短い2月は冬と春の結界のようだ。
その結界の日に、伝耕サポーターのしんちゃんが、東京マラソン完走。おめでとう!
マラソンを走る前、誰だってこれから長い42.195キロ、どんな時間が待っているのだろう、と
不安と期待がないまぜだったに違いない。
本当にご苦労さまでした。
走り終わって、冬は終わった。
春が始まる3月。
今年は、どんな春が待っているのだろう。
桃つぼみ
ほころび顔は
雛の妹
短い2月は冬と春の結界のようだ。
その結界の日に、伝耕サポーターのしんちゃんが、東京マラソン完走。おめでとう!
マラソンを走る前、誰だってこれから長い42.195キロ、どんな時間が待っているのだろう、と
不安と期待がないまぜだったに違いない。
本当にご苦労さまでした。
走り終わって、冬は終わった。
春が始まる3月。
今年は、どんな春が待っているのだろう。
桃つぼみ
ほころび顔は
雛の妹
以外とストレートにわかるのがこんなところ。PROJECT 7。このページに飛んだら、再生される動画を見てね。
このバナーは最近ちょこちょこ読んでいるAndrewさんのwordpost.orgで見つけました。
Andrewさんのブログに表れた下記↓荒削りな感じに惹かれて入ったのです。
「PROECT 7」とは、ちなみに下記の7つの社会的プロジェクトのこと。
1) HEAL: THE SICK
2) SAVE : THE EARTH
3) HOUSE : THE HOMELESS
4) FEED : THE HUNGER
5) HELP : THOSE IN NEED
6) BUILD : THE FUTURE
7) HOPE : FOR PEACE
そもそも、伝える内容が非常に明確かつ簡単に区分けされていて、それを「PROJECT7」というような
シンプルな名前にあてはめていて、うまいね。
で、モノを買えばその利益の50%が寄付になるらしい。
売っているモノのラインナップの少なさと荒っぽさにもびっくりだけど、
だからこそ、まとめ方と伝え方と見せ方が重要なんだよな、と思いつつ、上のバナーのクリエイティブを見ると、
いや、このモノのラインナップの少なさと荒っぽさとぴったりだよな、と感心させられた一例。
大阪市唯一の天然の滝が事務所近くにある。それが大阪清水寺の「玉出の滝」。
ちょっと考えて動き、立ち止まっては考え、
そんなことをしているうちに、つい来てしまった。
相変わらず水量は少なくて、写真に撮ると、
糸にも見えないが、確かに水は流れている。
この日は姿が見えなかったが、
水の行をしている方もおられるらしい。
そういえば、遊び以外に滝に打たれたことはない。
やってみたら、どんな感じなんだろう。
脳天に水を受け続けると、独特の感覚が
生まれてくるような気もする。
この大阪の清水寺は、名のとおり京都の清水寺由来のもので、
ここにも「清水の舞台」がある。
本家京都の清水の舞台は、建築によって高さをつけてあるが、
ここ大阪の清水寺は、
上町大地の標高差を舞台と見立て、地の利を活かした。
大阪清水寺の鐘ごしに、通天閣のシルエットが見えた。
昔はここから
大阪湾まで見通せ、湾に沈む夕陽を臨む絶景の場所だったようだ。
今は、日本橋の電気街、大阪の街が見える。
このあたりって、本当はものすごく素敵なところなんだよな。
実利と精神のバランスを取り切れず「本当は」と但し書きが必要な状況なんだけど。
但し書きは、時限つき。
時限が守られなかったら、心ある人にしかわかってもらえない。
ということは、世間的には「無きに等しい」ということ。
なんてことを、つらつらと考えながら、諸事プランニング中。
手狭なマンション暮らしなのに田舎暮らしの癖が抜けず、ついつい大きいものを買ってしまう我が家。
よって、ゆったり飾るはずのお内裏様とおひな様もやたらとパーソナルスペースが小さいセッティング。
ま、「お家同士」のご縁ではあったが、運良くラブラブになったってことにして、接近スタンスOKと解釈。
昨晩、おお、もうひな祭りまであと少しではないか、今日こそ、と思ったが、
バスケットの練習や塾やらで夜遅く帰宅する主役の娘のヘルプは期待できず、
ひとりでごそごそと出して、きつきつのスペースに飾ったのであった。
出してしまってから、「あっ、こういうの、お日柄って大事?」と思いカレンダーを見ると、「大安」。
若ゴボウを炊いて夕食のメニューに。
青臭い茎の味、春の香り。
23日、奈良・東大寺二月堂修二会(お水取り)で十一面観音周辺に飾るツバキ造花作り(=「花ごしらえ」という)が報道されていた。
