薬師寺東塔の内部が公開されている。
創建当時に描かれたらしい宝相華の天井や心柱が見られる。
この公開が終わった今秋からは、本格的な解体修理が始まるそうで、次にお目見えできるのは早くて8年、長引けば10年とか。
一緒に見に行った面々とまた、10年後必ず来ようね、と東塔の前で約束したが、この約束が簡単なことであってほしいと思う。
薬師寺東塔の内部が公開されている。
創建当時に描かれたらしい宝相華の天井や心柱が見られる。
この公開が終わった今秋からは、本格的な解体修理が始まるそうで、次にお目見えできるのは早くて8年、長引けば10年とか。
一緒に見に行った面々とまた、10年後必ず来ようね、と東塔の前で約束したが、この約束が簡単なことであってほしいと思う。
伝わらない、ということについて、考えあぐねて悩んでいる人がいる。
それは伝えたい内容のせいではないか、とまた内容について悩んでいる人がいる。
そう悩まなくても。
相手の状態が、自分の伝えたい種を受け入れる状態にないから、
伝わらないんだと考えてみたら?
受け入れる状態=耕されている状態にするには、言葉や文字だけでなくて、絵を使ったら?という提案として、
伝版や伝紋やひとふでんずを考えてきた。
ちょっとずつ世に出しはじめている。
でも、言葉や文字や絵以外にもいろんな手段があるんだし。
境界をひかずに発想・発信し続けようとおもう。
中之島あたりでちょっと休暇をとっている。
ふだん仕事をしているだけではお会いできない方々と、不思議なご縁で結ばれてここにいる。
街の緑に目をやると、
ついこの前まで黄緑が勝っていて、軟らかそうだった葉っぱたちも、
いつの間にか芯のある固さになって、緑色が濃くなっている。
自分の中に深く何を湛えて、人様にどう零すのか、
そんなことを考えてみた。
「深みのある明るさ」の大切さを思い知らされた。
ちょっと先ですが、6/5(土)に一心寺シアター倶楽にて18:30より開催。
一心寺シアター倶楽は、伝耕逢坂分室から目と鼻の先。
スティールパンって、ご存じ?
「カリブ海の小島、トリニダード&トバゴで生まれた、ドラムから作られた楽器」のこと。
歴史をひもとけば、せつない由来。世界で最も新しい民族楽器とも言われている。
ハンマーでドラム缶をすり鉢状に凹まし、大小の打面を軟らかいゴムのスティックで叩き奏でる。
しかし、そこは音感リズム感抜群の人々によってはぐくまれただけあって、
全くもって、楽しく、軽やかで、きもちがいい。
とにかく、スティールパンは生で聞くのが最高である。
録音したものが、これほど、生と違う楽器はあまりないのではないかと思うほどだ。
日差しが強くなってくると、あの軽やかな金属音がすばらしく気持ちよく感じてくる。
私にとっては夏を呼ぶ音だ。
最近なかなか暖かくならないし、スティールパンが似合う汗ばむ陽気が恋しいよー。
なんでこんなに早く宣伝しているかっていうと、
関西を代表するパーカッショニスト「山村誠一」先生率いる、
「ONE HARTZ STEEL ORCHESTRA」で娘がお世話になっている由縁。
私も最初は娘と一緒に習ってたんだけれど、忙しさとドレミが横並びにない音階配列にめげて挫折してしまったのだ。
なので、今はもっぱらサポート役に徹している。
先週末、チラシがどんと渡された。
同じくスティールパンの先生でもある釣千賀子先生がメンバーであるPanelaとONE HARTZ STEEL ORCHESTRAが同時公演。
ちょっとコンサートまでには間があるけど、ほやほやのチラシをでかでか載せちゃいます。
THE STEEL PAN CONCERT
「ドラム缶をこれでもかと叩いて奏でるコンサート!」
日時:6月5日(土)
会場:一心寺シアター倶楽
開演:18時30分
前売:3000円 当日:3000円(全席自由)
<ご予約・問い合わせ>
