2009年12月アーカイブ

家事と会社

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12月31日は、例年ならば今年を振り返る暇もなく、ぎりぎりまでおせちの用意をしているのだが、今年は様子が違う。

今年の12月31日の18時時点、たいの子とかずのこ、棒鱈のたき物を残して、一段落。

包丁を持つ仕事はおしまいである。

それ以外のおせちはもうお重につめて、寒風ふきすさぶベランダに出してある。

それにしても今日は寒い大晦日だね。

元旦の朝、お重の中身が凍ってたりして。

今回のおせちの中身:たいの子・数の子・棒鱈黒豆・伊達巻き・田作り・栗きんとん・紅白かまぼこ・煮しめ(にんじん・れんこん・ごぼう・たけのこ・小芋・こんにゃく・しいたけ・くわい・高野豆腐)・なます・酢れんこん・酢ごぼう・さわらの西行焼き

さすがに紅白かまぼこは自分で作れなかったけど(できればいつか作ってみたいな)。 

 

さて、伝耕は今年の1月21日に設立されたらから、約1年が過ぎた。

会社なんて、本当に自分でやってみないとわからないことだらけである。

ひとつ発見したことは、

小さな会社をはじめてやってみるということは、サラリーマンの生活に似ているのではなく、「家政」に似ている、ということだ。

小さな会社はほとんど小さな家族のようにはじまる。

いくら儲かるかということよりも、どんな世界を創るか、という点で一緒にやっていくことにコミットメントの高いひとたちと、人・モノ・カネのやりくりをしながら、納得のゆく仕事を生活を織りなすように作っていく。

そういう意味では案外、女性向きなのではないかと。  

 

今年、おせちの段取りが良かったのは、人・モノ・カネの要素とプロセスを見直したからである。

ホント、会社をやってみて良かった。いろいろいい面があるよ。

紅白歌合戦が始まる前に、おせちも一段落して、こうして余裕でブログを書けちゃうし。

創業期は家政マインドで。

そんなこと誰も教えてくれなかったけど、そう思うのである。 

 

創業したばかりの会社を支えて頂いた皆様、本当にありがとうございました。

あと数時間、ひょいとまたげば新しい年です。

わたくし、来年は年女でございます。

来年もどうぞよろしくお願いいたします。

みなさま、よいお年をお迎えくださいませ。

風邪、ひかないようにね。

第6話:調査の歌 その2 反応の変化

もう今年もいよいよおしまいですね。

不景気、というか、時代の潮目、というか。不景気ならばいつか景気が良くなりそう、時代の潮目だとしたら、潮目が変わった後は、自分が生きられる状況かどうかわからない。

なので、実は不景気、と言っておいた方が楽ちん。なので、みんな一生懸命「不景気」って言っているのかしら。

私は、今のこの状況、「不景気」と考えるよりも、「時代の潮目」と考えて、万事対処した方が得るところが大きいと思うけれど 

 

「調べる仕事」に携わったばかりの20年前は、「企業」と「消費者」は全く別の人でした。

つまり、その時代は社会進出している女性自体が少なかった。さらに、ネットだってなかった。

「企業と消費者」は「男と女」と同義語。つまり、二つの世界の間の行き来は人的にも情報的にも分断されていたわけですね。

でも今や、女性も働き続けることが当たり前になり、ネットでいろいろなことが調べられる。

「あ、な~んだ、こうやって、売るのね」とわかっちゃう女性が、もう特殊な人ではなくなったんです。

新商品のコンセプトを見せても、「すご~い」と昔ほど感激されることがなくなったような。

 

「ああ言えば

こういうのよね」

バレてるよ

作り手側の

苦しい事情

 

「嫌消費」という本では世代論を軸として、収入の割に消費しない人びとのことが書かれているらしいですね(まだ読んでいないけど)。

私の実感ベースでは、「消費に夢を感じない」人達が、ここ3~4年で増えたような気がしている。つまり、「バレてるから」。

 

来年は、「信じないお客さんたち」というテーマで何かやってみたいなあ。

水曜テーマで読みに来て頂いた方、ありがとうございました。

栗きんとん

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朝に栗きんとんを作った。R0010678.JPG

くちなしの実をいれてさつまいもをゆで、

ラ・フランスのジュースを入れて、栗の甘煮のシロップを加え、

もうひとつの手、バーミックスで5分ぐるんぐるーん。

サランラップに大さじいっぱいのきんとんと栗を一個入れてくるんでねじねじ。終了。

ラ・フランスなどのジュースを入れるのは果物の酸味と香りを加えるため。

年によって、パイナップルだったり、杏だったり。

こうすると、シャンパンや華やかな白ワインにあう栗きんとんになる。

 

 

黒豆できました

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昨晩、ゆっくり保温鍋の中でおやすみしておりました。R0010669.JPG

今朝、はじめてお顔を拝見、黒豆。

ま、こんなもんです。

味見してみると、今のところかなりあっさり。

9割方完成。

あと1割は和三盆がまわるのを待ちます。

フィニッシュは時間の仕事。 

 

さて、今朝は、これがちゃんとあるかどうか確認。

鬼すだれ、です。

今から仕事、そして合間に掃除。

鬼すだれの活躍は明日。

R0010672.JPG

手抜き黒豆

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昨晩、重曹とさび釘をいれて、黒豆を水につけておいた。

例年、黒豆を炊くのは28日。

黒豆は丹波の小田垣商店の新豆、「飛切極上」という大玉を買う。

「飛切極上」なんて言われたら、うまく炊けないと首をはねられそうだな、 と思うのも毎年のこと。

その呪縛はもういやだ、と思っていたりするので、 来年は変えてみようかな。 

 

R0010664.JPG黒豆を家で炊くのは甘すぎるのが苦手だからだ。

なので、お砂糖は阿波の和三盆。

28日に炊いておくと、朔日にはちょうど良い按配で和三盆が豆全体にしみわたっている。

好みの甘さの頃合いを見計らいつつ、徹底的に手を抜いてつくる黒豆。

働くお母さんの真髄ですな、ほほほ。 

 

つけておいた黒豆300gに、

砂糖250g、塩小さじ2、しょうゆ大さじ2を加えて、

落としぶたをして火にかけ、ふっとうさせる。

そこから20分弱火。

で、この鍋は、万能保温鍋くん、シャトルシェフだから、

次は2時間保温。

そして、鍋を出して10分弱火加熱。

そしてもう一度、保温。そこから2時間たったらできあがり。

このブログを書きながら、この段落のはじめ、「つけておいた...」から書き始めて、

すでに黒豆入りの鍋は保温鍋に鎮座している。

もう8割方できたようなものである。

あとはよろしく。

年末年始のすごしかた

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年末年始、掃除だおせちだといっても、まあ、集中力でカタがつく、とハラをくくった。

この際、積ん読を解消しよう、ということで、 

 

「師走多忙」

印籠背負い

隠れ読む

これぞ愉しき

読書三昧 

 