本行は3月1日から行われる。
華々しく、ニュースで紹介されるフォトジェニックな「お松明(たいまつ)」は3月12日からなので、そのイメージばかりが先行するが、準備は着々と行われている。
その準備のひとつ、「花ごしらえ」の様子がyoutubeにアップされていた。
http://www.youtube.com/watch?v=d5t9UyGfR9Q
ていねいにこしらえているね。
それにしても、「花ごしらえ」、素敵なことばだな。
実は、先週18日、お水取りでお松明を燃やすための準備として、当然必要な灯油を準備する「油はかり」が行われていた。
ものすごく地味な作業。
二月堂常住の真っ黒な油壺に菜種油を注ぎ込み、目盛りを刻んだ木の定規を壺の底に当てて量を確認します。油枡は用いません。三つの油壺に、それぞれ一斗三升、一斗二升、一斗の油をはかり納めることになっています。合計三斗五升。
エンジンを燃やす「燃料=油」の確保は重要なのだけれど、「準備作業の中では」フォトジェニックではないので、「花ごしらえ」ほどのニュースとはならない。
そういえば、私、2月は春に向けてエンジンをかけまくる、なんいう風情のないことを書いていた。
で、結局2月は、伝紋ワークショップの実施やネットワーク作り、igu伝のプランニング、
新しい分室兼ギャラリーの選定、春のひとふでんず作成企画というもののほかに、
これらの原資としてのマーケティング関連の仕事も別にしていたので、結構、充実の月で終わりそうである。
これも2月は頑張る、と決めてやったまでのことなので当たり前なんだが、
寒い2月に準備にいそしむというのは季節の気分にぴったりだったんだろう。
いや、しかし、「2月はエンジンをかけまくる」なんて、思えばダサすぎる表現だった。
で、言い換えるにしろ、「2月は油はかりをする」では地味すぎる気もする。
来年も2月は特に準備にいそしむ月とするが、3月を夢見てがんばれる言い方として、
「2月は花ごしらえをする」の月と呼ぶことにしよう。
東大寺のサイトで修二会についてじっくり読むと、準備期間は3ヶ月を越える大きな法要で、
東大寺はそのながい歴史にあって、二度までもその大伽藍の大半が灰燼に期してしまった時ですら、修二会だけは、「不退の行法」として1250有余年の間一度も絶えることなく、連綿と今日に至るまで引き継がれてきたのである。
そう、「不退の行法」である。
2010年の今年、この行が始まった752年から一度も絶えることなく、1259回を迎えるらしい。
そう。きっと、花ごしらえも1259回やってきたのである。
で、そもそも修二会って何のためにやるの? (=え、あの、この長い間続いてきたプロジェクト、そもそも何のためにやってたんですか?←仕事で言う羽目になって睨まれるフレーズ)
歴史が長すぎて当たり前になっていて、なおかつ、その一部や細部がアーティスティックになっている行事だと、我ら、かなりの確率で「その目的」を忘れちゃう種族だから、ちょっとお勉強。
「修二会」の法要は、正しくは「十一面悔過(じゅういちめんけか)」といい、十一面観世音菩薩(じゅういちめんかんぜおんぼさつ)を本尊とし、「天下泰平(てんかたいへい)」「五穀豊穣(ごこくほうじょう)」「万民快楽(ばんみんけらく)」などを願って祈りを捧げ、人々に代わって懺悔(さんげ)の行を勤めるものです。
我らに代わって1259年懺悔し続けてくれている。ありがたいことですな。
あ、そうそう、十一面観音は暴悪大笑面(ぼうあくだいしょうめん:悪への怒りが極まるあまり、悪にまみれた衆生の悪行を大口を開けて笑い滅する)があることでもよく話題に上る。
でも、お寺に行っても後頭部にあるので、なかなか見られないよね。
こういうときは、写真で、悪を笑い滅してもらおう。
これは東大寺じゃないけど、十一面観音で有名な渡岸寺さんの、怖いにっこり。
5重の「2」の日が今日。今日、「伝耕」は大阪市天王寺区逢阪に「分室兼ギャラリー」の契約の手付けをして、会社設立から第「2」段階に入った。
会社を立ち上げたのが、平成21年1月21日(実はフィボナッチ数でそろえてみたの)だから、設立年月日に1ずつ足すと今日の日になる。
21+1=22(年) 、1+1=2(月)、 21+1=22(日)
ほらね。
しんちゃんも、車のナンバーでの数字遊びをテーマにブログ書いてたけれど。
「うさぎのつがいの増え方」の話で有名なフィボナッチ数の設立日から、1だけ進んで、強力ぞろ目でせーの!
