2009年11月アーカイブ

銀杏

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御堂筋の銀杏がきれい。

紅葉といえば文字通り浮かぶ「紅色」もいいが、

冷えがしのびよってくる頃には、

黄色の方があたたかそうでありがたい。

黄色だらけになった銀杏の木が太陽の光を受けて、

木全体として照り返す感じが、

あたたかい季節のイメージなのだろうか。 

 

ずっとずっと前、

絵描きの友人に、

菜の花の花束を持っていったとき、

「立派な黄色!」と喜んでくれたことを思い出す。

それはぽかぽかとした春の日だった。

「立派な黄色!」と叫んだときの、

その人から発せられたまっすぐな感動の視線を思い出す。

 

御堂筋の銀杏は紛れもなく「立派な黄色!」の仲間で、

わたしはあの視線を思い出して、妙にうれしくなった。

ひょうひょう、ドラゴン

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今日は日曜。

きちんとコーヒーを入れて飲む。

マグカップではなく、ソーサーのあるカップで。

じつは、わたくし、モチーフとしてはドラゴン好きである。

漆器、古伊万里の皿、果ては箪笥まで、うねったドラゴンがついている。

ドラゴンは想像上の生き物だから、顔の描き方に決まりはない。

R0010595.JPGこれはマイセンのコーヒーカップにいるドラゴン。

無邪気な愛嬌と品。

こういう魅力のある人は少ないな。

私の家にあるドラゴンたちは、

どことなくゆるんだ顔のものが多い。

霊力極まり、とんでもなく強力なはずなのに、

強がらず、ひょうひょうと、ドラゴン(人?)生を

楽しんでいる風情の奴ら。

大海にあっても、雲海にあっても、どちらも似合うドラゴン。

いそうでいないドラゴン。いないと思ったら、突然あらわれそうなドラゴン。

 

 

この世に現れてもつかの間で、それが本当だったのかどうか、まぼろしであったのかどうか。

 

いえ、ドラゴンのことではなく、

しばらく時が経てば、誰についても誰もが確かではなくなる私たちのこと。

「商人」

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10年以上前に、永六輔氏が上梓した本「商人」。

商売の真髄満載だったっけ?と思って読み返してみた。

いや、そんなこと「だけ」はなかった。  

曰く、

「不景気と言っていられなくなりました。

普景気です。」

10年前だって、そういえば不景気と騒がれていた。

「失われた10年」と称される頃。

なるほどね。

今回は「100年に1度の不景気」というキャッチらしいけれど、

グレードアップ(ダウン?)された不景気はこんなふうに表現するしかないのかしらね。

強力になった不景気だから、だれもが対応できなくても、ね、仕方ないよね、という赦しのためのフレーズでもある。

 

そういえば最近、成長を前提とした戦略を見直そう、なんて話がそこここから出ている。

グレードアップ不景気の最上級格が天井を突いてしまった。

今回は本当にこれが「普景気」と設定を変えた中での明日。

そうなんだけど。

この「普景気提唱者」が、成長の汁を吸いきった世代だったりする。

単に年取った自分に照らし合わせて、成長というありようが辛くなったんじゃないの、とか

これまで尽くした贅沢に飽きただけなんじゃないか、と下の世代は冷ややかに見ていることだろう。

ごもっともな意見にも思えるが、提唱者本人のぬくぬく状況を照らし合わせるとリアリティがない。

食い逃げじゃないの? 違うのなら、証拠を見せろよ、という冷たく光る目が無数に見える。 

 

 さらに、こんなことも書いてあった。

「マグロを喰いますね。

そのマグロを釣った漁師は金を受けとります。

運んだ奴も金をとります。

市場でも金が入りますよ。

われわれ板前も、料理をして金をいただくのが商売。

お客さんは喰うんだから別として...

マグロ自身は一銭もとっていない!

これが、どうも腑に落ちないんだ」    

 

お客さんと自分と世間、それで三方よし、と言ったときに、

その世間とは何か?

「社会」。

では、

お金を請求しない「自然」は「社会」の中に入るのかそれ以外なのか、

このあたりの認識が最近とみに問われているような気がする。

無限に搾取できるものと想定しているものに対して、どうリターンすればいいのか、

自然からすれば、無限に増殖する「癌」のような人間。

明確に対価を請求しない相手からは搾取し続ける。

商売とは誰に対しての何の交換なのか?

交換のメディアとしてお金を発明した人間だが、

お金を発明したがゆえに、搾取され続ける対象。  

 

そういうことばかりを集めて考察した本が読みたくなった。

どなたか、ご存じでしたら教えてください。

ぐるんぱのようちえん

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私が小さい時から好きだった絵本。

ひとりぼっちの象の「ぐるんぱ」。

大きくなっても、くさくてめそめそしているので、

ジャングルでの「ぞう会議」の議題になり、

その結果、きれいにしてはたらきに出すことになります。

すっかりきれいにしてもらって、意気揚々とジャングルを出た「ぐるんぱ」ですが、

どこに働きに行って、何を作っても、何もかもが大きすぎてミスマッチ。

とうとう最後に、どうしようもないほど大きなクッキーや、お皿や、靴や、ピアノを、

これも大きすぎる車にのっけて、行き着いた先は、R0010593.JPG子だくさんの母親のところ。

忙しいので子供の相手をしてくれ、と言われ、

大きすぎるピアノで「ぐるんぱ」は弾きうたい、お皿はプール、

靴はかくれんぼ基地になり、

クッキーはいくら食べても減らないおやつ。

そんな素敵な幼稚園を開くことになります。

なんでこれが好きだったのか。

「なんだか違うな」という違和感を殺さずに人生を生きてきた、ということと

関連があるような気もする。

ひじき

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娘の小学校の給食メニュー表の下に、「ひじき」がフォーカスされていた。

曰く、

「ひじきは大変歴史のある食品で、縄文時代から食用に利用されていたと言われています。」

冬から春にかけてが旬です。そのままだと渋みがあり、硬くておいしくないので、

釜で長時間蒸し煮にし、乾燥させたものが乾燥ひじきとして売られています。

葉の部分の芽ひじきと、茎の部分の長ひじきがあります。

カルシウム、鉄、食物繊維を豊富に含んでいます。」

 

なんと。

ひじきが縄文時代からある食品だとはびっくりである。

さらに、

「加工食品」というと反射的に「添加物だらけ」というイメージがあるが、

「長時間蒸し煮にして乾燥させた」という、

シンプルだが手のかかる加工によってできたものが、「乾燥ひじき」である。

 

すごいぞ、ひじき。

今晩はひじきご飯にしよう。

 

そして、

朝から晩ご飯のメニューが浮かぶ日は、きっと素敵な一日になる。

 

 

家に野生のランが一つだけある。植物を育てるのはあまり得意ではないが、山野に人知れず生息している野生のランというものを家で育ててみるとどうなるのか、ということが知りたかったので置いてみた。

