2010年6月アーカイブ

和菓子の銘

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「雨あがり」という銘。

あじさい、という名前じゃないところがいいですね。

伝耕分室近くの、「ささや」さんの水無月の和菓子です。

気取りすぎない見た目、しかし味は上品。

おすすめです。

 雨あがり.jpg

季節の見立てがある和菓子。

もっともっと世界に広まってもいいと思うのです。

 

ちなみに、今日は伝耕二期目の期末。

一期目は盲腸みたいなものだったので、実質一期目でしたが。

実は波瀾万丈だった二期目も最後は無事に幕を下ろすのでした。

 

 

 

ノウゼンカズラ

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一心寺の山門前にある茶店の壁に咲いている。今が盛りの夏の花。原産は中国。

 ノウゼンカズラ.jpg

 それにしても変な名前。

由来をネットで調べると、

・古名の「のせう」が変化して「のうぜん」に なったとも、「凌霄」の音読みの      
  ”りょうしょう”が変じて「のしょう」に なったともいわれる。                   
  「凌霄花」は漢名からで、           
  「凌」は”しのぐ”、                   
  「霄」は”そら”の意味で、             
  つるが木にまといつき天空を凌ぐほど     
  高く登るところからこの名がついた。

 

 

なんだか「むりくり」な感じだが、ノウゼンカズラが咲くと、

もう少し花のすくない愛染かつらが同時に咲いています。

愛染祭が近づいた証拠です。愛染祭、明日からですね。

    

「モノ欲しさ」の賞味期限

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「お金を払ってモノを買ってくれる現象」に注目して、

そのひとたちの気持ちについてのあれこれを調べる仕事の賞味期限、

個人的にはあと3年ぐらいだろうか。

自分自身が感じる「モノ欲しさ」についてのボルテージが非常に下がっているゆえ。

なので、ノウハウ全部をオープンにすることにした。

 

しかし、この「モノ欲しさボルテージの低下」、

わたしの個人的かつ年齢的な問題だけとは言えず、

世間に蔓延している今の空気、と関連しているのか、とも思う。

 

小さな国土に、たくさんの人をのっけて、狭くても幸せになれるよ、とばかり、

なんだかんだいっぱいモノを作ってしまって、モノで埋め尽くしてはみたが、

とうとうモノばかりになり、

無理矢理、新たに選ぼうにも、

その場しのぎのモノ、もしくは今までもあったり、お互いに似たようなモノが多くて、

とくに今、買わなくてもいいものばかり。

そんなモノたちの中から、

何かを選ぶために、注意をとられて、時間をとられて、さらにお金をとられるということに、

飽き飽きしている人々が出すため息。

これが世間を覆っているのかもしれない。

「消費って、なんだか、つまらない」みたいな。

 

考えてみれば、これまでの歴史の中で、この国の大衆がこれほどモノを享受した時代はなかったわけで、

実は、はじめて経験していること、なのである。

 

モノの価値に賞味期限がきているかわりに、「いま、ここ、わたし」という刹那的個人的な経験価値が相対的に上昇。

しかしながら、今、欲しい「いま、ここ、わたし」経験は、必ずしもたくさんのお金がいるわけでもなし。

実際、お金がいらないものも多いし。

 

こんな時代のマーケティングどうするんだろ。

一昔前では通用していた、

みんなが求める価値のあるものとその対価の関係がねじれて使い物にならず、

「需要と供給」という考え方はあったとしても、「何を」テーマに「需要と供給」を考えるか、というところ、

前提を変えなくてはならないことも多いのだろう。

もう、本当に「モノ」じゃないんだろうな。

 

ふと、「邪悪になるな」、というGoogleの誓いがBGMになって流れてく。

一日一冒険

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一日一善ならぬ、一日一冒険。

冒険といってもささやかなことでよい。

「冒険=ふだんと違うこと」と定義して、

一日に一つの冒険を必ずひとつ入れてみる。

どんなに小さなことでもかまわないから、

アイラインのひきかたをかえてみるとか、

いつもと違う方法で新聞を束ねてみるとか、

そんなことでも冒険になる。

ふだん自動運動的にやっていることを、

無意識に自動運動してたな、と自分で気づいて、

それを変えてみようと決め、

違うように行動してみる。

認識と行動のくみあわせこそがフラクタルであり、くみあわせのくりかえしによって人生が決まるのだと仮定すれば、

こういうマイクロな冒険の積み重ねで、異なる世界が開けると信じてやってみる。

近所を歩きながら思った、今日のところは小さな決断。

ストレッチ

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もう少し、あと少しと身体をじっくり伸ばしていくと、一瞬前とは異なる感覚に包まれる。これがストレッチの快感。

傷のあとがツレて、どうも痛みが残るところをゆっくりのばしていて痛みの原発をゆるめてやる。

もう少し、あと少しでどこまで曲がるのか、心配になるほど曲がればやめればいい。

まいにちすこしずつ、痛みが消えていきますように。

伝えるためには、ひきだし、ひもとき、くみたてる、ことが欠かせないというのが、

伝耕の考え方である(それを楽しく、ラクにやろう、というのが伝耕の提案)。 


人の意見を聞く質的調査では、何も意見や考えのないことから「何かをひきださない」といけない。

ひきだすためには、いろいろなテクニックがある。それは質問の仕方だったり、相づちの打ち方だったり、

問いの組み立てだったり、ある方法(投影法)だったり、何らかの材料・ツール(絵や写真)だったりする。

それは、ひととおり練習して組み立てればよい。  


実は、あまりテキストに書かれていなくて、もっとも難しいのは、「どこに注目してひきだすのか?」という点である。

この「目のつけどころ」がはずれていると、あとでどんなにひもといても、くみたてても、たいした内容を伝えられない。

実はコレ、伝える、ことだけでなく、製品の開発などにも同じことが言える。  


今、テーマが「若い女性のジュエリーのデザイン開発」だとする。 

いきなり、ジュエリー?何で?

機能のよしあしだけで製品が選択される時代は一昔前の話。

今は、必需品のカテゴリーですら情緒面に訴える要素を考慮することが製品開発上の重要ポイントだ。

つまり、どの商品もジュエリーをデザインするときに重視されるような側面を持っていることになる。

でも、開発現場は昨今の不況を反映して、若い人は入社せず機能仕様一筋に製品開発をやってきたおじさんばかり。

さて、どうする?

そんなおじさんたちにも、ジュエリー開発視点を持っていただかなければ、売れる商品は作れない。

お客さんに聞いてみる調査をやってみよう。でも調査もうまく使わなきゃね。


さて、話を戻して。

たいしてジュエリーなるものを持っていない若い女性のジュエリーの好みをひきだすにはどうしたらいいのだろう?