昨日午後1時から、妖気漂うパワースポットというコンセプトで、伝耕の大阪分室兼ギャラリーの物色(詳しくは吉田のブログ)。
そして、スケートでへとへとになって帰宅した娘と共に、
igu伝プレデビュー展でお世話になる「N君」、彼のお父様がプロデュースされている力のある新人作家生越裕之さんの個展に出かけた。
いや、なかなか、いいですよ。鉄に描いてあるの。
私には備前焼の陶肌にも見えたよん。鉱物が燃える色かしらん。
次は、本日の〆と意気込んで4時から韓国語のレッスン場所である、街の小さな図工室ウビルーに。
この図工室は、以前は四天王寺にあって、娘がずいぶんお世話になり、
ふだんの生活ではあまり話し相手のいないへんてこりんな私?の話し相手をしてくださった、
田中絵夢せんせいが主宰されている、
ちょー素敵な図工室。大人も図工ができる企画もときどきあるよん。
そこの、大人さん、粘土とかこねたいでしょ?
大阪でやりたい人は、ブログチェックしてね↑
今、ここで韓国語講座を開いて頂いているので、母娘は、月2回ぐらいのペースで、のらりくらりとべんきょーのまねごとをしている。
4時5分前、わーい、超充実な一日だわん、と思ってインターホンを押したら、
韓国語のレッスンは来週だった。しょぼん。
あ、日程変更になってたのね。
でも心の広い、図工教室の絵夢さんは図工教室兼自宅に我らを上げて頂き(いや、無理くり上がり込んだ)、
遠慮を知らないおばちゃんである私は、最近もろもろのアップデート。
いろんな人の取り組みの話を聞いて、わー、とか、すごーい、とか言ってたら、
6時を過ぎていた。
えっ、2時間以上も?よくしゃぺったねー。
スケートでくたくたになっていた娘は我らの話の間ほっとかれて、すっかり体力を回復し、
暇になったので、我らの様子をスケッチしていたらしく。
で、昨日彼女が図工教室に置いていった絵が、今朝「街の小さな図工室ウビルー」のブログにアップされており。
いや、こんなふうに見られてるのよ。観察はモデリングのきほん。
これがきょーいくの本質なのだ。取り繕っても無駄無駄。
晩ご飯は、サムギョプサル(韓国語講座があるつもりだったので、その流れでこのメニューに決めていた)。
ちょっと最近、風邪気味?でもあったので、身体をじっくりあたためて就寝。
すると、
避難生活でもないのに、なぜか体育館で寝泊まりをしながら共同生活をする羽目になる夢。
人生で出会ったいろんな人々が脈絡なく登場し、
私は、日々刻々起こる問題や事件にひたすら対処し続けていた。
朝起きたら、むちゃくちゃ頭が疲れていた。
ああ、もう。
頭弱いのに勘弁してくれ。
それにしても、
なにかが、湧いてくる感じがする。
もしかして、パワースポットのあの妖気のせい?
って、これは昨日のフィギュアフリー男子での演技構成点の話。
高橋84.5、ランビエ-ル83.6、ライサチェクとプルシェンコは同点の82.8。
1位日本、2位スイス、3位アメリカとロシア。
小国が2位まで。大国が3位。気持ちいいじゃん。
KABUKI者高橋は演じきって観客を魅了。
頭は大きいし、手足は長くない。それでも彼なりの良さを生かしった身体の動かし方で演じきっていた。
「eye」、「道」という選曲も、衣装も演技構成点のベース、本当によく練られていた。
自分の身体の動きの特性も含めて「自分の世界を創造した独創性」は抜群だと思う。
同じく、日本人らしく顔が大きく、手足も短い中村勘九郎が、ニューヨーク公演を行ったとき、
ブロードウェイで目の肥えた観客に「どうやったら、ああいう身体の動きができるのか」と言わしめたことを思い出した。
歌舞伎でも、音楽や衣装はすごく重要だからね。
高橋KABUK者I戦略は成功だったね。
スイスのランビエ-ルは甘く整った小さな顔、きれいに伸びきった長い手足、バレエを思わせるクラシカルな動き。
西洋へのあこがれの象徴。
フィギュアのフリーはシンプルにバレエの延長だよね、と思い出させてくれて、素直に美しい、と思った。
3歳からバレエをやっていたが、最近、自分の才能に限界を感じて辞めた娘はフィギュアのフリーを見ながら、
ランビエ-ルについては、「バレエみたいにきれいだけど、曲とあんまりあっていない」と言い、ライサチェクには「怖くていや」と言った。
高橋には「ずっと面白い」との賞賛、最後のプルシェンコには「回転しているとき以外はすごく退屈」と言って、どこかに行ってしまった。
くるくる廻るだけなら、つまらないらしい。
プルシェンコの演技の端々に見られた、気持ち悪い身体の動かし方、
彼に備わる気持ち悪いキャラ外見(あ、ごめん)にぴったりだったんだけどな。
王者にふんぞり返らず、あの気持ち悪さを最大限利用して突き抜けたら芸術的だったのに。