今朝、鬼籍に入ったばかりのレヴィ・ストロースの講義録を読んでいたら、マインドセットについて世の中の

動きとその見方を絡めて、かんでふくめるような説明に出会った。

師走の時事放談の聴き方が変わりそうだ。

 老人にとっては、自分が若かったころ累積的に見えた歴史が、老いてからは停滞して見えるものです。

ひとたび時代の流れから身をひき、果たすべき役割がなくなってしまうと、時代は意味を失って、何ごとも

起こらないように見え、否定的な面しか見えなくなったりするのです。逆に孫の世代にあたる若者たちは

同じ時代を老人がすでに失った情熱をもって生きます。(中略)

 これもまた私たちの社会で観察されることですが、体制に反対する側の人々は、体制が進歩しつつある

ということを認めようとしません。彼らは体制をまるごと非難し、歴史の流れの外にあるもの、それが

終わってはじめて清浄な生活が再開される、一種の幕間のようなものとみなします。与党の活動家の

見かたは、これとはまったく対照的なものであり、それも彼らが権力機構のなかで重要なポストを占めて

いるほと、対象は著しいものとなります。(中略)

 ある文化を勢いのない、停滞的なものだ、と形容したくなったときには、それは私たちがその文化が

何に本当の価値をおいているかを知らず、そのために動態を欠く状態に見えるのではないかと自問して

みるべきでしょう。

 また逆に、私たちとは異なる基準をもつ彼らも、私たちの文化について同じような錯覚に陥っていないか、

とも問うてみるべきでしょう。言い換えれば、互いにまったく関心を引かないのは、単に互いに似たところが

ないからなのではないかと。



サバイバル

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どこかの話。

 

くるくるとC球儀をまわして、

ぴたっと、指が止まる。

「おお、このあたり、消費が炸裂しかけておる。上陸し、しばらく様子をみるとしよう。」

・・・

「なかなかに面白い地じゃな。」

「ほほう、この地の民、処理能力、モノの見極め能力はとびぬけておる。しかし、長い間、似たような人間としかつきあっておらんから、仕事の展望や方法について考え、伝える能力は驚くほど低いのう。」

「現地では、酒を飲むことが仕事だと思っておるオヤジの非効率な仕事が蔓延しておる。ふむふむ、そのオヤジに優秀な女性も虐げられておるな。」

「おお、見よ、そのオヤジらに使われることに、次の世代は男も女もうんざりじゃ。ふーん、向上心が満たされない、若くて優秀なノンポリがうじゃうじゃしておる。」

「好機じゃ、奴ら、男も女も前線として使え。至急集めよ。」

・・・

「そこに住む民にしか通用せぬことばを使っておるゆえ、話がややこしい。我ら本拠地のE言語をスタンダードにせよ。」

「このE言語によるマニュアルを金科玉条として、勝つための方法を教え込め。それをタネに、この地の民の意識を学び盗め。意識をマーケティングに変換せよ。」

「あくまでも本拠地標準をあらゆる地のスタンダードと教え、本拠地標準商品が売れるマーケティング戦略を実行しろ。本拠地標準を変えるのはくれぐれも最小限にな。非効率じゃからな。」

「この地のプランニングおよび結果の進捗について報告せよ。・・・、ふふーん、さすが、モノのわかる民じゃな。この地で戦うと、自然とモノのレベルが高くなるわい。」

「ただし、この地でしか売れないものを作らせはせんぞ、効率が悪いからな。」

「おお、よくやった、さらにそれ以上を目指せ。制覇を目指せ。」

・・・

・・・

「この地も、高齢化がすすみ、人口は減り、消費も停滞しはじめおった。」

「にもかかわらず、何にかにつけ、相変わらず高くつく。儲けも悪くなったな。」

「おっ、隣の地がそろそろじゃな。次なる消費の沸騰じゃ。よし、鞍替えせよ。この地は撤収するぞ。」

「使えるお前とお前はついてこい。あとはいらん。好きにしろ。」

・・・

・・・

 

個人ベースで考えると、

「使えるお前」になろうと努力すること、これも生き方。

「使う誰か」になろうと努力すること、それも生き方。

「好きにすること」、それも生き方。

いずれにせよ、異なる形のサバイバル、ではある。

究極的には、流れを見極めて、「組み立てる誰か」には、生き残れる誰かに挑戦してほしい。

キルギス氏写真集:リス

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先般、キルギスに行っていたキルギス氏が、次なる旅行を終え、写真を送ってくださった。

さらに、ブログ掲載OKとのこと。

下手なカメラウーマンのわたくしとしては、渡りに舟である。

 

リスって日本ではあんまりみかけないけど、海外旅行では出会うことが多いのはなぜ?

何を食べているのかな?

そんな姿がかわいいのは小さな動物と人間の子供だけ。

ID 140_Humayun's Tomb.JPG

 

 

もぐもぐと

いのち育む

無心の目

手の中で

いのち喰ひおり

 

 

12月24日の献立

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クリスマスイブの日、家族が早めの時間に揃うので、

娘に、何が食べたい?と聞くと、

「おいなりさん」ときた。

ほら、また和風だ。

かくして、我が家のクリスマスイブの献立は、

その1:2色おいなりさん(ひじき入りと、白)

その2:和風ロールキャベツ

その3:トマトサラダ

という、ものすごく、あっさりしたメニューになった。 

 

折しも今日、岡山は高梁市の友人が日本酒好きの我らに贈りもの。

真庭の美酒、R0010662.JPG

雄町米 大吟醸、

御前酒 馨 。

すかさずいただく。

ゆたかな岡山の味がした。

ほんと、岡山はすごいよ。

紀州と丹波のセレクションが一カ所で楽しめる。

ごちそうさま。

一升瓶なので、まだしばらく楽しめる。

 

クリスマスは、

娘のオーダーを聞いている限りは、

洋食はあり得ない。

ケーキが世の中になくても困らない彼女に合わせていると

ケーキは一年に一回ぐらいしか食べない。

阪神間に足かけ35年も住んだ私には時折、

禁断症状がみられるので、

外でそっと食べる。

 

でも、今年は食べそびれちゃった。 

第6話:調査の歌 その1 回答精度について

調査についていろいろ書いてきましたが、年末なので、ちょっと軽めに。トピックを戯れ歌にしてみました。

調査の質を問うこと。これは重要なことですが、証明が難しいので無視されなのも真実です。一口食べただけではわかりにくい、ダシの良さと同じなのかもしれません。本当は差があるのだけれど、ぱっと見にはわかりにくい部分なのでしょう。

「チョーてきとー」に回答してしまう「惰性回答」、数量で把握できるデータを持っていないので仮説の域を越えないですが、個人的にはネット調査の大きな問題、だと思います。

 

 ID 031_Amber Palace-1.JPG

「惰性回答」

ネット調査の

宿命なれど

引き返せぬと

みな知らんぷり

 

 