今からジュエリーを買おうとしている年齢なので、自分で選んだモノを持っていないかもしれないのだから。

この場合、彼女とジュエリーの関わりについては、現状でヒントが非常に少ない状況にある。

 

総じて、もちものには、かなりの部分さまざまな共通した嗜好が反映されている。

が、本人はそれに気づいていないことが多いから、ジュエリーの路線で普通に質問をしても、

デザインの資料として役立つ具体的なイメージが得られることはない。


Q1:「どういうデザインのジュエリーが好きですか?」

A1:「わりとシンプルなものが好き。」

Q2:「シンプルってどんな風に?」と

この路線でプローブしてもあまり具体的な答えは返ってこない。

A2:「えっと、おばさんが持つような派手じゃないやつ。」

ほとんど同義反復になる。

 

「自分の好きなシンプルさ」をすぐさま相手に伝わるように説明できる対象者なんかに巡り会えれば、その対象者は非常に高い描写能力が求められる職業についているに違いない。

そんなケースはごくまれ、というか、そんな対象者は今までおられませんでした。 


聞き取りがここで終わってしまえば、「どんなシンプル?」の説明がもやもやしているから、好まれるデザインについての調査結果も「シンプル」としか書きようがなく、

また、結果を報告する際も、クライアントさんである聞き手が「シンプル」に対して勝手に抱く心象と照合しつつ報告することは不可能なので、伝達に齟齬が起きる。

なんか、個々人得手勝手なイメージの「シンプルなるもののお化け」を軸に「若い女性のためのジュエリーデザインプロジェクト」が動いてしまう、かもしれない。

そんな調査結果なら無駄。だから、調査なんかいらない。

仰せの通りである。 


必要とされる調査結果を得るためには、調査の現場で、「どんなシンプルさなのか」、という具体例を拾って持って帰らなくてはならない。ことばだけで不可能だと思えば写真で。 

であれば、どうする?



まずは、

「対象者を観察する。」

観察テーマは、彼女の言うシンプルさはカテゴリーを超えて、どのような持ち物に反映されているのか?である。

で、目のつけどころを決める。


もしかしたら、彼女の携帯電話のデコレーション具合が目のつけどころかも。

一昔ならば、ジュエリーと腕時計の関連はよく言われていたことであるが、彼女は時計もしてないその線は使えない。

ジュエリーと携帯電話は製品カテゴリーが異なるから、関連していない可能性もあるが、小さくて身につけていて、さほど安価ではないカテゴリーであるという点は共通するので、

どこか類似点があるかもしれない。 


このあたりの目のつけどころ、なんというか、タケノコ掘りや松茸狩りのようなモノに近い。パターンを見出して、観察して、目をつけたら掘ってみるしかない。 

Q3:「その携帯電話に、なんかキラキラがついてるよね。それって、好きなシンプルさと関係がある?」と突っ込めば、

A3:「携帯電話だけだと、あっさりしすぎる。ストラップだとなんだがちゃらちゃら動いてダサくてしつこい。これぐらいのキラキラならば、ちょっと女の子っぽいし、透明感のある色できつすぎないし、シンプルでかわいいかなと思って。」

Q4:「じゃあ、それは好きなデザインのジュエリーのシンプルさと似てる?」

A4:「あ、そうそう。そうかも。」

Q5:「シンプルって、単に何もないだけじゃなくて、こういうかわいさや、色の淡さも必要なの?」

A5:「うん、何にもないのは、シンプルすぎて面白くない。」

という感じになれば、携帯電話のキラキラは、タケノコが芽を出している上の土の微妙なふくらみであって、

それを試しに掘ってみた結果、幸いにも当たっていた、ということになる。


さらに、

Q6:「じゃあ、その携帯電話、写真に撮っていい?」

A6:「あ、いいですよ」

この携帯電話の写真に彼女のコメントをつけて(どこがどんな風にシンプルか)レポートに貼り付ければ、

単に「シンプルである」以上にシンプルの方向性や程度についての情報がかなり加わって、「シンプルなるもののお化け」はかなり身を潜めるに違いない。 


これとは別に、

Q0-1:「でね、その好きなタイプのジュエリーの感じ、もう少し知りたいんだけど、それがありそうなお店に行ってみない?」とか

Q0-2:「あ、その好きなタイプのジュエリーが載っている雑誌とか持ってる?」

なんていう具体的な問いをして、ビジュアルや出典を記録をしておくと、

「シンプルなジュエリー」の具体例として実のある情報が得られます。 


問題は、「シンプル」と聞いた時点で、さまざまなとっかかりについてインタビュアーにハンティングさせる調査状況にあるかどうか。

ところが、フォーカスグループなどが行われる「インタビュールーム」と言われる囲われた施設ではまず無理。

なぜなら、こういう環境でのインタビューには、状況と設計において大きな制限を伴うから。

①手がかり刺激が少ない状況:携帯電話はバッグにしまわれて、さらにマナーモードになっているので、ほとんど取り出されることはない。対象者にとってヒントとなる刺激が少ない。ヒントとなる刺激に個人差があるから統制されたセッティングで行われるという点は、理にかなっているのですけれど。

②行動の柔軟性がない設計:プランニングされていなければ、シンプルさの具体例についてお店で確認したり、自分の購読雑誌のページにあるお好みのジュエリーについて確認することはできない。 バックルームの人が見られなくなっちゃうしね。 

というわけで、「どこに注目してひきだすのか」という点で、上のようなステップを経て得られたヒント(今回のヒントはキーワード「シンプル」)の中身をデザインの方向性が見出せる具体的な例)は、非常に有効だと思うのですけれど。


いや、しかし。

テーマが求めるアウトプットを理解して、柔軟な設計ができるプランナーがいることと、それを実行可能なインタビュアーと、その価値を認めるクライアントと、プロジェクト全体の手間暇コスト、等の問題があるという点は、簡単ではないところが問題といえば問題。

えっと、「その価値を認めるクライアント」以外の上の要素がすべてそろわないゆえに調査はいらない、と言われているのであれば納得ですね。

コストについてはご相談に応じます。

隠蔽の罠

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手術前ばたばたしていたので、髪を染めずにそのままである。

若白髪の家系なので、年齢の割には髪がやや白い。

ふだんから、全部は染めず、行きつけの美容院で、白髪のところにいろいろな色を入れて遊んでいたが、

そこの美容師さんが倒れたので、また、元気になられてから、と思い、退院してしばらく経つがそのままにしてある。

 

すると、道端で出会った、ご近所の(たぶん)えらいおじさんから、

「なぜ髪を染めないのか」と聞かれる。

きっと、「染めた方がいいのに」ということをおっしゃりたいのだろう。

 

この種の問いは、

①小金持ち以上

②私より片手ぐらい年上の男性、ときどき女性

からダイレクトに発せられる。

 

今の私は病人風に見えるわけでもない(事実、この問いを発した人は、私が入院したことを知らない)から、それほどむさ苦しくしているわけでもない。

黒くない髪に合う色なんかも試しているし。

 

なかなかに興味深い現象なので、美容師さんが復活する一ヶ月ぐらいこのままにして反応を探ってみることにする。

 

ちらっと今日の仮説。

「世間で認められた若作りをしないこと=わかりやすい老いの表現が白日のもとにさらされること」、

相手の老いの現象を目の当たりにすることで、自分の老いへの恐怖が「身体的ベース」でかきたてられることがいやなのか。

だから、「老いを隠蔽せよ」と。

男性にとっては、もしかして、さらに深刻で、

自分より少し年下の女性が若作りしないことは、

(実はこれっぽっちも期待されていないかもしれない)庇護者としての役割を演じたい自分の存在が否定されているような気がするからだったり(あのね、あなたたち、もういらないから)。

