2009年10月アーカイブ

ファッションカテゴリーの再定義

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「ブランド」。

別にヴィトンじゃなくてもかまわない。

顧客の心の中に、ある一定の心象や価値を想起させるもの。

そういう意味では、ユニクロもブランド、H&MやZARAもブランド。

センスも平均点かもしくはそれ以上、流行ものも多く、定番として使えそうなものもある。

売り切りの商品については人とそんなにかぶることはない。

だからといって、

作りが雑なわけでもなく、素材や機能的な面のクオリティも合格である。

そして、なおかつ価格が安い。

これらのブランドはそんなイメージの集合だろうと思う。

ここまで揃っていれば、そんなにも価格が安くはないだろうというのが、これまでの定説だったが、

とにかく価格が手頃で、ときどきびっくりさせられるのである。 

 

生産拠点や素材の調達、商品開発のプロセス、流行の読みやデザインの方向性、在庫の調整や調達、マーケティング、店舗のオペレーション等々

ありとあらゆる部分が最適化されて、この価格が成り立っている。

これはもちろん、苛烈な競争を生き抜くことで存在を示すことがまずは前提となる企業の宿命としては賞賛すべきものである。

「学び」の対象として、「ベストプラクティス」として、分析の対象となる。  

 

さて、いち消費者としては、ここ数年、

単純に「こんなすごいものがこんな価格でできてしまうのか」ということを何度も見せていただいたお陰か、

私はすっかり洋服への興味を失ってしまった。

ふだんの機能性ならユニクロで、ちょっとおしゃれなものなら、今日はZARAへ、H&Mへ。

それで十分ではないかと。

不況がどうの、という問題もあるが、それ以前に、

ファッションというカテゴリーが、わざわざ時間と労力とお金のエネルギーを使って、狩猟する価値のある対象から外れてしまった。

かくして、私の中でカテゴリーに対する再定義、が行われ、

ファッションとは、「その店に行けばあるコモディティ」となり、ヘアケア製品程度の位置づけになった。

これが、私一人の再定義ではなく、インパクトのある人数による再定義になっているとしたら、

その効果は甚大で根本的かつ長期的なものだろう。  

 

先日、11歳の娘が、しまむらで780円のセーターを自分で選んで買ってきて着ていた。

彼女にとってお気に入りの服とは、漫画本2冊よりも安いらしい。

金曜日は、

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私たちの地域では容器包装の日である。

って、もちろん、ゴミの分別回収の話。

一週間に一回でだいたいゴミ袋一杯になる。

きれいとは言わないまでも適当に洗っているので「ごみ」っぽくはなく、なんだかトレーとかパッケージだらけなので

異様に軽く、そしてかさ高い。  

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食事は加工食品はできるだけ食べずに、

素材から作って、と思っているのだが、材料の種類を増やすと、

やたらに容器包装が増える。

なんだか、自分たちだけ健康になろうとして、

環境によくないことをしている感じがする。

 

 

 

さらに、

この異様にかさ高く軽い感じが、都会のマンションで空中に浮かんで地に足の着いていない生活をしている現在と妙にリンクして、

容器包装ゴミ出しの毎週金曜は朝からなんだか「?」で始まってしまう。

椅子の変化

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ある日、椅子が変化していた。

連続していたはずのところが離れたという変化。

これを「壊れていた」と表現したとたん、何かそれなりに価値があったものが、その価値を形を変えることによって減らしたことを意味するようになる。

壊れていたとはせずに、変化していた、ということにとどめる。

そこで、いったいどういうわけで、いつ変化したのか?という中立的な問いを立ててみる。

意味を付与せず、状態をありのままに見て、そのありのままの状況に焦点を定めたまま見続けることが重要な時期もある。

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目に見えて変化する前に、目に見えないところですでに変化していた。その変化に気づかなかっただけである。

それは変化を認める能力に限界があるからだ。変化を認める能力がなければ、現状をそれ以前の状態と識別することはできない。

ではその能力が無限大にあったとして、どこまで戻れば変化がゼロである起点にたどりつけるのか。

何かをゼロと見なさない限り、つきつめれば変化がゼロである時点はない。

なぜ変化がゼロであることをつきつめたくなるのか。

変化という問いを中立的に置くことさえも厭う自分という存在がある。

変化という中立的な問いよりも、壊れたという認識のみに力点を置き、そこに意味を付着させて共感したい自分の弱さがあるからだ。

第二話:その3 購入意向あれこれ 「購入意向率」

「購入(購買)意向率」、自分(たち)の作ったモノ・サービスと引き替えにお金が欲しい人には魅力のある響きですね。それさえ良ければ世界がバラ色に見えるような魅惑の数値。ネットを「購入意向」で検索してみると、ありとあらゆる「購入意向」が出てきます。いわく、①「○○の購入意向は何%」、②「○○の購入意向は△△と比べ倍の高さ」、③「○○の購入意向と売上の関連を見出しました」等々。どれも自分のビジネスに関連するテーマなら、どっきりさせられるのも無理ないことでしょう。購入意向率を含めた内容をプレゼンテーションする機会があると、売ろうとしてるモノやサービスの購入意向の部分しかお聞きにならない方もいらっしゃる。確かに、売れるかどうかなのでそこは肝ですよね。でも、そこだけお聞きになられても、何もわかりません。今日は、購入意向という数字の扱いについて。

①「○○の購入意向は何%」には何の意味もない

購入意向はベンチマークがあってこそ意味があるものです。数字単体では何の意味もありません。同じ調査の競合の数値と比較して、はじめて高いか低いかわかる。なので、異なる調査間で「○○の購入意向は何%、△△の購入意向よりも高い」というためには、対象となった調査が、調査手法・サンプル構成、調査質問が標準化されており、時系列で比べることを前提とした調査なら、異なる調査の結果と比較できる。この場合、調査時期の問題をどうカウントするかということは調査対象によります。季節商品なら、つい二ヶ月前の購入意向でも季節に影響されるので、その要因を排除できない以上、フェアに比べることはできません。異なる調査会社の調査結果は、もちろん比較なんかできません。調査手法・サンプル構成・調査質問が同じであることはないからです。