どんな花が咲くかも知らない。これを求めるとき、どのぐらいの日を当てたらいいのか、どのぐらい水をやればいいのか、おおまかなことだけを聞き、おおまかに育て、ほぼ2ヶ月が経った。

まだ枯れてはいない。

R0010590.JPGノウハウ本なんかに当たってみるということも考えてみたが、 それはやめてみた。

とりあえずじっと観察して、何か不調な兆しを見つけたら、

水をやるなり、日のあて方を変えるなり、

慣れないなりの試行錯誤もいいのではないかと。

自然は試行錯誤の数回は、可能性ある分散として、

この小さな植物の中にも折り込み済み、だと思う。

花が咲くときは、非常に小さいらしいが、濃厚な香りらしい。

たぶん、周囲のありとあらゆるにおいを封印してしまうほど濃厚な香りなのだろう。

 

 

 

 

第四話:その1 調査と類推

①得られた結果の読み取りと体験

たとえば質的調査で語られたことについての解釈についてはある意味で無限の可能性があります。それを規定するのは、その内容が、どのような人がどのような状況でどういう気分の時にそれを語ったのかという文脈。同様のことが量的調査の自由回答についても言えることです。調査の解釈で問われるのは、語った内容そのものではなく、それが語られた内容の文脈の理解のレベル。文脈を理解するには、少なくともその商品やサービスが供される文脈を自分ですくなくとも一例は再現できなくてはなりません。つまり、ある人が、いつ、どこで、どんなときに、どんな気持ちで使ったか、そしてそれについてどう思ったかということについて、語れないといけない。「ある人」とは、もちろろん自分自身のことです。

最近、驚かされるのは、そのプロジェクトの担当者が対象商品やサービスをきちんと使ったことがないケースが多いことです。商品やサービスを1人の顧客になりきって使ったことがない人が、「給与と交換される仕事」の範囲で調査の主担当になっておられる。特殊なケースかなと見過ごしたのが3~4年前、えーっと普通にそうなのかもと思い始めたのが、ここ2年ほど。マーケティングの手法については詳しいけれど、「顧客になりきって自分が出している商品やサービスを体験する機会を身銭を払って経験していない」。

主観的な意見だけではもちろんバイアスがかかることは承知の上で、誰も気づいていない主観の共通項が「インサイト」と呼ばれ、それを見つけて施策に活かすということがマーケティングの基本、だとすれば、自分で経験してみることで、自分の主観の中身についてよく認識すべきなのではないかと思いますがいかがでしょうか。自分が関わっている商品やサービスについての使用レポートを、担当になった時点で書くということは必須だと思いますが、最近ではそんなこと徹底されていないのかもしれません。こんなこと、MBA風の教科書にはベタなこととして書かれていないのでしょう。何か、横文字の手法や新しい手法をたくさん使って、かっこよく結果を出したい、という人が増えており、それ以外はしないという人が主流になりつつあるような気がしています。

自分が経験した文脈をきちんと持っていない人が、単に仕事だからといって担当の商品やサービスの調査をし、その結果だけをもとにして何か新しい洞察のもとにすばらしいプランができる?

私はそう思いません。仮説作りの基本は自分の感覚と世間で言われていることの落差にあると思っています。

②表現されたことの真偽とホンネの堀り場所、ホンネの階層

タテマエがあって、ホンネがある。私の感覚では、タテマエとホンネって荒っぽい表現だと思います。言葉上ではそれぞれ一つづつしかないと思いますが、タテマエは2つぐらい、ホンネはタテマエよりももっと多くて人によっては何段階もあったり。それは別段不思議なことではありません。もう少し言うと、ホンネは状況適応的に変わる。生き物としてはその場その場の適応が出来た方が生き延びる確率が上がるからでしょう。また、状況と言っても、好ましい状況については、それがずっと続けばいいというものではないので、自ずと閾値がある。つまり、ホンネの数はその人が好む状況の数ほどあり、状況に対応するホンネの適応範囲はその状況が好ましいと思える閾値によって決まる、と言えるのではないかと思います。

飲食する好きな場所について聞いてみたとして、①新世界で串カツを食べるのも良し、②芦屋でお茶するのも良し、③中目黒のレストランもいいよね、という回答が出たとする。でもどれもずっと続くとイヤ。人間は気移りし、あちこちと気分が飛ぶものだと。そこまで?ちょっと浅すぎますよね。この例なら、①新世界=ベタ風、②芦屋=セレブ風、③中目黒=トレンド風とざっくり分けたとして、さて、なぜ、3つが必要なのでしょう?と考えてみたとする。思いついたら、もう一つ下のホンネに近づけるかもしれませんね。例えば、いろいろな「風」を使いわけることが、自分の世界の広さを確認でき、先ほど3つは重なりがなくて網羅感がありそうに思えるから、というホンネが類推され、さらに、それってどうしてでしょうね、と掘ってみると、そういうことを経験することは今の状態の私にしかできないから、なんていうホンネがまた類推され、ここまでで止めてみたら、「いろいろな場所を使い分けること自体が自分の効力感と刹那感の表れである」なーんて要約できるかもしれません。

だからといって、これをどう使うか?もちろんその結果を使うテーマによりますよね。深いホンネを掘ったからと行って、あなたのプロジェクトに使えるとは限らないでしょう。たとえば、フリーペーパーを刊行していて特集記事を考えているのなら、読者ターゲット設定として先ほどの例を使って、「いろいろな飲食場所を使い分けることで自分の効力感と刹那感を解消したい人」と設定してみるといろいろアイデアも出てくるのかもしれません。でも、あなたがしなければいけないのがベタ風な地域にある飲食店のメニュー開発だったら、先ほどのようなところまでホンネを掘るのは掘りすぎで、堀場所も具体的なメニューについての類推が必要だったので適切ではなかったですね。

ホンネの堀場所とホンネの階層、量的調査であれ、質的調査であれ、ここを間違え続けると調査自体があまり使えないものになってしまいます。

でも試行錯誤は必要。間違えても、人間という面白い生き物の一面が見えるわけなので、良しとしましょう。思ってもみない花が咲くように、何かが立ち上ってくるかもしれません。私自身、本当にたくさんの市井の人たちの話を聞いてきて、やっぱり、人間って面白い、と思いますから。

今日はアップの時刻が遅くなってスミマセン。

季寄せメニュー

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歳時記を簡略化したものを季寄せというが、それをながめるのが好きだ。

それも風流な目的ではなく、もっぱら夕食の献立に迷った時。

冬の季寄せには、

汁物で、

粕汁、納豆汁、薩摩汁、三平汁、けんちん汁などというスタンダードが並んでおり、

俳句を詠まずとも見ているだけであたたまりそうとうれしくなるし、

鍋では、

石狩鍋、寄鍋、ちり鍋などのおなじみの間に、

牡丹鍋、桜鍋、紅葉鍋なんていうのもある。

牡丹は猪、桜は馬肉の隠語だというのは意識の上にあったが、ああ、そういえば紅葉は鹿肉の隠語であったか、と、

地層に埋もれたような古い記憶をたどる。

薬喰(くすりぐい)というのもあって、

「寒中の鹿を喰うと身体の邪気を払い、血行をよくするとされ、ひそかにこれを賞した」とある。

ちょっとかわいそうだけど効きそう、と喜んでみても、鹿肉は手に入りそうもないし、と思う。

蒸饅頭(むしまんじゅう)、

酒饅頭のふかふか、あつあつしたのは冬ならでは。

押しくら饅頭、

ん?