 

たとえば比較的お金がある人が集う、銀座なんかに行くとずいぶんと平均年齢が高いが、

そこに居る人全員に、若作り行動、たとえば髪染め(もちろん何らかの病気によるものを除く)なんかを禁止してみると、「ぎょっ」とするような風景になるような気もする。

でも、この「ぎょっ」とする身体的な反応を皆でしみじみ共有すれば、

高齢化社会とか少子化社会とか、年寄りの既得権益構造とか、そういういろいろな問題についても実際に目で確認できるから、

問題意識自体も変わってきそうなものだ。

そんなこんなの問題は、頭でわかっていても、身体ではわかりきっていないことなのだから。

 

「老い」は命の継承としては期待されない対象だから、老いのシグナルは動物にとっては重要だ。

たとえば、若い女性が年老いた男性に、若い男性が老女に、「生物的に」惹かれる現象がレアケース以上に生起すると、その種は滅びるだろう。

年をとるということは、賢く、ずるくなることだ。 年老いた猿はずるい。

猿よりもずっといろいろなずる賢さを備え、さらに道具も満載なのが人間。

現代の人間は、「老い」の身体的なシグナルですら、ある程度、隠蔽できてしまう。

「隠蔽だらけの年寄り、が多すぎる場所」は、それだけで、本質からするといびつな感じだ。

でも、どんな隠蔽をしていても、若い女性と年老いた男性、若い男性と老女のケースがレアであることは、幸いにも隠蔽には限界があるということだ。

 

老いると、新しいことに挑戦したりすることは苦手になり、体力的にも衰えている。

「本質」を語ることはできるが、実践することは辛い。

老いを隠蔽するだけで結構なエネルギーを使ってしまっているし。

 

とにかく、今日のところは、

若いみなさん、隠蔽老人群に、負けるな、

と言っておきます。

主治医

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人間いろいろ、とんがりがあるものである。

私の主治医は、(おそらく)スーパー乳腺外科医、である。

手術でガン病巣を取り除くことはもちろん、再発と転移を防ぐために、病巣周辺に必要十分なのりしろをつけて切りたかったらしい。

「必要十分に切る」、というのがミソだ。

切りが足りないと取り残しだが、切りすぎると、せっかくの温存手術、フィニッシュが美しく仕上がらない。

 

今日、術後治療のための病理検査結果報告をお聞きした。

非浸潤乳管癌の病巣は菱形で、これは当初の想定通り。

病巣部分はしっかり切り取られていたのだが、

菱形のある一角部分、のりしろを含めての切除範囲は彼が想定するベストよりも、少し足りなかったらしい。

 

手術も検査しながら切っているのだが、検査した範囲を少し越えて飛び地のように、がんが抜け出ている可能性もあるし。

病理検査の写真を見せながら、そんな風に説明するマイ主治医、横顔がちょっとくやしそうだった。

なんか、その姿を見て妙に親近感がわいた。

 

通常の50グレイに加えて、追加の放射線治療をするかどうか、考慮中とのことである。

ちなみに、術後療法は放射線とホルモン剤。抗ガン剤は行われない。

ありがたいことに、初期かつ、リスクの高くない癌であった。

役には立つが中身のない方法

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A:「これだけやればできる・これさえしておけばよい」

こういうのは、自分の嫌いな分野、しかもしなければならない作業(試験とか)に対してやっつけるための方法であり、

それをクリアすればあとは、

B:「いくらやってもできない・それができても一部でしかない」かもしれないけれど自分の好きな分野について、

思い切り時間を使えることにするのが人生の幸せ、と私は思う。  

 

問題は、あんまりにも小さい頃からAばっかりやっていると、自分が選んだ分野ですら、Bに耐えられなくなること。

さらに、刷り込み効果を考えれば順番の効果は絶大に違いない。

人生の初期にじゅうぶんB時間を費やしたこどもは、B→A→Bの流れで生きることになるので、長じて、成果の出ないB時間ですら、どこかに楽しみを見いだすことができるが、

B時間が十分とれず、実質的にAで始まった人は、Bの数は同じでも、A→B→Bは苦痛でしかない。

Bを経験しながら、いつもどこかにあるかもしれない(ないけど)Aを探し続け、Aはどこにあるのかと焦燥感でいっぱいになる。

自分にぴったりのAなんかないから、Bを経て、自分で作ることにしなきゃいけないんだけど。

 

こどもは、入学試験に代表されるA作業に組み込まれる前の幼少期に、試行錯誤だらけの、いくらやってもたいした結果のでないB時間を「じゅうぶんに楽しめる」ように育てることがたいせつだと思う。

そういう意味ではふんだんに自然のある環境にこどもを置くことはただしいことだと最近とみに思う。

その点で、自分の子育てはあまりほめられたものではないが。

 

長じて発見することになるのは、

みんながいっせいにやる入学試験ならばAの種類も多く、よりどりみどりであろうが、自分のオリジナルをたてようとする分野にAはない。

自分がやろうとした分野がすでにAだらけなれば、それはもうつまらない分野だろうし、

その分野であろうとも、今あるAでなくて、自分なりのAをつくろうとしたら、その時点でたっぷりのB時間を過ごすことになる。

 

幼少期の時間は無限時間。

この期間に思う存分遊んだ人の中に、創造的な仕事をする人が少なくないような気がするのは、

大人になってからは苦痛になるかもしれないBの時間を「じゅうぶんに楽しむ」ことを知っているからなのではないかと思う。

 

そういえば、書店に平積みにされている本は、圧倒的に「A」タイプの本ばかり。

手に取ると、「なるほどうまくまとめられているな」と思うものの、

まとめられている行間に埋もれた実践を自分でしてみなければ、それは血肉にならない気もする。

うまくまとめられていればいるほど、B時間を泳ぐ指針になりそうなものだが、

人間は怠慢だから、

うまくまとめられているほど、B時間をやらずにわかった気にさせられ、やらないことに終わる。

ならばむしろ、

本など読まずに、やってみた方が得るものは大きかったのだろうが、

幼少時にじゅうぶんなB時間を持たなかった人は、そう思えないのかもしれない。

 

さて、

私自身、調査の報告なんかは下手なのであるが、仕事の一部なので話をさせていただくと、

①そんなこみいったことはいいから、要点だけ、とか、

②対象者の回答などは適当なものだから聞きたくない、という反応をする方が時折おられるが、

①のように反応する方に、商品アイデアを作っていただくと、なぜかかわりばえのしないものが多く、

②のように反応する方のコミュニケーションスタイルは、汎用性の低いその人の独特の演繹的ロジックで構成されていることが多く、

つまりそれは、その人自身の信念とリンクしているので、下手に反論するとあとでこじれることが多い。

どちらのタイプの方にも、多くを期待せず、当たらず障らずスルーするというのが、長いB時間を経て得られた私のA方法だ。

 

