2010年3月アーカイブ

京都北山・芦屋・四天王寺

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今日は、わけあって、3つの街を巡ることになった。

巡ると言っても、四天王寺は家の所在地なので、

お出かけしたのは、京都と芦屋なんだけれど。

京都は北山、桜が咲きかけており、曇り空でもほのかな桜色がきれい。

ごく薄い桜色って、色白だけど、顔色の悪い女の子みたい。

おい、お前労咳か、と声かけたくなる。

京都のきれいは、どこか残酷な香りがする。

 

芦屋は打出。友人の家を訪問。

地震後、ずいぶん様変わりし、今ではこじゃれたマンションもあるこのあたり、

四天王寺よりも詳しいハズだが、

いつの間にか、わたしにとっては何とも言えず居心地が悪い場所になってしまった。

だって、その、こじゃれ感、私、もう似合わないもん。

家のありようが、自分に似合わないっていうのは、相当恥ずかしく、辛い感じだ。

さっさと着替えるようなものでなし。

 

さて、現在のホームタウン、四天王寺。

くたびれ加減とこなれた加減の境界がわからない。

あーらくちん。

そのぼんやり境界の具合がちょうど良い年齢になったってこと。

違うように見えて同じこと

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独特とか独自性というのは、どこか共通な部分があってこそ語れるもの。

そういう意味では、逆説的だが、共通部分なしの独自性はあり得ない。

 

伝耕として今、サイトに出ている以外に「ビジネス」らしく見える業務内容を発信をしようとプランニング中だが、

そこに集まってきた人々はそれぞれに「独特」な人たち。しかし、大きな共通部分がある。

それは「違いをおもしろがる」というところだ。

違いを指摘することをためらわず、それをオープンにして話をすることについてエネルギーを使うと、

いつの間にか、違うと思っていたことでも、共通項が見つかる。

そして、違うと思わせた「特異点のコイツ」が明らかになる。

そういうプロセスが好きなひとたち。

 

ひきだし、ひもとき、くみたてる♪

 

まあ、「耕し好き」、「つっこみ好き」といったところだろうか。

伝耕メンバー、愛すべきキャラの人達が集まっているよ(自分も含め、ふふふ)。

あぜ道のようにできていく進行が楽しみでやんす。

 

 

 

伝耕のお仕事便り

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伝耕の「伝版」・「伝紋」・「ひとふでんず(伝図)」。「でん」がいっぱい。なので、このサイトを構築してくださっている浅草の桃知さんに「でんでん」と呼ばれている。

昨年の夏にサイト構造を浅草寺の子宮的構造にしたいという桃知さんによる壮大な構想をブログにアップしていただいたが、それに対する回答も感想も私は書かなかった。

思想なのか、肌合いなのわからないのだが、何かがずれている、どうしようかな、と思ったが、そのうち、と思って今日に至った。

子宮的構造、とか、そういう表現で語るなら、確かに伝耕は「子宮」をもつのかもしれない。子宮持ちの3人が会社の中心だし。

しかし、子宮に至るまでのエントリーや出口、その出入りのプロセスに大いなる興味があり、人生を賭すオスと、そんなものはすでに持っているメスは、入り口と出口のありように賭けるパッションが違う。

そもそも感覚が違うせいなのか、とにもかくにもフォーカスするところが異なるんじゃないかという気もしている。

伝耕の有り様は、たしかに子宮的構造を目指しているのだろうが、私としては、その力点は、「子宮的構造」にあるのではなく、「子宮的構造」にある。

つまり、私たちが素のままやっている以上、いきなり子供が育っている子宮口のある風景から始まる。

伝耕サイトのトップページに出ている「伝版」・「ひとふでんず」・「伝紋」の子宮口をクリックすると、それぞれ「伝版ちゃん」・「ひとふでんずちゃん」・「伝紋ちゃん」という子供たち細胞分裂している様子が見られる。

つまり、子宮=寺とするメタファーを用いれば、伝耕は浅草寺のような大きなひとつの寺ではなく、いくつかの子宮が集まってできている寺町という構造。

でも、寺町にもどこかに総本山がある。その考え方は、「楽(らく)に楽しく、気持ちや考えをひきだし、ひもとき、くみたてるツールやノウハウ(場も含め)を提供する」ということであって、それ自体は見えないし手に取れない。

総本山のなにかしら、そういう中心性は、それぞれの子宮にいる3人の子供たちの成長を通してのみ見える。中心性自体はコンセプトにすぎない。

コンセプトの表現系である子供たちは今のところ、「伝版」ちゃんや「ひとふでんず」ちゃんや、「伝紋」ちゃんであって、その子たちが大きくなって、世に出て行かないと、そのコンセプトのものも伝わらないであろう。

 

なので、我らは彼らを育てている、「伝耕するひとびと」なのである。

育て方のプロセスの中では、

彼らを育てながら、「今、世の中に役立つ」ために、出稼ぎもする。

手のかかる子供たちのすぐ側にいてあれこれと面倒も見る。

そういう意味では、この会社は子持ちの私の人生と入れ子構造になっている。

 

いつか、このサイトを出て、旅に出る子もいるし、残る子もいるだろう。

そういう動きもわずかに出てきた。

 

ならば、次の子供達のためにも、今の世の中にお役に立てる宣伝もはじめようかしらんね。

そういうことも考えている。

 

伝耕活動を続けながらビジネスを成り立たせるには、しかし、入り口と出口に人生を賭ける人たちの好みに合わせなくてはならないこともよく知っている。

そのあたり、「子宮的構造」と「子宮的構造」の可能性について、考えはじめなきゃ、と思っている。

 