技術「だけ」の日本という称号、もう捨ててもいいよね。
4回転にこだわって報道するマスコミは、「技術の日本」を信仰する旧世代の発想。
(あ、今のマスコミはそうだからね、仕方ないかもね)
世界一の表現力をどういうふうに醸造してきたのか、と高橋に聞いて欲しい。
その方が、ブランディングを考えるビジネスマンにも役に立つと思うし、
何よりも、日本の明日を作る子供達への重要な「刷り込み」情報になると思う。
目立ち好き、派手好き、オーバーアクション、そこまでやらなくても、と思わせるのが、
歌舞伎のベースになった「かぶき者」。
フィギュアの大ちゃんは私にとってはかぶき者。
あと1時間もしたら、演技開始だね。
勝つには4回転もやらなきゃ、というのもわかる。
でも、勝ち方も重要。プルシェンコみたいに品格王道じゃなく、
仇っぽく、嫌らしく廻って勝って欲しい。
それは本人が一番わかっていると思うけど。
地球儀の盲腸のような国に住んでて、世界第二位の経済大国であった我らは
これまでだって十分KABUKI者の集団だったわけだ。
でもKABUKU方法や技術がおいつかれたり、出し抜かれたりした。
ビジネスマンは今までとはもっと違う有り様で、
世界の舞台で、彼なりのKABUKI方で挑戦する大ちゃんみたいになろう。
本田宗一郎がかつてそうであったように。
我らがダメなら、その累々とした屍を踏んで誰かがまたその上を行くだろう。
迷うことも多々あるが、最後はシンプルに決断しよう。
幸いなことに周りの人たちは、私よりずっと英知ある人々だから、
迷いの素を投げて、私は、その反応を受け取ればよい。
必ずきちんとした意見が返ってくる。
どうかお願いだから
ずっと、ありのままを正直に答え続けて。
夕食を作りながら、メールを見たり、夕刊を見たり。ジャグリング並行処理時間。
夕刊をめくっていたら、見出しからぐいっと引き込まれた。
「条治よ悔しかったか」 清水宏保(長野五輪メダリスト)
ついつい読み込み、味噌汁がぐらぐら煮え立つのに気づかなかった。
世界の頂点に立つための才能と努力と知性。
それらを総動員した戦略の策定と完璧な実行。
中国に負ける、インドに負ける、韓国に負ける、いや、オリンピックではなくビジネスで。
少なくとも選ばれている、と自覚した人間は、清水に学ぶべきだと思う。
もう悔しくないのなら別だけど。
ずいぶん前からの仕事仲間、スーパー通訳(えいご)。
何がスーパーかって、対象者6人のフォーカスグループの通訳をするのだが(一人で)、
それぞれの人になりきって通訳してしまう。
6人いたら、6色の声を出す。
話している人の感情までも写し取り、
重要なオノマトペ(もこもこ・ふわふわ等)も落とさず訳す。
彼女の通訳は、まさに「通訳ショー」だ。
彼女の通訳でインタビューを聞いたクライアントの評価は、
She is fantastic!
ほんと、すごい。
出張先にて。
人の気持ちや考えをひきだす仕事に丸一日。
帰り道の渋谷は、カップルでいっぱい。
あ、今日はバレンタインデーだったね。
相手に自分の思いを届けたい人に。
自分の気持ちを届ける前に、
「あなたのお話を真剣に聞いています。」
ということを態度に表せば、それだけで気持ちが通じ合う部分があると思います。
逆に、
そういうことを態度に表しても拒否してくるような相手とは、
素敵な間柄にはなることは難しいような気もします。
いずれにせよ、お話を真剣に聞くことは、
簡単なように思えて、持続することは難しいものです。
虚心坦懐を実行するには、信念と結構な量のエネルギーが必要です。
長い間、人の話を聞く仕事をしてきて最近しみじみそう思います。
同じ事を続けてわかることというのは、とどのつまり、とてもシンプルなことなのですね。
夕方から東京に行く。その前に頭をすっきりさせたい。ぎりぎりのスケジュールながら、道成寺の原曲「鐘巻」を大槻能楽堂で味わってから伊丹空港へ向かう予定。
美しい坊さん安珍がかわいい清姫に迫られて仕方なしにその場をしのぐためについた嘘。安珍のことばを120%信じた清姫はそれが嘘だったと知るや、追慕、狂乱、蛇となって日高川を渡り、道成寺の鐘に隠れた安珍を鐘ごと焼き尽くして殺す。
先月iguちゃんと一緒に見に行ったのは、狂乱した清姫が安珍を追って大蛇の化身となり川を渡る「日高川入相花王・渡し場の段」。
その後の話がモチーフになる能で「鐘巻」。
ヒトの感情。
まあ穏当レベルでは喜怒哀楽。度が過ぎると狂乱。質的には「感情」として同根だが、ボルテージの違いで表現系が変わる。
悲喜劇どちらもありだが、結局どうあっても、みんなmortalだからね。
いや、だから、それが何なの????? で、どうなの?????