質問がネットではなく、紙で行われていることが主流だったころ、よく質問紙自体(原票)のチェックをすることがありました。回答者が質問紙に書いたり、○をしている状況をじかに見なくても、回収された質問紙をみていると、書かれた○の感じや、回答された字を前後と見比べたりすれば、その人がどのぐらい真剣に回答してくれているか、だいたい想像がつきます。学校の先生もそうやって、テストを採点していたりしますよね。テストじゃないけど、基本は同じこと。

似たようなつまらない質問が延々と続いて回答していると、回答すること自体が惰性に流されてくる。5段階の選択肢ならば、何も考えずに、まんなかの「どちらともいえない」を○することが多くなってきます。「どちらともいえない」じゃなくて、「なにもかんがえていない」というのが、その人にとっての正しい選択肢なんですが、そんなのないですしね。

「惰性回答」は昔からありましたが、その「惰性ぶり」に実査の担当者が直面する機会があるかどうかが重要になりますよね。

ネットでパソコン画面や携帯画面の質問項目に対して回答した場合は、「回答跡=その人なりに考えて答えたかどうかを示す回答の足跡」(ちなみに、これは私の造語)が表れないので、それはすべて一様に処理されてしまいます。担当者が「回答惰性」に直面する機会は、「紙」時代よりもパソコン時代の今、激減しているでしょう。

もちろん、調査結果自体は「回答跡」によって変化するわけはないし、結果を受け取るクライアントさんにとっては紙だろうが、パソコンだろうが、関係ありません。

なので、別に知らんぷりしてやっても調査会社のROIには影響しないでしょうしね。

プランニングする方に、まだプロとしての心意気が残っているならば、パソコン画面では見えないけれど、「惰性の筆跡が表れた回答」にしないようにしなくてはならないわけですが、最近はどうでしょう。

その昔、多すぎる質問を作って調査会社の方にお渡しすると、クライアントの立場ですら、調査会社の経験ある方によく怒られました。「調査全体をダメにするんですか」と。

今も昔も質問数によってチャージが上下することには変わりはないので、むしろ惰性回答が多くても、質問が多い方が、儲かったりもします。

でも、この辺のバランスを絶妙に保つのが、それが専門職たる由縁なのかと。

ただし、お金の魅力と「質の悪い回答跡」の問題をバランスと取ろうにも、ネット調査が多くなると「回答跡」が目に見えなくなってしまうので、難しくなっている。

結果、ずるずると、クライアントが求める質問数をそのまま受け入れる事態を多くしていると思います。

多すぎる質問を作ってお願いすると、きちんと叱ってくれる調査のプロは、はたして生き残っているのでしょうか?

いや、しかし、テクノロジーを応用すればどうなんでしょうね。パソコンや携帯のボタンを押す圧力とか、回答反応速度の平均や分散で、信用できない回答なんかが分別できたりするのでしょうかね。

で、回答自体や回答者自体がふるいにかけられる?

それも怖い話ですが。

ひとふでんず 楽しんでね↑

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「ひとふでんず」クリスマス、ブログのひとふでんずコーナー、トナカイ編でしみじみ発信してます。

トナカイさん、シンプルで描きやすいでしょ。

トナカイなんぞ、さっさと描ける人なんかいないと思うけど。

というか、今までトナカイなんか描いたことある人ぜったい少ないと思うけど、

ふん、ふん、ふ~ん、って感じじゃない?

ちょっと練習してみてくださいね。  

 

クリスマスウイーク、ひとふでんず、ちょっとずつアップしていきます。お楽しみあれ。  

 

***

きょう、子宮頸がんのワクチンが国内で始めて接種可能になったらしく。

乳がんはメジャーになったけれど、子宮頸がんの認知はまだまだ。

でも、子宮頸がんにかかる年齢は若年齢化してきており、20代、30代の女性の割合も高くなっているそうです。 

 

子宮頸がんワクチン接種にはまだ国の補助が少なくて、費用も数万円単位でかかるようですが、

「マザーキラー」という不穏当な呼称は、子育て期の母親をこの病気が奪うことからきているらしいです。 

 

 私のごく近しいひとが、この病気にかかり、34歳で世を去りました。

あのときワクチンがあれば、接種していれば、今頃、大活躍だったろうな、と思うと、

人ごととは思えません。  

 

恋人や妻、かけがえのないパートナーがおられる男性は、

ぜひ、子宮頸がんのワクチン接種をさりげなくプレゼントしてあげてください。

ひとふでんずのサンタ

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昨日はひとふでんずのクリスマス会だった。

詳しくは、近々アップするひとふでんずブログにて。

「ひとふでんず」は「一筆書きの絵」だから、針金を切らなくても、

のんびりと曲げてゆくだけでできちゃう。

クリスマスのモチーフをいろいろつくってみたよ。

 

はりがねをサンタのお顔.jpg

まげてひとふで

サンタさま

遠回りでも

ねがい切らすな

冬至のしつらえ

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22日は冬至である。

のどがやられており、ここ数日調子が悪い。

身体を温めなくては。

冬至のための柚。 

 

R0010621.JPGスーパーで買ったので、

あんまり元気のない柚であるが、

この際仕方がない。

柚風呂の風情ににふさわしい風呂場でもないが、

それも致し方あるまい。

妥協も必要である。  

 

さらにこの際、

風呂の掃除もしよう。  

 

柚風呂の

準備前日

カビキラー

白くしてから

残り香とばせ

ふたつの時間

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Otium(オティウム)とNegotium(ネゴティウム) by Bernard Stiegler

Otiumとは、ラテン語で「自由な時間、閑暇」を意味し、

その否定形であるNegotiumとは「生存のために必要な時間、商売」のことである。

Otiumとは、単に働いていない暇な状態や、休息やレジャーのための時間を指すのではなく、

自己に配慮し、より良い存在をめざすための自由時間、自由な者になるための実践を意味する。

(この本:「愛するということ=Aimer,s'aimer,nous aimer」の)序文の文脈では、Otiumを「文化」(culture 耕し、培い、育むという本来の意味で)と置き換えてもよいだろう。

(「愛するということ」 ベルナール・スティグレール 注釈より)  

 

明日、伝耕では忘年会を兼ねた、「ひとふでんず」会がある。

クリスマスのモチーフを「ひとふでんず」にしてみたので、これをみんなで描いたり、針金でつくってみたりする。

この冬は、四季折々のモチーフを集中的にひとふでんずにして、春休みには、また、春の「ひとふでんず」会をするのだ。

絵を描きたいけど描くのが苦手な人、工作をしたいけど苦手な人、ひとふでんずなら、楽しめる。

「はりがねひとふでんず」、チョー不器用な私もできそうなのだよ、これが。  

 

ものすごく、ものすごくささやかだけれど、「楽しいひとふでがきの絵」のための時間と努力は、伝耕においては、「本耕」と呼ばれる部門のしごと。

「本耕」部門では、ベルナール・スティグレールの言うところの「Otium」にあたる活動をする。

それを資金面で可能にするクライアントさんとのビジネスは「Negotium」にあたり、我らの生活を可能にすると同時に、本耕を可能にするカネの工面という意味で、「算段」部門と呼ばれる。  