06-6774-4002 一心寺シアター倶楽(10:00~17:00)
theaterkura-since2002@officeb1.net
「コミュニケーションの型紙」というのが伝版のコンセプトだが、そこには難しいことを簡単に説明してしまうという説明ボードの意味も含まれる。
マーケティング、広報、宣伝、ブランディングについての秀逸な「伝版」の例が、ブログに紹介してあったので、ここに掲載。
ちっともエラそーじゃないのに、よくわかり、作り手の理解の深さがにじみ出てる。
ステキだと思う。
実はコレ、在阪メディアの「オモロいことしかけ屋」として注目をあびる株式会社140bが今月上梓したコミックエッセイの題名。
「せやし」ということばについて、原作者の小林明子さんは「京都流玉虫色」のことばであると巻末に書いている。
英語の「You know」。「Because」ほどカタくない。なるほど。
でも、きれいに流しすぎやな。私はひつこい性質。
私は京都人ではない関西人なので、京都周辺にいる人間として「せやし」に接する機会も多かった。
「せやし」は、
今まで会話されてたことについて、相手とその意味が共有されているのかどうかの確認もええ加減にすませ、
「悪いけど、今、自分の都合で、文脈のポイント切り替えをさせてもらう」という自己意思表示として使われている、と私は思う。
「You know(あのね)」ってのは、そもそも図々しい言葉。
その訳は、「Because」だけでなく、隠された「But」や「I believe」も含み、とどのつまり「Anyway(今までの話なんかどうでもええけど→私はこう思う、が続く)」という意味合いが色濃いことにある。
「せやし」、実は「You know(あのね)」モードを使った、単なる話題ポイント切り替え機。
相手に有無を言わせず、というのが「せやし」という話題ポイント切り替え機の設計思想なのだ。
「せやし~」と他人の話に同意するように発せられることはあっても、それは「自分の意見への承認を経て、持論を展開する」ためのきっかけにすぎない。
ごっつい高ピーな思想背景は、玉虫色に使われることによって高ピー加減がばれない「潜伏する帝(ミカド)」の擬態仕様となっている。
で、唐突に「だし巻」である。
だし巻と言われた途端、私の頭はだし巻きの大ショットに占領される。
あのはんなりした黄色、ふんわりのたたずまい、たちのぼる卵とだしのにおい、が渾然一体となって脳をしびれさせる。
あー、食べたい、今晩つくろかな。
いや、しかし。
だし巻、なにげにすごくむずかしいのである。
誰にでも手に入る材料と道具でできるおばんざいなのに。
人生で100回以上は作ったと思うが、いまだにうまくできない。
とどめは「京そだち」。
京都へ行った、京都で学生生活を過ごした、京都で働いた。
そんなこんなは「京そだち」とはほど遠い。
「東」のついた「京」のお金持ちが京都に越してきて、
「京ぐらし」をする人も多くなった。
しかし、死ぬまでやっても、
「京そだち」にはなれない。
自助努力ではどうしようもない。
「せやし だし巻 京そだち」=「潜伏する帝 日常超絶技巧 選民性」
実はすんごいプライド高くていやらしい3つの要素が潜む冠タイトルなのだ(身をやつしても、やんごとなき人々の日常はやんごとない)。
タイトル決定までのお話しはこちら。
ぎりぎりに決まって良かったのかも。
コミックエッセイだからこそ、このタイトルの重責を軽々と超えている。
眺めて(コミックなので)読んでたら、
「京都」という超ビッグブランドと「ひとびとの日常」というイメージの格差の中にまた、面白い話が生まれるという事実に触れて、
ブランディングさえしておけばそれ自体で稼げるし、格差でもネタになるからやっぱりブランディングは重要やな、と、
こざかしくマーケティングちっくに頭を巡らしてはみるものの、
