そういえば、iguちゃんに出会ったのは昨年のこと。
ご縁をつないでいただいたのは、長いおつきあいのある方。
彼女の絵を見てなぜ発想カードを作ろうと思ったのか、
自分の直観について説明できない私は、長いことそれを考えていたのだった。
発想カードとするなら、「明確に」ヒントとなる骨格のようなフレームを提供することが
第一義的にはツールとして必要なのであって、
彼女の絵がそれに対する直球の表現とはならないことは承知の上。
だが、フレームとしてそのまま考えるとその時点で落ちてしまう文脈がある。
人の話を聞き、まとめ、お金を得るためには使われずに流されていった、
相手と私の間に一瞬生じた、珠玉のような発見の蓄積が、
アプリオリに設定されたフレームに寄り添いすぎる知見よりも、
主観的には豊かであったという確信がいつの間にか私の中に満ちていた。
それは、お金の出入りという側面は別として、マーケティングというフレームと、
文化というフレームでは求められる要素に共通項はあっても、表現の多様性と
その深さにおいて異なることに帰結されるのだろうということに最近気づいた。
たぶん、その部分にこそ興味ある私は、その部分についてアウトプットする蛇口を持たないと、
抑圧されたこの思いは出現の場を探しあぐねて、いつか、クライアントの興味を無視して、
自分の世界に埋没して「使えない結果」を出すエージェントになってしまうかもしれない。
いや、そんなことをしたら会社は破綻してしまうので、破綻しないように、
私のためにigu伝は必要だったのだ。
なんと自己中心であることか。
とにもかくにも、共感覚を持つ人が世の中にいることを願うしかない。
そんなことを考えながら外を見ていると、もう用済みになって、解体中のビルに視線がくぎづけになった。
つい最近までは、入居者が出て行きがらんとなった状態で死んだように見えていたのだが、
解体工事が始まると、壁の中に縦横に埋め込まれていた配線や配管が露わになり、
それが血管や筋肉のように見えて、なんともいえない生々しい光景を見せてくれる。
確かに、ビルが生きているときがあったのだ。
その記憶はやはり埋まっているのだった。
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