ある日、椅子が変化していた。
連続していたはずのところが離れたという変化。
これを「壊れていた」と表現したとたん、何かそれなりに価値があったものが、その価値を形を変えることによって減らしたことを意味するようになる。
壊れていたとはせずに、変化していた、ということにとどめる。
そこで、いったいどういうわけで、いつ変化したのか?という中立的な問いを立ててみる。
意味を付与せず、状態をありのままに見て、そのありのままの状況に焦点を定めたまま見続けることが重要な時期もある。
目に見えて変化する前に、目に見えないところですでに変化していた。その変化に気づかなかっただけである。
それは変化を認める能力に限界があるからだ。変化を認める能力がなければ、現状をそれ以前の状態と識別することはできない。
ではその能力が無限大にあったとして、どこまで戻れば変化がゼロである起点にたどりつけるのか。
何かをゼロと見なさない限り、つきつめれば変化がゼロである時点はない。
なぜ変化がゼロであることをつきつめたくなるのか。
変化という問いを中立的に置くことさえも厭う自分という存在がある。
変化という中立的な問いよりも、壊れたという認識のみに力点を置き、そこに意味を付着させて共感したい自分の弱さがあるからだ。
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