Otium(オティウム)とNegotium(ネゴティウム) by Bernard Stiegler
Otiumとは、ラテン語で「自由な時間、閑暇」を意味し、
その否定形であるNegotiumとは「生存のために必要な時間、商売」のことである。
Otiumとは、単に働いていない暇な状態や、休息やレジャーのための時間を指すのではなく、
自己に配慮し、より良い存在をめざすための自由時間、自由な者になるための実践を意味する。
(この本:「愛するということ=Aimer,s'aimer,nous aimer」の)序文の文脈では、Otiumを「文化」(culture 耕し、培い、育むという本来の意味で)と置き換えてもよいだろう。
(「愛するということ」 ベルナール・スティグレール 注釈より)
明日、伝耕では忘年会を兼ねた、「ひとふでんず」会がある。
クリスマスのモチーフを「ひとふでんず」にしてみたので、これをみんなで描いたり、針金でつくってみたりする。
この冬は、四季折々のモチーフを集中的にひとふでんずにして、春休みには、また、春の「ひとふでんず」会をするのだ。
絵を描きたいけど描くのが苦手な人、工作をしたいけど苦手な人、ひとふでんずなら、楽しめる。
「はりがねひとふでんず」、チョー不器用な私もできそうなのだよ、これが。
ものすごく、ものすごくささやかだけれど、「楽しいひとふでがきの絵」のための時間と努力は、伝耕においては、「本耕」と呼ばれる部門のしごと。
「本耕」部門では、ベルナール・スティグレールの言うところの「Otium」にあたる活動をする。
それを資金面で可能にするクライアントさんとのビジネスは「Negotium」にあたり、我らの生活を可能にすると同時に、本耕を可能にするカネの工面という意味で、「算段」部門と呼ばれる。
実は、「本耕」と「算段」部門は、OtiumとNegotiumをあらかじめ認識してつくられたものではない。
先週、スティグレールの「愛するということ」を読んでいたとき、たまたま、あまりにも相似した形で、この二つのコトバに出会った。
さらに「本耕」などという、勝手な造語が意味するところが「Optium」が使われている文脈そのままだったので、その驚きをここに書き記してみたくなった。
ちなみに、「伝耕」の「伝」についての自省。
マーケティングがお盛んなところで生きてきた・いる私の仕事は、「算段」のみでも成り立つ世界。
結局その活動は、その用途をことさらに意識しないと、「情報とコミュニケーションに関わる技術(「耕」や「伝」に関わる技術)を、教育や昇華に役立たせるどころか、与えられるがままに漫然と使い続けて怠慢を助長し、知的好奇心や注意力を低下させる。結果、企業にとっての都合のいい消費者が創造される。」方向にしか使われることはないのだろう、と思う。
私の算段を成り立たせてきた「情報とコミュニケーションのあらゆる知見と技術」は今、マーケティングの分野に集積している。
なぜか。
その答えは自明。
お金が儲かることに役立つから。
お金を儲けて、儲けて、儲けて、富と権力を得て、そしてどうするのか、そこに到達できる人にはそれが問われているような気がする。
つまり、何のための算段かと。
算段のための算段をくりかえすのみ、という回答では世の中、もう限界が近い。
たいして知見も技術もない私は、その問いに応えるレベルにも到達しておらず、その影響力から考えるとチャレンジする必要もないのかもしれない。
が、ささやかなりに自省して、「消費者」ではない「ひとびと」に私にできる何かをお贈りしようとしている。
算段と本耕は手段と目的という構造ではあるが、それぞれの活動自体の目的には矛盾がある。
それでも、何もかもが、ささやかすぎるので、「矛盾による清濁」の量もたいしたことはなく、今のところ、併せ飲めている。
併せ飲めないぐらい、大きくなれば、それはそれで次のステージなのだろう。
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