最近の子供は押しくら饅頭なんかしてるんだろうか。

さて、何にしよう。

そういえば昨日は大根をたくさんいただいたから、

風呂吹(ふろふき)。

「風呂吹の夕餉や帰路の人想ふ  静子」

お酒はもちろん、あらばしり、ですかね。

 

 

 

寒暖の差

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このところ、寒暖の差が激しい。身体がゆるんだり、ちじこまったり。

気温に対して単純に身体が反応しているのだが、

それによって、意識する、しないに関わらず、食べたいものが変わり、着たいものも変わる。

意識・無意識の産物は、あらゆるものの売れ行きも左右するから、あらゆるものの供給に影響する。

地球規模で今何が起こっているのか、単なる周期変動なのか、我らの存在による根本変質なのか、

私にはよくわからないが、本当に気候が変わっているのなら、とんでもないことなのだろう。

一昨日は、ビールをかごにいれ、昨日はカイロが飛ぶように売れているのを目の当たりにして、

無力な生物n1としては、なんだか妙に心許ない感触の日々である。

 

鎖国マインド

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鎖国していた時代があった。

 

鎖国の時代は暗黒の時代と表現される。

何が暗黒だったのか。

さまざまな世界の動きの中で

相対的客観的に自己をモニターすることに必要な光が差し込まなかったので暗黒ということらしい。

 

では今はどうなのだろう。

相対的客観的に自己をモニターすることに役立つ光は差し込んでいるかというと、

玉石混交、あらゆるメディアであらゆるところに差し込んでいる。 

 

きっと、

本当に必要なのは光そのものの量ではなくて、

それを受け入れて咀嚼しようとするレディネスが高いことであろう。

事実、鎖国していたときでさえ、

一部の地域や人々の中でのレディネスは異常に高く、

そこには何かを生む磁場があった。 

 

不況だとじゅくじゅくしている間に

ほどなく世界第三位の国になり、

光は差し込んでいるのに、暗黒な気分になるのだろう。 

 

光がたくさん差し込んでいようが、ほんの少ししかなかろうが、

必要なのは健全なレディネスであると気づく人が増えてほしい気がする。

Succeeding

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ビジネスの成功ってなんだろう。

ある人と話していて、昨晩はそういう思いにとらわれた。 

 

成功といえば、Successが英訳。

でもSucceedingという言い方もある。

同時にこの言葉は「後に続く」という意味にも使われる。 

 

私の成功は、SuccessというよりもSucceedingの方が似つかわしい。

その場限りのきんきらした「成功」よりも、胚胎を「継承」する存在でありたい。 

 

とりあえず、小さな舟で船出した。

どこかの小さな島に着くまで、

えっちらおっちら漕いでいる。

島はまだ見えないけれど。 

 

島についたら、ひとやすみ。

次の船旅に必要な舟を用意しよう。

その舟に必要な人々にも声がけしよう。

そしてまたえっちらおっちら船出しよう。

商品の便益って?

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便益ということばはむずかしいな。

「商品の便益」という文脈でよく使われるけれど、

どうもぴったりこない。

 直感的には「べんりでいいこと」ととらえられるが、

それでは説明できない部分が多すぎる。

「わたしにとって、してくれたらいいな、あったらいいな、と思ういいことの総称」

とすればいいのかな。

水曜日のテーマと絡めて、しばし考え中。

 

あー、それにしても昨日は寒かった。

今日はそうでもないみたい。

 

4つの条件

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長さ・強さ・広さ・深さ

人生でこの4つの条件が充たされると理想である、ということを聞いたことがある。

仕事でも家庭でも趣味でも、領域を問わず、いろいろな領域を総じてこの4つの条件が揃えば人生に充実感が生まれる。

そう考えてみると、私の人生はずいぶん幸せだと思う。

長さに当たるのは何で、強さ、広さ、深さは何があてはまるのか、

そう考えてみること自体に、

生きていくことが、単なる点や線でなく、

立体的に構築されていくものだという視点が自然と提供される。

 

さて、

今日の24時間は砂時計の砂が落ちるだけの24時間ではなく、

すでに構築されたもののどこかに、何らかの立体が加わる24時間なのだ。

木の伝版を作ってしまったぐらいですから、私は木が大好きです。

大きな木だな、と思って見上げると、無数の葉や枝の向こうに空が見えます。

空気が冷たくなってきて、空も澄んできましたね。R0010386.JPGきれいです。 

さて、地面の下では、枝のかわりに根が、無数の葉のかわりに、無数の細かい根があるのでしょう。

根の間には当たり前ですが、土。

木の支えであり、栄養である土。

地面から上の部分の木は、こうやって写真にとってもらえるけれど、

地面の下にある木は写真には撮れません。

でも、本当はこの木、地面の下の写真も撮りたいのです。

 

第三話:その3 質的調査で話を支える、育む

質的調査、特にフォーカスグループで、どうすれば参加者を盛り上げてうまく進行できるのか、どうすればたくさん話してもらえるのか、重要な問題ですね。

①座のあたため(ウオーミングアップ)の重要性

質的調査、なかでもフォーカスグループは、まあ茶飲み話を人工的に作るところです。茶飲み話をするメンバーの間なら、お互いのことがわかっているので必要ないですが、フォーカスグループのような人工的茶飲み話の場合は、初対面の人同士で行われますので、スムーズに茶飲み話ができるように、最初は座のあたためから始まります。10分ぐらい。よく行われるのは、簡単に自己紹介、ってことで、名前、居住地域や家族構成、年齢、職業を話してもらったりします。まあ、どこそこの某ということがわかればいい、とばかりずいぶん邪険に扱われていることが多いです。クライアントにとっては、こんなところ、さっと済ませて本題に入ろう、という部分でしょうか。