 

実は、「本耕」と「算段」部門は、OtiumとNegotiumをあらかじめ認識してつくられたものではない。

先週、スティグレールの「愛するということ」を読んでいたとき、たまたま、あまりにも相似した形で、この二つのコトバに出会った。

さらに「本耕」などという、勝手な造語が意味するところが「Optium」が使われている文脈そのままだったので、その驚きをここに書き記してみたくなった。    

 

ちなみに、「伝耕」の「伝」についての自省。

マーケティングがお盛んなところで生きてきた・いる私の仕事は、「算段」のみでも成り立つ世界。

結局その活動は、その用途をことさらに意識しないと、「情報とコミュニケーションに関わる技術(「耕」や「伝」に関わる技術)を、教育や昇華に役立たせるどころか、与えられるがままに漫然と使い続けて怠慢を助長し、知的好奇心や注意力を低下させる。結果、企業にとっての都合のいい消費者が創造される。」方向にしか使われることはないのだろう、と思う。

私の算段を成り立たせてきた「情報とコミュニケーションのあらゆる知見と技術」は今、マーケティングの分野に集積している。

なぜか。

その答えは自明。

お金が儲かることに役立つから。

お金を儲けて、儲けて、儲けて、富と権力を得て、そしてどうするのか、そこに到達できる人にはそれが問われているような気がする。

つまり、何のための算段かと。

算段のための算段をくりかえすのみ、という回答では世の中、もう限界が近い。 

たいして知見も技術もない私は、その問いに応えるレベルにも到達しておらず、その影響力から考えるとチャレンジする必要もないのかもしれない。

が、ささやかなりに自省して、「消費者」ではない「ひとびと」に私にできる何かをお贈りしようとしている。

 

算段と本耕は手段と目的という構造ではあるが、それぞれの活動自体の目的には矛盾がある。

それでも、何もかもが、ささやかすぎるので、「矛盾による清濁」の量もたいしたことはなく、今のところ、併せ飲めている。

併せ飲めないぐらい、大きくなれば、それはそれで次のステージなのだろう。

浅草にて

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サイトの構築でお世話になっているITコンサルタントさんのところにご機嫌伺い。

JR秋葉原駅をずんずんもぐってやっとホームに行き着く、つくばエクスプレスに乗って浅草へ。

夏に倒れられ、その後リハビリに励まれて5ヶ月ほどで95%ほど回復されたとのこと。

驚異的なスピードである。

ただし、その残り5%の中にその人なりのエッジが潜んでいるという可能性も否めないので、

こんなはずではなかったという、焦りが生ずるも当然。

しかし、この際、5%プラスαを新たに創っちゃう楽しみも、実は無限大だと思う。  

 

わが家のマンションに入る4桁の暗証番号ですら、忘れることがある私。

手ぶらで出て、いざマンションに入ろうと思ったら、暗証番号が浮かんでこない。 

トイレに行きたくなっても家に入ることができず、情けない気持ち。

30分ほど立ちん坊をしてからやっとこさ、同じマンションに住む小学校1年生の男の子が帰宅して、

金魚の糞のように後ろについて、一緒に入れてもらった。

おお、君は天使だ。  

 

「病気してから、いろんなことを覚えていられないんだよね」とおっしゃるそのITコンサルタント氏に、下記捧ぐ。 

 

家事仕事

忘れに忘れ

大過なし

リハビリ患者は

むしろ我なり  

 

いろいろ忘れちゃって、大過ないっていうことを悟り、その上で生きていくことは、

私と同じ種族を生きることですよね、と申し上げたら、

なんとも言えない、迷惑な顔をされてしまった。

おっと、そのプライドが大事ですよね。  

 

同時に、ピアノ、やりましょう、とご提案さしあげた。

来年末は、連弾なんぞ、いかがでしょう。  

 

伝耕諸事、ゆるりと、よろしくお願い申し上げます。 

今年最後の東京出張

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伊丹空港行きバスの車内。

景気が悪くても混んでいる阪神高速。

今日は、今年最後の東京出張。

 

高速から垣間見える景色。

 

少し前までは、黄色い葉の衣装をつけていた銀杏も裸木になり、

いよいよ真冬の風情を醸し出している。

真冬になると着込むのが人間だが、

落葉樹はすっぱだかになるんだな。

今まで、葉に覆われてよくわからなかった自分の構造体も

ここであえて寒空にさらして、

構造体だけの強さで冷気に耐える。

その最小限の構造体の中では、

実はもう着々と、

芽吹く春に向けて細胞分裂をすすめている。

 

12月は裸木の季節。

その潔さと用意周到さが好き。

第五話:話の範囲

①空っぽの「回答マシン」

マーケティングに関わるインタビューはある特定なテーマ(新製品の開発アイデアの創出・市場製品の改良・コンセプト・コマーシャルの評価等々)に基づき、内容が構成されます。

インタビューのモデレータはそのテーマに沿って話が円滑に進むよう、うまく舵を切ることが求められます。

ところが、数人集まってもらったフォーカスグループを実施したところ、クライアントさんが知りたいテーマについて、対象者がさほど興味を示さず、話が盛り上がらない、という事態、結構あります。

で、しばし好き勝手に話をさせていると、そのときに盛り上がる話はテーマとは関係のない話だったりして。

そのテーマについての話だけを聞きたいクライアントさんは、だんだん「いらいら」してこられます。

「司会者はなぜ、話をもとに戻さないんだ」

ちょっと我慢してくださいね。これには理由があるのですから。

ある商品についての評価を聞きたいとして、その話を振っても、その商品に興味がなければ、「知らない」「あまり関心をもってみたことない」。そこでプローブして、「どうして関心が持てないんだろう?」と聞いてみても「...。」

興味や関心がないことの理由を聞かれるほど、難しいものはありません。

「どうしてって、あの、ほとんど興味ないから、考えてみたことない。」

話の対象をそこに限っている以上、もう何も出てきません。そこにこだわって話を掘りつづけると、インタビュールームには、嫌な雰囲気が漂いはじめます。

興味関心がないことに対しては、「回答マシン」として期待してみたところで、対象者の中には何も入っていないことが多いのです。

こういうときは、あえて、「じゃあ、どんなことに興味ある?」とフローを変えて、興味の構造を探るように方針変更。

しばし、自由に話をして盛り上がってもらってから、「じゃあ、今話した○○には興味があるけれど、さっきの○○には興味を持てないのは何でだろう。」

何も入っていなかった回答マシンの中に、別のテーマについての回答を入れてから、なんで、最初は空だったのか考えてもらう。

一見、遠回りだけれど、「ココ掘れワンワン」型でしつこく食い下がるインタビューよりもずっと実があります。

 