つまりこのA方法、役には立つが、中身はすっからかんである。

A方法、最初から知っていれば、すばやく適応してもっと「効果的な」時間を過ごせたとも思うが、

きっと、

この方法を前提に取り組んでしまうと、報告される対象として本質的な「仕事の質」が上がることはなかったのだろうとも思う。

 

答えのない時代に、たくさんの人が本を読んでいるようで、それはそれでいいことなのだが、

Aの本ばっかり読んでいても、それは気休めにしかならないような気がする。

限界芸術論・覚え書き

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「文化は何かによって、まきちらされているところのものである。まきちらされていることなしに、各人のたましいの中に、自然としっかりと育つものではない。

文化は、まきちらされるものであるが、文化が特別な所にあらかじめあって、次にそれが、まきちらされるのではない。文化は、実は、それがまきちらされる手続きを含めて、はじめて文化となるのだ。文化はまきちらされることによって文化となるのだ。その文化が、また新しくまきちらされる事によって、文化の更生と存続が行われるのだ。

そうすると、まきちらすという働き自体が文化の本質にとって、かかわりのある問題となる。何によって、文化がまきちらされているかという事は、文化の性格を考える上で重大な事である。・・・」 限界芸術論・鶴見俊輔

限界芸術論.jpg

 

 

上の文章は左記の著書の中で「ラジオというものが現代の文明の中で果たす役割」を考察する前に、文化の本質についての議論を展開した内容である。

この内容をコンテキスト・コンテンツ・チャネル・ディストリビューション・プロセス・エッセンスなんていうことばなんかで置き換えて、新しくまき散らすあたりをリツイートにしてみれば、「ツイッター文化論」の骨子ぐらいはできそうな気がする。

たった今、文化のまきちらしかたの壮大な革命が起こっているとしたら、この本の第三章以降に書かれる予定だったが、「書けなくなった」としている、「限界芸術」と文化のありようについて、今、書いてほしい。変なカタカナ語など使わなくても、氏ならば、少し言葉を足せば小学生にでも理解可能な日本語で美しく、正確に書けるはずだ。

まだご存命なので是非。Wikiで見ると、破天荒ぶりも楽しめるのでこちらもどうぞ(鶴見俊輔)。

オーケストラ

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ハンガリーのブダペストは私の好きなところ。

入院中、ベッドの上でネットサーフィンをしていたら、ブダペスト祝祭管弦楽団の公演、バイオリンのソリストは神尾真由子だったのですかさず予約。

重いものを持ってはいけないので、母の古いバッグをもってシンフォニーホールへ。

一昔前の女性のお出かけは、こんなハンドバックに入るほど、荷物が少なかったのだ。

ま、こんな時ぐらいしか持たないし。 バッグ.jpg 

 

 

20年以上前に行ったブダペストでは、リスト音楽院やオペラ劇場に通う機会に恵まれた。

リスト音楽院のコンサートでは、演奏途中に弦が切れ、そのまま鬼気迫る演奏をし続けたバイオリニストを見た。

音楽に命がけになる人の姿が脳裏に刻まれた。

街には、ジプシーがバイオリンを弾く姿がそこここに見られ、哀愁のあるリズムが流れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

時流れて2010年6月、イヴァン・フィッシャー率いるブダペスト祝祭管弦楽団は、派手さはないが精緻な響きのある音を聞かせてくれた。

フィッシャー氏は、神によってあやつられた人形のように指揮をする。

天から出たピアノ線で身体がつり下げられているに違いない。からだの軸が全くぶれないのだから。

変な表現だが、彼ならば、トウシューズで立ったまま指揮をすることも可能だろう。

かんがえてみれば、マエストロと呼ばれる指揮者の指揮が、神がかり思えるのは、そう思わされるほど「並外れて属人的なもの」であり、同時に高度に身体的なものだからだ。

弦楽器が神経、管楽器が臓器とすれば、指揮者の神経と臓器はそのじぶんじしんの身体のなかで、

かのように奏でられているに違いないと確信する。

プログラム.jpg

メンデルスゾーン「ヴァイオリン協奏曲 ホ短調Op.64」は神尾真由子がソリスト。

ストラディバリウスを操る彼女の音を生で聞くのは初めて。

なんというか、飴細工職人のような演奏。高く、細く、低く、太く、自由自在で切れ目がない。

この音はバイオリンなのか胡弓なのか。

肩胛骨のダイナミックな開閉を生かした身体の動かし方は、演奏家というよりも、アスリート。

 

独奏の間、オーケストラのバイオリン担当が、神尾の演奏を興味深そうに見ていたのが印象的だった。

 

 

 

 

 

 

ブダペスト祝祭管弦楽団.jpg神尾嬢、アンコールには、超絶パガニーニを披露してくれた。

パガニーニを聞きながら、なんだか、この人、美空ひばりに似ている、と思った。

 

フィッシャー氏による、オーケストラアンコールの最後の曲は、モルダヴィア民謡。

彼がユダヤ系ハンガリー人であるというルーツと関係させた選曲なのだろうか。

ジプシー風のバイオリンと太鼓の奏者とともに、フィッシャー自ら、

タンバリンを打って演奏家の一員となる。そんな指揮者、初めて見た。

 

酒飲んで「安来節」が出てきたような、そんな印象だった。 

いい意味で。

 

 

 

ここ数日間で左側の背中が、床ずれのように痛くなってきた。何もなっていないのに。

ネットでいろいろと調べてみると、脇を切っているので、神経が切れているせいらしい。

さらに、胸を切るような痛みの愁訴の記録もあり、これらは乳房切除後疼痛症候群と呼ばれている。

 

身体の神経はオーケストラの弦楽器。わたしのからだ、第二バイオリンの弦が一本切れている、という感じだろう。

切れていることは所与として、次の幕までに、周囲の団員にカバーしてもらうしかない。

 

この7年間で通算20日ほどしか休んだことがない体操を、今年は入院と手術のため、たった6ヶ月ですでに20日間ほど休んだ。

今日は晴れて体操復活。

ゆっくりやったので1時間半たっぷりかかった。

これで神経の迂回経路を鍛える。

私の潜在能力によろしく。

近隣でうろうろ

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切った身体の中で、修復のために何かが起こっているのであろうが、

傷のある三カ所が、時折猛烈にきりきりと痛む。

30分ほど続くこともあるし、すぐに治まることもある。

こういうときは、あまり静かな環境にいると、かえって神経がとぎすまされて痛みが増す。

 

ということで、今日は、無事に手術が終わったことを兼ねての墓参り(一心寺)、私の数日後に手術をして入院中の母のお見舞い(大阪市立大学付属病院)と、もろもろの買い物(喜久屋書店と近鉄百貨店)の3つの予定で、娘と出かけた。

5時間ほどうろうろして、先ほど帰宅。

あー、疲れた。

乳癌の手術の際に、リンパにガン細胞が至っていないかを見るためにセンチネルリンパ生検で脇の下を切っている。

そのまま放っておくと手が上がりにくくなるので、指示されたとおりのリハビリ体操をしてくつろぐ。

 