なんせ、春ですから。

空気を耕す

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畑仕事をしながら、音楽の創作活動をしているオカリナの宗次郎氏は、その生活のことを「土地を耕し、空気を耕す」と表現していた。

「空気を耕す」、いい言葉だ。

土を耕すように、コミュニケーションを耕す、そういう伝耕のコンセプトと大きく重なるところがある。

コミュニケーションというと、中身や方法だけがクローズアップされやすいけれど、実はその前段階が重要。

なんで、音楽に序奏があるの?、とか

なんで、茶室までの路地につくばいがあって入り口はにじり口なの?、とか、

なんで、飯喰う前に呑む酒、食前酒なんてものがあるの?、とか、

その理由を考えて見ると、次の展開についての期待感と中身のレベルをうまくコントロールしていることがわかる。

そういう準備の部分にも大きく敬意を払って、「伝えるように、伝わるように耕す」という準備を含めたプロセスとそこに必要なツール・ノウハウすべて含めて「伝耕」というように呼んでいる。

「伝耕」は会社の名前であると同時に、これはコミュニケーションについての態度を示すコンセプト、である。

 

自分自身、コミュニケーションをする際に、準備がよくできていて、空気が耕されている人だとは思わない。

修行の途中である。

周りを見渡してみると、

相手を受け入れるようにすでに準備ができて、耕されている人は、必ずしもエライ人とは限らない。

むしろ少なかったりする。

エラくなるには、人を排除することも重要だったりするからだ。

 

常に耕されている人は、看護婦さんだったり、保母さんだったり、 する。

コミュニケーションを行う際の態度として、オープンマインドであるオーラが常に重要だということを身体で知っている人達だ。

これは、どちらかというと日々の仕事の中でセンサーを高める訓練を積んだ末に可能な極地だと思うけれど、

そこをいきなり目指してしまうと、高すぎるし、そんなもんになりたいわけじゃない、という人も出てくるので、

楽(らく)に楽しく、ひきだし、ひもとき、くみたてるためのツールやノウハウを作って仲間を増やしたいな、と思っている。

 

昨日は爆睡したので、なんだかたまってた疲れは解消されたようだ。

また、「伝耕」活動始動。

失礼ながらイタリア車みたい

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調子良く動くときはご機嫌で高速だが、すぐ壊れる、はい、イタリア車ね、じゃなくて私の頭。これは旦那評。

今日は午後少し前からちょっと壊れはじめた。熱も出たりして。

用事もあって、もろもろ片付けることがあったけど、今日はやめよう。

ちいさいときから、軽いてんかん症状のあった私は、身体の制御がどこかおかしい。

その症状が出ると、時空がゆがむ。自分でわかる。

秒針を見ながら、自分の感覚暴走の感じをはかるという技も身につけている。

身体って、よく壊れるんだ、3回ぐらい壊れ続けると、きっと死ぬんだ、と信じていた私は、

小さい時から生きることと死ぬことは仲間だと思って過ごしてきた。

その割には、おおむね健康に生きている。

ありがたいと思う。

 

なにげに壊れたのが土曜で、また、ありがたいと思う。

お掃除

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伝耕の分室兼ギャラリー、黄色い家のお掃除。教室みたいなガラスの入った木の引き戸があって、がらがらという音と共に開く。やっぱり予定どうりセンコーがやってきた、そういう落胆と安心がないまぜになった音がここにはある。予定通りでなんか問題あんのかよー、予定通りだから予定通りふててOK、みたいな体制と共にするしか存在のない甘ちゃんの反抗分子の匂いと一緒に。今の子は賢いから、甘ちゃんの反抗分子なんていう貧乏くじはひかず、従順な兵隊もどき、なんだけど。いずれにせよその有り様は国境を越えられないていたらく、その限界に気づいていても、結局何のアクションもしないんだろうな。そう言われたら「俺ら、やったことある」と言いたげな群れてるおやじ、おおそうそう、君たちがいた、何とかしてね、あんたらの出番?でもどうせ何にもしないよね。だって、すべりこみセーフで年金たくさんあるしね。全部持ってて、わかってて、不良のふりして、何もせず、それは欺瞞だ。だったら、少なくとも、早くそこをどいてね。後ろが詰まってるから。

なんか違うんなら言ってみろ、と、50近い婆あは思いながら、いつまでも黒いぞうきんを確かめながら拭き掃除するのである。床はいつ、元の輝きを取り戻すんだろう。

甘やかしすぎず、

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厳しすぎず、いたわって育てるのが大事。ってこれ、人間のことかと思ったら、苗の育て方なんだって。

生まれたモノを環境が変わっても生き延びるように育てるって、何でも一緒なのかな。

人に対するとき、

甘やかし過ぎたり、

厳しすぎたり、

いたわるどころが、ときどき

うわの空になりがちな私を

反省したりする。

伝紋ワークショップイベント終了

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今日は伝紋ワークショップ展覧会の会場であるスタンダードブックストアのカフェにてトークイベントあり。

終了して、今、帰宅。

少しずつ、このワークショップの輪が広がっていきそうなのはいいことですね。

無理せず広がればうれしいですね。

別になくても命に別状ないことをしかけているのだから、それなりの広まり方でいいんだろうと思ったりしています。

大阪ミナミのスタンダードブックストアカフェにて23日より。

今の自分をあらわし、つたえるための家紋ならぬ伝紋、ならんでます。

展示された伝紋を見ながら、この伝紋の持ち主はどんな人だろうと思いを馳せるのは楽しいですよ。

今回は、二次元に印刷された伝紋だけでなく、いろいろなグッズに展開する試みも行っています。

明日、また詳しくレポートしますね。

 