しかし、参加者にとっては、自分が最初に発話をして、その反応を得て、その場に馴染むかどうかが受け入れられるかどうかが決まるすごく大切な局面です。個人的な意見ですが、本当は実際のインタビュー場面で居住地域や家族構成、年齢、職業などを網羅して聞かない方がいい。もともとリクルートをしているときに押さえてある項目ですから、こちらで了解しておけばいいのです。わざわざ、インタビュー時点でこの内容を些末に言わせることは、自分の社会的なポジションを初対面の人の前で再確認し、相手にそれを了解させることになります。「私って、そんなに高くない地価や賃貸料の居住地域に住んでいて、きちんと結婚して、子供もちゃんといる専業主婦。あ、でも年齢よりもちょっと若く見えるでしょ。」とさりげなくかつ強烈にアピールすることもできるわけで、これは自己紹介どころか、見えないバトルを誘発していることにもなるからです。そこに自己評価が低い人や、自分の社会的ポジションについて劣等感がある人が入っていると、すでに最初から失敗です。

思った、考えたことを素直な反応が重要な質的調査では、「面目ないこと」も話してもらわないと意味がないのです。せっかく、気持ちをオープンにして、温泉につかっているみたいにハダカのつきあいをしようというのに、わざわざ心に鎧を着せるようなウオーミングアップをさせるのはどうでしょうか。

ワークショップをするときもそうですが、最初に人が出会うときは最もテンションが上がりますよね。そこで、何をしてもらうか、何をするか、その内容があとあとまでひきずります。この初対面のグループがどこらへんに着地して話しはじめる(根をはりはじめる)か、話の支え、を作るのがウオーミングアップ。

たかが、ウオーミングアップ、されどウオーミングアップだと思っています。

②作業の効用

質的調査の中では、単に自分で話をしたり、人の話を聞いたりするだけでなく、ちょっとした作業を入れることもあります。簡単な文章を書いてもらったり、コラージュを作ってもらったり、商品を実際に使ってもらったり。

人が日常的に行っていることは、それをどんなに毎日欠かさず行っていても、行動が自動化されていることが多いので、それを人前で発話したことがない内容も多いものです。発話できない=内容がない、のではなく、「内容を自分で客観的にモニターしたことがない」からお話ししにくい、のではないでしょうか。どんなレベルのことでも、言葉にするときは、「今、それを行っている、考えている、ということを認識してから、言葉にかえる」というプロセスが踏まれていると思います。

その認識が不十分なままで無理矢理話させると、なんだか自分の日常と違うことを口走ってしまうことも多くなります。何とか口走ってその場をしのぐ人と、全く黙ってしまう人の二通りに別れますが、いずれにせよそういう状態ではインタビューが成功しているとは言えません。

単に話をしてもらうだけでなく、ふだんの行動を振り返ったり、いつも思っていることや考えていることに近いイメージを探ったりするような作業の時間を取ることが反応の精度を上げることになりますし、作業の内容によっては、ダレがちなインタビューにメリハリをつけることになります。楽しんで取り組んでいただけるようなワークや考えを刺激する材料の内容を考えることも、プランナーの腕の見せ所ですね。なんとかして人から話をひきだそう、話させようという「搾取の思想」では失敗します。思いや考えを育む栄養分となる時間や材料、工夫が必要だと思います。「舞台の小道具」に手を抜いてはいけません。

まあ、今週はこんなところで。

KASANE ANDON

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家のインテリアって難しいものである。

とくに、あかり、は。

寺内さんの照明「KASANE ANDON」は、奇をてらっているわけではないが、ありそうで、ない。

和風を全面に出しているわけでもないのに、洋風にも媚びていない。

今の生活のありようを無理なく少しだけ背伸びさせてくれる。

 

じっくり、ゆっくり、しっかり、の素敵な寺内さん、応援してます。

 

 

ルイボスティ

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ふと入ったコンビニで、ルイボスティを見つけたので買ってみた。

はじめて知ったのであるが、ルイボスティの「ルイボス」の綴りは、

R-O-O-I-B-O-S、ROOIBOSなのである。

南アフリカ産のこのお茶の名前、現地の言葉で「赤い茂み」という意味らしい。

私が知っている単語の中で、ROOIBOS以外にOが3つもある単語を考えてみたけど、

すぐには思いつかなかった。

Oが多いせいで随分まるい感じがして、

人好きのする字面である。

前回、ルイボスティを飲んだのはいつだったろうか。

味は忘れてしまっていたけれど、

口に含んでみると、何となしにいやみのない甘みがあって、好きな味だった。

 

愛用の老眼鏡

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日曜である。天気もいい。

こういうときは目もよく見える気がするから、めがねをはずす。

顔がぼけてるなあ。

めがね顔になっちゃったのかも。 

ちなみに2年ほど前から老眼を認めた。

「認めた」、というところが大事である。

世の中には、もう、すっかり老眼なのに、

それを認めない人が多い。

「スキャン」のような瞬間画像読み取り処理を得意としていた私は、

ある日、6ポイント以下の半角数字がさっと読み取れないことが続いたので、

さっさと視力検査をしてもらったら、老眼の兆し、と言われ、

「別にそんなに急ぐことはないですが、早く老眼鏡にしておいた方が、進行が遅くなります」とも言われ、

あ、そうなの、と、さっさと老眼鏡を導入したのである。

もともといろいろ顔に塗るのはきらいなので、

眼鏡をアイシャドウがわりにすることにして、

パープルがかったピンクのフレームにした。

フランスのFace A Faceのものである。R0010385.JPG

目の回りにぐちゃぐちゃ塗らなくてもフレームが勝手に自己主張してくれるので、

楽ちんである。

そういえば、髪の白髪も年齢よりも多いので、

あんまり隠さず、

白いところにピンクをちょっと入れてもらったりしている。

年をとることは、容貌が変わることだけど、

その変化を、楽しむと、

楽ちんで楽しくなれる。

「楽に楽しく、ひきだす、ひもとく、くみたてる」、というおよそ、日本人らしくないお気楽なキャッチのある我が社であるが、

だって、こうやって、そうなれるもん、と卑近なレベルで思っているからできるのである。

冬のはぐくみ

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夜が明ける手前、暗く冷え冷えとした空気。

冬は夜明けから近づいてくる。

撒いたとおりの花を咲かすには、

やってくる冬を越えなくては。

じっと土のなかにうずくまっている時間に

きっと大切なものがはぐくまれている。

 

昨晩はそんな時間の重要性を気づかせてくれる方とお会いした。

安易に出ようとせず、急がず、はぐくみを大切にできる力の持ち主。

冬の越し方がうまいんだろうな。

のこぎり演奏 サキタハヂメさん

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考えていることが、どうでもいいことなのか、重要なことなのか、

時折わからなくなることがある(いや、結構多いのかも)。

なぜかを聞かないで欲しいのだけれど、

そんなときは、「のこぎり」が奏でる音楽に限る。

えっ?って、あの「のこぎり」ですよ、もちろん。

のこぎり音楽の奏者サキタハヂメさんのファーストCDは、ほんわか、ほにゃららーとご機嫌。

CDで聞くと、ほにゃららーさが際だって、なごめること確実。

なごみ度満点もいいんだけど、

一度、小劇場でライブを聞いたことがある。

いやー、トリップしました。

のこぎりのかなでる音で劇場の空気が踊っている感じがしたよん。

それも、天女が舞っているせいで、空気が踊っているようだったよん。

読書と手入れ

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昔から、試験以外の目的で、同じ本を二度読んだことはほとんどない。