それにしても、これだけの用事をこなしても、徒歩圏内なのだ。

すばらしき「四天王寺前夕陽ヶ丘」生活。

おかげさまで社会復帰準備も順調である。

調和

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食事療法を検討していると、良く出てくるのが「昔の食事」である。

マクロビオテックもその一つ。

ある人は縄文時代の食事が理にかなっていると言う。

 

急速に変化した食生活に身体が対応しきれていないことが、

さまざまな他の要因と重なって病気の遠因となるという考え方が基本にある。

 

新たなものを取り入れろ、モノにしろ、使いこなせ、という号令と同時に、

昔に戻れと諭される。

人間は先進的であると同時に、保守的な存在なのだ。

 

どちらも生きていくの必要なスタンスであるが、双方を真に受けていると身を割かれる。

新たなものを吸収する自分、変えない、もしくは懐古する自分、

ほとんど相容れない要素を混合し調和させる能力が現代を生き延びる力として重要なのであれば、

その能力こそが、「生きていくための力」であり、教育の目的はその根本育成にあるのではと思う。

 

文科省はどうお考えなのかは知らないが。

 

 

 

 

怠慢

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生活でもビジネスでも病気でも、とにかく現状をよくする答えとアクションをいち早く知りたい。

それは誰もが思う感情である。

「こうすれば、こうできる」というノウハウものが売れるのはそのためである。

ほんとうに、それは自分に当てはまるのか、について考えられる選択肢をひとつひとつ検討してから選択するのは、

認知的に負荷がかかり、やっている間に「これでいいのだろうか」という疑問が常に首をもたげるから、やりたくない。

時間とエネルギーの節約と、焦燥感のコントロールのために、最初から、みんなが頼る答えとアクションを知って取り入れたい。

人気ランキングの高い商品を使ったり、有名な経営者の本を読んでそのままを実践したり、名医リストに掲載されている医者に頼ったりすることでその認知的負荷を軽減する。

 

言い換えればそれはすべて多数決主義。

民主主義から、アンケート、口コミに至るまで、「みんながいいと言っているから、私にもいいのだろう」というのが基本原則になっている。

それを否定するつもりはない。

 

選択した後に問われるのが、「自分の生活・自分の会社・自分の身体」とのフィットネス。

多数決によって選別した方法と、個別性についての洞察によって得られた結果との適合を検討することは重要である。

「みんながいいと言っているものが、自分にあてはまるとは限らない」のだから。

 

結局、最初に認知的負荷を避けるために行わなかった、「ほんとうに、それは自分に当てはまるのか」について考えられる選択肢を

ひとつひとつ検討し、つぶすことに近いエネルギーが最後になって必要になる。

 

人間が、さまざまな発明を行い、それをすばやく世界に流布させてきたと同時に、歴史的に見れば何度も同じ間違いを繰り返すのは、

とどのつまり、

オーディエンスの大多数が

「時間とエネルギーの節約と、焦燥感のコントロールのために、最初から、みんなが頼る答えとアクションを知って取り入れたい」人々であるためだろう。

 

さらに、

生活革命であれ、マーケティングであれ、治癒であれ、各分野における勝利者は、

表現はどうあれ、 各勝利者の(実は)個人的な興味と利害に基づいて、

「みんなが頼りそうな答えとアクション」を最初に演出できた人なのだとおもう。

 

動物は、生存のための食・安全・生殖・休息以外のことはほとんど何もしないが、

その、ほとんど何もしない、ということを人間にあてはめれば「怠慢」と称されるものなのだろう。

いや、しかし、

認知的に処理が容易なものについては、「勤勉」に思える人間も、

認知的な処理が少し複雑になれば、ことさらに興味がなく緊急度の低い部分については(=認知的負荷を主観的に強く感じる分野においては)、動物たちと同レベルの「怠慢」に陥るのだと思う。

 

「(手術で)切る、(放射線で)焼く、(薬や抗癌剤という毒を)盛る」という標準治療以外に、

ガンの再発と転移を防ぐための方法は、日本の医療では用意されないという前提に基づき、

術後の生活をどうするかということに関する考え方と方法とその中身について、

いろいろと整理していたら、認知的な負荷がものすごく高まって、

ネット内のランキングに頼りたくなった自分を振り返って書いてみた。

 

 

 

 

藤の季節

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退院してすぐに、伝耕分室黄色い家に寄ってみると、

入院前にはそれとは気づかなかった

一心寺山門の南側にある藤の花が盛りになっていた。

梅雨の季節にふさわしい薄青紫の花が水気を孕んだ空気にぴったりである。

一心寺山門と藤.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人気のクリニック、それも2回も入院したので、退院者を見送る機会も多かったが、

 

周囲には田舎に帰ると言って内緒で入院してきた人、

たった一人で入院し、帰っていく人、

退院後は家族と離れ、一人暮らしをして治療に専念する人、

 

みな、退院の日は何もなかったかのように、化粧して、晴れやかな笑顔を見せてくれるのだけれど、

胸中いろいろなのだろう。

 

私は、早期だったおかげで、術後療法も最もシンプルな内容が想定されており、

家族がいて、仕事があって、ようするにジャグリングな要素が待っているので、

深く考えこむ暇もないことが、十分幸せである。

 

ガンと言えば、みんな切ればおしまい、の時代は終わり、再発・転移の予防にも重点が置かれている。

分子生物学の進歩とともに、細胞からのアプローチによる副作用が少ない治療なども適用され始めた。

その治療は一様に施されるものではなく、検査結果により適用の可否が決まり、

同じような手術であっても、術後療法の違いにより受ける苦難の程度は各人さまざまとなる。

 

術後に新たなチャレンジが待っている人が、退院時に見せてくれた晴れやかな笑顔。

その奥に、深く押しとどめられているかもしれない中身にふと思いを馳せる。

 

というわけで、

みなさま、ご心配をおかけしました。本日、経過良好にて退院いたしました。

そのまま突っ走るとおしかりを受けるので、ぼちぼち、術前7ガケぐらいのペースで始めます。

病人役を10日間引き受け、少しは引き出しが増え、洞察が深くなった(ことにしておく)西道とともに、

今後とも、「伝耕」、どうぞよろしくお願いいたします。

 

あと、重要なこと。

20代後半、30代の女性も、私は関係ない、と思わずに、マンモグラフィーの検査を。

子育てや介護、仕事等々自分のことなど顧みる間もないと思いがちな40代、50代は言うに及ばず、

まだまだ長生き60代、70代の女性も、乳ガンの検査を受けることは、自分のためだけでなく、家族のためでもあります。

くれぐれも、どうぞよろしくお願いします。

悪玉

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自分のことは、自分でわからない、とはよく言われることだ。

「自分のこと=自分の心と身体」というように、もう少しブレークダウンしてみると、

それが見えないもの(心)、見えてもその働きについてよく知らないもの(身体)というのは、

ようするにわからないものなのだ、と納得する。

 