 

視界不良

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さすがに今日は滑走可能なキロロゲレンデだが、風は強かった。

途中で刻々と眼鏡が凍りついてくるのがわかるし、さらにふぶいて、前がほとんど見えなくなった。

かすかに見える、前の人のウェアの色と、足の感覚だけを頼りに滑り降りる。

まあ、いいや。着いたし。

 

「今の」コンピュータは視界偏重で、ちょっとしたことも見えてないと、全くダメになることも多いが、

あたり前だけど、スキーはそうじゃなかった。

 

PCや携帯に全能感を持って、今のコンピュータに必要な視覚に頼りすぎるのもどうもね。

そんなことしていると、いつか、ハンプティ・ダンプティみたいになってしまいそうな気がする。

戻れなくなったらやだな。

 

Humpty Dumpty sat on a wall.
Humpty Dumpty had a great fall.
All the king's horses and all the king's men
couldn't put Humpty together again.

ハンプティ・ダンプティ へいにすわった
ハンプティ・ダンプティ ころがりおちた
おうさまのおうまをみんな あつめても
おうさまのけらいをみんな あつめても
ハンプティを もとにはもどせない

(英語はWikiから、日本語はたぶん谷川俊太郎訳)

 

 

 

全面滑走禁止

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今日からはりきって、北海道までSKIに来たが、あいにくの天候で、

キロロのゲレンデは全面滑走禁止だった。

こういうの、結構運が強いハズなんだけど、今回はダメ。

明日、天候回復するといいな。

でも、東京や大阪では見られない景色を目の中に一杯いれると、

妙に頭の中がすっきりする。

何かこざかしいこと考えようとしてもダメ。

いいチャンスかも。

 

 

汁とにおい

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アスファルトの端っこから、いろんな雑草が生えはじめた。そういう季節だ。

 

草摘めば

鼻さす青さ

風ひかる

 

しゃがみこんで、まだ、ちっちゃいのをわしづかみにしてちぎると、緑の断面から出る汁の青臭ささえも若い。

立場を逆にして、植物になった私がわしづかみにしてちぎられる存在になったら、どんな汁が出てくるのだろう、と考えてみる。

ずいぶんと変な色とにおいの汁が出てくるのだろうな。

 

そんなことを考えてたら、妙な気持ちになったので、

お香を焚いてみる。

 

今みたいなお風呂がなかった平安貴族の女性はその異臭を隠す目的もあって、着物に香をたきしめた。

平安時代の寿命は40歳ぐらいなので、お風呂で流れるタイプのにおいを隠すための香りだったんだろう。

 

40歳で死ねない今の人達は、お風呂には入れるけど、それでは流しきれない人間のにおいが中に集積するに違いない。

からだの中から出るにおいを逓減する摩訶不思議な商品がいろいろ出ているね。

カラフルな色や音や、奥行きと触感さえ感じさせるいろいろなしかけがコンピュータの中に仕組まれているけれど、

それでも、いかんともしがたいリアルな世界の重要な感覚は「におい」なんだろうと思う。

 

最近、はじめて出会った人には、なんとなく、くんくんしてしまいそうになる私。

 

なんか、外見がどうの、ということではなく、こころが死んじゃってる人は、変なにおいがするような気がするから。

 

虐待のうしろにある身体的文脈

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赤ちゃんの育児放棄がらみの話、なんだか身につまされる。

 

海外出張だの、テレビ会議だの、会議づけのスケジュールを管理してくれる人もいたりして、ひどい時差呆けには悩まされはしたが、

書類と会議だけの、そんな生活から、

一挙に田舎の妊婦、乳児の母になったとき、自分で選んだ道ながら、その孤独さと、上下運動と、こちゃこちゃ仕事にまったくもって「一時的に」参った。

子育ては上下運動なのだ! 知らなかった。 子供は地べたで動くから。

母親との身長差のある組み合わせは、何をするにしても上下運動になる。

さらに、上下運動が激しくなる頃、子供の体重はかるく10キロに達する。 

 

その上、子育てはやたらに指先を使う。おむつかえ、着替え、こちょこちょ細かい洗い物、整理、刻み・つぶす料理。

鍛え方の足りない私の腰は、悲鳴をあげ、よく使われていない手は腱鞘炎になった。

すでに、36歳だったしね。

若くはなかったせいもあると思うが、それを言うと、また周りから「それ見たことか」という視線が来ることはわかっていたので知らんぷりをしていた。 

 

子供を産む前は、メールを書き、出張をしまくり、空いた時間のオンデマンドで、外食し、家事を省力化(サボり)し、残業を含め夜更かしし、休日に朝寝していた日々。

子供を産んだ後は、子供のオンデマンドで、動き、動き、動き、一緒に寝る。 

 

今から思えば、たいしたことなかったが、

そのときは、なんなのコレ?と思ったものだ。

昨日まで、横移動とキーボードで生きていた私が、なにゆえに、いきなり、上下移動と、ぞうきん・ふきん・ガーゼ・ティッシュで生きなくてはならないのか、と。

おんなじ人間なのに。

むしょうにばからしく、むなしく思えたものだ。

今はそう思わないけど、そのときはそう思ったのである。

誰のせい?技術革新を進めた社会全体のせいである、と。

みんなが原始的であれば、何とも思わないモノだけれど。なんで、私だけ。

ボタン一つ、コンビニ3分でOKの生活から、はいつくばって、意味のわからない泣き声に参る生活へのシフトって。これって、技術革新なん?

