久しぶりに歌舞伎でも、と思い、大阪松竹座に。
まあ、新年の目出度さも、古くさくなってきたな、と思いがちな10日であるが、
例年そう思って、歌舞伎を見逃すので反省してお出かけ(といっても家から30分だけど)。
今年は通し狂言「仮名手本忠臣蔵」。
人形浄瑠璃で初演、それが歌舞伎の演目となった押しも押されぬ人気演目。
形式の江戸、情の上方という演出上の違いも見どころ、というふれこみもあったが、
「情」への期待は藤十郎の全段出演とあらば、どっぷり、べったり、言うまでもなく。
今朝思い立って、当日予約にもかかわらず、
前側花道の脇という幸運にも恵まれ、楽しめた。
東京ではきっとあり得ないと思いつつ、客の入りが心配になるところであったが。
歌舞伎ファンには叱られるかもしれないが、
五段目からの世話物を見ていると、 上方歌舞伎はやっぱり、
藤山寛美絶頂のころの松竹新喜劇の源流だろうと思うし、
六段目に登場する、上方の演出だけに登場する子守役の子役の天然ぶりは、
吉本新喜劇の山田花子と根っこは一緒。
なんやかんやと不条理を招いてしまう、
アホな人間に対するあきらめと愛が息づいている。
そして、全段に出てくる藤十郎は、好き嫌いはあると思うが、
いい意味で動物くさいのである。
それも、若いときの動物臭さ、中年の動物臭さ、が折々に出てくる。
そんなもの、どこにしまってあるのだろうか。
風姿花伝、「年々去来の花を忘るべからず」を思い出す。
そうそうできるものではない。
さて、今回は通し狂言だけに、「大序」という最初の段が「コトのはじまり」として演じられるが、
最初、舞台に登場した10数人は最初の数分、全く動かない。
まるで人形のように、まんじりとしている。
ごくごくかすかに動いてしまう役者もいたが、
やっぱりそういう人は身体に芯が通っていない感じがする。
「まんじり」の有り様が非常に神々しかったのは、中村翫雀。
なんというかピラミッドのように精緻な安定感で静止していた。
そして、静止している中でも、どうしても人形には見えず、
生きているものだけに備わる艶と品が立ち上ってくるのは、中村扇雀。
恐るべし、藤十郎の息子たち。
息子達がまんじりとしている数段上で、
藤十郎は大蛇のようにじっとしていた。
近寄ると、強烈なにおいがしそうだった。
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