そもそも購入意向という尺度に決まった問い方はありません。調査主体毎に違うのです。高い購入意向を出そうと思ったら、尺度の項目を少し工夫すればよい。そういう意味で、「購入意向」は質問項目の内容コンセプトであって、「尺度そのもの」ではありません。なのに、「○○の購入意向は80%!!!」という非常に高い数値を叫んでいるものもよく見かけますよね。これはセールス目的。

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よくよく見れば尺度の内容が、

「①買うことを検討するだろう・②たぶん買うことを検討するだろう・

③たぶん買うことを検討しないだろう・④買うことは検討しないだろう」、

ぐらいの非常に緩い内容で、①と②を合計して購入意向率と呼んでいる。

そりゃ数値が高くなります。

たとえば、フィートとセンチならば、名前の違いで異なる尺度であることはわかります。

さらにフィートとセンチならば両者の関係は定義できます。

しかし、購入意向の場合は、異なる購入意向尺でも「購入意向」という同じ呼称になり、

なおかつ、同じ呼称ながらも異なる購入意向率同士の関係は分析してみなければ不明です。はっきり言って非常にアヤシイ世界です。 

で、誰に調査を行ったかというベースを見ると、「この商品のサンプル使用者の中で」なーんていう、そもそも商品に対して好意的な人たちの中での数字だったりします。一般の人じゃなかったのね、そりゃ高い数字が出るでしょう。くれぐれもだまされないようにしましょう。セールス目的の場合は、そういうことがすごーく小さい数字で書いてあり、読むと笑える内容のことが多いです。

②「○○の購入意向は△△と比べ□倍の高さ」の誤解

では、比べられる調査間で二つの数字があったとして、どう比べるのが正しいのでしょうか。基本的には比率の差だけで述べることです。「○○%の差がある」、これだけです。注意しなくては行けないことは、購入意向は、比較して何倍であるかということの統計的処理に耐えるような尺度ではありません。この延長線上で、さらによく見られる誤解としては、そもそも、「□倍の購入意向」ということを考える時点で、□倍売れるというを想定されていること。これはもちろん間違っています。たとえば、商品Aの購入意向が商品Bの購入意向の二倍であるということは、他のすべての条件が同じだとしても売上が倍になるということを約束しません。何かの関数関係が想定されたとき、商品Aの購入意向が商品Bよりも高い可能性はあるが、それは二倍である可能性は限りなく低いでしょう。でも購入意向が高いと、どうしても、割り算して「何倍」って言いたくなる。わかりますが、だからといって何?ってことがわかった上での遊びならばもちろんOKでしょうが、ビジネスの判断材料にはなりません。

③「○○の購入意向と売上の関連を見出しました」は、その提供会社と長期的につきあう価値があるか検討が必要

購入意向そのものを売上と関連させるために、他の要因も含め何らかの関数関係を見出して安定性のあるモデルを作ったとする、それ自体が商品になるので、こういう売り込みがあります。このタイプの商品にもいろいろなものがあります。購入意向だけでなく、売上に関連するさまざまな要因を入れ込んで作ってあるのが売上予測モデルなので、検討すべきポイントは、購入意向と売上の関係だけではなく、その他の要因がどのような考え方で選択され、どのようにデータが集められてどのように信頼性と妥当性が検証されているかということです。売上予測モデルは、簡単に言うと、ビジネスモデルを数値化して関数の形にしたものです。裏を返せば、売上予測モデルの前提になっているビジネスモデルが自社のビジネスモデルと比べて、何が同じで何が違うのかを検討することが重要です。このテーマについては、単なる購入意向を超えることなので、またいつか気が向いたときにカバーすることにしましょう。いずれにせよ、一つの売上予測モデルを決めるとそれにそった調査をすることが必要になるので、その提供会社に長期にコミットすることを前提にしないと価値が得にくくなります。長期な投資ですよね。で、単発だと、その場しのぎの無駄になります。うまく選択すればビジネスに役立つものなので、慎重な選択が重要です。

というわけで、購入意向がらみ3連発。つらつらでしたが、いかがでしたか?

来週のテーマはどうしようかなー。考え中~。

キルギスのはちみつ

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キルギスに行かれた方から、はちみつをいただいた。

アジアマスターである彼は、アジアを旅行しては律儀にお土産を買ってきてくださる。

いつもいつもありがとうございマス。

キルギスが素晴らしいはちみつを産しているという事実以前に、キルギス?ってどこそれ?なにそれ?みたいなクイズ「ヘキサゴン」状態の私である。

ユーラシア大陸の真ん中ちょっと西寄りの位置にあり、

当然、四方八方を他国に囲まれているが故に、さまざまな侵略の歴史がある他民族国家で、イスラム教信者が多いこと。

高度3000メートル以上の高地が国土のかなりの面積を占めること。

日本からの経済援助も多く、親日派も多いこと。

落としたお金の効果と、実際に街に店もあるせいか、「すし」ということばは通じても、

地理的には日本よりもっと近いはずのインドやパキスタンの「カリー」は通じないとか、

いろいろなことを教えて頂いた。ふーん。

 

で、キルギスのはちみつである。 しあわせな黄金色。

PICT2117.JPG

 

ふつう、日本ではちみつと言えば、輸入ものを含め、

ちょっと高級なモノは、何の花のはちみつか、ということで区分けされ、名がつけられている。

アカシア蜜とか、れんげ蜜とか、みかん蜜、トチノキ蜜、菩提樹蜜、ってな具合に。

でも、キルギスのはちみつは、何の花かわからないので、そんな区分けできない。

わかっていることは、キルギスの高地で季節ごとに花開く植物から、

はちさんが集めてきたモノということだけである。

 

 

 

 