京都の親戚に電話して「せやし」の語法をなにげに確認したくなり、
どんな手段を使っても、うまいだし巻きが無性に食べたくなり、
掲載されている「小林さんご推薦の地元の名店」に行って、「京そだち」ぶりをまねしたくなるのであった。
せやし、下手な分析してもはめられてるし。
(せやし=Anyway)
再会からはじまる新しいものごと、
新しく思えた出会いは、実はつながっていた縁であり、
そんな開始と出会いを知る由もないのに、
おくられてきた大きな花。
不思議なことが重なった週末であった。
なかなか回転しない軸が少し動いたのかもしれない
春寒し
ひとの輪つくろ
ぬくめよう
そういえば、iguちゃんに出会ったのは昨年のこと。
ご縁をつないでいただいたのは、長いおつきあいのある方。
彼女の絵を見てなぜ発想カードを作ろうと思ったのか、
自分の直観について説明できない私は、長いことそれを考えていたのだった。
発想カードとするなら、「明確に」ヒントとなる骨格のようなフレームを提供することが
第一義的にはツールとして必要なのであって、
彼女の絵がそれに対する直球の表現とはならないことは承知の上。
だが、フレームとしてそのまま考えるとその時点で落ちてしまう文脈がある。
人の話を聞き、まとめ、お金を得るためには使われずに流されていった、
相手と私の間に一瞬生じた、珠玉のような発見の蓄積が、
アプリオリに設定されたフレームに寄り添いすぎる知見よりも、
主観的には豊かであったという確信がいつの間にか私の中に満ちていた。
それは、お金の出入りという側面は別として、マーケティングというフレームと、
文化というフレームでは求められる要素に共通項はあっても、表現の多様性と
その深さにおいて異なることに帰結されるのだろうということに最近気づいた。
たぶん、その部分にこそ興味ある私は、その部分についてアウトプットする蛇口を持たないと、
抑圧されたこの思いは出現の場を探しあぐねて、いつか、クライアントの興味を無視して、
自分の世界に埋没して「使えない結果」を出すエージェントになってしまうかもしれない。
いや、そんなことをしたら会社は破綻してしまうので、破綻しないように、
私のためにigu伝は必要だったのだ。
なんと自己中心であることか。
とにもかくにも、共感覚を持つ人が世の中にいることを願うしかない。
そんなことを考えながら外を見ていると、もう用済みになって、解体中のビルに視線がくぎづけになった。
つい最近までは、入居者が出て行きがらんとなった状態で死んだように見えていたのだが、
解体工事が始まると、壁の中に縦横に埋め込まれていた配線や配管が露わになり、
それが血管や筋肉のように見えて、なんともいえない生々しい光景を見せてくれる。
確かに、ビルが生きているときがあったのだ。
その記憶はやはり埋まっているのだった。
明日はigu伝の展覧会に使う絵の色校出し。
色校正に時間と手間をかける。
20年ほど前、そんな世界をちょっとかじっただけの私だが、
印刷や色のほんのちょっとした違和感のつみかさねが
根本の価値をも揺るがす事態になることは身体でわかっているつもり。
どこまでいっても、所詮印刷なんだけれど、何を表現したいかによって、
こだわりも決まり、到達点も異なる。
リアルのように見えてリアルではない画像だけを怒濤のように見せられて、リアルを知らない世代の
リアル感はせいぜいリアルにサランラップをかけたような程度だという話を本で読んだ。
サランラップ一枚の隔絶感は薄いけれど確実に相手を隔てる。
においも、感触も、接触も。あの一枚の透明なてかりが色の明度さえ変える。
サランラップのかかった土に指をいれても、爪のなかに土は入らない。
人と人のコミュニーションの間にもいつも一枚のサランラップがあるのかもしれない。
サランラップを突き破るような刺さる言葉を求めながら恐れる。