 

やってられん。

 

虐待の背後には、昨日まで許されていた、

①横移動・スイッチ/ボタンひとつの生活から、

②縦移動・ぞうきんの生活へ

シフトした叫びが含まれているような気がする。 

 

えっ、そんなくだらないこと、と思われる方は、

ある日、フェーズが変わる(つまり、出産する)ように、急に①から②にシフトした生活を実践してみればいい。

これこそが、育児ストレスのベースになる「身体環境の劇的変化」だと私は思う。

①のレベルは日進月歩だが、②の進歩は①に追いつかない。

差は広まるばかりである。

よって、①と②の文脈の違いに急にさらされる人の中で、必ずある割合は②に適応しきれない、のではないかと。

それでも②のレベルは、昔に比べると格段に進歩しているから、②のつらさは、母親や自分よりも少しでも年齢が上の世代にはわからない、同情できない。

②で悩むことは、「母親時代の以前と比べると」贅沢すぎると責められるので公言できない。

旦那は横移動の生活の中で生きているから、そもそも理解してくれ、と言っても不可能だ。

「悩み」のレベルは少し年代や少し状況が違えば立ち位置がそもそも違うので共有できない。

「悩み」はそもそも相対的な理由で発生するので、悩みの共有については共有する人の数が少ない時点で期待できないものとなる。 

 

寡聞につき、こういう意見や分析を見聞きしたことがないので書いてみる。

こういうの、どうせ、年長の人とか、男の人の多くは無視するよな、と知っててあえて書いてみる。

みんなすごいな

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見渡すと、どの人も、すごいな、と思う。

プライドや卑下なしにそう思えるようになると、とっても楽ちんである。

ここ最近、いろんな経験をして、そう思えるようになった。

みんなすごいんだけれど、それぞれのすごさについて、

交信しあっていないゆえに、すごさが一人の中にとどまっていることが多い。

一人一人のすごさはほとんどが、その本人の中にとどまったまま一生を終えるような気がする。

寿命が延びてもこのことはあんまり変わらないんだろうな。

じゃあ、せっせと交信しなきゃ、とも思うのだけれど。

Twitterとかで。

一方で、

一人の中にとどまって、人に与えられないモノがあってもいいのかもしれない。

それが個性と呼ばれるもので、それを抱えたまま死ぬのも生き物らしいのかもしれない。

 

 

 

日常のスタンス

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生活の中の何気ない発想で新しいものを作るのが女の人だね、と先日言われた。

 

私が作るツールは、確かにそんな感じ。

料理にたとえれば、○○料理、というジャンルのあるものではなく、

おそうざい、という風情。

なんだか偉そうに見えなくて、「これぞ!」って宣伝するのが難しいんだけど、

使ってみたら案外イケる、こんな感じだろうか。

 

別にすごい料理みたいなツールじゃなくてもいいと思っている。

毎日使えないし。

がちがちに使い方の決まっているツールもいらないと思っている。

自分の味付けと違うと思うし。

 

 

 

 

伝耕の別の顔:発信の巻

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伝版やひとふでんずや伝紋ワークショップではない伝耕の顔がある。

営利企業さんへ向けての、戦略の策定のお手伝いやワークショップや調査などなど。

この分野の発信を控えていたが、そろそろいいかな~。

ということを、昨日メンバーとつらつら話しあった。

 

ああでもない、こうでもない、こうかも!というのは結構楽しい。

自分たちのことを案外わかっていないことがわかって、これもまた発見。

とにかく優秀で素敵な仲間に囲まれているので、大事にしたい。

何かを信じてやり続けることは、生きている証だとしみじみ思う。

 

みんな、本当にありがとう。

 

珍獣たちが揃って、渋いサービスをご提供する発信準備開始に乾杯!

 

 

 

 

会津屋の三拍子

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手軽だが、秘伝があってコピー不可能で、おいしいもの。

これら三つが揃っていれば、裾野が広いファンが集まる食べ物になるんだろう。

今日は東京に出張。 伊丹の搭乗口17番には会津屋のたこ焼きが期間限定で出店していた。

三拍子そろった結果、70年の歴史をきざむらしい。

 

15個のたこ焼きについていたパンフレットを読むと、

たこ焼きとは、

ソースをつけない、

手も汚さず、

冷めてもおいしいのが本物です。

とある。

 

衣に味がついているので、ソースや青のりがいらない。

手だけでなく、口の中もすっきりである。

急いで食べても青のりが歯にくっついたままということもないしね。

四天王寺に住まう大阪人としては、たこ焼きについてウンチクをたれたいところだが、

パチンコ屋とたこ焼き屋がない阪神間のとある地域に育ち、

おやつはたこ焼きではなくデニッシュだったような地域にいたので

そのあたりの味覚がまったく練られていない。

 

そういえばその頃は、

舶来ものがやたらに偉くて、土着のモノは恥ずかしいものとして扱われていた。

「あそこのフレンチは、パリの○○○よりも美味しくて、食器やインテリアのレベルも高い。」

と言えるようなことが文化的な教養の証と信じる人達が大手を振っていた時代。

 

70年の歴史のたこ焼きにご縁があったのは二十歳を過ぎてからである。

本当に生き残ろうと思ったら、あぶく銭で手に入れた余所の金持ちのマネをではなく、

残り続けている対象を科学しなきゃね、と。

 