よって、現地で売っているキルギスのはちみつは、「高度」と「季節」で区分けされているらしい。

「3000メートル・春」のはちみつ、とかいった具合に。

はちさんが私の行ったことのない高度をかけめぐって、おそらく私が一生見ることもない高山植物たちの蜜を集めた。

それをいただけるのである。

すごくうれしい。

いただいたKさん、深謝でございます。

そして、はちさん、ありがとう。

内陸の高地に位置するが故に、ここに生まれた人は、一生、海を見ることもない人も多いのだろうかと、

自分が海洋国に居ることを思い、キルギスの人々に思いを馳せてみる。

 

 

都会の感触

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つるつる・ざらざら・ぱさぱさ・からから。

都会の感触はこんな感じである。

単調もしくは不快な肌触り。 

そして色は、

白・ベージュ・グレー・茶のくすんだベースに、濁った配色。

音は、

車、金属、人の混雑によって立つ雑音。

変なにおいとほこりっぽさ。

こんな貧弱な環境に置かれ続けたら、たぶん、本能が求める感覚を取り戻そうと、人はいろいろな行為に走りそうだ。

大人は癒しに、子供はゲームに走るのも当然な気がする。

 

滝のしぶき、風で刻々と変わる木漏れ日のゆらぎ、かさかさした葉の下に表れる湿った土、じっと気配を潜めている生き物の気配。

白い花・赤い実・黄色い葉・葉の裏にいる虫、冷たい水。 

 

人間は、自然のなかではそのまま生きられないくせに、自然が人間に与える刺激に対して欲深いのかもしれない。

月曜は都会に住む多くの人にとって、その欲深さを抑圧して、効率化のもとに感覚遮断されたような環境に帰る日。

伝紋ワークショップでの学び

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中津のコンフィデンスカフェで開催中の伝紋wsxExhibition「ようこそ伝紋のあそび場へ。」は今日まで。

ご近所の方、よろしければお運びくださいませ。

伝紋ワークショップの実施から展覧会開催の一連を流れをプロジェクトチームとして主宰したのは2回目。

2回開催するまでの経緯とさまざまなプロセスを考えると、私自身、学びの連続である。

この伝紋ワークショップは基本的に営利追求のプロジェクトではない。

よって事業体のパラダイムを採用していない。

そういうときに、

専門も年齢も立場も経歴もばらばらな人間たちが、一つのコンセプトのもと、経済性の縛りのない内発的な動機に基づいて、

一過性ではない、継続的に行うような実験を構想し、バックアップするとき、いったいどういうスタンスとマネージメントが必要なのか。

今、明確な答えを持っているわけではないが、少しずつ反芻して中身をあぶり出していこうと思う。

整理

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20年ほど前、ずいぶんお世話になった方からはがきが来た。

ほぼ年賀状のやりとりだけになっていたので、あれ?と思って文面を見ると、

体調が悪くなったので、自宅も処分して療養に専念すると。

ついては、今後、諸々の義理は失礼させていただくという内容だった。

 

人生の整理。

どんな思いでそれにふみきられたのだろう。

早く返事を書かなければならないのだけれど、

手元に持ったまま何日も日が過ぎている。

岩.jpg

洞窟の記憶

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先月、はじめてシーカヤックを経験して、自分で漕いで洞窟に入ってみた。

その洞窟のある岩の景色が写真に残っていたので、しばし眺めていた。

ひとつき経って、私が覚えている洞窟に入るときの記憶のメインは、

操縦おぼつかない左右の手の筋肉の感覚。

人間の情報処理なんて、自分が危険だ!という信号が出てしまえば、

危険を回避するポイントにしか注意がいかないものなんだろうな。

今、洞窟の写真を見返して全景をみると、こんな形だったのか、と思う。

映像として、私がかすかに記憶しているのは水面から少し上の岩のあたり、

シーカヤックの舳先があたる部分のでっぱり。

私にとっては、この洞窟に関する映像としての情報の記憶は、

ぶつかるかもしれない「舳先があたりそうな近辺のでっぱり形状」でしかないのだ。

CIMG0043.JPG

記憶に貯蔵された主観的情報と客観的情報

(それは多くは全貌を表現するものであるが)、

両者のずれは、写真等の映像という手段によって、 

随分認識されるようになったと思う。

だからといって、普段の人間の生活の客観性が向上した、

とはあまり思えない。

生き物にとって、自分で「みている・みた」主観的な有り様が、

安全と幸せという、これまた主観的な感情と不可分なのだろう。

 

 

 

 

だとすれば、

ありとあらゆる問題解決のために必要とされる客観性は、それを自分のこととして認識し、体得すること自体、

人間にとってはそもそも、かなりの修行モノなんだろうね。 

金魚とあぶく

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朝5時半。だいたいは、いったんこの時間に起きる。

なにやら水がぴちゃぴちゃしている。

早朝の静寂の中で、生き物の切実な欲求を感じさせる妙な音。

3週間ほど前から家に居る金魚が水面に上がって、餌を催促しているのだ。

近寄るとこんな感じで、餌の催促ボルテージが一気にあがる。

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画面に映っているあぶくは、

催促でぴちゃぴちゃしたために、

できたあぶく。

お腹がすいていると、

明らかに、このあぶくの

数が多くなっているようだ。

 

 

 

 

 

欲求とその表現系の関連を記述することについて、人間を含め興味のある私は、

金魚の大きさと餌の量とあぶくの数の三者関係について、

観察記録をつけて、その関係を関数化したくなってくる。

ということをつらつら考えながら、日課の体操を始める。

第二話 その2:購入意向あれこれ 「調査では買わない理由をしつこく聞くな」・つづき 

買わない理由を聞く調査だけでは、売れる方法を知ることはムリ。

で、でどうする?って話です。方法については、愚直な話になる、というところで先週は終わりました

買わない理由を調査して、わかるような理由は、多くの場合、調査しなくてもわかります。

いや、調査してみないとわからないのではないか、との向きもありますね。

実際に聞いてみたら、

「デザインが目立たないから店頭でわからなかった、使って良くなかった等々」の理由が出てきて、「なるほど」となった。

調査でわかってよかったね。

とんでもない。こんな回答で、あ、そうかと納得できたら大問題。

というのは、こんなことすべて、商品を出す前に確認しておかないとダメなことなので、商品を出す検証の時点で問題があった、ということになります。

もはや、一つの商品やサービスの問題ではなく、それを上市するまでのプロセスが問題になってきます。

もう少し言うと、そういう上市プロセスとプランを良しとした、会社の判断が問われる。

ならば、その判断についてが根源なのね。それ、どうする?ということは、もう、調査で解決できる次元ではありませんよね。

上市してしまってから、そういう状態になる例は残念ながら少なくない、のかもしれませんが。 

昨今、いろいろな会社が異業種に参入したりしています。

現業が盤石で成功を収めていたとすると、その業界での暗黙知の質と量を意識しなくなるんでしょうかね。

で、そのノリで、暗黙知ゼロの他業界に新規参入して急いで商品を出すと、上市までのプロセスがおかしくて売れないものを売ろうとしてしまった、ということも起こったりするんでしょう。    