②「回答マシン」ではなく、人間全体

インタビューにお答えいただく方を、そもそも「回答マシン」などと呼ぶこと自体、非常に失礼なことです。

なぜあえてこういう言い方をしたかというと、対象者から得られた意見がそのようにしか扱われていないことが多いからです。

一つインタビューをすれば、インタビューのために設定されたビジネスの目的以外のさまざまな知見が豊富に詰まっています。

今回は、こういう目的だから関係ないけれど、この人はこんな欲望を持っているな、とか。テーマには関係ないけれど、この人はこんな商品やサービスを必要としているのではないか、など、まさにセレンティビティのような発見があります。

もちろん、その発見のためには、いったんテーマを離れて人間としてみることが必要。

つまりあるテーマに対する「回答マシン」ではなく、「人間全体」としてみて、そして、もう一度そのテーマに関する内容とつなげる。

本当は、そんなときに、最も豊富な知見が得られるのが、インタビューだと思うのです。

できれば、一度、研究を兼ねて、部分から全体、全体から部分をみながら相互に還元可能・不可能なものを見極めるインタビューをやってみたいなと思います。

 

ショートケーキ

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写真をとっていないのが悔やまれる。

今日、ものすごく懐かしい味のするおいしいショートケーキをいただいた。

スポンジが軟らかすぎず、しっかりしている。

生クリームにこじゃれたお酒は入っていない。

料理上手のお母さんが作ったバースデーケーキのような味。

こういうまっすぐの食べ物、

単純に明日への元気が湧いてきます。

ごちそうさま!

ピアノのれんしゅう

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総中流志向のただ中に幼少期を過ごした。

ピアノ、書道、茶道、クリスチャンであった親の影響で教会の日曜学校等々、身体の弱かった私は文化系お稽古漬けの日々であった。

ピアノは嫌いであったが、辞めると言い出せないまま、バイエル、ツェルニー、ソナチネ、ソナタと無理くり学んだ。

学校が忙しいという理由で辞めた途端、全くピアノに触らなくなり、8年ほどの修練は瞬く間に泡と消えた。

今となってはもう、バイエル下巻の前半でさえ四苦八苦である。

ピアノははじめから遊びとふんでいる娘。

娘のピアノの先生は優しくて、耳で覚えるから音譜は読めなくてもいいとうそぶく(!)娘に 、

まことに気長につきあってくださっている。 R0010611.JPG

そのピアノの先生が、娘にクリスマス曲の楽譜を下さった。

メリー・リトル・クリスマスである。

こんなスカスカの楽譜、初見で弾けなきゃ、

そんなプライド、私にはかけらも残っていない。

えっとー、と、メロディラインを壊しながらたどたどしく弾く。

こざかしいことを考えがちな職業には、

こういう時間を確保して、

考えていることと行動することのギャップを骨身にしみさせることもたいせつなのだ。

690円の哀しみ

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ユニクロが60周年だそうな。

「わたしたちの感謝を、還元させていただきます。

ユニクロのリブタートルセーター全21色。

12/12(土)-12/18(金)7日間限定価格 690円」

すてきな色合いのグラデーションのセーターが新聞広告を彩る。    

 

この広告を見たとき、いいようのない哀しさがこみあげてきた。

小銭入れの中身で買えるような価格で、こんなセーターを売る必要があるのか。    

 

自分が欲しいと思う素敵な色のセーターを探す楽しみ、とか、

素敵なモノは探せたが、ちょっと手が出なくてお金をためようと我慢する楽しみとか、

妥協して買った別の商品に満足ができず、持ち越されてしまった楽しみとか、

「待ち」の間に経験するであろう「おあずけ感」を「不便感」と定義して一掃。

「解決されましたよ、ほら、690円で」。    

 

690円で解決されるべき、何か特別な楽しみがこの後に用意されているのだろうか。

どんなレベルの楽しみを売り手は想定しているのだろうか。     

 

今年の690円が、来年は特別価格で69円になっていたとしても、全ての人が驚くわけではあるまい。

むしろ、

価格と品質の天秤の有り様を大きく変え続ける彼らに対して、

その天秤を変え続け、究極的に我らの社会にどんな楽しみをもたらすつもりなのかと、

その根源を問う人を増やすだけだろう。 

自分を含め、マーケティングだなんだと言って、肩で風を切っている・いた人達ですら、

この問いを今、自分に向けないでくれと願っているに違いない。  

 

もしくは、未だ、問われている根源のあやうさに気づかず、

マーケティング視点のケーズスタディとして声高に論じようとする人がいるのであれば、

あえて、それに耳を傾けてみたい気もする。  

 

そんなことを考えながら街を歩く。

洗練された商品とそれを手に入れる経験価値の双方を高め、ゆえにそれなりの価格を要求するデパートはがらがら。

その目と鼻の先にある、「DO IT BY YOURSELF」のための手芸材料の大規模小売店は、

完成品でもなく、洗練 されてもいない材料パーツを握りしめた人達がレジに並び、

690円より高いお金を支払っていた。 

 

あまりにも簡単すぎる完成品消費から後ずさりして、わざわざ未完成なものを買い、未完成から完成に至る時間を取り戻そうとする人たち。

その時間をわざわざお金を出して買っている。 

 

ユニクロの690円セーターを材料とし、わざわざそれ以上のお金を出して装飾パーツを買い、「自分なりの(?)690円セーター」にする人もいるのだろうな。

完成度の高いセーターが哀しくうつる、どこまでいっても哀しい姿である。

キルギスの石人

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「にっこりと。しかし、てこでも動かず。」というスタンス。
それを画像イメージとして、下のような「石人」の写真をキルギス氏が送ってくれました。
そう、「キルギスのはちみつ」をおみやげにくださった、あの「キルギス氏」です。
KYR 020.JPG
で、この素敵な写真は一体何?と無邪気に聞いた
私の問いに対して下記返信。
あの石はキルギスの首都ビシュケクから東へ約60km行った
ところにあるバラサグン遺跡で撮った写真です。

あの石の背景には、悲しい物語があります。
戦地に赴いた一家の主の無事生還を祈って、
残された家族が作ったという説と、戦士の墓という説があるそうです。
かわいい顔の裏には家族の悲痛な思いがあり、
生(無事生還)と死(墓)という両極の先人の思いが込められた
「石人」なのです。

 
キルギスの高原にこんな表情をした石がぽつぽつ、と佇んでいるらしい。

命という時間

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今日は娘のリクエストがあり、彼女が大事にしているマナティの「木の置物」をアップすることになった。 

 R0010606.JPG彼らは平和な生き物で、基本、人を疑わない。

フロリダのクリスタルリバーにゆったり住んで居るマナティは、

保護されているものの、もともとがのんびりやさんなので、

ゆったり泳いでいるところを

駆け抜けるモーターボートのスクリューに巻き込まれて、

 けがをしたり、命を落とすこともあるらしい。

 