さて、

ガンと言えば、ステージという分類が知られているが、ガンにも顔つきというものがあって、

ガン細胞の有り様(ガンの分裂具合と、正常細胞との乖離=顔つき)の違いにより、

ステージの実質的な意味も異なるらしい。

悪性度の高いガン細胞の写真を見ると、いかにも悪玉な感じがして、

「いかにも悪性」と判断できてしまえそうだが、

乳ガンの場合は、悪玉度の判断が難しいらしく、

悪玉と思えば、たいしたことなく、

さほど悪玉でもない、とたかをくくると、結構悪性だったりして、

相手の出方を計算して化けることなど朝飯前(?)の女性中心のガンにふさわしい有り様だったりするらしい。

 

つい、自分が関係する話であることを忘れておもしろがってしまう。

病院とigu伝

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igu伝のアクリル版、病院に持ってきてもらって、ベッドの上に置いてみた。

なにやら楽しげな雰囲気である。

ベッドの上のigu伝.jpg

ちょっとまじめに、病院にどんなアートがあった方がいいのか、を考えてみると、

「とことん、ファンタジーを感じさせるもの」ではないかとおもうのだ。

パステルカラーの花の絵みたいなのも、ないよりもあるにこしたことはないが、

気持ちの方向性を変える力はない。

 

 

 

 

 

 

病気になると、多かれ少なかれ、「WHY ME(何で私がこんな目に)?」と自問自答することになる。

いかなることであっても、「COULD BE(起こりえたこと)」なのでこうなったのだと思うしかない。

でも、治癒することだって「CAN BE(起こりうること)」なのだと発想の転換をすることがとても重要だ。

 

igu伝の絵は、そもそもが発想カードとして作ったから、発想の可能性がずんずん広がるようにできている。

なっちゃった病気を治すことは、そう信じた時点で「CAN BE」なのだということを、

エビデンスだとか標準治療という枠を超えて、信じることがたいせつだ。

エライ先生でも、信じることの効果は否定できない。

そうなると、エビデンス構築の基礎となる臨床試験方法の重要な枠、プラセボ効果を否定することになるからだ。

 

病院の文脈を超えるigu伝、上々の評判でしたよ!

無関係な回復

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徐々に傷が癒えるのは当然として、

お肌の調子がいいのは、日々、ほとんど何も考えていないせい。

何かをするたびに、これは仕事のヒントになるかなと、

貧乏性な思考回路が起動していたのだが、

入院6日目に至って、その癖も抜けた。

 

相部屋の人生の先輩たち(15年~20年)とたわいのない話をして、

大笑いをしているせいだと思う。

 

「おくさん、なんのしごとしてはんの?」という素直な質問に、

さて、どこから答えようかなと思案しながら、

自分の仕事について俯瞰してみると、

こざかしい脳のしわが一本、また一本と無くなり、

生きるための根っこが一本、また一本と太くなっていくようで、

これがまた快感である。

 

それにしても禁酒 2週間、アルコールもすっかり抜け、

身体の一部が取られただけでなく、

全体として別人になったような気もする。

 

思いもよらぬ治癒の進捗がすこぶるよろしい。

同じで違う

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競争もなく、むしろそこにあるのは共同で、

箴言ではなく励まし合いがあったとしても、

あなたとわたしは同じではない。

 

究極的には違う道を歩むということをつくづく思い知るのは、

同じ病気にかかった人とともにいる時である。

話せば話すほど、共通点の色濃さは増し、

話せば話すほど、相違点から始まる分岐はしだいに大きくなる。 

 

結局、同じ色濃さの部分のおみやげを手に、

それぞれの分岐をゆくことになる。

それは人生と何ら変わるところはないのだが。 

 

普段の生活なら、

共同と励まし合いさえあれば、

ただ一人生まれ出で、逝くというこの事実に

対峙せぬとも済むものが、

対峙せざるを得ない様相がここには現れる。 

 

「一人」という覚悟が要るのは、競争と箴言のただ中ではない。

重い、軽いに関わらず、

共同と励まし合いの力で高く持ち上げられた自分はやはり一人であったということを知るときに、

初めて気づくのである。

おかあさんが乳がんになったの

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母親が乳がんになった米国の9歳・11歳の姉妹がその経験を文章と絵で綴る絵本。

おかあさんが乳がんになったの」というストレートなタイトル。

おかあさんが乳がんになったの.jpg

 

告知から、手術、抗癌剤治療の副作用の様子などが、子供の目線で素直に綴られている。

髪の毛が抜ける様子、つらそうな様子。

その後、おばさんの発案で行われた帽子パーティでステキな帽子を13個ももらったこと。

お母さんが病気のために助けてくれた人がすてきな夕食を作ってくれたこと。

お母さんは料理が好きじゃなかったから、「おいしい料理を作ってもらって得しちゃった」と素直に喜ぶ様子。

髪の毛が抜けたあと、どんな色の髪の毛が生えてくるんだろうと楽しみにしている様子。

お母さんの髪の色はもとはブロンドだったけれど、

くるくるした赤毛がいいと思っているところなんて、

とっても女の子らしいと思います。

 

 

 

 

最初に大騒ぎして、涙と笑いとエンターテイメントで乗り越えて、それをオープンにしちゃって、

その経験を広く人に役立てようとするスタイル、 米国流の好きなところではある。

中之島晴天

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外出許可が出たので、すかさずお散歩。

月曜に入院してから、まともに歩いていないので、足がなまっている。

梅雨入り前の晴天である。

仕事なら、「あーこんな日に仕事なんて」と恨み節も出ようが、

天下晴れての入院中外出、遠慮する必要なし。

片道15分ぐらいで、大好きな東洋陶磁美術館がある。

企画展「高麗時代の水注」を目指して。

ほたるまちの病院を出発して、堂島川を右手に見ながら東進。 

 

 

田蓑橋.jpg

外に出てみると、

すばらしい天気というか、夏日。

30度まで気温が上がっているようで、

途中で倒れたら、洒落にならないので、

日陰を探しながら歩かねば。

用心、用心。

 

 

 

渡辺橋近くでかわいい花が。

白い花.jpg 

 

 

何の花でしょうね。

ふわふわとかわいい白い花。

 

 

 

 

 

 

ゆっくり歩いて、中之島公会堂までたどり着く。

 中央公会堂北側.jpg

 

 

このあたりから、木陰があって、

涼しい道を選って歩ける。

 

 

 

 

ちょっと歩いて、 大阪市立東洋陶磁美術館に到着。

安宅コレクションの寄贈により設立されたこの美術館は大阪の誇り。

心がゆっくり澄み渡って溶けていくような、青磁。

ずっと見ていると、引き込まれて体ごと溶けてしまいそうな、白磁。

青花、鉄砂、辰砂の名品。

重文の木葉天目、国宝の油滴天目。

何度見ても飽きないすばらしさ。

展示室間のフロアに、こんな作品が。

西田潤作品「絶」.jpg

夭折した陶芸家、西田潤氏の作品。

「絶」というシリーズ。

この作品が目に飛び込んできたのは、

手術をしたせいかもしれないが。

人間の身体は「管」でできている。

「管」の一部を切ることが手術。

たくさんの「管」を切ることが、

命を絶つことなんだと思うと、

作者がそう思ったかどうかは別として、

「絶」という作品名が胸に迫ってきた。

アジアの歴史的名品コレクションの中で、

見劣りしない印象。 

それは、とてもすごいことなのだ。

夭逝が惜しまれる。

 