 

なんで買ってもらえないのか、なんで売れないのかを知ることは、売れる方法を知ることですが、それは商品開発の基本のキに戻ることですよね。

と、なると、当たり前の話ですが、一つの方法としては、よく売れている他の代替可能な商品やサービスがどのような魅力があるのか、それを知って、それを凌ぐプランを愚直に追求するということでしょう。

今日は、売れている商品の整理から導く学び(タイトルに書いてないけど)、がサブテーマになるでしょうか。   

 

下の写真で、真ん中ちょっと右よりにある岩のてっぺんに登ることが目的だとします。  

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で、最初のルートは陸路を考えて、岩の右につながっている崖の上から降りることにした。

でも、右横の崖にはくぼみがあって、

うまくバランスを取ることができず止まったままだった。

ならば、そのくぼみを安全にやりすごす方法を考えることも解決の要件の一つ。

でも、この岩のてっぺんに登るにはいろんなルートがあって、陸路からの別の方法や、

海から行く方法もたくさんあります。

 

 

 

 

買わない方法を聞くということによって得られる情報は、この例で言うと「右横の崖にくぼみがあって、うまくバランスを取ることができないという状況」だけです。

なので、もう一度崖を登って、バランスが取れる状況についての改善を行うというアクションをしてから降りることはできる、と。

しかし、それはこのルートで岩のてっぺんに行くための必要条件にはなりますが、十分条件とは限りません。

つまり、これが改善されたからと言って、売れるとは限らないわけです。

最初の例で言えば、目立つデザインにしたからと言って突然売れるようになるとは限らない。

ただし、このルートを死守したいのなら、この試行錯誤を続けるしかないですね。

作ってしまった商品にこだわる(=ルートを死守する)あまり、成否がわからない試行錯誤を続けることになる。

ま、しかし、それも人間の業というものです。会社は人間たちでできているわけですから。    

 

到達できない(買わない)理由を聞くだけでは、成功できる別の陸路・海路のルートについては何ら情報はもたらされません。

なので、他の成功ルート=よく売れている他の代替可能な商品の魅力がどんなものか、についても知らなくてはなりません。

ただし、それをそのまままねしたところで、すでに成功者は居るわけですから、自分が成功するわけではない、と。

このアクションからの学びは、

①他の成功ルートを追従したとしても、さらによりよい方法で(=お客様にとって価値のある方法=効率的とか楽しくとか、で)で追従しつつ、最後には引き離すやり方を模索する。

②他の成功ルートを知ることによって、別のルートがあるという視野の広がりを得た。この視野の広がりを起点に、他にどういう成功ルートがあるかを幅広い視点で模索する。   

 

→①ならば、他の商品・ザービスの問題点や改善点を調べ、それを解決する。

→②ならば、他にどういう成功ルートがあるか、顧客の顕在・潜在ニーズと、チャネル、商品・サービスの便益の種類や組み合わせ、イメージ等々について、可能性を探り、商品の有り様を再定義する。

いずれにせよ、他のルートで視野を広げることによって、手を加えられた商品・サービスが全体として、その他の商品・サービスに比べ、顧客にとっての魅力が明確に上昇したことが検証されると、買わない理由を克服して、

売れる商品を作ったという解決になるかもしれません。   

 

①も②も、コストも時間もかかることですよね。さらに、今までのやり方のまずさについて思い知ることにもなります。そんなこと、とっても怖いのでできない。怖くても、何らかの方法を選択して取るべきリスクなのですが、そのリスクを取るときに感じる怖さ自体が主観的なリスクになってしまう。

なので、必要十分条件が明確にならなくても、元々の崖ルートで試行錯誤を続けるということが起こります。

結果、①と②をすぐに行うアクションよりも時間がかかり、使ったコストを回収できず、正しいアクションを速やかに取ったときによりも明らかに上回る赤字を垂れ流すことにつながったりします。

「買わない理由を聞け!それを改善したら売れるはずだから、早くなんとかして売れ!」という会社での指令は、

上の太字で書いた多大なストレスが、そのまま会社で言葉になったものです。

おそらく、これで、いい結果が出る確率は低いでしょう。   

 

で、堂々巡りですが、

「買わない理由を聞く」ことにやたらとこだわるということは、

それを指令する人・会社のマーケティング視点の欠如と戦略についてのハラ決めができないことを図らずも露呈してしまっているのかもしれませんね。 

 

あと、一回ぐらい購入意向について書かせていただこうかと思っています。

それではまた来週水曜に。

ベネシアンドール

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ベネシアンドールというシェリーの注ぎ手が、シェリーを入れてくれるお店が家の近くにある。

ベネシアンドールによる入れ方は、元来シェリーの熟成庫で樽の中のシェリーを試飲するときに、

ベネンシアという長いひしゃくを使ってシェリーを取り出し、

グラスに注いで試飲用のサンプルを取り出すという用途のために行われたという情報を知った。

長いひしゃくを使って入れて頂くとき、つーっと流れるシェリーの筋を、

どきどき感と期待を持って眺めるのが楽しい。

最後につっとベネンシアを勢いよく退くと、一滴もこぼれずにシェリーがグラスに収まって、

無事終了となる。 

シェリーの味も絶対良くなる!と信じている私。

いつもシェリーを入れてくれるソムリエは、来週、東京にて、

ベネシアンドール資格認定試験の受験を控えておられるらしく、

その練習台を買って出ましょうというおせっかいで、3種類のシェリーを頼んでしまった。

フィノ、アモンティリヤード、パロコルタド。

「合格祈願」の気持ちを示すにはこれしかない。

がんばれー。 

快・不快と言の葉

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前頭葉でいくら難しいことを考えていても、

結局その情報は、「快・不快」の判断を司る脳幹に送られて、スクリーニングされ、全身に指示系統が廻る、

 

