもを置くことはただしいことだと最近とみに思う。

その点で、自分の子育てはあまりほめられたものではないが。

 

長じて発見することになるのは、

みんながいっせいにやる入学試験ならばAの種類も多く、よりどりみどりであろうが、自分のオリジナルをたてようとする分野にAはない。

自分がやろうとした分野がすでにAだらけなれば、それはもうつまらない分野だろうし、

その分野であろうとも、今あるAでなくて、自分なりのAをつくろうとしたら、その時点でたっぷりのB時間を過ごすことになる。

 

幼少期の時間は無限時間。

この期間に思う存分遊んだ人の中に、創造的な仕事をする人が少なくないような気がするのは、

大人になってからは苦痛になるかもしれないBの時間を「じゅうぶんに楽しむ」ことを知っているからなのではないかと思う。

 

そういえば、書店に平積みにされている本は、圧倒的に「A」タイプの本ばかり。

手に取ると、「なるほどうまくまとめられているな」と思うものの、

まとめられている行間に埋もれた実践を自分でしてみなければ、それは血肉にならない気もする。

うまくまとめられていればいるほど、B時間を泳ぐ指針になりそうなものだが、

人間は怠慢だから、

うまくまとめられているほど、B時間をやらずにわかった気にさせられ、やらないことに終わる。

ならばむしろ、

本など読まずに、やってみた方が得るものは大きかったのだろうが、

幼少時にじゅうぶんなB時間を持たなかった人は、そう思えないのかもしれない。

 

さて、

私自身、調査の報告なんかは下手なのであるが、仕事の一部なので話をさせていただくと、

①そんなこみいったことはいいから、要点だけ、とか、

②対象者の回答などは適当なものだから聞きたくない、という反応をする方が時折おられるが、

①のように反応する方に、商品アイデアを作っていただくと、なぜかかわりばえのしないものが多く、

②のように反応する方のコミュニケーションスタイルは、汎用性の低いその人の独特の演繹的ロジックで構成されていることが多く、

つまりそれは、その人自身の信念とリンクしているので、下手に反論するとあとでこじれることが多い。

どちらのタイプの方にも、多くを期待せず、当たらず障らずスルーするというのが、長いB時間を経て得られた私のA方法だ。

 

つまりこのA方法、役には立つが、中身はすっからかんである。

A方法、最初から知っていれば、すばやく適応してもっと「効果的な」時間を過ごせたとも思うが、

きっと、

この方法を前提に取り組んでしまうと、報告される対象として本質的な「仕事の質」が上がることはなかったのだろうとも思う。

 

答えのない時代に、たくさんの人が本を読んでいるようで、それはそれでいいことなのだが、

Aの本ばっかり読んでいても、それは気休めにしかならないような気がする。

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