私を含め、ネット上で発言するとか、つぶやくとかする人は、
刺さる言葉を求めつつ、サランラップを手放せなくなった人たちなのだろう。
謡の名手でもあった。
甥っ子氏の回想によると、
「叔父(須田)が電話をたまにくれて、これから金剛の能楽堂へ行くけども、付いてくるかっていうんです。
私は大喜びで付いていきます。私は舞台に目を向けようとしているんですが、隣に座っている叔父は、
目はきちんと舞台を見ているんですが、手は動いている。スケッチブックを広げてクロッキーをしている。
全然自分の手元は見ない。ちゃんと舞台を見ている。謡のことは全部分かっている人ですから、舞台を
見ながら手を動かしている。ほんとうにびっくりしました。...」
油絵作家の彼はドイツ語でゲーテを読むかと思えば、日本の古典にも通じていて能に限らず、
井原西鶴も語れる。
晩年は畳の上に正座して、イーゼルを前に立てて絵を描いていたそうだ。
そういう人が今生きていたら、お会いしたい。
記念すべき第一回お食事会の話題は如何に?と思っていたら、
河童を見た話であった。
私にとって、河童を見たと言い張る明らかに正常な人に生まれて出会った記念すべき日になった。
それも70や80の爺さんからではなく、
26歳の男子が、小学校4年生の時に、縁側で一緒にマンガを呼んでいた友達と、その友達の庭で育てていたキュウリと瓜がなっていた柵で見たと言い張るのである。
河童なるものは、世間のイメージ同様に、全身緑で、両生類の風情で、甲羅があったらしい。
キュウリと瓜がなっていた柵て、なにやら急にがさごそと音がして見たら、河童登場。
隣にいた友達が、「河童!」と叫んだ瞬間、その河童らしき何モノかは、
野菜の植わっている棚を高く飛び越えて逃げたというのだからリアル過ぎる。
彼曰く、お化けはわからないが、河童に類する妖怪はいると断言。
逢坂のてっぺん、おびただしい魂が渦巻くこのあたり、お化けも妖怪もどっちもありなので、
賑やかしならばウェルカム、とひそかに私は念ずる。
故河合隼雄先生は、「すべての人が自分の心の中に秘密の花園をもっている。その花園の中に何を植え、何を育てるのかというのは、その人の人生の大切な課題だ。」というようなことを書かれた。
今日私がやったこと。ビジネスの準備をし、社会貢献となる仕事の構想を練り、家事をし、来客をもてなし、子供に目配りをする。そういうことすべてが、花園を耕すことになっている。
すべてが花園を耕すことにつながり、自ずと植えたいものも決まってくるであろう、という確信があることは何と幸せなことか。
目に見える基準に対して、クリアしたかどうかでの結果で評価されて褒められることよりも、私にとっては本当の意味がある。
お好み焼き「恵三」は四天王寺前夕陽ヶ丘すぐ近くのお店。
逢坂分室ができてから、近くで昼ご飯をというわけで久しぶりに行ってみた。
奇をてらったところが全くないところが、おうちごはんに近いお好み焼きやさん。
お昼時になるといっぱいになる。
店は新しくもなく、普請もなんてことないが、とんでもなく掃除が行き届いており。
楊枝や灰皿、青のりなんかが置いてあるトレーがぴかぴか。
写真の豚玉でおなかいっぱいの帰り際、お勘定をすませたら、さりげなく見送ってくれた。
手入れされたお店で、出すぎないがちゃんとこしらえたものでおなかが満たされ、数百円払っただけなのに、いってらっしゃい、といわれる。
「もっと遠くへ!、豊かなところへ!、無限の成長!」なんていうアジテーションに対して、一応合わせてはみたものの時折無性に胡散臭いと思い、
このへんで手を打っても十分に幸せかもしれない、という疑問にふととらわれる瞬間があるのなら、
とんがりをすっかり納めて、これぐらいの丸まり感のあるお店に訪れてみるのもいい。
***
お好み焼き 恵三