ヒトの根源に横たわる、たくさんの?だけがもらえる能は、世事、それも些事だけで頭が?になった私をすっかり入れ替えてくれる。
40人分の友チョコを作るという娘の大プロジェクトのため、
わが家はチョコレートに占領されている。
本命チョコだけでいいものを。
義理チョコとか友チョコとかなんだか配りまくる贈り物好きな国民性が、
11歳の頃にすでに十分刷り込まれていること自体が不思議である。
材料費に使ったお金は1万円以上らしい。
うそー。
友チョコは
景気アップの
秘策かな
年取ると顔だけこけて、身体が太る。
それはわかってはいたのだが、
顔にハリがなくなり、貧相に見えるのがどうにもいやだと思い、ちょっと体重を増やしてみたら、
やっぱり顔のハリは改善されず、身体にだけ肉がついた。
うー、身体が重い。
身体が重くなると、こんどは頭に膜が張ったようになる。
ただでさえ悪い頭の働きがさらに悪くなる。
いかんではないか。
というわけで、数日前より冬の強化トレーニング開始。
エネルギー消費を増やして身体を絞る。
ウェイトを片足に1キロずつ巻いて生活する。
これが結構な運動量なのだな。
一ヶ月続けると確実に代謝が上がる。
数年前は、この方法に凝っていて、冬は出張の際もウェイトを巻いて飛行機に搭乗していた。
そのときはボディチェックでひっかからなかったけれど、見つけられていたら、すごく変なおばさんだ。
今回はどうかな。
ぷっくり幸せそうな中年主婦にちょっと憧れて、冬の強化トレーニングをやめていたが、
やっぱり、そんなほんわか系統は似合わないことに今更ながら気がづいた。
ええい、路線変更(というか路線回帰)。
どんな女性誌のキャッチにもなかった切り口。
「精悍な老女」を目指そう。
昨日はきれい色で行こう、って宣言したから、
組み合わせると、
「きれい色をまとう、精悍な老女」、となる。
ヨーロッパには古くから生息していそうだが、
まだ日本では見つかっていない種、らしき存在。
あ、なんだか楽しくなってきた。
「シック」っていうのは、「シンキクサイ」っていうことだっけ?と言いたくなるほど、
世の中は黒っぽい装束の人が多い。景気は悪いし、今日は雨模様。
でも今の私、悪くない気分。
働きはじめたウン十年前の今頃、年度末近くなると出張続き。
新幹線で出張に行けば、禁煙車も少なかった時代、横のオヤジが無遠慮にたばこをぷかぷか、
靴を脱がれて靴下の臭いがぷーん、スポーツ新聞のお色気欄をこれ見よがしに拡げられ。
耐える3時間。
ビジネスホテルではチェックイン・チェックアウトをするたび、好奇の目を向けられる。
働く女性の緊張とお困りごとなんて、今と比べものにならないぐらい多かった。
2010年の今、北浜あたりを歩くと、黒いオヤジさんたちは昔と同じぐらい多い。
昔に比べ彼らの元気はなくなったようだが、私は元気。
もちろん、私は昔と変わらず器用貧乏なままだけれども。気持ちの問題じゃないのかしら。
シックってシンキクサイことよね、と思い、衝動的にきれいで鮮やかな色を身にまといたいと思った。
黒なんかイヤだ。
そう思ってお店に入ったら、黄色いコートが目について買ってしまった。
シックな東京の街への出張に着ていこう。
エコカーを志高く推進した世界のメーカーが今、苦境。
かの国では、嵐が吹き荒れる。
大統領が選ばれる過程をみれば、そこで、何を話すかということだけでなく、 どのような風情で話すかということが、
とてつもなく重要なことだということは明確だ。
そこで世間向けのお話しをされるのであれば、くれぐれも腰低い陳謝の姿勢と態度にならないように。
そんなことをすれば、かえって自覚と責任から逃げているように思われる。
「オードリーの春日」じゃないけど、堂々と胸を張って、
きれい色のネクタイをし、ハラから声を出す。
まずは態度で、信頼へのアテンションを勝ちとろう。
