前頭葉でいくら難しいことを考えていても、
結局その情報は、「快・不快」の判断を司る脳幹に送られて、スクリーニングされ、全身に指示系統が廻る、
というような話を昨日聞いた。
結局、「快」と判断されなければ、スルーなわけだ。
一方、言葉はどうして生まれてきたのか、ということを考えてみると、
つがいを求める呼びかけ(快)と、
仲間に危険を知らせる警報(不快)が、
獣の鳴き声を超えて、言の葉になり、
その葉っぱの意味が共有化され、
たくさんの意味を持った葉っぱたちが言葉として蓄積され、
構造化されていったのではないかと勝手に想像してみる。
言の葉は覚えきれないほどあって、
一方で、生き物としての快・不快が、何につけても根本になるのであれば、
快・不快の表現方法なんて、自由自在に操れるかと思いきや、そうでもない。
伝えるという切り口で考えてみると、
快・不快をどう適切に表現するかということについては、
あんがい、よくわからない人が多いんじゃないかしらん、
教えられることも少ないんじゃないかしらん、
などと思いを巡らせてみる。
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