三拍子以外の勝ち方をしようと思ったら、これが「すごい」ってことにして、表象を刷り込むことだね、パリってすごいね、と 。

 

つまようじにささったシンプルな丸いたこ焼きの上に呼んでもないのに浮かんできた、フレンチを語った近所のおじさんを思い出してそう思った。

 会津屋.jpg

今から10年ほど前、クライアントが出稿する雑誌広告の評価をすることになって、

雑誌広告を作成したクリエイティブ担当者同席で調査を行った。

その雑誌広告はお客さんには酷評されて、評価を依頼したマーケティング部の人にとっては納得の結果に終わった。

しかし、それを作成した代理店のクリエイティブの人に、私は評価の報告の際にずいぶん睨まれた。

「いらんこと調べて。せっかく作ったものをチャラにされたやんか。」

ってな感じだったのだろう(東京だったので、標準語のつぶやきだっただろうけれど)。

 

のちのち、同じクライアント先でそのクリエイティブ女史と鉢合わせしたとき、また睨まれた。

物理的に我らの間に挟まれる羽目になった代理店のアカウント氏は、睨み眼力にやられて、にじにじとその場から後ずさりしていた。

 

その状況のあまりの滑稽さに私は笑いをかみ殺して、ビルを出てから大笑いしたが、

かのクリエイティブ女史が、もう少し、適切なプライドの使い方ができれば、お互いに建設的な議論ができたのにと今でも思う。

 

お客さんとなる人々の心の声をどう解釈して、どう活かすか、やることはそれだけなのだから。

 

 

 

 

 

 

ひとふでんずワークショップ

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大盛況でした。知り合いの茶房「貸し切り」小学生たちでびっしり。

ひとふでんずの遊び方、ちょっと説明するだけで、興味津々。

みんな、目がひとふでんずに釘付け。

なぞってみたり、なぞったものに色をつけたり、モールや針金で作ったり、

ムキになるんですよね~。これ。1時スタート3時終了。

楽しんでいろいろ作ってくれました。

また、ひとふでんずのコーナーで状況アップします。

できた作品は、茶房たんぽぽにて展示。

 

今日使った「春のひとふでんずBOOK」、最初の季節版、ワークショップの反省を踏まえて今月中に完成させます。

12個のひとふでんずをなぞってみれば、さっきと違う気持ちになっている自分に会えると思います。

ご興味がおありの方、お問い合わせは、info@denko-corp.comまでご遠慮なくどうぞ。

 

 

 

 

 

たくさん人と話した日

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今日はいろんな人にあって、たくさん話をした。

そうなると、ブログはまだしも、何かに反応するでもなくtwitterで何をつぶやけばいいのか皆目わからなくなる。

全部話しちゃったし。

情報を提供するということにおいて、自分の存在をなにげにセールスするという下心なしには、

語り尽くした日は本能的につぶやく気になれないものである。

その日一日、使い切れなかった、もしくは使い切れそうもないコミュニケーションの残り火をもれなく消したくなって、

なんとなくつぶやくことですっきりとした気になれると思ってつぶやくのなら、

そんな風にできている人間がかわいらしくも滑稽な感じもする。

つぶやきによるデトックス。

 

あ、もう何もないと思っても、まだ何かしたい。だから何かの展開をもとめて、つぶやいちゃう。

今盛り上がっているこのソーシャルメディアがどうなるのかわからないけれど、

コミュニケーションの残り火の使い道を創造した功績はすごいのかなと思う。

 

豊かさの実感

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あたたかな春の今日、倉庫の整理をしていらないものを捨てた。

ずいぶんとすっきりした。

いらないものばかりだった。

 

本当は、

日々しっかり生きた実感と、丈夫な心身、そして支えてくれる人々、

この3つぐらいが揃っていれば、人は十分豊かなんだろうな、と思う。

で、確かに今、私は、十分豊かなのだということをかみしめてうれしくなった。

 

 

 

 

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igu伝の展覧会で作品に使う紙を選択。二次元の紙としてではなく、厚さや起伏、温度を持つ「三次元の物体」として。

どんな紙を選ぶかによって、作品から受ける印象が全く異なる。

 

「IT」と対比して語られる「紙」は文字や絵を載せる二次元の媒体にしかすぎない。「紙」自体が物体として持つ価値はない。

この文脈における「紙」の価値ならば、これからの時代、「紙」の根本的な存在理由はもうないのだろう。

 

コンピュータの画面で、でこぼこだとか、ざらざらだとか、どんなに精緻な画像を見せられても、

今のところ、それはつるっとした画面の上に映し出された視覚の感覚転移を待つ、間接的な刺激に過ぎない。

さわることができないもどかしさをいつもはらむ。

「触感マウス」か何かが装備されて、その触感を瞬時に伝える何かに代わるものができれば話は別なのだろうが。

 

今日、二次元の媒体としてではなく、「三次元の物体」としての紙は、すかし、エンボス、金箔、ざらざら、でこぼこ、つるつる、ぴかぴか、かさかさ、等々、

「視覚のインプット→触覚での確認とおどろき」をほぼ同時に満足させてくれるものだった。

 

人間の目の精度は寿命に比して、精度の高いまま保持されない。実は老眼は20代からすでに発症しているという話も聞くし、

40代の終わりにもなれば、目の限界に気づく人も多くなる。

そうすると、どうも目だけに頼る生活が嫌になってくる。その次に老化が来るのは耳だろう。

 

ITの世界では特に目の感覚器官を酷使する開発競争のただ中。同時に耳も酷使される環境にある。

ただし、高齢化する人類という軸を据えてみれば、長持ちする感覚は視覚や聴覚ではないので、この器官に頼る比重が高すぎると、限界点が出てくるのだろうな、と思ったりして。