できるかどうかわからない政策でも自信満々に言ってのける政治家とは違い、
メーカーのプライドにかけても「絶対やる」世界のメーカーが宣言するのだ。
「数々の失敗から大きな成功を生んできたあなたたちの文化とつながる教訓を誰よりも活かしたい」と、
歴代でも演説の上手い、あの大統領よりも自信満々に語ればよい。
たくさんのエネルギーを使って、真っ黒の排気ガスを出すだけだった車に、新たな未来を作って見せたのだから。
そうだ。
胸を張って、大きな声を出して、命のよろこびを感じて。
きれい色で行こう。
転んだときに手をつかず、歯を折る子供の話が今朝のテレビで紹介されていた。
小さい時にぶつかったり、転んだりする経験がどうも不足しているらしい。
娘は、ひとこと、「あり得へん」と言った。
私自身幼い頃は、虚弱かつ過保護、因果関係は不明だが、とにかくその2項目の相関は異常に高かった。
母は何を間違えたか、上品な家庭の子を大切に育むカトリック幼稚園に私を入れた。しかし何かといえばすぐに発熱した私は、3分の1以上その幼稚園を休むことになった。
自分の娘は、少なくとも過保護にはならないようにと、仕事の関係もあって1歳から公立の保育所に入れることにした。
大阪府下ディープサウス、泉州漁師町の保育所に娘はお世話になることになった。
保育所初日、足のおぼつかない彼女を待っていたのは、保育所の園庭に続く、ひと足では降りられない結構な高さのコンクリートの階段。
それを降りないと園庭には行けない。
かつて自ら、幼稚園の頃にコンクリートの階段から落下し病院に運ばれた私は思わず目をつぶった。
ひと月ほど経ったある日、登所時間よりも少し送れて娘を連れて行った私は、1歳児の部屋をみて驚愕した。
ベニヤをはりあわせ、布のガムテープで被われた粗末な板をすぺり台に見立てて、斜度40度ぐらいに置かれた板を、1歳児がごろごろ転がっている。
先に転がって、立ち上がろうとふらふらしている子供に次に滑ってきた子供がぶつかって、また転ぶ。
どんどん「ダマ」になって、ごちゃごちゃになっている1歳児達。
ほんの今しがたまで私の足元にいたはずの娘は、いつの間にか滑り台を転がっていた。
後からすべってきた子供の足が立とうとして転んだ娘の顔に当たった。
おっと。
これも見ないことにして、その場をあとにした。
天気が良くて明るい日、コンタクトを入れた目で、保育所の廊下をふと見ると、老朽化した床があちこちでささくれ立っていた。
そこを、たくさんの子供たちが裸足で駆け回っていた。
誰も気にしていなかった。
そこで過ごした彼女の5年間。
空手を習っている女児の稽古台になって殴られたり、
友達を馬の背にして、だんじりに見立て、その上で「岸和田だんじりごっこ」をする遊び、
自分の身長より高い竹馬に乗ることが当たり前な竹馬歩き。
荒っぽい泉州弁でのけんか。
ディープサウスな保育所での日常。
その子供達が演じる秋の演劇、
「スーホーの白い馬」。
それぞれの子供が役になりきった感情表現に私は泣いた(周囲の父母も涙ぐみ)。
保育所の卒園式(卒所式?)では、
父母が待つ会場となった道場のような講堂に、
6歳の子供達は、ひとりひとり、「連続側転しながら」講堂に入場してきて、自分の席までたどり着いた。
もちろん、足ははだし。
大阪市内に引っ越して小学校に上がってから、
同級生たちが、どうしてそんなにすぐにすねたり泣いたりするのかわからないと言い、
やたらに身体が丈夫な娘、今朝のテレビを見たあとの一言、
「保育所、毎日死にそうに大変やったわ。」
あ、そうだったのね。
鍛えてくれてありがとう、ディープサウスな保育所。
ひな人形を出さなくては。
今朝のニュースでひな人形のお菓子づくりの最盛期だとか、近江のひな人形めぐりが始まったとか、
見聞きして、はっと気づいた。