 

 

 

 

 

名品疲れしたのち、中之島公会堂の北側を通り、ティーハウス、ムジカに寄り道して帰る。

遊びながら、治してます。順調に回復中。 

  

ムジカ.jpg

igu伝とCANCER GIFT

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ただいまigu伝テスト中。

iguちゃんワールドがどの程度、「所与の文脈」を変えることができるか、のテスト。

このたび選ばれた「所与の文脈」は「病室」。

ところで、私という人の話のマクラ、 ずらしてやってきたジャグリングな日々以降、

会社の存続についてご心配いただいた方もいらしたようです。すみません。

なんとか、ジャグリングしてますが。

損得勘定と社会的ポジションが最重要事項の方には、全く不可解な人生でごわす。


最近ジャグリング要素が一個追加された。

昨日は乳がん手術(初期・部分切除・リンパ切除なし)、実は一昨日より入院中。

来週の半ばぐらいまで病院に居るようです。

 


で、ここぞとばかり、テスト。

igu伝のカードを4人部屋の自分のコーナーに貼ってみた。

よしよし病院度低下。

 igu伝 in 病室1.jpg

 

 

 

5月の連休前に検査入院をしたが、結果はクロ。ということで実は2度目の入院。

先週末までざくざく仕事や出張を片付ける必殺仕事人だったが、今週は病人役にて出演。


乳がんといえば、もう珍しい病気ではなく、25人に1人はかかるというもの。 igu伝 in 病室2.jpg

こうなる前のことを考えると、いろいろ反省もあるが、なっちゃったものは仕方がないわけだし、

もうやりたくないことはやらないことにしよう、などと気持ちよく暴言も吐いてみたりして。

ガン様のお陰で、自分の人生について、実はこうしたかった系の告白なんかもできちゃう、と

感心したりするのである。

病気がわかってから、

やっぱり、今取り組んでいる仕事を続けるのが私らしいと確認できて、大満足。

それはとても素敵なことだ。

 


がんの告知から、受け入れを経て、人生をプラスに転換した認識の結果をCANCER GIFTと言うらしい。

igu伝も、実は、認識の変化とそれを受け入れる気持ちを高めるツールのもの。

「CANCER GIFT、いーじゃん」と思わせてくれることに、igu伝は一役買ってくれた。

どんなふうにって?カードの意味合いや使い方はまたね。

iguちゃん、がんばって作成中だから。

 


がん全般にまでスコープを広げると、男性の2人に1人、女性の3人に1人がかかる病気と言われている。

なので、珍しいことなし。

なのに、

がん「カミングアウト」すると、職場で戦力外通告(たいした仕事してなくても、えらそーに聞こえる嫌なコトバ)されるという、

「がんハラスメント」みたいなものもあるらしい。


私にしても、

かつては、小娘だから、最近は、大阪だから、子持ちだから、おばさんだから、このたびは乳がんだから、

まあ、いろいろ排除要素はあった・あるだろうが、 

これまでと同様ジャグリングするのである。

ふふふ。

當麻寺(当麻寺)中之坊散華

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こころが静まる贈りもの。うれしかったです。散華

當麻寺(当麻寺)中之坊写仏道場の天井絵をデザインした美術散華をいただきました。

多摩美術大学教授平松礼二画伯の『花・仏・心』、京都造形芸術大学教授畠中光享画伯の『二上瑞雲』、仏像造顕所勢山社の渡邊載方仏師の『白蓮』、の3作品が1セット。

入っていた封筒とセットでこんな感じでした。

当麻寺中之坊散華.jpg

これもステキなんだけど、

伝耕でプロデュース中のigu伝のカードも散華の形にしたら、

こころが静まるというよりも、ココロ浮き立つ感じで、

これがまた、違う路線でステキだろうな、なんて。

 

発想の元になる、花びらの噴水みたいに、igu伝散華を撒いて遊ぶ。 拾ってまた撒いて遊ぶ。

白紙の散華に気持ちを書いて・描いて、またみんなに撒いて遊ぶ。

大人も子供も、色彩と遊び心のigu伝花びらの中に埋もれて、自分の花びらをつくる。

楽しい、でしょ?

ONE HARTZ STEEL ORCHESTRA

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土曜に、スティールパンのコンサートが終了!みなさま、ありがとうございました!!

山村誠一氏が率いる、(たぶん)、関西で唯一のスティールパンオーケストラのコンサート。

山村氏はアレンジもお茶の子さいさいのスーパーパーカッショニストなので、しっとりあり、ノリノリあり、楽しいコンサートでした。

わが娘もオーケストラの一員となって、端っこでがんばっていたようですが。

一心寺シアター倶楽は大盛況で立ち見も多く。

場内は撮影禁止だったので、この写真は終了後、興奮が冷めやらぬ場内で撮影。

立ち上る湯気も見えるようです(?!)

スティールパンコンサート後.jpg

コンサート風景の写真は、

フォトグラファー長谷川君が撮影してますので、

またご紹介しますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、ロビーでは「パンといえばチーズでしょう・・・チーズといえばワインでしょう」というわけで、お酒とチーズなんかが買えたりして、

さらに、スティールパンの音程をどんな風にチューニングしながら楽器を作るのかということを説明してくれるコーナーも

あったりして、なかなか遊べて学べる、いい企画でございました。

ロビー風景.jpg

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、山村せんせいのドラム缶楽団、Rustic pansのパワフルコンサート、予定が目白押しです。

座って上品に聞くことさえあきらめれば、むちゃむちゃ楽しめること保証します。

ラテン系はもちろん、クラッシックや昭和歌謡をアレンジしたダンスナンバー、即興の打楽器アンサンブルなどなど、

陽気にはじけるナンバーが炸裂します。 

ぜひどうぞ!