味覚は、グルメばやりで確固たる地位を築いている。しかし、やはりこれも年齢と共に衰えるものらしい。

 

年を取っても触感はどの程度キープできるのかな。

例えば手ひらや指の腹の触覚の精度は、たとえば「目」に比べると明らかな年齢による衰えが少ないような気がするが、誰かそんなことを研究している人はいるのだろうか。

ふと、そんなことを知りたくなった(ご存じの方がいらしたら教えてください)。

コーヴ

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アカデミー賞のドキュメンタリー部門受賞を複雑な気持ちで聞いた人も多いだろう。

ほ乳類を食べること自体、人間もその仲間なのでどこか共食いに近い感覚があり、抵抗感はあるのはわかる。

でも陸で家畜としてほ乳類をもりもり育ててじゃんじゃか食用にするのと、ある地域に住む限られた人々が海にいるほ乳類をほんのちょっとだけ食べるのと、

いったいどこでどう線引きがなされ、その線引きに基づいてどんな罪悪感と禁忌感が生まれ、それがどんなふうに伝播していくのか知りたい気がする。

というのも、私自身、牛肉の感触はどうも人間の肉質に近いような気がして(もちろん、人間は食べたことないけど)、時々無性に嫌になる。

今度、彼の地の人に、これを告白してみようか。どう反応するだろう。

単にoddとかcrazyとかいう言葉でかたづけられるかな。

 

ある側面からみたら、ごもっとも、別の側面からみたら、なんだか?な状況を合わせ鏡で比べてみることこそ、

人間のおかしさと限界を知らしめるテーマだと思う。

それは野蛮だ!とか、それは文化だ!と罵りあうだけのテクストではなく、しみじみと客観的に人々の意識と判断を調べた読み物がないかなあ。

ITで世界はまるで一つ、と語られる一方で、この原始的な議論がある。

人間って存在そのものが奇妙で面白いよね。

 

日本での公開は6月かららしい。見に行ってみよう。

 

 

 

気にかかるコトをスムーズにお安く

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これが世間に広まる鉄則だよなと思った墓参り。

4月からの伝耕分室兼ギャラリー前にある一心寺。

このお寺は縁ある方の菩提寺でもあり、私はその墓守をしている。

来週からはお彼岸でえらいことになるので、今朝、一足先にお墓のお掃除に行った。

 

四天王寺、一心寺など大きな寺のあるこのあたりはお彼岸でシニアな人々でごった返す(おそらくこのときの街の平均年齢は65歳以上)から、はよ行っとかな。

この年齢の皆さん、朝早くから行動しはるから、町内のゴミ収集車巡回までもが、8時までの時間に変更になる。

 

それにしても一心寺さん、納骨した骨で、「お骨佛=お骨でできた仏像」をこさえてしまうすごいアイデア。

死んだ人は、リアルでなくて、バーチャル。でもなんだか骨はリアル。

でもいろんな人の骨が混じってできているお骨佛って、リアルのようなバーチャルのような。

 

お骨佛は、

普通の仏像よりも生々しくてリアル。

でも亡き肉親そのものよりもバーチャル。

 

この感じ、他のお寺にはないご提供(あ、ご供養ですね、言葉の間違い)。

そして、納骨するのに宗派も関係なく、門戸は開かれており、結構お安くできる。

で、将来の「お骨佛」のために納骨するナビゲーションは、非常にスムーズ。

要領の悪いホテルのチェックインよりもずっとこなれている。

それでも土日はすごい混雑だけれど。

一体のお骨佛さんはたくさんの亡き人のお骨でできているから、たくさんの人が手を合わせてくれる。

「ちょっとぐらい、お参りに来られへんかっても、これやったら、さみしないわな」

と言ってる婆さん。

その通りである。 

 

「リアルなようでバーチャル、バーチャルなようでリアル」

かつ、

「気にかかるお参りをスムーズにお安くみんなで一挙解決」である。すごいぞ。

考えの根幹は、みんなが気にかかる情報やモノの手配を必要な認知的cueを配しながら、スケールメリットを使ってスムーズにお安く簡便に。 通天閣.jpg

 

波頭にてビジネスと格闘しているITの目利きはんが書いてはることと、同じやし。

 

ふと目を上げたら、通天閣のシルエット。 

これって、ホンマに幼児体型やな。お稚児さんみたい。

ドンだけひいき目に見ても、

東京タワーは八頭身エッフェル塔の二番煎じにしかみえない(だってそやもんね)が、

これはどこか不思議なジャパニーズ。

宮崎あおいが好きなひとは、通天閣が好きなんだろか、なんだか似てるし。

と、妙にかんがえてみたり。

そんなこと言ったら怒られるかな。ははは。

冬の蛙

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「冬の蛙というトコでンな」と商談で言われたら、「冬の蛙=寒蛙(かんがえる)=考えまっさ」という意味。

今はあまり聞かれなくなった、なにわの商売用語らしい。

いや、しかし、わざわざシャレで応答するのは、奥深い智慧である。

 

①この言い方で通じるかどうかで相手を試している。商売のチューニング。

②はっきり言ったら角がたつところも、はっきり言わんといかんのが商売。

でも、はっきり言うことと、表現の巧拙はまた別ですからね。

洒落言いながら、相手のレベルを図る。えげつないやりとりにもなりかねん商売の気イを緩めながら、それでもはっきり意思表示する。

高等手段ですなあ。

 

さて、冬眠をしていた蛙も、啓蟄は過ぎたし、もう這い出してきただろうか。

 

「寒蛙」ばっかりしてた寒い冬はおーわり!

