先月、はじめてシーカヤックを経験して、自分で漕いで洞窟に入ってみた。
その洞窟のある岩の景色が写真に残っていたので、しばし眺めていた。
ひとつき経って、私が覚えている洞窟に入るときの記憶のメインは、
操縦おぼつかない左右の手の筋肉の感覚。
人間の情報処理なんて、自分が危険だ!という信号が出てしまえば、
危険を回避するポイントにしか注意がいかないものなんだろうな。
今、洞窟の写真を見返して全景をみると、こんな形だったのか、と思う。
映像として、私がかすかに記憶しているのは水面から少し上の岩のあたり、
シーカヤックの舳先があたる部分のでっぱり。
私にとっては、この洞窟に関する映像としての情報の記憶は、
ぶつかるかもしれない「舳先があたりそうな近辺のでっぱり形状」でしかないのだ。
記憶に貯蔵された主観的情報と客観的情報
(それは多くは全貌を表現するものであるが)、
両者のずれは、写真等の映像という手段によって、
随分認識されるようになったと思う。
だからといって、普段の人間の生活の客観性が向上した、
とはあまり思えない。
生き物にとって、自分で「みている・みた」主観的な有り様が、
安全と幸せという、これまた主観的な感情と不可分なのだろう。
だとすれば、
ありとあらゆる問題解決のために必要とされる客観性は、それを自分のこととして認識し、体得すること自体、
人間にとってはそもそも、かなりの修行モノなんだろうね。
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