というような話を昨日聞いた。

結局、「快」と判断されなければ、スルーなわけだ。

 

一方、言葉はどうして生まれてきたのか、ということを考えてみると、

つがいを求める呼びかけ(快)と、

仲間に危険を知らせる警報(不快)が、

獣の鳴き声を超えて、言の葉になり、

その葉っぱの意味が共有化され、

たくさんの意味を持った葉っぱたちが言葉として蓄積され、

構造化されていったのではないかと勝手に想像してみる。

 

言の葉は覚えきれないほどあって、

一方で、生き物としての快・不快が、何につけても根本になるのであれば、

快・不快の表現方法なんて、自由自在に操れるかと思いきや、そうでもない。

 

伝えるという切り口で考えてみると、

快・不快をどう適切に表現するかということについては、

あんがい、よくわからない人が多いんじゃないかしらん、

教えられることも少ないんじゃないかしらん、

などと思いを巡らせてみる。

街角:観察遊び①

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アメリカ村に詳しい人にはよく知られていることなのかもしれないけど、

久しぶりに立ち寄って、アメ村から覗く空はどんなんだろう、とふと上を見上げてみたら、

こんな「でかいカマキリ」みたいな人が

電灯の頭をして、看板を持って立っていた(でも看板スペースは売れていないみたい)。

この人、街灯、演(や)ってるんだ。

見回すと、この人以外に、「でかいかまきりみたいな人」は数人いて、

思い思いのポーズで電灯を街灯を演っている。

「アメリカ村の街灯」というキーワードで検索してみると、この人たちの写真を数点見ることができた。

「カマキリ」という名付けも同じだったりして。

それにしても、

ぐちゃぐちゃのビルの看板や錯綜した電線で、この人たちのおかしさが埋もれているのは残念至極だ。

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なにわ伝説「今日だけお得♪~」

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今日は土曜。なので、調査の話はなし。

なので、「今日だけお得」のテーマは水曜アップした「購入意向」の続きではないよん。

なにわ伝説、の話。  

 

昨日、出先で女子トイレがオオ混みだった。まさに悲惨な状態。緊急事態の人もいるだろうに。

一緒にいた娘の図工教室の先生(またこの人が素敵なんです)である九州出身の彼女いわく、

九州から大阪に出てきて間もない頃、 まさに目の前の女子トイレ大行列状態に出くわした。

うんざりしていると、ひとりの大阪のおばちゃんが、

「今日だけお得♪~今日だけお得♪~」と歌いながら、実にさりげなく、

がら空きの男子トイレにすたすたと入っていった。

「すごい!すごすぎる!」と驚嘆したらしい。  

 

「今日だけお得♪~」行動、「ホント、大阪のおばちゃんってねえ」と冷笑する向きもあると思うが、

そんな単純に済ませてはいけない。そんなふうに済ませるから、洞察が浅くなるのだ。

その裏に隠された「客観性」と「合理性」と「機知」に思いを馳せなければ。  

 

で、それぞれをひもといてみると、

客観性」:

大阪でもまだうら若き女性は、さすがに「今日だけお得♪~」なんてことはしない。

自分が十分におばちゃん、ということを認識しており、

だれもおばちゃんに可憐さを期待しておらず、

おばちゃんが含羞をもちあわせてもそれは評価の対象にならない、

という冷酷までな客観性が必要。

(ちなみに、自分がまだかわいいと思っている最近のアラフォーにはこの客観性がゼロである。

私の独断と偏見によると、トーキョーの人にこのパターンが多い。これはとてもイタイ。) 

 

合理性」:

トイレ大行列を緩和するという「集団の利益」と可及的速やかに用を足すという「わたしの利益」を両立させるのなら、

可憐さを期待されず、厚かましいエクイティをもつ「おばちゃんの私」が、

男子トイレを使うのが「利にかなっているという」冷静な判断と覚悟。 

 

機知」:

「通常ならこんなことは致しませんが、今は非常事態でございますので、例外として男子トイレを使わせていただきます」、

ということを一応表明しておかねば、(家事も子育てもまあ普通にこなす)平均レベルの良識を備えた大人であることが疑われる。

ちなみに備えている良識レベルについて高望みはしない。生きにくいからね。

だからといって、この内容を「そのまま宣言して」、トイレに入ってもみんなびっくり。

妙にマジメな空気になって気まずくなるだけ。

例外行動のコンセプトを周囲を楽しませながら伝えることができ、かつ、瞬間で男子トイレの使用許諾を得なくてはならない。

なので、特売に弱いというエクイティのあるおばちゃんキャラをかぶせたエンタメ要素を入れて、

「今日だけお得♪~」と歌いながら入る。  

 

こんなこと、単に厚顔無恥なだけでできるものでない。本当に厚顔無恥なら、何も言わず男子トイレに入っていけばよい。 

 

私は、関西での生活は長いが、必要以上に上品ぶったキャラも多い阪神間で大半を過ごしたためか、そういう場面に遭遇したことはない。

5年前から生まれて始めて大阪市内に住み始めたが、残念なことに目撃できていない。

まさに伝説の「今日だけお得♪~」である。

目撃と言わず、昨日、自分がやってみればよかったものだけれど、残念ながら私はその域に達していない。

「客観性」と「合理性」と「機知」のベースがしっかりしていて、さらにその上に乗っかった「図々しさ(たくましさ、とも言う)」の応用が必要とされるからだ。

残念ながらベースからして中途半端である。 

修行の道は遠い。

インコの「おとちゃん」展覧会に行く

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お家で飼っているインコの「おとちゃん」を撮した村東剛さんの写真展が、