下記はえとじや お。さんブログ マーケッターの「好き」って? にコメントしていたら長くなったので、ここに掲載。
**************************
こんにちは。お呼びじゃなかったらごめんなさい。
「憶えている」という言葉は「愛している」という言葉と同義語、と言う人がいました。
きっと、好き・嫌いとはっきり言えるものは愛憎につながり、「憶えている」レベルのものなんでしょうね。マーケティングの効果を考えるのならば、「憶えていてくれる」ことは肝要。
愛憎(←好嫌)は紙一重といいますから、まずはマーケターの仕事は「愛憎(←好嫌)」を脇に置いて、直感的に「憶えている」と言ってもらえるレベルにあるのなのかどうか、を同時に判断すること。ここの判断の精度が高い自信があるのならリサーチの半分は不要でしょう。効果の問題を考えると、好き・嫌い(愛憎)、どっちでもいいけれど憶えてもらえそうな感情の揺さぶり要素が揃っているか、ということが重要ですものね。ゆさぶりを作れない企画は、結局好きも嫌いもどっちも作れないのでしょうから、お金かけて広めても「刺さらない」広告やキャンペーンになる。「そもそも」論です。
「そもそも」論をクリアして、愛憎判断レベルに至ったとする。幸運なことに、マーケターが自分の「好き→愛」の路線だと判断してハッピー状態であれば、お書きのように成否はどうあれ、主観的には「よし」なんでしょうね。逆に、マーケターが「嫌い→憎」だと思う路線にあるのなら、なぜ「憎」なのか、と自問自答した上に、関係者に説明し尽くしたいところ。
問題は、「嫌い→憎い」の路線については、マーケターであっても、それをまったくの自己保身にかかわる要素と切り離して説明できる人が少ない(ような気がする)こと。「嫌い→憎い」と言い切れる「何か」は、その「何か」の要素が、世の中や自分の周りにのさばってしまうと、結果的に「嫌い→憎い」と言っている自分(マーケター)の存在が危うくなるもの(=保身できない、自己を堕落に導く)ようなものだったり。なので、瞬間的に「嫌い→憎い」と表明してしまう。望ましくない状況を瞬時に回避するということは生き物としては限りなく正しい選択だと思いますが。
なぜ嫌いなのかを説明せずに、スルーして、リーダーが好き嫌い論で突っ走っているプロジェクトチームはメンバーの説明能力が全体に低い。大きく言えばそのカイシャの成長にかかわる問題。
ヒドイ場合は、本能的に瞬間的に決定したい、思考停止状態で拒否したい、という衝動のままに振る舞えることこそが、地位の証、と思っていらっしゃる方もいらしたり。いえ、否定はしませんが。カリスマにありがちなので。
思考停止にならずに説明できるのは「お。」さんのように、とことんまでトレーニングされた人かと。リサーチの究極の価値は、愛憎の理由を自分で探ることはせずに他人のフィルターを通じて確認させる作業にある。それを客観と呼ぶ人もいますが、私の客観の定義は、「違う頭の主観を思考停止にならずに観察すること」なので、ある種、主観ともいえる。ただし、それは成功の約束ではなく単なるリスクヘッジにすぎない。そこの精度を上げることがROIを満足させないのはどこまでいっても単なるヘッジにすぎないからですね。
そもそも文化が異なれば、自分の存在にかかわるコードが異なるので、愛憎のコードが異なる、自分が愛していても嫌われる、憎いと思っても、その文化コードでは愛されたり、ということが起こる。
文化コードが複数錯綜していて判断が必要なところではリサーチを行う価値があるでしょう。わかりやすいところはグローバル企業でのリサーチの多用とか。同じ国でもマーケターがターゲットとする相手と文化コードが違うと不安に思う時は、行うことに価値があるのでしょうね。優秀なマーケターでも舞い上がったり、思考停止になる可能性はゼロとは言えず、結果お金を失ってしまう、ことよりもリサーチしておいた方が長期的に安上がり、という判断もあるような気がします。