蛙ジャンプで出発といきたいね。

梅ヶ枝餅

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仕事をしながらのおやつはやはり甘いもの。筑前太宰府名物、菅原道真公ゆかりのお餅をいただく。 

 

梅ヶ枝餅.jpg

太宰府に左遷される前、梅の木を見て菅公が京の名残に詠んだ歌

東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」 

 

その梅が京の都から一晩にして、

道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという伝説「飛梅伝説」は有名らしく。

なぜ餅なのかというと、浄明尼が菅公の不遇を慰めるために、

餅を持ってしばしば訪れ、そして菅公が亡くなったときに、

餅に梅の枝を添えて送ったという故事があって、

で、きっと菅公信仰に絡んで、この餅を食べると

病魔が去るというような話ができあがり、名物になったのだろう。

何かと信仰される対象はそれにあやかる人や話がどんどん集まり、増殖してさらに大きくなる。

そして富も。 

 

ソーシャルメディアが席巻して何が起こるかという議論の中で、あるブログに書いてあったフレーズ。

 Although the way we’re doing business is changing, we’re still “trying to more to more people for more money more often.”

More peopleをどのようにmore moneyに変換するのかというギアチェンジの方法は変われども、確かに根本は同じだと思う。

人集めをどうするかについては、智慧とアイデア勝負の時代が来ているというだけなのかもしれない。

いずれにせよ、伝説はmore peopleの注意を惹くための古くからの手法だよね。   

 

さて、最後にその「飛梅」と言われる梅。

単にすごくきれいな「梅」と言われるよりも、「飛んできちゃった梅」と言われると、

「へぇー」と流しながらも、なんかすごい霊力が備わっているようにも見えてくるから人間の認識って不思議よね。

そういう人間の認識の癖を利用して、more to more people for more money more oftenをやるやり方が、

マーケティングっていうのかしらんね。

Tobiume.jpg

しょうけんごうんかいくう

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この世界をかたちづくっている色や形や感覚や思いなどは、「智慧の海」の表面に起こっては消える波。

ツイッターのタイムラインを見ているとそんな波を見ている気がする。

つぶやきのあぶくが生まれ消え、RTで波が起こり、消え。その発生消滅は、生き物の生死のよう。 

 

ソーシャルメディア自体、智慧の海:般若波羅蜜のようなもの、にどこまで近づけるのだろうか、という疑問にふと囚われるが、

存在自体があぶくにすぎない私に看破できるわけもなく。 

 

つぶやきの

タイムラインは

泡と消え

防御的コミュニケーション

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たくさんつぶやいているけど、なんだか不服そう、という人を結構見かける。

そういう人は本当にきちんと人に向けて、切実に何か理解してほしいと願って語る機会を持っているのだろうか。

 

伝紋ワークショップのデザイナーたちをみていると、

相手のことを本当にもっと知りたい、と思って話したり聞いたりしていない、という姿勢が垣間見られる時がある。

コミュニケーションが閉じていて防御的なのだ。 

 

自分の知らないことをもっと教えてほしい、というスタンスではなく、

自分の知らないことを言われると消化できないので、避けたいと願う。

そういうこと、すぐに相手にバレてるよ。

ふんふん、と頷いて聞いているだけで興味がない。それがバレていないと思ったら大間違い。

知らないなら、知らない、と正直に言って、

未熟なりに、そこでどういう質問をすれば、相手の抽斗を最大化できるのか、ということについて、

ひきだし、ひもとき、くみたてる方法を自分なりに持っている必要がある。  

 

「あ、きっと、興味がないから、スルーされた」と気配で気づかれるものって、人間結構多い。

気配で相手から切られたら、その人とつながるチャンスはすごく少なくなっている。

 

一生懸命聞けば、たいがいの相手(「聞く」行為のウラにある本気度を測ろうとする人以外)はそれに応えようと努力してくれる。

そこから広がるコミュニケーションが、思っても見ない展開を見せてくれたりする。

だから、人と繋がることって面白いんだと思う。 

11歳の視聴行動

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とは言ってもその母集団の中での「n1」にすぎない娘の話。彼女は最近、完全にテレビを卒業しつつある。

理由は二つ。

①好きなアニメーションは、土日にまとめてYouTubeで検索して見る。

②アニメーション以外で好んで見ていたテレビ番組はバラエティものだが、クイズもの、トークものバラエティのワンパターンぶりにもほぼ飽きた。

というわけで、「好きな番組があればあるほど」テレビの前から離れ、暇つぶしに仕方なく見ているアニメ以外のテレビ番組は面白くないということを学習してしまった。

私が観察した彼女のような「n1」を、ざっくり百万倍程度無理くり拡大推計してターゲットとした場合、

テレビメディアにおいて、

①により、

「あるターゲットに対する高視聴率*の番組=そのターゲットに対するGRP効率性の高さ」という公式は崩壊しており、

  *高視聴率=定義・認定された視聴率において高いという意味でなく、よく見られているテレビ映像コンテンツ、という意味

②により、

安価な作りの番組は瞬時に消費され、飽きられている。  

 

メディアの位置づけということから考えると、

「n1」彼女の中では、NET世界のYouTubeの方が明らかにテレビよりも存在価値が高い、のである。

人間関係を耕す意味

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お客様とのインタビューを混ぜ込みながら、プロジェクトチームで新しいアイデアを議論し創りあげる3日間程度の「連結型集中ワークショップ」をやっている。