大阪市西区北堀江のお野菜のレストラン「色は」で行われているので、

用事の合間、少し早めのランチがてら行ってきました。

レストラン「色は」さんで開催する展覧会の初の企画です。

「おとちゃん」のロゴが素敵ですね。

 

 

 

さて、「おとちゃん」の写真は、天井の広い、清潔感ある店内に、写真が素敵に映えています。

「色は」さんの通常のシンプルな白い壁も素敵ですが、写真の展示もまた良かったです。

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おとちゃんの写真はとってもかわいいのだけれど、

写真を写真で撮るともちろん、その良さがわかんないですね。

本家、村東さんのサイト「ムラヒグラフ」の中のおとちゃんノートはこちら。

そして、ぜひ、現地「色は」さんへお運びくださいませ

会期は今週10月17日(土)の夕方までです!

野菜の底力を存分に出した、「色は」さんのお食事はもちろん、

今回の写真展用特別メニュー、

「おとちゃん色」のオリジナルプリンはとっても美味。

グリーンは抹茶、オレンジは人参! びっくりの組み合わせでしたが、

とってもかわいいです。いろんなお野菜たっぷりのランチ後デザートでお願いしました。

写真をバックに、お家で作ろうと思ったらちょっと大変な野菜の種類のランチ、

そして新しい趣向のデザートをおいしくいただいて、

「目も身体にも滋養」のランチでした。

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何気ない小径

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平静な日常は何気ない小径のよう。写真は週末撮った小径。

西大寺か秋篠寺のどこかだったろうが、 記憶がもう薄らいでいる。

よく見ると緑のバリエーションは多種多様なのだが、決して主張しない。

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私にとっての一日は、

家事も子育ても伝耕のことも全部仕事とすれば、

それぞれが混ざり合って溶けあって、

一日の最後に振り返ると写真の小径のように、

あまりにもさりげない。

こういう小径が限りなくいとおしくなるときがくるだろう、

という予感はあるのだが。

家から道路を渡ってすぐが四天王寺。 読書の秋、四天王寺の古書市風景。

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古書市を出してるおじさんたちが寄り集まって、商売談義。

いくらええ本でもな、売れへんもんは、ほんまはええ本ちゃうで。こっちがそういうつもりだけでな。」

「そやそや。なんや、売れるすじっちゅうもんがなあるわな、場所やったり、ぃやったりしてな、お客さんがちゃうようになるから。

と話しておりました。思わず「私もよしてーな」と言ってみようかと。ま、でも変なおばちゃんと思われるだけかと思い、ここは断念。

四天王寺の市は、少なくとも300年の歴史があるそうな。

売り手買い手によってずれるモノの評価と、売れ筋、環境や買い手にあわせて商売をすることの難しさについて、きっと昔から変わらん問わず語り。

なんで売れるやろ、なんで売れへんのやろ?

このあたり、調査の文脈では「購入意向」のお話しと関連しますね。 というわけで、 第二話は「購入意向」について。たぶん、一回では終わらないので、その1として。

マクラが長かったので、今週はちょっとした前振り程度?!  ですかね。

****

第二話 その1:購入意向あれこれ 「調査では買わない理由をしつこく聞くな」

調査は売れる理由を知るためよりも、売れない理由を知るためにすることの方が多いですね。

「売れん理由をわからんから、金払って知ろうっちゅねん!」 はい、ごもっとも。プレッシャー満載状態です。 

で、調査対象者となってくださるお客さんにそのまま聞きたくなる。

「どうして○○○をお買いにならなかったのでしょう?」

今日はこのテーマについて。

 

お客さんは大なり小なり、自分の欲を充たすためにお金を出してモノを買ってます(ニーズという言葉よりも、「欲」の方がはまる、と個人的には思います)。

とにかく、人間は欲深いので、モノを買うときもいろんな意味でケチ。

単にたくさんのお金を出す、出さない、という問題のケチ、つまり、その商品がその値段の価値があるかどうかを考えるという意味でのシビアさだけではなく、

モノを買うときに、それ自体が楽しいこととなる場合を除いては、お金だけでなく、頭を使ってモノについて情報処理することもシブることもケチのひとつです。

モノが買われる、ということに至るまでには、①きちんとそれが世の中にあることの「存在」を認知してもらい、②それが自分に何をしてくれる、どんなものであるか「便益と姿」を認識してもらい、③便益と引き替えの価格等々その他のポイントを含めて判断しつつ、代替可能性のある商品と比較検討なんかも適当にやりながら、やっとこさ買ってもらえる、こんな感じで少なくとも3つのステップが存在するでしょう。

なんと大変な情報処理。ああ面倒!とっても買いたいもの以外なら、やらずに済ませたいでしょう、はっきり言って、かなりスキップして、ええ按配で決めしまっているでしょうな、そりゃそうでしょう。

で、買うんじゃなくて、その逆、なぜ買わないか、でしたよね。買うまでには結構な情報処理をある程度がんばってこなしたに違いないから、買わない場合にも、そう決めた筋道があるんだろういうことで、たとえば質問紙調査でそのまま聞けば答えが出てくるのか?と。そうですかね。

あ、そうそう、最近の調査のほとんどを占める留め置き型(ネット調査もこのパターン)の質問紙調査では、調査員による調査のようにプローブ(つっこみ質問)ができません。文章による指示にしたがって、回答欄を埋めてね、という回答者おまかせ形式です。選択質問の回答パターン等、ごく基本的なロジックチェック以外はほとんどフォローされません。

よって、①「書き逃げ(適当なことを書いてよしとする)」、②「○あるいはチェック逃げ(選択肢を適当に選んでよしする)」が回答に混ざりがち。ちなみに、書き逃げ現象は、留め置きタイプの調査の宿命です。そうならないよう、コストをかけていろいろ工夫して、質が仮に向上したとしても証明することができない以上、だれも価値を認めませんから。 かといって、調査員によるプローブを含む量的調査は通常行う手法としては、お金がかかりすぎてほとんどムリでしょう。②は量的調査全体の宿命ですね。