ところが、自分自身をきちんと手入れしないと、

ガタがきたり具合が悪くなるということが実感されてくる年齢になって、

今までに読んだ本が懐かしくなってきた。

家の本棚から一冊手に取り、ページをぱらぱらとめくってみる。

読んだはずの内容はほとんど覚えていない。

あいかわらずの記憶力の悪さである。

しばらく、

本を買わずに家にある本を読み返して、心動かされた部分を「意識」してみよう。

それも手入れというものなのかもしれない。

この手入れによって、

自分というものをあらたに俯瞰できるかもしれない。

伝耕のロゴを作ってくれたデザイナーさんはグラフィック出身ではなくて、プロダクトデザイン出身。

彼の面白い作品が商品化されている。それが、Cupuc

何気ない白いコップをひっくり返すと、飲料缶の顔が表れる

(下の写真はあんまり鮮明じゃないので、上の商品名をクリックして見てね)。  R0010271.JPG

何気ない白いコップから、何気ない飲料缶への瞬時の移動は、

まさに目からウロコ。

どちらも日常生活にある極めて卑近なものなのに。

そんな「何でもない同士」をくっつけて、

いきなり生まれる大きな違和感を発見する視点が面白い。

その違和感を発見するデザイナーの感性に「はっ」として、

そこに「はっ」としている自分にまた驚く。

  1. 何気ないものを見過ごさないことに、発見があるんだなあ。 

 

 

 

第三話:その2 質的調査あれこれ

インターネットで、ささっと量的調査データが取れるようになりましたね。集計や分析もほぼ自動化されているし、意見や評価を聞くのはお安く簡単になりました。それを思うと、会場でのフォーカスグループや、ワンオンワン、お宅や実際の場所を訪問して観察したり面接したりする質的調査。結構な時間とお金の投資ですよね。でも今、それが無くなるどころが、注目されているのはどうしてでしょう。

①ばらばらのデータではアクションできないからです

たとえば、「この商品を買ったことのない人にはどういうことを訴えればいいのか?」。

それについて、何か調査からサポートするなら、量的データならば、買ったことのある人とない人の間でさまざまな属性評価を聞き、両者の差を見ながらそれを購入意向との相関を検討しながらあたりをつけていくといったことを行うのでしょう。いや、でもその属性ってどんなふうに決めるの?その属性ってどう表現すると、聞かれた人にわかってもらえるの?属性間の相関は量的にわかるとして、もしかしたら、何かの属性だけを語れば、スムーズにいろんな属性がつながったりする便利な方法はないの?(「生薬」と言っておけば、「安全」と「自然」と「身体へのやさしさ」という3つの属性が一緒にくっついてくるといったような→この場合、「生薬」が便利な方法となるマジックワード)。

何かをコミュニケーションしなくてはならない、製品のどこかを変えなくてはならない、ということの「何か」と「どこか」の数をできるだけ少なくして、それを手間無く見つけなければならない、ということがビジネスの要諦ならば、行わなくてはならないのは、「購入に影響する要素がもれなくだぶりなく、要素の表現が適切な状態で優先順位がつけられており、かつ要素間のストーリーがお客様に理解可能な形で組み立て、そしてストーリーの強さを評価し検証すること」が必要です。量的調査で得られるばらばらのデータだけではこれを作るのは難しいでしょうね。あとはすべて、担当者の力量です。ターゲットとなるお客さんの感性の半歩先を行く、すばらしいストーリーを組み立てられる担当者がいらっしゃれば、もちろん、その方におまかせしておきましょう。でも、その感性にずれがないかどうかチェックしました?

②では、質的調査と量的調査のかしこい使い分けは

先ほどの項目でたどれば、質的調査の大切な出番は3カ所。

1)「もれなく」=要素を網羅することは自由記述のレベルが期待できない量的調査ではほとんどムリ。丁寧に行う質的調査向き。

2)「だぶりなく」=得られた要素のさまざまな内容や表現について相関を見ればいいので、量的調査で可能。

3)「要素の表現が適切な状態」=2)の結果を前提として、量的調査では評価や順番はつけられますが、改善案は得られません。お客さんの生の声からヒントや改善案が生まれるので、質的調査向き

4)「優先順位」=要素の表現が適切に表現されている前提で、購入意向との関連をみればいいので量的調査で可能。

5)「要素間のストーリー組み立て」=3)および4)を経ているという前提であっても、量的調査で組み立ては不向き。質的調査でもそのものの解はムリ。ただし、ヒントは得られる。

6)「ストーリーの評価・検証」=量的調査向き。

「もれていること」はプロジェクトの初期段階で押さえておかなくては復活不可能です。「あ、あの要素がないと、このターゲットは動かなかった」ということについて、商品を作ってしまったり、宣伝を作ってしまった後で分かっても意味がありません。このプロジェクトの初期段階でうまく質的調査を使えていない、企業の組織内部で共有されていないこと、非常に多いです。

「お客さんにちょっと話を聞いてみるだけ」と軽く考えられていることが多いせいでしょうか。しかし、最初の時点での「もれなく」に対する感度の高低とパッションは会社の開発力・マーケティング力と相関するな、というのが私の実感です。Cupucみたいに、何気ないカップの底にタブがついているかもしれないこと気づくことが重要なんだと思うのです。しかし、自分がその業界にどっぷりつかっていて、これがわからなくなっている会社さんも多いですね。「えっ、白いカップの生産工程でつく模様じゃないの?何か問題でも?」という感じです。

お客さんにしてみれば、ある商品の名前は、変なイメージの別の商品を想起させるので「えーっ」っていう感じなんだけれど、開発する当事者にとっては、外国で同名の製品が売られていたり、社内用語としてよく使われており、あまりにも当たり前の言葉なのでお客さんがどのようなものと紐づけて連想しているかについて全く気づかない、とか(あっ、ごめんなさいね、わかりにくいですよね。でも例は出せないんです)。

3)「要素の表現」、5)「要素間のストーリーの組み立て」はコンセプトを作るということとほぼ同義ですね。伝える→伝わるが成り立つかどうかに関わる死活問題です。特に、5)「要素間のストーリーの組み立て」についてはその経験のある方や専門職の方に1)から4)までの内容をブリーフした上で、案を作って頂き、そのストーリーについての反応を質的調査で、感情面や機能面、およびそのブリッジを丁寧に掘り下げていくことが必要でしょう。このストーリーの反応も厳しいですよね。機能面一辺倒で、技術的にいいところを並べ立てればコンセプトができる、と思っていた幸せな時代は終わりました。技術スペックが高いことなんて、邪魔で高くつくだけ、と思っている人も多いですから。