戦いを所与として、競争を勝ち抜いて君臨する。

無防備なまでに平和に生きる。

どちらにも優劣はなく、そこにあるのは命という時間の使い方の違いだけ。   

 

世間で言われる勝ち負けは、

どうせ崩れる砂の山の標高が周囲と比べて、

「今、高い。と認識しているのが勝ち」で、

「今、低い。と認識しているのが負け」なのだとしたら、

それに参加せずに、

砂の山の下にある土を耕したり踏み固めている方がいい。   

 

そんなことを考えながら、

マナティの置物の木肌を撫でてみる。

脳内ニューヨーク

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「人の一生なんてものは、歴史の流れからするとほんの一瞬」、なんてことが言われる。

ことさらな感慨を生まない表現。

 

今日見に行った映画、「脳内ニューヨーク」にて。

「世界の歴史のできごとのほとんどすべては、今、悩んだりじたばたしたりしながら

生きている人たちの生まれる前か、死んだ後に起こったことである」

正確に覚えていないが、確かこんなふうに表現されていた。

 

冒頭の表現と意味は同じなんだけれど、視点の違いでインパクトが大きく変わる。

R0010603.JPG

 

年を重ねて迎える誕生日の過ごし方。

自分の人生が、

ほんのささやかであると同時に

かけがえのないものであることを味わうための日にしてみたら、

ずいぶんと心に響く一日になった。

 

 

 

最近、奈良散策と銘打ってゲストをお連れした吉田さんの話。

高天原(たかまがはら)の高間彦神社を歩いていたら、ふと見知らぬおじさんに声をかけられ、まるで、最近の話のようにその神社について語り出したそうな。

その神社の奥深くに潜む、蜘蛛塚の縁起は、「この土地には、手足の長い住民が住んでいたのだが、余所からやってきた自分たちが土地を奪ってしまった。その『蜘蛛のように』手足の長い原住民を鎮めるために『蜘蛛塚』を作った。」ことにある、と。

いつの時代の話?古墳時代である。

東京からいらしたゲストは、どう反応したものかと困惑されていた、とか。

さらに、このあたりの地名は葛城、それは蜘蛛のように手足の長い「土蜘蛛」を葛のつるの網で捕らえて殺したから、という由来があるらしい。

つまり武器としての「葛」の力で、作られた「城」が地名だと。 

一度しかない人生を封じ込めたという意識がある側の人間は、「鎮魂」によってその行為を昇華しようとし、その鎮魂の象徴が明示的であれば、時代を超えてつながる。

蜘蛛塚はきわめて明示的な象徴。

さらに、武器としての葛をかぶった地名がある以上、武功を示す地名と鎮魂の象徴が常にセットとして想起されるのかもしれない(ある欲を満たすことに紐づけられているブランド名とその象徴であるブランドロゴみたいに)。 

そういえば「土蜘蛛」という能があった。  

能という芸能がなぜこれほど長い間生き残ってきたのか。

それは、鎮魂が一つの重要なモチーフになっているからなのだろう、と思う。

第四話:その3 調査という芝居

①調査という芝居の中でのこと

インタビューでは話し手と聞き手の相互作用によって、いろいろなお話しが出てきます。聞き手の私としては、ふんふんと頷いているうちに、だんだん、話し手の感情や思考が乗り移ってくるような気がします。

これは、必ずしも気持ちいいことではないので、乗り移らないようにやればいいのですが、乗り移られることをよし、としないと、話や場が盛り上がらない。この身体感覚、分かる人には分かるでしょう。

乗り移る、乗り移られる、っていうのは、なんだかオカルトちっくですが、きれいめのことばで表現すると、「共感の磁場」を生成すること。

何が乗り移るか、というと、相手の「欲」。

これもきれいめのことばでいうと、ニーズとかウオンツとか言われるもの(うーん、この言葉、うすっぺらくて、だいっきらい)。

うまく「欲」の巣窟を探り当てたときは、インタビューは半ば成功。新しい商品やサービスについてのもとが詰まっているわけですから。

でも、探り当てただけでは、インタビューは「半ば成功」にしかならない。

それは、伝え方によっては、伝わらないことが半分はあるからです。 

②調査が終わった後の芝居

調査が終わると、結果をお伝えするために調査報告書なるものが書かれます。オフィスで読まれるわけですので、ワードとかパワーポイントなんかを使って図や文字でつくる

一応やりますが、残念極まりない感じ。「食べて出すだけの存在から、華美と理想を極める存在」まで分散と分裂だらけの人間の姿、そんな赤裸々な姿、オフィスで体裁良く読まれるような形式で伝わるわけはなく。

「人間の欲の塊をうまく書けるソフト」が欲しいくらい。

欲の巣窟を探り当てたとしても、「オフィス仕様」きれいめのことばで書かれると、全くピンとこない、伝わらない。

でも、「人間の欲の塊をうまく書ける」ソフトなんかで書いちゃうと、正しい納品物としてみなされないだろうな。 

なので、ご報告の際は、「一応作った」きれいめのコトバで書かれた調査報告書は読みません。

「欲の巣窟」に関するポイントについては、あのときあの場で、話し手がどう表現したか、を「再現」するように「小さなお芝居」としてお話しすることにしています。

きれいでむずかしいコトバを駆使するよりもよっぽど伝わります。

もちろん、そういうご報告が許されるクライアントさんだけ、にですが。 

あ、そうそう、商品や、サービスを買うことって、自分の欲に対する鎮魂なんですよね。

だから商売、というものが続くのでしょう。

「商」という字の字源をご存じな方には、ことさら納得されやすいですよね。

目に留まった「荀子」

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聞かざるは聞くにしかず、聞くは見るにしかず、

見るは知るにしかず、知るは行うにしかず。

学は行うに至りて止む。

行わば明らかなり          荀子

 

新しいことをやってみると、今まで知り得ない方々と知り合いになる。

今まで知り得なかった方々と話すと、その話の端々に、日々の実践の息吹が感じられる。

 

自ら事を起こすこととは、想定された直線の延長線上に自分の行為がプロットされることではない。

実践によって何かの渦が生まれ、その渦をかいくぐっていく中に想定の範囲を超えた学びの渦がまた引き寄せられる、という生き方を引き受けることなのだ。

これは、頭で考えているだけでは到底及ばぬところである。

行うと明らかになる。

時は金なり

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師走になると、「あっという間に一年が過ぎるね」という話をよく聞く。

「そうそう」とつい相づちを打つ。 

 

時は金なり。 

 

このことばの逆説に気づく。

どれほどカネが至上の命題であっても、究極的には時は金で買えない。

何かのサービスを買って、ある時間を別のことに使えるようにしたとする。

それで時間を買ったような気になるが、それは時間を埋めていた作業についての代替手段を買ったにすぎない。

代替手段を買いあさりすぎて、目に見えない損失に気づかないうちは幸福だが、いつのまにかその幸福の浅はかさに気づくこともある。

その幸福の浅はかさに気づいたとき、まわりに誰がいてくれるのか。

 

それが究極の問いになる。

 

 

「消費者」というコトバ

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浄土真宗本願寺派の大谷光真門主が新著「愚の力」の中で、

「消費者」ということばは「いやな日本語だ」と記されているらしい。

新聞でそんな記事を見つけて、著書自体をまだ読んではいないのだけれど、

それだけで、どきっ、といたしました。

「消費者」とはなにか。

「まさに欲望と直結した人間になることを意味する言葉です。」

なるほど。

 

「欲望をどう方向付け、どう利益に結びつけるように導くか」ということが、

マーケティングという行為の身も蓋もない本質。

とすれば都合が良いのは、その行為の対象が「欲望と直結した人間」ばかりだといいわけで。

なので、世の中のすべてが消費者であるように動機づけられた・ている、と。 

 

20年前なら、えっと、それで何か問題でも?

