人間の精神はたくさんのモジュールでできていて、モジュールどうしは互いに連絡をとりあっっている。そういうふうに進化したのは、私たちの生きのびる確率がそれで高まるからだ。人間がもっている美を感じる能力と数学をする能力は、このモジュールの活動の副産物ではないだろうか。 最近インターネットで「どんな絵が好きか」というアンケート調査が行われ、いろいろな国から回答が寄せられた。その結果、ひとつの例外-オランダ-を除いて、どの国の回答者もある種の風景画を好むことがわかった。水があり、遠くに丘が見え、動物がいて、木が何本か(多すぎてはいけない)が生えている。イギリスで好まれる動物はウシでケニアではカバだったが、大まかな好みは同じだ。
その後さらに詳しく調べたところ、ほとんどの人がこうした風景をすばやく認識できることが明らかになった。もしそうなら、この能力は生まれながらに組みこまれた反射行動にちがいない。何かが猛スピードで飛んできたらとっさに目を閉じるように、すぐに回路がつながる仕組みがあるのだ。反射行動が進化したのは、正確に反応するより迅速に反応するほうが好ましいからである。では、風景にどんなメリットがあるのだろう。安全だ。先ほど説明したような風景には人類の祖先に必要な要素がすべて備わっている。食糧、水、隠れ場所。木があれば登ることができる。ただし、たくさん生えているのは困る。自分を狙う猛獣が身をひそめているかもしれないからだ。
正しいか間違っているかはさておいて、なかなかよくできた仮説である。...
「自然界の秘められたデザイン」 イアン・スチュアートより抜粋
反射行動が進化したのは、「正確に反応するより迅速に反応するほうが好ましいからである」の一節、なかなか身につまされる。
自分たちの現実に関する与件整理の中から「正確」に物事を抽出し、冷静に行動を判断することは本当に難しい。
なので、「反射的」に「安全な風景」をにおわす、「勝ちパターン」に「迅速」に反応し、そちらに身体が動く。
反射的に勝ちパターンに心惹かれ、ベストプラクティスの指南に金を払う。
そしてその勝ちパターンに内在されているベストプラクティスを実行しようとする。
脅威に満ちた自然への対応の勝ちパターンが、時を経て経済活動での生き残り方の対応に変わっただけのような気もする。
安全な筈の風景画の世界でも、そこにある水が汚染されていたら、自分の体力では木にすばやく登れなかったとしたら、隠れ場所には先客がいたら、等々。
自分にひきよせた時に、さまざまな「If」があるのだが、それを最後までひとつずつ潰していては、すばやく行動できない。
問題を潰している間に身の危険が迫るかもしれない。
とりあえずやりながら考えよう、というスタイル、最もインパクトのありそうな「If」だけ考えて、何かのパターンにのってみる、そして、また、問題があれば次のパターンにのりかえる。
それ自体、生き物としては正しい行動なのかもしれない。
しかし、場当たり的に乗り換えるということを所与として、生き延び得たパターンをもう一段階上のレベルで俯瞰しなくては、本当に生き残れない。
季節の変化で当てはまらなくなった場当たり的パターンも、2年目は同じ四季が繰り返される。
瞬時の行動と結果を長尺で俯瞰して「四季」というパターンを最初に見抜けた人間が、少し遠くの未来を見ることができるのだろう。
常に動きながら、その時・その場に対応しつつ、その前の状況との関連について、安易に意味を与えず、しばし心を虚しくして俯瞰する。
では、俯瞰すること自体何を手がかりにして行い、俯瞰された内容について何を参照して判断するのか。
使い物にならないように見えた「購入した勝ちパターン」?
そうかもしれない。
自分の考え?
自分の考えも、自分の経験以外のいろいろなものでできている。法則、思想、史実、誰かの信念・経験等々かもしれない。
これもまた、完全、不完全なものも含めて、想起されたパターンである。
いずれにせよ、この段階で考慮するパターンが「勝ち」であるかどうかは、その状況によって左右される。あくまでも相対的なものである。
日曜の朝に何をつらつらと考えているのだろう。
きっと、「何のために、学び、経験を重ねるのか」という問いについて考えているのかも知れない。
今日時点の答えとしては、「いろいろなパターンを抽出可能な形でストックし、生き延びるため。そしてそれを伝えるため。」と答えておこう。
「いろいろなパターン」とは何によって規定されるのか。
それは「えりごのみ」、つまり「好み」であろう。
私の場合は、「自分が美しいと思えるパターン」が「自分の好み」である。
最初に引用した部分の続きの文章(抜粋)。
この説から見えてくるのは、私たちの美的感覚がじつに興味深いものだということ。また、ある種のパターンを好むことと、そのパターンを見つけ出す能力が、美的感覚にかかわっているのもわかる。私たちの精神はパターンを見出すことに関しては高度に進化した目をもっている。数学とは、その心の目を利用するために人間が編み出した体系的でなかば意識的な技法といっていい。数学と美が強く結びついていると考えても少しもおかしくはないのだ。
自分が何が好きか、ということ、何を美しいか、と思うことと、自分が生き延びるための手段のパターン、たとえば仕事のありようは、私の中では不可分である。
全く両者が関連していない、と断言する人、とは根本的にそりがあわないのかもしれない。
しかし、生き延びるための方策として多様性を確保したい、という私のえり好みパターンにおいては、私にとって必要な人である。
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