限界芸術論・覚え書き

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「文化は何かによって、まきちらされているところのものである。まきちらされていることなしに、各人のたましいの中に、自然としっかりと育つものではない。

文化は、まきちらされるものであるが、文化が特別な所にあらかじめあって、次にそれが、まきちらされるのではない。文化は、実は、それがまきちらされる手続きを含めて、はじめて文化となるのだ。文化はまきちらされることによって文化となるのだ。その文化が、また新しくまきちらされる事によって、文化の更生と存続が行われるのだ。

そうすると、まきちらすという働き自体が文化の本質にとって、かかわりのある問題となる。何によって、文化がまきちらされているかという事は、文化の性格を考える上で重大な事である。・・・」 限界芸術論・鶴見俊輔

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上の文章は左記の著書の中で「ラジオというものが現代の文明の中で果たす役割」を考察する前に、文化の本質についての議論を展開した内容である。

この内容をコンテキスト・コンテンツ・チャネル・ディストリビューション・プロセス・エッセンスなんていうことばなんかで置き換えて、新しくまき散らすあたりをリツイートにしてみれば、「ツイッター文化論」の骨子ぐらいはできそうな気がする。

たった今、文化のまきちらしかたの壮大な革命が起こっているとしたら、この本の第三章以降に書かれる予定だったが、「書けなくなった」としている、「限界芸術」と文化のありようについて、今、書いてほしい。変なカタカナ語など使わなくても、氏ならば、少し言葉を足せば小学生にでも理解可能な日本語で美しく、正確に書けるはずだ。

まだご存命なので是非。Wikiで見ると、破天荒ぶりも楽しめるのでこちらもどうぞ(鶴見俊輔)。

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