6)は量的調査として、すっきりどうぞ。ただし、その判断基準としてデータベースは必要でしょう。

あーまた、長くなってしまいました。このあたりから、来週にします。

ベルリンの壁 崩壊前

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11月9日はベルリンの壁が崩壊して20年だったそうな。

壁が厳然としてあった20数年前、東ヨーロッパを旅行した。

人気のあった西ヨーロッパではなくなぜ東だったのかというと、そのときは西に行くお金がなかったので、仕方なく東にしたのだった。

1ドル札を三つ折りにした束を輪ゴムでくくっておき、困ったらすかさずそれを出してしのいだ東ドイツ。

ハンガリーでは劇場で日本のパスポートを見せたら、みすぼらしい学生なのに、

貴賓席のようなところに座らされてたいそう居心地が悪かった。

ここで手に入れた見事なモーブ色の帽子はブルガリアの空港で盗まれ、

学生の分際で大枚をはたいて買ったヘレンドのアンティークはそれから数年後の阪神大震災でこなごなになった。

そのときに手に入れたものは何一つ残っていないが、あの壁がそこにあった時の空気を知っていることだけが、意味のあることのような気がする。

ふと、もう一度行ってみたい、と思った。

かたちがえ

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自分の道は何だろうな、どんなことに自分は向いているんだろうな、ということを考えるとき、迷いなくその道に進んでいる人を範としやすいものだ。

わかりやすい例でいえば、イチローとか。

「人生をどう生きるか」というテーマでとりあげられやすい。

しかし、

そんなに自分のやりたいことがすっきりわかって、そのまんま突き進める忍耐と努力がすべての人に備わっているものではない、とつぶやいてみたくなるときもある。

ならば、もう一つ、「かたちがえ」ということを知っていると、不本意に思われる日々が素敵にみえるんじゃないかなと思う。

気学・方位学の中には、最初から求めている方向に行くのではなく、まずはいったん別の方向に行ってから、求めている方向に向かうという「かたちがえ」という論理があるそうだ。

私は今、「表現と人の心」ということに関する仕事に携わって幸せだけれど、ここに至るまでにたどった道筋を考えて見ると、決してまっすぐにここに来たわけではない。

だからといって、まっすぐに来たら良かったかというとそうでもない。

曲がりくねったルートをたどった結果、得られたエネルギーも、今ここにひいてきているんだと思う。

女性ならば、結婚して子供を持ったりして、エネルギーがちりじりばらばらに分散して消えていくように思える時もあるだろう。

ここで「かたちがえ」の発想を使う。

今はエネルギー分散のためだけにあるように思えるルートが、のちのちになって実はエネルギーを入手するルートとなる、ということにしておく。

エネルギーを発散し、分散させながら、実は様々なルートを網の目のように開拓しているんだと思えばよい。

「かたちがえ」ルートの大開拓だ。 

そういう意味では、女性の方が男性よりも「かたちがえ」の考え方を基本にモノをとらえると、人生のありように馴染みやすいのではと思う。

四天王寺前夕陽ヶ丘の駅近、おいしいお騒がせワインレストラン?!

Wassy's Dining Soupleの名物ソムリエ藤次氏、ベネシアンドール資格認定試験合格おめでとうございます。

ワインはもちろん、シェリーについても熱く語り、 

勉強熱心、修行熱心な日々が報われましたね。

ここで晴れてお名前をお出しできます。

 

さてお店では、ベネシアンドールの舞台のような、素敵なフロアでベネンシアが宙返り、

泡立つフィノやアマンティリヤードが当たり前の風景。

このさりげなさ、が驚きです。

11月末までは、Soupleのブログを見た方に特別サービスもあるようですよ。 

デキャンティングポアラー

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今日はお昼から古くからの友人が来る。

ワインなんかもお目見え。なので、じゃじゃーん登場デキャンティングポアラー。

デキャンティングいらずの魔法の注ぎ口。

これが我が家に来てから、クリスタルのデキャンタは基本、お払い箱になってしまった。

コルクを抜いた赤ワインにこれをさして注ぐと空気を巻き込むようにグラスに落ちてゆき、

あらあら不思議、赤ワインがぱっと花開きます。

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説明によると、

「デキャンティングポアラーはイタリアの物理学者、G.B.ベンチュリーが産業用に開発したパイプシステムを応用したものです。

ワインが本品中央金属部の2種類の異なる小さな穴より流れる際に、

空気中の酸素を巻き込んで酸化させ、グラスに注いだ時に

まるでデキャンタに移した時のようなまろやかな口当たりになります。」

もちろんパテントもとっている機能満載の優れモノなんだけど、見た目も美しいよね。

 

 

 

これを作っているのが、スカンジナビアデザインをてがけるデンマークの会社menu社。心躍るデザインがいっぱい。

彼らの信念は、

"We focus on creating the practical beautiful. And the beautiful practical."

私はこれにすっかりやられてしまった。

さりげなく高度な機構と、それと拮抗して融合する美しさ。

こういうスタンスを取れば、本当は日本ももっと素晴らしいものをたくさん作れると思うし、それを世界にもっと発信できるんだろう。

デザインと数学の話じゃないが、「美しさ」は理にかなっていると思う。

「美しさ」を女性っぽいもの、感情的だとか、余興だとか「思わない」企業人が日本にたくさん出てきたら、の話だが。

朝食に

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この季節になったら、ちょっと楽しみなのが朝食焼き芋。

大きなさつまいもをアルミホイルでくるんで、オーブンに入れるだけなんだけど、

1時間かけてゆっくり焼いたら、キッチン中にほわーっと広がるあのにおい。

なんだか幸せな気分になる。

娘にはココア、

大人はカフェオレ、

そんなシンプルな組み合わせでも、あつあつ、と踊る指先がうれしい。

 

秋深し

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寒暖の差が激しい日が続く。

そういう日は、身を守ろうとするためか、あらゆる感覚がするどくなって、

いいもの、よくないもの、気持ちいいもの、気持ちよくないものが、よくわかるようになった気がする。

身体の感覚がひろがって、センサーがはり巡らされているのだろうか。

自分でこれと認識できるレベルまで意識がせりあがる前の段階で、

自分よりもかしこい身体が末端とその延長線上にあるセンサーを通じて、自分を守っているのだろうか。

 