で、そうなると、特に、留め置き法で調査した場合、

なぜ買わないか(=「何でオレ様とつきあわないのか」みたいな、直截的かつ恥知らずな質問→あっ、ちょっと下品でしたかね、でもとっても適切な例です)の回答は、①書き逃げ(の宝庫)になりやすいです。

なぜ買わないか、ということが比較的明確かつ具体的に答えられるのは、買わないことを積極的に選択した場合です。例えば、①その商品の使用を含むテストをして購入意向を聞いた場合と、②ある商品をしげく使っており、最近、それを買わなくなったり、別の商品に変えたばかりの場合ぐらいでしょうか。それ以外は、非常にぼんやりした回答になりますね。

で、出てくる書き逃げタテマエ回答例としては、

「1)今の商品で満足しているから。2)ネダンが高いから。3)店頭でみかけないから、4)何がいいのかよくわからないから。5)なんだか○○○がよくなさそうだから」

ってな内容が書き込まれる感じかしらん。

本音のつぶやきは、たぶん、

1)「今の商品で満足しているから。」

→「アンタの失礼な質問から私は早く逃げたいの。今使っているものが満足かどうか、あんまり深く考えたことないけど、そう答えとく。」

2)「ネダンが高いから」

→「高いって言っとけば納得してくれるから。」「覚えている内容の割には高いんじゃないかと思ったのでそう答えとく。」

3)「店頭でみかけないから」

→「とにかく面倒なんだから、お店でいろんなものをいちいち細かく検討しようという手間をかけてないのよ。お店にあるかもしれないけど、ないことにしとく。」

4)「何がいいのかよくわからないから」

→「なんか、こう、印象が薄かったのよね。もちろん、きちんと考えたり比較検討したわけじゃないけど。」

5)「なんだか○○○がよくなさそうだから」

→「ぱっと見たとき、ここにひっかかったから、これが理由なことにしとく。ちゃんと考えたり比較検討はしなかったけど。」

ま、独断と偏見をお許し頂くと、回答の本音はこんな感じではないかと。

比較的、4)と5)は改善のヒントにはなるでしょう。4)は便益が伝わっていない、5)はコミュニケーションのどこか(成分名等)に問題があったことを示唆するからです。2)の価格の問題は、4)の便益がわかっていない状態で答えているとしたら、そういう回答が出やすくなります。メリットがわからない商品はすべて価値が低く、よって値段が高く思えるものです。3)は、そもそものブランド力の問題、配荷の問題、ディスプレイの問題、パッケージの問題いろんな問題が絡んでいますね。問題の領域は想定できますが、問題の特定はできません。1)はシンプルに検討してもらっていない、ということだけがわかります。

なので、結局、負荷をかけて回答を書いてもらっても、便益が理解されていないかも(よって価値も理解されていないかも)、コミュニケーションに問題があるかも、店頭でのプレゼンスに問題があるかも、そもそものブランド力に問題があるかも、というばっくりした問題領域がわかるだけです。別に、こんな内容なら、マーケティングの要素としてわかっていることですので、個別の問題レベルをきっちり聞いた方がいいですよね。もしかして、同じ調査の他の設問にすべて含まれている内容じゃないですか?

そもそも「買わない」という事象は「買う」、とちがって、「買わない」というきっかけが明確でないのです。「気がついたら候補から外れていた」という按配。ですので、買わない理由を捜すために記憶をさかのぼっても、「候補から外れた瞬間を想起するのは非常に難しい。買うに至った商品の理由がだいたい明確になったとして、その理由の要素について、買わなかった商品がすべて比較検討されているとも限らない

一方、商品を買おうという気が起こったときは、この商品でいいや、と自分自身を納得させるために良い点を選択して認識するという、「納得のための情報処理」があるので、これは他の商品と比較されない場合が多いのです。

つまり、

日常生活で普通に使われている商品(たまにしか買わないモノを除く)について、よっぽどでなければ(なんかこれまでにエライ目にあったとか)、

「この商品が買われていないのは、その他の代替可能性のある商品と比較検討した上で買わないのだ」という思い込みは捨てるべき、ということです。

情報処理という負荷のコストを人間はケチるのです。

買われていない理由は、まともに情報処理してもらっていない! ので、買わない理由なんか、ほとんど何も考えていないんでーす。

お客さんはほとんど何にも考えていないという前提で、売れない理由を探らなくてはならないのです。あー大変。

だから、留め置き型の質問紙調査なんかで、「どうして○○○をお買いにならなかったのでしょうか」と聞いても、書き逃げの嵐に紛れてしまい、売れるようになる理由を引き出すことはできません。

ここまでは量的調査のお話しでしたが、質的調査、たとえばフォーカスグループなんかのインタビューでも、この質問、そのまま聞くと、せっかくお越しのお客様予備軍対象者の方々に思いっきり退かれますよ。だって、そりゃ、「何でオレ様とつきあわないのか」って面と向かって言われているのと同じことですから。きゃー、厚顔無恥だこと。

たとえばあなたが雇っていらっしゃるプロフェッショナルな司会者さんが、先ほど述べた「明確に買わない理由が述べられる二つのケース」以外で、フォーカスグループで、あなたの依頼どおりに、「では、あなたはなぜ、この商品をお買いにならないのですか?」とそのまま聞いてくれたとしたら、

それは純然たるクライアントサービス! です。

じゃあ、どうすんのよ。 

愚直な話になりますね。なので、続きは来週。

伝紋ws:ソーホー?中崎町へどうぞ

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第二回伝紋wsの展覧会舞台は大阪市北区中崎西。

梅田から歩ける距離に昭和の下町大阪風情が残る街。若い力が増殖中。

といっても、私がそういう状況に詳しかったわけではないのです。

私よりほぼ二回り年下(!!)の伝紋wsのメンバーが 、

展覧会の会場に選んでくれた街が「中崎」なのでした。R0010208.JPG

なんと、

「浮田・中崎レトロ街、こいさんマップ」なんてのもあるらしい。

生まれてはじめて見たよん。

この地域、 昔のニューヨーク、ソーホー地区みたいに、

キタという、たかぴーな土地の端っこからはじまる日常との

混沌で生まれた結界エリア。 

廃校になった小学校もあったりして。  

 