それで、搾取して儲かってぐるぐる廻っているのが世の中でしょ。

と言ってのけた私であろうが、

そういうことを突き詰めた先には、幸福がないような気がする。 

 

ならば、代替案として「消費者」ではない「人間」は、

どう位置づけたらいいのだろうか。

位置づけられた新しい「○○者」だらけの世界は、どんな世の中になるのだろうか。

もしくは一つの「○○者」だけでなく、「△△者」とか「□□者」とか「××者」とか、

いろんな「者」が混ざり合う世界なのだろうか。 

 

日曜はこういうことを考えても良い日、ということにしておく。

ハングル フィールド勉強会

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今日は生きたハングルお勉強の日。

と言えば聞こえはいいが、要するに先生を交えたハングル講座のメンバーで外でお食事。

鶴橋近くの「たんぽぽ」にて。

ここは鶴橋のどまんなかではなく、ちょっと外れたところにあるのだが、このお店がなかなか。

日本語が聞こえることが少ないほど、現地の雰囲気があるところなのだ。

現地の雰囲気といっても、アットホームな感じ。

さて、今晩は、のっけから、

 200912051840000.jpgじゃがいもと豚の脊髄の鍋、カムジャタン。

熱くて辛くて身体の芯まであったまりました。

最初は辛くて、はあはあ言ってたけど、だんだん慣れてきて

がっつり、汗かき。

えごまの香りとほっこりほくほくじゃがいも。いいねえ。

200912051915000-1.jpg

熱い・辛いの合間に豚足。

骨にしゃぶりついて

無心に肉を食いちぎる感じ、

上品とか下品とかを越えて、

私にとっては蟹の足を食べているのと同じ。

甘鯛のチヂミもおいしかった~。

ちゃるもっげすむにだー。

東京から大切なゲストがいらして、お食事。

先般のベネシアンドール資格認定試験においては、 そのやり方が独創を極めすぎていたが故に、

オーソドックスなテクニカル項目しか持たない審査員には、その実力が評価しきれなかった、という噂のベネシアンドール藤次氏。

そのパフォーマンスでシェリーをいただきに、Wassy's dining soupleへ。

ベネシアンを「頭の後ろに回して」注いでいるのがわかるかなー。

IMG_0603.JPG

こんなふうにベネシアンを後ろにポジションするだけでなく、

アーティスティックポイントの高さは、動画でしか表現できないところもあるので、ぜひ現地(Wassy's dining souple)にてどうぞ。

 

彼の注ぎ方は、私が勝手に題して「四天王寺 x ラテンバージョン」です。

あと普通のシェリーバーではいただけないようなお食事との意外な組み合わせも楽しめます。

私の一押しは、FINOと豚足のジュレ寄せ~。

あと、季節のお野菜のじっくり炭火焼きと、シェリーの組み合わせも恐るべしです。

ちょっくらオーセンティックなお店のイメージとアットホームかつフレンドリーなスタッフの落差が楽しめるブログもありマス。

覚醒

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12月は私の誕生月である。

来年は年女。

時の流れを区切ることは本来的に何の意味もないのだが、

あえて区切るのは、きっと「覚醒」のためである。

思えば、頭の中がもやもやとしたまま事を運び、視野も狭く、ピンぼけなことも多かった、と反省する。

覚醒状態で、今一度、自分とその環境を掃除し、頭と目を浄化して、正しく自分を使おう。

「仕分け」大合唱であった。

「仕分け」というのはアクションであるから、そのアクションをする目的があるわけで、

その目的は、

「何が必要で何が必要でないかを見極めること」であR0010598.JPGる。

その目的を果たすために、どういう物差しを使うか、というと、

「それはどういう世の中にしたいか=国のあるべき姿」によって物差しのありようが決まる。

さて、

「国のあるべき姿」の総意をどうやって作るのか?

「みんなできめればいい」んだけれど、

いくらITが発展したからといって、1億人の総議論は不可能だから、

誰かに託す。で、どうやって?

みんなの選挙で選んだ人に。

今回、賛否両論あるにはあるが、仕分けの評価が高い。

評価が高い理由は、仕分けという選択アクションが、目的とそれが依拠する理念がセットにならないとできず、

さらに、その主体は、みんなが選んだ人に託す場とそこから発するルートを通して行わないとできず、

みんなが選んだ人に託す場とルートこそが、「政治」と呼ばれる、ということが、 丁々発止「ふう」の舞台装置も含め、

日本全国的にメディアにのりやすく伝えやすい形で世間に「見える化」されたことにあると思う。

仕分けの結果ではなく、仕分けを政治主導で行ったという場とルートと見えやすさが評価されている。

そんな面倒な場やルートによる「見える化」なんか使わなくても、

自分たちよりもずっと賢い官僚さえ居れば、おまかせしとけば、正しくて効率的なんじゃないの?

だからこの国に政治家なんかいなくてもいいんじゃないの?

なんて、秀才官僚への劣等感を下敷きに思い込んでいた人も多いだろうが、そうでもないかも、と思わせる例が提供されたのかもしれない。  

 

昨日の朝日新聞に、「軽い官僚の言葉」として各ワーキンググループ張り付き担当記者の感想が載っていた。

「印象に残ったのは、優秀なはずの官僚の説明に、説得力が乏しかったことだ。」

こういう国にしたい、という「展望」と、そうであれば、これでなくてこれがが必要だ、という選ばれた道具を結びつける「選択」、

これら「展望」と「選択」の議論が両輪でなされていなかったということの証である。

こざかしいことは言うつもりはないが、

どうなりたいか、という「展望」と、そのためにどういう「選択」をすべきか、ということについては、たんに政治の世界だけでなく、

外国なんかと比べなくても、

会社でも学校でも家庭でも、「あえて」、それを持ち出さなければ、それを話し合うという土壌が作りにくい、というのが我らの「業」であり、

それを話し合って賛否両論が出ること自体にそもそも多大なストレスを感じる「弱さ」を持った存在だ、 

ということがわかった気になっただけでも益があることだ、と思う。  

 