すごいマーケターって、自分とは愛憎コードが異なる赤の他人Aさんのコードにがっつり組んでひきだし、ひもといて、自分なりにAさん愛憎コードを組み立てることができる能力を備えている人なんでしょうね。そんな人が多くなれば、リサーチの出番が少なくなるのは確かです。
小ぶりだけど天然の鯛のアラがお買い得だったので、大根と鯛のあらだき。あらをせせっていると、たいのたいが3つもでてきた。野菜の高騰を避けた結果選ばれた水菜とトマトのサラダ、わかめの味噌汁。雑穀入りご飯。金曜の夜にしてはつつましい献立だが、しみじみおいしかった。きれいなお魚は後味がすっきり。見た目と同じ味がする。
世のなかのうごきがせわしなくて、
生まれたらなかなか死ねないのに、
ゆっくり進歩することがゆるされないなんて。
すぐに何かができるようになることを求められても
その何かはすぐに忘れ去られてしまう。
生まれ変わっても今の仕事をしていたい、と
言える人はどれぐらいいるのだろう。
地球のなかで、
ゆっくりはぐくまれてきたものを
急速に破壊することはできるが、
命にかかわる本質を急速に生み出すことはできない我々は、
いったい、何をはぐくむために生きているのだろう。
私にぎゃいぎゃい言われなくても娘が珍しくさっさとお風呂に入っていると思って浴室を見たら、
湯船に半分風呂の蓋をして、それを本立てとして、読みながら入っていた。
そんなこと自分で考えてやるようになったんだ。
それ自体、特殊なことだとは思わないが、
ずいぶんと成長したんだな、と。
大阪市内の寺町生活も今年で6年目である。
墓石だらけで、
老人が多く、
緑はあるが、
線香くさい。
そんなところに、
わざわざ人々は集まって、
祈り、喜捨し、花を手向ける。
皆、
そんな行為をしている自分を、
どこかで同時に見つめて、
今、生きていることを感じている。
縁もゆかりもない人々が、
石のなかではなく、
今、ここ、生きている側にいて
死者と向き合っているという同時性連帯感で、
どこか結ばれている。
わざわざ、retweetしなくても。
まだ道半ば、ではあるが、伝耕の逢坂分室のしつらえを整えている。
いったい、いつの間に、多くのオフィスがグレーの樹脂によってできる刺激のない空間になったのかは知らないが、
逢坂分室は、そんなイメージとはほど遠いので、できるだけオフィスとは呼ばないようにしようと決めた。
会社がその会社であり続けるためには、
その会社のなりたち、つまりでっぱりやひっこみが感じられるしつらえでなくてはならないと思う。
でっぱりやひっこみがあるから、その会社は社会に存在し、
さらに、でっぱりやひっこみをうまく活かせば成功し、
うまく活かせなければいつか失敗する。
ただ、それだけのことなのだけれど。
それだけを意識することがまずは重要なのだけれど。
普通のオフィスにしてしまうと、そのでっぱりやひっこみを感じられずに、日々過ぎてしまうような気がする。
だめだめ。
それらを見ずして、それらを意識し、活用するほどの手練手管は我らにはまだないのだから。
これは、文化人類学の海外調査にたずさわる岩田慶治先生のモットーらしい。
現場に赴いてそこから何かを得ようとする調査はすべてそうなんだろうな、と思う。
なので、マーケティング調査でも同じ。
何か新しいモノを見つけるために、新しい方法でやることだけにこだわると失敗する。
現実には、
新しい方法をお金をかけてやったということを納得させるために、
その方法でないとわからなかったことにする合理化はよく行われているので、
失敗は隠蔽されていることが多い。
「何か新しいモノを新しい方法で見つけてください」と素で言うマーケターはあまり力がない。
ホントは、
今ここにあるモノ、今ここに起こっていることに対して、たとえ方法は同じでも、
