「仕分け」大合唱であった。
「仕分け」というのはアクションであるから、そのアクションをする目的があるわけで、
その目的は、
「何が必要で何が必要でないかを見極めること」であ
る。
その目的を果たすために、どういう物差しを使うか、というと、
「それはどういう世の中にしたいか=国のあるべき姿」によって物差しのありようが決まる。
さて、
「国のあるべき姿」の総意をどうやって作るのか?
「みんなできめればいい」んだけれど、
いくらITが発展したからといって、1億人の総議論は不可能だから、
誰かに託す。で、どうやって?
みんなの選挙で選んだ人に。
今回、賛否両論あるにはあるが、仕分けの評価が高い。
評価が高い理由は、仕分けという選択アクションが、目的とそれが依拠する理念がセットにならないとできず、
さらに、その主体は、みんなが選んだ人に託す場とそこから発するルートを通して行わないとできず、
みんなが選んだ人に託す場とルートこそが、「政治」と呼ばれる、ということが、 丁々発止「ふう」の舞台装置も含め、
日本全国的にメディアにのりやすく伝えやすい形で世間に「見える化」されたことにあると思う。
仕分けの結果ではなく、仕分けを政治主導で行ったという場とルートと見えやすさが評価されている。
そんな面倒な場やルートによる「見える化」なんか使わなくても、
自分たちよりもずっと賢い官僚さえ居れば、おまかせしとけば、正しくて効率的なんじゃないの?
だからこの国に政治家なんかいなくてもいいんじゃないの?
なんて、秀才官僚への劣等感を下敷きに思い込んでいた人も多いだろうが、そうでもないかも、と思わせる例が提供されたのかもしれない。
昨日の朝日新聞に、「軽い官僚の言葉」として各ワーキンググループ張り付き担当記者の感想が載っていた。
「印象に残ったのは、優秀なはずの官僚の説明に、説得力が乏しかったことだ。」
こういう国にしたい、という「展望」と、そうであれば、これでなくてこれがが必要だ、という選ばれた道具を結びつける「選択」、
これら「展望」と「選択」の議論が両輪でなされていなかったということの証である。
こざかしいことは言うつもりはないが、
どうなりたいか、という「展望」と、そのためにどういう「選択」をすべきか、ということについては、たんに政治の世界だけでなく、
外国なんかと比べなくても、
会社でも学校でも家庭でも、「あえて」、それを持ち出さなければ、それを話し合うという土壌が作りにくい、というのが我らの「業」であり、
それを話し合って賛否両論が出ること自体にそもそも多大なストレスを感じる「弱さ」を持った存在だ、
ということがわかった気になっただけでも益があることだ、と思う。
第四話:その2 調査と類推、そして芝居
①調査は芝居
最近、逆説的ですが、「調査なんかしなくてもいいんじゃないですか」と言うことも多くなりました。あまりこねこね考えず、お金を使えば、サービスがいろいろあるのですぐに調査できちゃうのですが、でも手間だし。忙しくてお金も節約したいし、そんなことまでわざわざしなくても。
だって、すでに、結果は手元にあるはず。Aの報告書と、Bのデータと、メンバーの皆さんの意見を集約すれば、論点は整理されて、会社や上司向けの問題提起や提言など簡単にできますよね。
でも、だいたいの場合、コストを圧縮してむりくり調査をしてみることになります。
「企業の担当者として、こんなこと言われると立つ瀬がないかも、つらいかも」ということについては、過去の内容についてまとめられた問題提起および提言をさーっと読んでいても、簡単に通り過ぎて行ってしまいます。
人間、呈示されたリスク、それが少しでもそれが過去の問題であると認識してしまえば、それが今ある自分の存亡とは関係ないと判断して、スルーしてしまうようです。
これは人間の美点でもあり欠点。
「自分だけが気づいているのかも知れないが、これはかなり深刻な問題だ。しかし、過去のこととして書類でまとめられている内容では会社や上司は納得しない。体感させねば。」という理由で、調査は行われることが多いのです。
