藤十郎おそるべし

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久しぶりに歌舞伎でも、と思い、大阪松竹座に。 R0010750.JPG

まあ、新年の目出度さも、古くさくなってきたな、と思いがちな10日であるが、

例年そう思って、歌舞伎を見逃すので反省してお出かけ(といっても家から30分だけど)。

今年は通し狂言「仮名手本忠臣蔵」。

人形浄瑠璃で初演、それが歌舞伎の演目となった押しも押されぬ人気演目。

形式の江戸、情の上方という演出上の違いも見どころ、というふれこみもあったが、

「情」への期待は藤十郎の全段出演とあらば、どっぷり、べったり、言うまでもなく。

今朝思い立って、当日予約にもかかわらず、

前側花道の脇という幸運にも恵まれ、楽しめた。

東京ではきっとあり得ないと思いつつ、客の入りが心配になるところであったが。

 

歌舞伎ファンには叱られるかもしれないが、

五段目からの世話物を見ていると、 上方歌舞伎はやっぱり、R0010751.JPG

藤山寛美絶頂のころの松竹新喜劇の源流だろうと思うし、

六段目に登場する、上方の演出だけに登場する子守役の子役の天然ぶりは、

吉本新喜劇の山田花子と根っこは一緒。

なんやかんやと不条理を招いてしまう、

アホな人間に対するあきらめと愛が息づいている。 

 

そして、全段に出てくる藤十郎は、好き嫌いはあると思うが、

いい意味で動物くさいのである。

それも、若いときの動物臭さ、中年の動物臭さ、が折々に出てくる。

そんなもの、どこにしまってあるのだろうか。

風姿花伝、「年々去来の花を忘るべからず」を思い出す。

そうそうできるものではない。 

 

さて、今回は通し狂言だけに、「大序」という最初の段が「コトのはじまり」として演じられるが、

最初、舞台に登場した10数人は最初の数分、全く動かない。

まるで人形のように、まんじりとしている。

ごくごくかすかに動いてしまう役者もいたが、

やっぱりそういう人は身体に芯が通っていない感じがする。 

 

「まんじり」の有り様が非常に神々しかったのは、中村翫雀。

なんというかピラミッドのように精緻な安定感で静止していた。

そして、静止している中でも、どうしても人形には見えず、

生きているものだけに備わる艶と品が立ち上ってくるのは、中村扇雀。

恐るべし、藤十郎の息子たち。 

 

息子達がまんじりとしている数段上で、

藤十郎は大蛇のようにじっとしていた。

近寄ると、強烈なにおいがしそうだった。

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