今までとは違う視点で違う質問をして違うくくり方をしてじっくり取り組んでみれば、
新しさはその自ずと湧いてくる、ことは多いと思う。
何も変わらないことに対して、何か今までとは違う質問をするためには、
自分が変わらなければならない。
自らの努力だけで自分が変わることは、何よりも面倒で難しいので、
自分が変わるのではなく、方法を新しくして、自分への刺激を変えて、
今までの自分を変える刺激としたい。
新しい方法とは、自分を変える刺激のために行うこと、それに対して、
企業は投資させられていることについて、
みんな気づかないふりをしている。
いやしかし、
自分に対する刺激が変わり続け、結果、自分が変化しているように思えることが、
人間が長い人生を飽きずに生きるために必要なことなのだから、
人間のありようから考えると、必然なのかもしれないが。
空港ラウンジで、お弁当・ビール・コンピュータのセット。
これぞ、貧乏暇なしの風景だが、そういうの結構好きだったりする。
鰊(にしん)甘露煮しのだ巻とビールに交互に手を伸ばしながら、
メールを書き、ブログを書き、ラウンジある雑誌をぱらぱらと読んだりする。
結構はかどるんだな、これが。
やっと帰れる。
人を引き合わせるのは、楽しいものだ。
ね、ね、くこういう人と会いたかったでしょ。
思った通りでしょ、思ったよりすごいでしょ、ね、ね!
こんなにたくさんの人が生きているのに、ここでこうして出会えるなんて、うれしいね。
一緒に仕事ができるなんて楽しいね。
きっといい仕事ができそうね。
そこから思っても見ない発見があるよね。
出会いによって刺激される妄想スパイラル、止まらない。
4月はじまって初めての東京出張。
午後に東京入りして、合計5件の強行スケジュールだが、
空港バスの中から見る景色は、ごきげんな春の空。
帰宅が週末になるので、その日まで置いておくと枯れてしまう花を今朝処分した。
花はまだついているが、水につかっている茎は腐敗しはじめ、かすかな異臭を放った。
咲きながら、どこか腐り始めている、というシュールな風景も、生き物ならではのありよう。
そういうのも最近は楽しめるようになった。
咲きながら
人知れず朽ち
春の花
ママと宇宙飛行士の両立、なんて言われてるけど、ちがう。
直接的に子供の世話をする(お金に代表される資源だけをもってくるのを間接的に子供の世話をする、ということにすれば)仕事を、協議の上、旦那とトレードしたのだ。
優先順位の高い複数の役割を一人で担うなんて基本的には不可能だ。
同時にこなすには明確な差をつけた優先順位をつけることが必要だし、
優先順位をつけられないぐらい拮抗して重要な要件は、
重要な要件を主に誰が担うかについて交渉しなくてはならない。
事実を正しくあらわさない日本語使いで、幻想を振りまかないでほしい。
タイムズスクエアあたりは、ビーバーの生息地だったとか。川やクリークの多い地形は、そもそも野生動物の宝庫。
今では、せいぜい人と車とゴキブリとねずみの生息地か。
かつての地形を物語る古地図をもとに、ニューヨークに少しでも自然をよびもどそうと活動している奇特な人もいるらしい。
地球上の多くの生き物は、ニッチな生き方をしているが、それが地球全体の生物の多様性を形成する。
苦いオレンジの葉っぱしか食べないキアゲハの幼虫は、他の動物が嫌う苦いオレンジの葉っぱしか食べないから、同じ場に居る他の種との共存が可能である、と。
もっともニッチではない生き方をするのが人間で、何でも食べ、どこにでも移動する。
どこでも生息するが、ある意味、どこに生息すれば満足できるのか「ニッチが覚悟できる生物として」わかっていない。
わかっていない我らは、移動する手段を持ってしまい、もっと遠くに、もっと広いところへ、ここでもない、あそこでもないと移動する。