第三話:その1 質的調査について-「話を聞くこと」あれこれ

今週から質的調査についてとりあげてみたいと思います。今日は初日なので、まずは質的調査というものの前提について、思うところを重点的に。

①「コレを知りたい」に潜む自分のバイアス

調査の文脈で言うと、「話を聞く」という機会は、インタビューなどの質的調査として考えられるのが普通。質的調査を左右する最大要因のひとつは、調査を依頼する人の想像する力。言い換えれば、自分の問いについて、どれぐらいの回答を想定できるか、ということです。インタビューをプランニングする側は、その想像の幅にチャレンジしながら、フローを作らなくてはなりません。同時に、時間とパワーの配分(そして、当然のことながらコスト)からすると必然的に依頼者は自分のビジネスの関心だけにそって話を聞いていきたいと思うもの。限られた時間の中で、とりあげる「自分の関心だけに偏った問題を取り上げること」と「問題についての正しい絞り込み」は似て非なるものですが、その見極めはとても難しいことです。依頼者の問題意識のウエイトや位置づけは調査対象者のウエイトと問題意識とぴったり重なるとは限りません。むしろ大きく異なっていることも多いので、インタビューの導入時に確認しておかなくてはならないでしょう。非常に基本的なことながら、それがきちんと行われることは残念ながら少ないようです。世の中で売っている自社の製品について知りたいとすれば、自分の担当分野(製品なのか、CMなのか、店頭なのか、サービスなのか等々)が、モノの購入に大きく関わっている、ということにしておきたい思うのが人情でしょう。また、調査をプランニングする方は、担当分野について重点的に知りたいというクライアントのニーズに合わせようとして、その問われている内容についての相対的な重要性を確認すると、それが大して重要ではなかったときにクライアントの依頼を無駄にしたような気になるため、それをせずに済ませたりすることもあるでしょう。「コレを知りたい」という出発点には、そもそもバイアスが潜んでいることを認識した方が良さそうです。

いろいろな仮説を作らずに、本当に心を虚しくして聞ける人がいたら、それは賞賛に値すると思いますが、そんな人は非常に稀です。そもそも「心を虚しくする」ための修行が宗教の大事な要素になるぐらいなのに、お金を得るという目的のためのビジネスという行為について俗世の人間が心を虚しくして対象者の気持ちなど聞けるわけがないのでは、と思います。なので、「心を虚しくはできないが、いろいろな回答が出てきた場合の心の準備として、様々な場合を想定して臨む」、ということが現実的かと思います。一緒にインタビューを聞く方がいらしたら、その方々と事前に仮説を交換してみてはどうでしょうか。それを調査をプランする人間にも共有することができれば、仮説のパターンにあわせた質問の幅も広がり、発見につながる可能性も高まるかと思います。核心的な回答は直球の質問で得られることは非常に少ないものです。もし直球の質問で大発見があったなら、それはあまりにも対象を知らなさすぎた、ということになるでしょう。

②薄っぺらい客観性を捨てる

質的調査というのは対話です。なので、誰が対話をコントロールするかによって、結果が異なることも多いのです。何が正しい、正しくないということではなく、その場では、その対話がなされた、ということが結果です。確かに、科学として客観的に評価されうる再現性、信頼性、妥当性にも事欠いた偶発的なものであることは否めません。

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量的調査ならば、少なくともそんなことはないでしょう。あるパターンに添った質問をあるサンプルにすれば、ある回答パターンが得られると思います。しかし、発見は少ないものです。同じことを量的調査と質的調査で聞いても、自分が意識していないが、実際はしていることについてはどちらもスルーしてしまうことが多いでしょう。しかし、質的調査なら、同じようにスルーしても(=たとえば、ある商品について、「興味がない」といったん答えても)、インタビュアーがたとえば、「今ね、(対象となっている商品の)ここをご覧になって、触っていたけれど、それでも興味なかった?」と聞くと、対象者が「えっーっと、何でだろう。自分では触っていることは意識していなかった。えーっと、そういえば、それはなんとなく、ここのつるつる(ざらざら)が気になって、なんか自分にはぴったりこないな、と思って...。」という風に答えた、というような状況があった時に、ふと問題の端緒が表れ、ひもとけてくることがあります。

インタビュアーが行うプルーブとは、対象者の発した言葉に反応して、新たな言葉を引き出すことだと狭く理解されていることが多いと思われていますが、それは違います。インタビュアーの力量は、対象者となっている人の「言葉」をプルーブするだけでなく、観察された「反応」全体を見たときの「違和感」をプルーブできるかどうかにかかっています。反応は、ことばで表現されるとは限りません。本人も気づかないうちに、からだが反応している場合があります。その意味では、何をプルーブするか、は何を観察して、何をプルーブの糸口にするかにかかっているのです。

そういう手法が客観的なのか?という問いについては、もちろんNOでしょう。むしろ、求められるのは精度の高い主観ではないでしょうか。どこに注目するかはインタビュアー次第ですが、その注目によって出てくるものの中に、発見があることが多いのです。もちろん、それが「発見だ」とわかることは、インタビュアーだけでなく依頼者の仮説レベルと能力にも大きく関わります。①で述べた内容でですね。

「こうすれば発見できる」という確たる手法が確立しているわけではありません。属人的といえば属人的な世界です。質的調査では、客観性にこだわると発見が少なくなります。なので、客観性の前にはいつも精度の高い主観があると考える方がプランニングも意義ある内容になるでしょう。主観的、ということを怖がるが故に最初から客観性に走ることは、質的調査を窮屈なものにします。

さて、今日はこのぐらいで。来週はもう少し具体的な話もできたらな、と思っています。

いつのまにか

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R0010247.JPGいつの「ま」にか、小さなサボテンたちがひとまわり大きくなっており、

金魚すくいでやってきた5匹の泳ぐ水槽が小さく見え、

涼しい、ではなく、寒いと感じた朝に、

いつの「ま」にか、のその「ま」の経過を感じる。

その「ま」に何かが成長したのだ、ことを認めるとき、

その「ま」に横たわっていた平穏無事にはじめて気づく。

根回し

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「根回し」という言葉は伏し目がちに小声でささやかれる。

「関係者への根回しが必要ですね。」

べったり、じめじめと暗い。

 

もともとの「根回し」は樹木の移植から来た言葉だと、今、テレビを見て知った。

で、

栽培で失敗しないコツというサイトを検索すると、「根回し」について以下のような説明がある。

樹木の移植で重要なのが「根回し」と呼ばれる作業です。既存樹木の移植、長く植え溜めにあった庭木の移植に先立つこと半年から1年前におこなわれます。樹木の移植にあたってもっとも基本的な技術です。根回しとは移植のための下準備作業。細根の発生を促し、移植に耐えられる木にする目的でおこなわれます。

テレビに出ていたおじさんが、ぽつりと、「根がよくないといい木にならない。」

下を向いていたので音声だけ耳に入った。

考え方としては、そうだよね、と軽く思って、顔をあげたら、どきっとした。

ことばを発したおじさんは、細心の注意と愛情、無駄のないステップで、根を見極めるために、根をなで、根を切り、残した根を藁でくるんでいる。

ごめんなさい。

新しいところに樹木を移植するときに、どんなふうに根を切って、どんな根を残すか、つまり、いい木になるための根をどう確保するか、というための目的のための一連の作業が「根回し」なのだ。