つまり、調査というものは、多くの場合、「社会科学的な事実と推論を知る」ために行われるのではなく、「こうであろうとすでに想定された事実と推論について、社会科学的な方法というかぶりものをかぶって、意思決定にかかわる人の前で、一芝居うつ」ために行われるのです。
でも、調査論は社会科学に位置づけられています。
誠にありがたく、そして不幸なことです。
社会科学、ってことにしすぎて、辛そうなので、私はこう言ってしまいます。
そうです。
質的調査というのは「芝居の一形態」、なのです。
②それはどんな芝居か
特に質的調査はそもそも芝居なのですから、芝居として完成度が高くなくてはいけません。調査という芝居の完成度は、①ある程度筋書きがあって、こういう風に観衆は対応するであろうという確からしい推測の上に、②新たな発見の舞台となる少しの踊り場を作る、ということにって、新たな発見が得られそうな期待を持たせる舞台にするという構造、によって高まります。
具体的には、1)クライアントと事前に了解した決まり切った質問や決まり切った方向についてのプローブだけでなく、2)インタビューフローにない質問や相手との対話によって偶発的に出てきたプローブのバランスをとりながら、話を深めていきます。
2)の内容には、クライアントとの事前の議論の中で、「クライアント自身は、この問題には気づいておらず、それが重要であるかどうかについて判断できる状態にはないが、この問題がきっと浮上してくる」という先駆的な見極めによって、あらかじめ仕込んでおく予見されたアドリブ芝居も含まれます。
1)の了解による定型芝居が70%、2)の予見されたアドリブ芝居が20%、そして残りの10%が、本当に偶発的なアドリブ芝居、思っても見なかったやりとりによって進行します。
定型部分が多くてあまり発見が多くないように思えますが、発見の大小だけで、質的調査を語ることは間違っています。
だって、お芝居ですもの。お芝居として評価しないと。発見がメインではありません。
お芝居には「物語=ストーリー」が必要です。「物語を上演する」発展の中にお芝居が生まれたのでしょうし。
一人の人が、さまざまな出来事を「箇条書き」として紹介するのではなく、それぞれの出来事を「物語」として語る時、そこに感情という接着面が生まれます。感情という接着面は、共感という反応を呼び起こします。「物語」とは共感という反応を呼び起こすシステムであり、それを上演するのがお芝居なのではないかと思います。
その個々の問題が文書やデータで既知の問題であっても、聞き手には「物語」として語られた方が、感情という接着面があることによって、インパクトがことさらに高いように思えます。
既知の内容が感情を呼び起こす接着面をもって呈示され、聞き手の状態が共感して受け入れる状況になったとき、既知の内容の重みや位置づけが聞き手の中でドラスティックに変化していきます。
「たとえ話の効果」です。
そんなこと言わなくても、経営者が「語り部=ストーリーテラー」であることが従業員に与える影響の高さはよく知られています。
逆もしかり。
あなたのお客様をストーリーテラーとすることによって、経営者を動かすこともできる、というわけです。
エライ経営者の方々が、ご自分はわからない分野(たとえば女性用品)について、「自分の妻が、娘が・・・。」というn1ないしn2の意見で、何億(何十億)もの商品の意思決定を簡単にくつがえす場面を数多く見てきました。
なぜかって、奥さんや娘さんが、エライ経営者であるパパに伝えているのは、ワードの文書でもパワポでもなく、聞かれた商品やサービスについての自分の語りだからです。
エライパパが困っていたら、いろいろ教えてあげますよね。内助の功ですもの。
きっと教えてあげようと一生懸命努力している内に、相手の感情を呼び起こす接着面を最強化して、最大共感を呼び起こすストーリーテラーになっているんです。
そりゃ、パワフルですよね。
外部のコンサルタントなんかにはなかなかくつがえせませーん。
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このシリーズ、一応、今年でいったん終了しようと思います。
あと4回です。
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