第四話:その2 調査と類推、そして芝居

①調査は芝居

最近、逆説的ですが、「調査なんかしなくてもいいんじゃないですか」と言うことも多くなりました。あまりこねこね考えず、お金を使えば、サービスがいろいろあるのですぐに調査できちゃうのですが、でも手間だし。忙しくてお金も節約したいし、そんなことまでわざわざしなくても。

だって、すでに、結果は手元にあるはず。Aの報告書と、Bのデータと、メンバーの皆さんの意見を集約すれば、論点は整理されて、会社や上司向けの問題提起や提言など簡単にできますよね。

でも、だいたいの場合、コストを圧縮してむりくり調査をしてみることになります。

「企業の担当者として、こんなこと言われると立つ瀬がないかも、つらいかも」ということについては、過去の内容についてまとめられた問題提起および提言をさーっと読んでいても、簡単に通り過ぎて行ってしまいます。

人間、呈示されたリスク、それが少しでもそれが過去の問題であると認識してしまえば、それが今ある自分の存亡とは関係ないと判断して、スルーしてしまうようです。

これは人間の美点でもあり欠点。

「自分だけが気づいているのかも知れないが、これはかなり深刻な問題だ。しかし、過去のこととして書類でまとめられている内容では会社や上司は納得しない。体感させねば。」という理由で、調査は行われることが多いのです。

つまり、調査というものは、多くの場合、「社会科学的な事実と推論を知る」ために行われるのではなく、「こうであろうとすでに想定された事実と推論について、社会科学的な方法というかぶりものをかぶって、意思決定にかかわる人の前で、一芝居うつ」ために行われるのです。

でも、調査論は社会科学に位置づけられています。

誠にありがたく、そして不幸なことです。

社会科学、ってことにしすぎて、辛そうなので、私はこう言ってしまいます。

そうです。

質的調査というのは「芝居の一形態」、なのです。  

 

②それはどんな芝居か

特に質的調査はそもそも芝居なのですから、芝居として完成度が高くなくてはいけません。調査という芝居の完成度は、①ある程度筋書きがあって、こういう風に観衆は対応するであろうという確からしい推測の上に、②新たな発見の舞台となる少しの踊り場を作る、ということにって、新たな発見が得られそうな期待を持たせる舞台にするという構造、によって高まります。

具体的には、1)クライアントと事前に了解した決まり切った質問や決まり切った方向についてのプローブだけでなく、2)インタビューフローにない質問や相手との対話によって偶発的に出てきたプローブのバランスをとりながら、話を深めていきます。

2)の内容には、クライアントとの事前の議論の中で、「クライアント自身は、この問題には気づいておらず、それが重要であるかどうかについて判断できる状態にはないが、この問題がきっと浮上してくる」という先駆的な見極めによって、あらかじめ仕込んでおく予見されたアドリブ芝居も含まれます。

1)の了解による定型芝居が70%、2)の予見されたアドリブ芝居が20%、そして残りの10%が、本当に偶発的なアドリブ芝居、思っても見なかったやりとりによって進行します。

定型部分が多くてあまり発見が多くないように思えますが、発見の大小だけで、質的調査を語ることは間違っています。

だって、お芝居ですもの。お芝居として評価しないと。発見がメインではありません。  

 

お芝居には「物語=ストーリー」が必要です。「物語を上演する」発展の中にお芝居が生まれたのでしょうし。

一人の人が、さまざまな出来事を「箇条書き」として紹介するのではなく、それぞれの出来事を「物語」として語る時、そこに感情という接着面が生まれます。感情という接着面は、共感という反応を呼び起こします。「物語」とは共感という反応を呼び起こすシステムであり、それを上演するのがお芝居なのではないかと思います。

その個々の問題が文書やデータで既知の問題であっても、聞き手には「物語」として語られた方が、感情という接着面があることによって、インパクトがことさらに高いように思えます。

既知の内容が感情を呼び起こす接着面をもって呈示され、聞き手の状態が共感して受け入れる状況になったとき、既知の内容の重みや位置づけが聞き手の中でドラスティックに変化していきます。

「たとえ話の効果」です。

そんなこと言わなくても、経営者が「語り部=ストーリーテラー」であることが従業員に与える影響の高さはよく知られています。

逆もしかり。

あなたのお客様をストーリーテラーとすることによって、経営者を動かすこともできる、というわけです。

エライ経営者の方々が、ご自分はわからない分野(たとえば女性用品)について、「自分の妻が、娘が・・・。」というn1ないしn2の意見で、何億(何十億)もの商品の意思決定を簡単にくつがえす場面を数多く見てきました。

なぜかって、奥さんや娘さんが、エライ経営者であるパパに伝えているのは、ワードの文書でもパワポでもなく、聞かれた商品やサービスについての自分の語りだからです。

エライパパが困っていたら、いろいろ教えてあげますよね。内助の功ですもの。

きっと教えてあげようと一生懸命努力している内に、相手の感情を呼び起こす接着面を最強化して、最大共感を呼び起こすストーリーテラーになっているんです。

そりゃ、パワフルですよね。

外部のコンサルタントなんかにはなかなかくつがえせませーん。

*****

このシリーズ、一応、今年でいったん終了しようと思います。

あと4回です。

三回目の伝紋ワークショップ

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何ごとも3回やってみないとわからないものである。

というか、凡人の私はそうに違いない。

伝紋ワークショップは今年の初夏に第一回、秋に第二回、次は年を越して、第三回。

今、第三回目の企画が始まろうとしてる。

最初の第一回は勢いでやってみただけ、第二回目は勢いにのれた部分もあったが、

のりすぎたところもあり、転倒して少し頭を打った。

次、三回目は勢いを保ちながらバランスが取れるかしらん。

三回目というのは少し意味が重い。

このプロジェクトに関わってくれたメンバーの学生の一部が学校を卒業し、社会に出ていく卒業展でもある。 

 

「ふつうの人が、今の自分を語るマークを、アーティストの卵と作るために語り合って、できた『伝紋』を展示する」 。 

 

第三回目では展示までの仕組みを完成させるだけでなく、その仕組みと、仕組みから想定されていた学び以上のものが

自律的に起動してきたプロセスとしてきちんと見える形にまとめるのだ。

そして、このプロジェクトをひっぱってきてくれたメンバーのアーティスト「卵時代」に資するような中身にしたい。

メンバーのみんな、いろいろと忙しい中、ホント大変だったよね。ありがとう。 

 

展示までのプロセスについては第三回で目星をつけ、

第四回目からは、

伝紋を持ってくれた人が、どのようにそれを活用していくのかもメンバーを募ってトラックしながら発信していきたい。 

 

世の中では、意匠登録のない家紋を「デザイン」の一つとして自分の印鑑に使うことがはやっているらしいけれど、

伝紋は、「誰かの家の紋」ではなく、「自分の紋」、そして、決められた自分ではなく、

自分の変化を前提とした「今の自分を語る紋」ができる。

とっても素敵なことでしょ。

来年は大阪だけでなく、東京開催も考えています。