ああ、そうか。

目的に合致したプロセスを真摯に追求している人だけが、

「プロセスを追いながら最終形について語ることが許される。」

そして、その言葉は、

「重みをもって人に響く。」

根回し、という言葉、

自分が手を下さないテーマについて、もしくは最終形についてコミットのない分野に「根回し」という言葉を使うのはふさわしくないんだろうな、と思った。

最終形についてコミットせず、自分が手を汚さない作業について根回しなんかをやるから、それはいじいじ隠れたようなずるい風情がつきまとう、のかもしれない。

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REINE PEDAUQUE BOURGOGNE

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...CHARDONNAY RESERVE

何がおいしいと言われても、どんな酒が旨いと言われても、あ、そう。

とスルーする、かわいげのない年齢になってしまいました。

とはいうものの、

「ローカロリーのこんな食べ物と、このお酒の組み合わせがいいよ」と言われると、

ついつい惹かれてしまう「ばばあ」なのでした。

標題のレーヌペドックのシャルドネ レゼルバと、

白味噌ベース、今、まさに旬でお安い生秋鮭のちゃんちゃん焼きとの組み合わせはかなりのもの。

こがねがあって、ついついこじゃれたレストランに行ってしまったことが損に思える、

おうちごはんハッピーの組み合わせ。

最後は、母が作ってくれたいちじくのジャムと。

うーん!!!

 

 

 

パターンを見出すこと

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人間の精神はたくさんのモジュールでできていて、モジュールどうしは互いに連絡をとりあっっている。そういうふうに進化したのは、私たちの生きのびる確率がそれで高まるからだ。人間がもっている美を感じる能力と数学をする能力は、このモジュールの活動の副産物ではないだろうか。 最近インターネットで「どんな絵が好きか」というアンケート調査が行われ、いろいろな国から回答が寄せられた。その結果、ひとつの例外-オランダ-を除いて、どの国の回答者もある種の風景画を好むことがわかった。水があり、遠くに丘が見え、動物がいて、木が何本か(多すぎてはいけない)が生えている。イギリスで好まれる動物はウシでケニアではカバだったが、大まかな好みは同じだ。

その後さらに詳しく調べたところ、ほとんどの人がこうした風景をすばやく認識できることが明らかになった。もしそうなら、この能力は生まれながらに組みこまれた反射行動にちがいない。何かが猛スピードで飛んできたらとっさに目を閉じるように、すぐに回路がつながる仕組みがあるのだ。反射行動が進化したのは、正確に反応するより迅速に反応するほうが好ましいからである。では、風景にどんなメリットがあるのだろう。安全だ。先ほど説明したような風景には人類の祖先に必要な要素がすべて備わっている。食糧、水、隠れ場所。木があれば登ることができる。ただし、たくさん生えているのは困る。自分を狙う猛獣が身をひそめているかもしれないからだ。

正しいか間違っているかはさておいて、なかなかよくできた仮説である。... 

                                         「自然界の秘められたデザイン」 イアン・スチュアートより抜粋

 

反射行動が進化したのは、「正確に反応するより迅速に反応するほうが好ましいからである」の一節、なかなか身につまされる。

自分たちの現実に関する与件整理の中から「正確」に物事を抽出し、冷静に行動を判断することは本当に難しい。

なので、「反射的」に「安全な風景」をにおわす、「勝ちパターン」に「迅速」に反応し、そちらに身体が動く。

反射的に勝ちパターンに心惹かれ、ベストプラクティスの指南に金を払う。

そしてその勝ちパターンに内在されているベストプラクティスを実行しようとする。

脅威に満ちた自然への対応の勝ちパターンが、時を経て経済活動での生き残り方の対応に変わっただけのような気もする。

安全な筈の風景画の世界でも、そこにある水が汚染されていたら、自分の体力では木にすばやく登れなかったとしたら、隠れ場所には先客がいたら、等々。

自分にひきよせた時に、さまざまな「If」があるのだが、それを最後までひとつずつ潰していては、すばやく行動できない。

問題を潰している間に身の危険が迫るかもしれない。

とりあえずやりながら考えよう、というスタイル、最もインパクトのありそうな「If」だけ考えて、何かのパターンにのってみる、そして、また、問題があれば次のパターンにのりかえる。

それ自体、生き物としては正しい行動なのかもしれない。

しかし、場当たり的に乗り換えるということを所与として、生き延び得たパターンをもう一段階上のレベルで俯瞰しなくては、本当に生き残れない。

季節の変化で当てはまらなくなった場当たり的パターンも、2年目は同じ四季が繰り返される。

瞬時の行動と結果を長尺で俯瞰して「四季」というパターンを最初に見抜けた人間が、少し遠くの未来を見ることができるのだろう。

常に動きながら、その時・その場に対応しつつ、その前の状況との関連について、安易に意味を与えず、しばし心を虚しくして俯瞰する。

では、俯瞰すること自体何を手がかりにして行い、俯瞰された内容について何を参照して判断するのか。

使い物にならないように見えた「購入した勝ちパターン」?

そうかもしれない。

自分の考え?

自分の考えも、自分の経験以外のいろいろなものでできている。法則、思想、史実、誰かの信念・経験等々かもしれない。

これもまた、完全、不完全なものも含めて、想起されたパターンである。

いずれにせよ、この段階で考慮するパターンが「勝ち」であるかどうかは、その状況によって左右される。あくまでも相対的なものである。

 

日曜の朝に何をつらつらと考えているのだろう。

きっと、「何のために、学び、経験を重ねるのか」という問いについて考えているのかも知れない。

今日時点の答えとしては、「いろいろなパターンを抽出可能な形でストックし、生き延びるため。そしてそれを伝えるため。」と答えておこう。

「いろいろなパターン」とは何によって規定されるのか。

それは「えりごのみ」、つまり「好み」であろう。

私の場合は、「自分が美しいと思えるパターン」が「自分の好み」である。

 

最初に引用した部分の続きの文章(抜粋)。

 

この説から見えてくるのは、私たちの美的感覚がじつに興味深いものだということ。また、ある種のパターンを好むことと、そのパターンを見つけ出す能力が、美的感覚にかかわっているのもわかる。私たちの精神はパターンを見出すことに関しては高度に進化した目をもっている。数学とは、その心の目を利用するために人間が編み出した体系的でなかば意識的な技法といっていい。数学と美が強く結びついていると考えても少しもおかしくはないのだ。

 

自分が何が好きか、ということ、何を美しいか、と思うことと、自分が生き延びるための手段のパターン、たとえば仕事のありようは、私の中では不可分である。

全く両者が関連していない、と断言する人、とは根本的にそりがあわないのかもしれない。

しかし、生き延びるための方策として多様性を確保したい、という私のえり好みパターンにおいては、私にとって必要な人である。