多くの人が共同体での過ごす、比較的ニッチな生き方を捨てて、グローバルに移動し、グローバルに影響を及ぼすようになってから、地球上の絶滅種は増え、この50年間にかなりの種が地球から消え去った。
他の生き物からみれば、地球をめちゃめちゃにするガンのような異物の塊が移動する迷惑な存在が人間なんだろうな。
異物の塊が右往左往して、「財を成す」というビジネスってなものについて、病院の待合室で頭を巡らせてみる。
家から200メートルのところに伝耕分室。
しかし、間に25号線。信号の都合で、通勤が3分~4分となる。
この結界の様な25号線が意外に重要。公私結界の役目。
ストッキングとパンプスを履いて、信号を渡ってみる。
おっ、なんだか、気分が変わる。
身体を緩めたり、締め付けたり、このメリハリが気分と頭の働きを変える。
純粋にいろんな格好で出勤してみると、発見があるかも♪
生活しているところで、同時にわけわかんないビジネスもするって、人格の使い分けをサラリーマンみたいに割り切るわけにはいかず覚悟のいるもんだ。
あそこの奥さんは、仕事をしてて、出張でしょっちゅう家を留守にしてて、それで変な会社をやってて、どこの家で、こんな車で、旦那はこんな職業で、こんな人、子供はこんな感じの子で成績で、こんな習い事してて、奥さんのふだんの顔とよそゆきの顔はこれぐらいの分散があり、近所の行きつけはここ、こんな買い物をしてる。総じてこんな人。
ってな感じの人が、こんな商売やってんのよね、で、どうよ、みたいな。
360度評価に耐えなくてはならない。
っていうか、耐えているふりして、そんな他人のこと総合的に判断できる人、多くないよねという見切りのもと、部分最適化を試みつつ、俯瞰的に判断出来る数少ない人を見極めて、その人ときっちりコミットすればほぼ正しいという判断が必要か。
この振る舞いと判断こそが共同体の中での生き残り処世術の基本のキ?
寺が多く、木もそれなりにあるせいか、家の周りでは鶯が鳴いている。飛行訓練中の雀の子も、我が家のベランダにときどき撒いてあるお米をつたないアプローチでついばみに来る。不安になると必死の呼び声で親鳥を呼ぶ。伝耕分室から見える一心寺では桜満開。寺町ゆえ老齢人口の割合が高いこのあたりも、春になると若やいでなぜか街の平均年齢が下がったように見えるのは毎年ながら不思議なこと。雀の泣き声は無視だが、鶯が鳴くと、通行人はどこで鳴いているのか確かめようと、判で押したように辺りを見渡す。人間はひとりひとり異なっているようで似ている。が、同じと言い切るには十分違う。「たかがの違い、と、されどの違い」、この分散の中に、すべての人が収まっている。そんなプロットを思い浮かべながら、伝耕分室引っ越しのゴミ出しを終えた土曜の朝だった。
美空ひばりの「車屋さん」がとにかく好き。東京事変がカバーする「車屋さん」も小気味よい。
二人の天才が、うすっぺらな知性を蹴飛ばす、媚びとすごみの境界をぐちゃぐちゃにして見せてくれるので、
ときどきYoutubeで連続視聴する。
今日は、
わかりやすい成果とか、すぐそこのROIとか、ははん、と言ってみたくなる、置屋仕立ての逢坂分室にて、
真剣にびじねすの話をしてみた。
このオフィスには、腹蔵なくす独特の気流が静かにうずまく。
やっぱりパワースポットなんだ。
今日は伝耕の逢阪分室にて、初仕事。
店子たちは、快調に荷ほどき。
近くにあるドレミのケーキにて、開設記念の宴、吉田仕込み。
ドレミケーキ、これって、ケーキの中のコロッケみたいやね。
ケーキにコロッケセグメントなんかあるんかと思ってる阪神間の方々、
確かにございます。でも味わいたいなら大阪に来てね。
底にパンチのあるほうじ茶で流し込む以外、ぴったり合う飲み物がない禁断のケーキが。
キーマン茶でも無理だからね、言っとくけど。
プロフィール
伝耕PROJECT
伝耕人のブログ