年末にかたづけたはずの家の中は、なんだかもうどうしようもなくこんぐらがってきて、
理想郷としている「丁寧にすごす人生の拠点」のかけらもない。
現況は諸事便宜のため、大阪市内の手狭なマンション暮らし。
ひな人形は実家に保管。毎年のことながら立春を過ぎた頃に、はっと気づいて取りに行く。
さて、飾るとなれば、いくぶん丁寧に掃除もし、不要なものを処理し、少しは見栄えがいいように整えなくてはならない。
娘のために「きれいに整えるべし」、という親の役割義務と同時に、「きれいに整えたい」という動機が起動する。
長続きする季節の行事というのは、
ゆるみがちな日常の間合いをそれらしく晴れやかな名目で仕切り直すというゆるやかな強制があって、
労働としての対価が支払われずとも、人の目による評価という強化子によって動機づけられる。
よくできた仕組みだと思う。
「人種のるつぼ」、の「るつぼ」を漢字で書くと「坩堝」だということをはじめて知った。
ニューヨークはもう人種の「坩堝」ではなく、溶けあわない「サラダボウル」になってしまったらしいが。
伝耕は最初しばらく「私家版坩堝」にしていきたい。
ゼロからやっているのに、エクイティとかのれんとかそんなものすぐにできるわけがない。
芯のある何かはあったにしろ、きっと誰かの、どこかの受け売りだったりするんだろう。
なので、一回溶かして、とろとろ、どろどろ、ぐつぐつやる時間がいる。
そこでできた「摩訶不思議な液」を固め鍛えたら、本当の芯ができるんじゃないかと思う。
るつぼ、を、Wikiで調べてみると、こんな映像が出てきた。
左下のきらきらしたのが「白金製」のるつぼ、右上の透明の容器が、るつぼにかぶせるマッフルという蓋物、
ついさっきとは違う瞬間が生まれては消えるを繰り返す、
楽しさとおどろおどろしさが混じり合ったイメージが潜む。
その容器は思いの外、シンプルかつキュートなものだった。
しかし一見、ステンレス製に見える左の坩堝、白金製らしい。
安くない代物だ。
中身を溶かそうと思ったら、それに耐える容器がいる。
そこら辺にころがっている素材ではそんな容器は出来ない。
そりゃそうだ。
私家版坩堝、なんて公言してしまい、うっ、となる私。
そこら辺にころがっている素材なんだけどな。
ま、逃げちゃダメだね。
鹿児島で、蕗の薹(フキノトウ)が顔を出したらしい。
南から、そっと春がのぼりはじめた。
蕗の薹
春のマグマで
地面割る
地球儀でみると、
スルメの切れ端にしか見えない国土だが、
南北に長い位置どりが、
季節の間合いを感じさせてくれる。
悪くない狭小さである。
2月といえば、3月期末の会社では盲腸みたいな時期なのかもしれないが、
伝耕は6月期末なので、下半期のエンジンをかけまくる時期である。
伝紋ワークショップ。これは伝紋という一つのコンセプトを設定し、その中で何を具現化するかを考えながら実践するフィールド。
古島ブログで書かれているように、「いい」失敗をして、結果、「学び」を素手でつかみとっている。
正しいPDCAは泥だらけのPDCA。ちゃんと泥だらけになってるよね。
伝紋ワークショップのチームのみんなには、
お客様とのやりとり、製作、慣れない会場での展示、お客様からの評価、イベントの開催等々、
観察していると、大学の講義やカルチャーセンターのように守られ、囲われた空間では、
決して起動しない「自分を深く耕すような」学びが生じている。
「伝紋ワークショップ」は伝耕の「チーム塾」。「師」と呼べる人はいないが、みんなで学ぶのである。
大学4年生で就職し、このチームから卒業してしまうメンバーも居るので、
「伝紋ワークショップ卒業展」とも言える今回。ワークショップまであと2週間強。
igu伝。これはしみじみ確実に進行中。igu伝ワールド。今のところは出し惜しみ。
発想、ファンタジー、発信。こんなキーワードを結ぶ世界を創りたい。創るぞ!