そこでいろんなプロジェクトチームを観察していて思うこと。

「プロジェクトチームのメンバー間に良好な人間関係(甘えなく、お互いにどれだけホンネでしゃべれる関係であるか)は実は、お客様とのインタビューから得られた内容をどれだけストレートに受け止め、深く解釈し、アクションに持って行けるかということに関連する。」

プロジェクトチームがお互いに腹蔵なく話す間柄じゃないと、アイデアを創るための議論が盛り上がらないだけでなく、お客様のホンネを読み取り、聞き出すセンサーも鈍る、というわけだ。

たとえば、

インタビューで、その会社の商品や出されたアイデアがある回答者によって、良くない評価を得たとする。

プロジェクトチームの人間関係が悪いと、「都合の悪い情報だ」と認識された瞬間に、プロジェクトチームの中の「あの人のせいだ」→「あそこにいる人に(無言・有言問わず)責められる」→「そんなことを言われても、事情もよく知らないくせに」という「内向きな責めのダウンスパイラル」が発生する。

そうなるともうだめだ。頭のCPUは、インタビューで重要なヒントを話してくれている回答者のインサイトを探索する方ではなく、プロジェクトチームのメンバーを責めたり自分を守るためだけに使われる。目には見えないけれど、これはすさまじい機会損失である。

逆に言うと、プロジェクトチームの人間関係を良くすること、いくつかの組織がまたがっているのなら組織間の風通しをよくすることは、学ぼうとする対象=たとえばお客様からの苦言、からの学びの質を高めることに必ずつながる。

うまく行っているプロジェクトチームはやはり雰囲気が良い。オープンマインドで、チャレンジを促進し、失敗や苦言から学ぶ。

逆にうまく行っていないプロジェクトチームは、聞いているようで聞いていない、疑心暗鬼、貝のように押し黙り、学びを拒否する雰囲気が場を支配する。探索のためのあらゆる方法論を無言のうちに拒否するメンバーが混じる。

 

なので、遠回りのように思えるが、新たなアイデアを生む場にするためには、まずは、プロジェクトチームの人間関係や風通しの良さが成功の必須条件だ。

さらに、この必須条件の重要性についてそのプロジェクトチームのトップが気づいていることが不可欠だ。

 

そうなるように私は、いつも、プロジェクトチームの気持ちや考えを、真剣に「耕す」ことに注力することにしている。

これはROIを高めるのに欠かせられない作業だ。

 

「農耕」においてそれが真実であるように。

 

アクティブ・インタビューについて

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「インタビューの産物は、回答者と調査を行うインタビュアーの両方がコミュニケーションを通して、生み出されたものである。」

  ジェイムズ・ホルスタイン、ジェイバー・グブリアム 「アクティブ・インタビュー 相互行為としての社会調査」より抜粋 

 

当たり前の話。

しかし、ビジネスとしての社会調査(市場調査)に慣れ親しんだ人ほど、このフレーズに引っかかると思う。

調査を行うインタビュアーというものは回答者にとってどこまでも中立的な存在で、クライアントにとっては透明な印象を与えなくてはならない、という呪縛が長い間あった。

その呪縛がきつい人ほど、インタビューの産物が「コミュニケーションを通して、生み出されたもの」という相互作用的なスタンスに引っかかりを覚えるはずである。

クライアントの立場にしてみれば、回答者の中身だけ引き出してほしいのであってインタビュアーとの相互作用の結果であってほしくない。なぜならば、「相互作用」と認めた時点でその結果は「独立」した内容でなくなり、故に他の場合に適用不可能である、と。 

 

いや、しかし、仮に、回答者にのみから得られた独立した内容(あり得ないが、仮に)を取り出せたとしても、それは全く意味がない。

独立した内容は、その内容を知りたかったクライアントと回答者の思考とのリンクがないからだ。

膨大なナラティブを納品しても、クライアントにとって、何のアクションも起こせない文字の山になるだけである。 

 

あなたが、研究目的ではないインタビュー調査を行っていて、相互作用という前提を認めてビジネスとしての効果を最大化するには、

*インタビュアーは半分クライアントの頭になって、回答者と相互作用を起こす。そうすることによって、インタビューはクライアントにとって、独立した結果よりもより理解されやすく、アクションが示唆されやすい内容となる。 

 

しかし、クライアントの頭になるのは半分だけにすべきである。もちろん全部なりきっても、クライアントからは攻められはしない。「こちらの立場を、よくわかってやってもらった」、と評価されるだろう。

が、実は半分以上多くすると、クライアントの思考をトレースしているだけなので、探索の余地が狭くなる。

頭の残り半分は、

*インタビュアーは、回答者にとっての世間、友達、恋人、子供、同僚、親等々、さまざまなスタンスをとる相互作用をする役としてオープンにしておく。サッカーの「リベロ」のように。

決めつけないスタンスで、即応的に回答者と向き合って相互作用を進めると、発見に広がりと深みが出てくる。 

 

しかし、このやり方はそれを評価できるクライアントを選んでね。下手にやると、理解されません。 

 

で、あなたが、それを評価できる素敵なクライアントと仕事をしているのなら、

*さらに、その即応的なスタンスで得られた結果が、頭の半分を使ってやってみたクライアントの視点で得られた結果とどのように異なるのか、ということを、自分の頭の中で整理して、インタビュー後のブリーフィングで語る。 

 

それができれば、ブリーフィングの場でおそらくアクショナブルな選択肢が数個出てくる生産的な議論の導入になるでしょう。