共感と強欲

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「今時、強欲は流行らない。世は共感の時代を迎えたのだ。」

こんなフレーズで始まる本を読んでいる。タイトルは「共感の時代へ-動物行動学が教えてくれること」。

共感の時代へ.jpg

 

 

 

 

動物行動学からの知見が埋まっている本だ。

中身の話はそのうち。  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日これを書いているのは、

最初のフレーズで、つっかかってしまったから。  

 

よく言われることであるが、

マーケティングで必要なことの一つは、インサイト。

いろんな定義があるけれど、今は、「買い手の共感を生む、手垢のついていない事実」としておこう。

このインサイトをつかまえてうまくお料理できれば、コミュニケーションを軸にしたマーケティングのディナーに対して

お客様は喜んでお金を払う。  

 

さて、

どんなにきれいごとのように表現しようとしても、

マーケティングは強欲な手段ではない、とは言い切れない。

コミュニケーションにおいて卓越なマーケティングをしようとすれば、

買い手の共感を呼ぶインサイトの発見はクレバーな解である。  

 

マーケティングを知っている人ならば、

「今時、強欲は見せない。大いなる共感の発見がそれを満たすのだ。」

なーんて、言い換えるかもしれない。 

 

強欲は、「利己的な遺伝子」の存在を絶対とすることによって是とされた。

「共感の時代へ」はそれを否定したい本なのであるが、

共感を武器に用いることにより強欲自体が強化されうるというトリッキーな一面がマーケティングというシステムの一面であるとしたら、

それに対してこの本はどう応えるのだろうか。 

 

贈与に対する共感を軸に、プラットフォームを牛耳る世界的覇者は強欲ではないと言い切れるのだろうか。

 

共感が欲を満たす手段だと知っている確信犯たちは、欲から強欲へのボーダーラインを自らひけるのだろうか。

もしくは、共感ゆえにその対象に引きつけられた共鳴者たちは、対象となる主体の強欲さが表に出たとたん、

潮が引くようにいなくなってしまい、

結果、強欲者は淘汰されるのだろうか。

 

答えはこの本にはないと思うが、読み始める。

電子書籍

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「紙」という媒体の制限の上にある種の美しい古典芸能を繰り広げていた従来の出版。

対し、電子書籍なるものの本格的浸透の準備は、

メディアの選択もしくは、メディアの組み合わせによる表現の自由度を上げたITをバックボーンに、

流通プラットフォームの整備と相まって 着々と整っている。

 

従来の業界のありようには、

すでに不可逆であるという前提で、

身をよじって回転し、刈り取りつつ、違う種まきもして、

新たな価値連鎖を生むための産道をくぐり抜けるしかない。 

 

のであるが、何かモノを生み出す側としては、どうせ生むのなら、

面白い産道を創造してみたい、と思うのである。



 



 

レモネードと桃知さん

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昭和の味、レモネードは浅草にぴったり。

今日はまた、暑くてレモネード日和だった。

かつて、「カリブ」なんてところは、遙か遠くのあこがれの地という印象があった。

そんな印象が世間で共有されていた頃に命名されたであろう「喫茶カリブ」のレモネードは、

フレッシュレモンを絞ったもので、果肉入り、シンプルにおいしかった。

 

さて、伝耕的には浅草といえば、桃知商店の桃知さん

このブログ型ホームページをお願いしている浅草在住のコンサルタントさん。

レモネードがなんだか似合っているのでパチリ。

なんでかわかんないけど。

レモネードと桃知さん.jpg

本日、

桃知さんには、伝耕INSIDEOUTの発信のために、

また無理くりなお願いをしたのである。

おつきあいしていただいて、はや一年。

「一年(会社が)持ったね」と言われて、妙に新鮮だった。

あ、そう思われてたんだ。

 

新たな発信もよろしくお願いいたしまする。

夕食の風景

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晩ご飯をいただいた和食処は、吉田と私以外、全員男性であった。

こんなこと昨今珍しいのだけれど。

白いワイシャツ以外のシャツを着ている人は一人もいない。

名実ともにホワイトカラーの集団の中に、紛れ込もうとする。

結局、我々は違和感炸裂だったが、新鮮な経験であった。

 

こういう場所、今でもあるんだ。

20年前に戻ったような不思議な感覚。

 

 

槍ランプと餅ランプ

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キャラ立ちしてる伝耕の照明たち紹介。会社案内に入れてもらえなくてスネられても困るので。

槍ランプ:阪神淡路大震災で被災した宝塚の洋館が取り壊されることになり、吹き抜けの玄関にかかっていたアールデコとおぼしき代物。洋館の建物取り壊しの当日、再建してもこんな照明はもう使わないので、良かったら持って帰ってくれと言われた母が、「はあ」、と受け取り。持ち帰ってはみたものの、あなたも被災して、家がつぶれてたから置く場所なかったよね。そういう文脈は斟酌しない我が母であった。この照明、引き取り時はほこりだらけで、不思議なフォルム、先端が槍のようにとがっていて、不用意にさわってしまったら流血。おっと危ない、古毛布でぐるぐる巻きになったまま15年間倉庫で眠っていた。伝耕分室オープンに際し、「そういえば変なのあったよね」と取り出され、ホースで洗われ、日光で乾燥、流血先端に細心の注意、晴れて伝耕執務室天井に取り付けられる。気に入らない人間が上がり込むと、天井から急降下してきて刺すという「黄色い家の謎」槍ランプ伝説流布に向け、日々我らを照らしてくれている番犬のような彼こそが「槍ランプ」である。

 


槍らんぷ.jpg 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 餅ランプ:伝耕分室玄関をigu伝の常設ギャラリーにするという計画のもと、iguちゃんワールドにふさわしい照明を探していたところ、オークションサイトに出品していたお店で偶然発見。当初は雲ランプと呼ばれていたが、ひっくり返せば鏡餅のようなフォルム、スリ硝子の質感が「餅肌」に感覚転移したのか、店子古島くんが「餅ランプ」と命名。伝耕訪問者はあまねく歓迎、の看板娘。ぷっくりとコトブキな風情の彼女は、玄関からの風に揺れて「餅肌スイング」してくれる伝耕の癒し系。

 



 餅らんぷ.jpg

がっつり肉食系女子

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「がっつり食べたい。」これ、もうフツーの女子が使う言葉。

というか、そういう表現が下品、とでも言おうものなら、「何が悪いの?お腹すいているのに」と不機嫌になる女子もいるだろう。

このがっつり表現がフツーになると同時に、「肉食系女子」の存在も市民権を得たよう。

 

旦那に飼われて籠の鳥であることは、かつては不幸の一形態であったが、今やセレブの証。

モノづくりだけは得意であったがコミュニケーション領域では世界競争に勝てるほど強靱ではない大多数の輩は籠から鳥を放ち、

多くの鳥は、自ら餌を探す方策を選び、餌にありついたときは集中的にエネルギーを補充する「がっつり鳥」に変身した。

 

しかし、「がっつり鳥」とはいえ、飛ぶ範囲は限られている。

放たれた籠は依然として中心性を保っているので、籠がぎりぎり視界に入る領域まで飛ぶのがせいぜいである。

逆説的だが、放たれた世代は、放たれた故に籠の中心性を忘れることはできない。

 

確かに、「がっつり鳥」は肉食もおおっぴらにできるようにはなった。

が、そう頻繁に肉食にはありつけないし、自らの体質も完全に変化していないので、正確には「肉食も食べられる雑食系女子」に留まっている。

 

多くの「がっつり鳥」が自分の行動半径を広げ、その多くが肉食系の猛禽類になって、籠が見えなくとも不安にならずに生きるには、少なくともあと20年ぐらいはかかるのではと思う。

この国の地勢的な有り様では、行動半径を広げることは難しく、モデリング対象となる多様性を常に確保することにも限界があるから、

思いのほか長い間、多くは雑食系を超えることはできないのかもしれない。

 

かつて籠を放った輩の次の世代の多くが使い物にならないと仮定したら、雑食系にとどまる多くはどうすればいいのか。

 

何を考えているかって?

女の子の育て方、である。