igu伝のデビュー展会場となるcafe ninoさん、とっても素敵な隠れ家です。
ちなみにこの隠れ家、西道の定義による「傾城」さんが仕切っております。
そっと見に行かない手はないですね。
ひとふでんず。ひとふでで書くと、こんなに楽しい、こんなに面白い。
そういう発見ができるプロジェクト。寒い中で、季節のひとふでんず、作ってます。
少し水が温みはじめたらできるはず。そしたら、季節のひとふでんず冊子こさえます。
***
これ以外に、クライアントさんとのプロジェクトは通常通り進行中。
上のようなことに真剣に取り組んでいる、こんな「珍獣グループ」、
別名「アダムスファミリー」のような我らをお使いいただいている奇特な皆様、
本当に感謝でございます。 合掌。
男女雇用均等法施行世代女性の先取り思考呪縛。
そういえば、均等法施行初期の時代なんか、男性にとっては「自分とは関係のない歴史年表」にすぎないよね。
あ、そんな時代もあったね、そんな感じだろう。
しかし、
女性はこの世代、「しゃかりき働く派」と「専業主婦しておく派」の真っ二つに分かれた。
もう少し正確に言うと、選びたくて選べる人だけがどちらかを選択するという自由があって、その後の人生を左右した。
私はこの世代だけれど、ずらして生きることが戦略であったので、もう一世代あとの生き方に変態した。
つまり、私は「どっちでもなく、やり過ごす派」として、どちらの派にも属さなかったのである。
真性「しゃかりき働く派」の私の友人は、独身のことが多い。
で、最近、
真性「しゃかりき働く派」の友人と話すと、今の彼女らは「できるところまでやってみる」、「働くのに飽きた」に二分されている。
二分されてはいるが、独身の彼女らの共通問題は、「老後どうしよう」なのである。
で、それに対して私は、「えっ?老後なんてあるって、決まってるの?」と聞いてみる。
彼女たちによれば、「老後というのは、65歳以降のことを指し、その年齢に達するという意味では自分の老後はある確率が高い」らしい。
さすがにどこに行っても通用する優等生は違うね。
世間の基準と自分の存在に対する統計的推計と確信をミックスして、そう来るか。
まあ、そもそも優秀かつ屈強でないと、「しゃかりき」30年近く働いていられないし、その後に自分の人生があると想定できない。
(私なんか、そもそも死にかけて生まれてるし、子供の頃は虚弱児だったし、今も問題抱えてるし、なんか老後っていうのがリアリティないんだけれど)
で、そういう、一見、真っ向勝負風の「老後どうしよう」の問い、実は「寂しくてたまらない」という叫びに対して、
私は、
「私が生きてたら、一緒に暮らそう。みんなおいで。」と回答する。
でも、「みんな」は無条件ではない。
「地位も権威もなくても、はだかの自分そのものが役立てる明確な強みと、少しのお金は必携よん」と言ってみる。
そんなこと、屈強な彼女たちには簡単なリクエストである。
「わかった」。即答である。
あ、でもこの条件、男の人には難しいかもね。
本当の老後の不安を抱えるべきは、彼女たちではないのだろう、と思いつつ、ふんふんと適当に話を聞く。
それがばれて、睨まれている私。
いつもながら適当でごめん。
「私が生きていたら、一緒に暮らそう。みんなおいで。」
最近、女の人たちとよく仕事の話をする。
自分で仕事を創る女の人たち。元気があるなあ、と感心する。
私も、元気があるねと言われる方だけれど、観察しているとどうも相手の方が元気に違いないと思う。
もしかして、
そうやって、元気の「気」を送りあうことが仕事を創る上で、一番大切ということお互いにわかっている。
だって、わたしたち、ずっとそうしてきたものね。
「与える」という、上から目線のことばなんか使わないで。
「贈与」なんて、
「剥奪」とか「征服」が好きだったひとびとが、
それを自分ができなくなったせいなのか 、その罪滅ぼしのためなのか、
そんな理由で作ったいやらしいことば。
「贈与」ということばが、いやらしい響きだ、と思わないひとびとが口にする、
鈍感なことば。
正面切って選抜されることよりも、まずは贈与を装って選抜のルール自体を提供しながら機能する器官とそれを支えるバックボーンとなるシステムを構築し、それらを所有することを選んだ巨大な生き物のような誰かが世間を覆っている。いつもそこにあるゆえにかえって誰にも気づかれず、誰にも恨まれずに富と力も蓄え、どこまでもクレバー。都合の良い無意識下にある時間の経過でできた選抜のルールは、知らず知らずのうちに卑近なものの評価の軸を変え、表現に影響し、そして文化そのものに影響を及ぼし浸食する。それは次なる富と力をはぐくむ土壌となる。決して憂えているのではない。これこそが本当の生存競争なのだ。
どうすれば決まったルールの中で勝てるかではなく、どうすればルールを変えてゲーム自体を変えてしまえるのか。誰もがすぐ、簡単にわかった気になり、しかし実は底浅いWIN-WINをまず提供して、その場その場をおさめながらルールを浸食していくステップとその長期的な効果。
守られすぎているようでいて実は無防備なまま晒されている今の子供達はこんなしかけの恐ろしさをどこで身体化するのだろう。まずは「身体化」が必要だから、仮想ゲームの中以外の「リアル」で体験しなくてはならない。「リアル」よりも先に仮想ゲームの中で何度も体験してしまうと、身体化されていないから生身の恐怖が身につかない。「リアル」と「仮想」、どちらが先行する強烈な経験となるかはきっと死活問題である。
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