 

 

 

夕暮れに歩いてみると、結構いい感じ。カップルがたくさん生息しているのも納得。

 

R0010210.JPG                                                   

この普通の家みたいなところが

美容院なのでした。

ここでカットするのね。

美容師さんも、 お客さんも若い。

伝紋wsの行われているCONFIDENCE CAFEは中崎町の駅から5分ほど。

 

 

 

 

中崎町駅の4番出口を上って出たらこんな景色。R0010215.JPG

一石食堂の看板が見えたら、そのまま顔を右に回して、

善徳寺の脇の辻を右に入ってください。

ずんずんまっすぐ行ったら、上の美容院が見えますから、それを右折。

で、あとは...。ふたつめの(たぶん)辻をまた右、ですが、

すごくわかりにくいので、

中崎西1-10-13と唱えながら番地を追ってください。

番地表示はそこここにありましたので、必ず着きます。

 

 

 

 

やっと見つけたCONFINDENCE CAFEの入り口付近はR0010207.JPGいろんな情報でいっぱい。         

伝紋wsのはがきも

真ん中に掲示されていました。

CONFIDENCE CAFEっていう、 名前。

実は、すごく濃い名前ですよね。

思いの炎が出ています。

その思いの強さも、ここに

きちんと書いてありましたよ。

 

 

 

 

 

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いろいろな情報も

邪険に、じゃなくて、

きっちり、きれいに、

並べられてました。

いろんな人の思いを

大事にしているのですね。

で、伝紋の展示は、ぜひぜひ現地でお楽しみください。

今回の展示はガーリッシュな感じ。こういうのもありかな、と。

展示を考えてくれたエリカちゃん軍団、ありがとう。

10月25日(日)まで展示していますが、水曜と木曜は休みです。お気をつけて。

 

 

 

 

近くには、別にこんな感じのカフェもありますよ。

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これって、いつの日本?って

思わせてくれますが、

平成21年です。

iPhoneを持った男子が、なにげに

店の中に入っていきました。

 

こういう風景のある古くて新しい街を舞台にした伝紋ws。

愉快です。

 

 

 

 

あ、そうそう、CONFIDENCE CAFEの黒ごまプリン、とってもおいしかったです。

写真撮るの忘れました。ごめんなさいね。ぜひ、現地で見て、そして味わってくださいませ。

奈良ピクニック

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昨日の連休二日目は急に思い立って奈良に行った。。四天王寺は奈良へのアクセスもよい。

その割りには行っていなかったと反省し、天気は最高だったので出発。コースは西ノ京に降りて北上することに。R0010152.JPG

まずは、薬師寺。

玄奘三蔵院伽藍で、平山郁夫の壁画の特別公開。

壁画も素晴らしいでぐすが、壁画を展示してある部屋の

ラピスラズリの青で塗り込められた天井画がきれい。

(もちろん撮影禁止。)

写真は、白鳳伽藍の東塔と金堂。

とにかく、人が少ない。連休は京都より奈良です。

 

 

次は、すたすた歩いて、ユネスコ世界遺産の唐招提寺へ。少し奥まった、戒壇のあたり、とにかく厳か。

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ここは鑑真和上お寺、というわけで御廟、いわゆるお墓があるのですが、

そこは今まで見た御廟の中でいちばん素敵なお墓。

子供が描いたお花みたいなレイアウト。感心。

写真撮影は禁止されていたのかどうか不明。

とにかく写真を撮る気持ちにならず。

気持ちが奥底からすっきりしました。

さて平城京。唐招提寺の東を流れる秋篠川を北上することに。

とにかく、誰もいない。気持ちいい風景。道すがらランチ。

サイクリング道らしいのですが、誰もサイクリングなんかしていません。

ただひたすらこの気持ちいい道を北上。途中、私の大好きなどんぐりさんもたくさん。

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人知れず咲いて

いるから、撮ってあげよう。

そんな感じですね。

ずんずん歩いて2キロぐらいでしょうか。

で、着いたよ、平城京。

なーんにもありません。

都だったころは、このあたりに10万人もの人が

住んでいたそうな。 ふーん。

 

 

 

 

                 

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飛行機雲がつーん。 

しばらく昼寝しました。

あんまりののんびりムードに、

写真も緊張感なく、

地平がずれていますが、

ま、どうでもよくなる

緩さでした。

 

 

 

 

 

 

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で、かつての都で鋭気を養った後は、すぐ近くの西大寺まで。

この日は大茶盛会が催されておりました。

通常の拝観は行っていないということで、護摩祈祷ならば、

十一面観音立像を拝することができるという

不思議なご縁で、300円?!で祈祷してもらいました。

この十一面観音の背面にあった室町時代の地蔵菩薩に、

妙に惹きつけられました。

愛染明王も特別開扉していました。小さいけれどすごいシルエットです。

左はなんか、いい雰囲気出してた鐘楼です。 

 

 

 

 

護摩祈祷が効いたのか、また元気になってしまい、秋篠寺まで行ってみようかと。このときすでに3時ごろ。

秋篠寺までの地図は持っていなかったので、だいたいの位置見当で適当に北東に歩き、人に聞きながら、到着。 R0010191.JPG

空気がきれいなのか、手入れが行き届いているのか、

お寺の中の苔が不思議なくらいきれいでした。

秋篠寺で、伎芸天に久しぶりにお会いして、

やっぱり、オーラのある美女だよな、とか思ったり。

ここの愛染明王はすごいよな、とか思ったり。

気がついてみると、足が棒みたいになってましたが、

帰りの電車ではゆっくり座れて、

上本町駅は近鉄百貨店に直結。効率的に買い物をして、帰宅。5時半でした。

人の多いターミナルをまったく通らなかったので、身体は単に長時間(5-6時間)歩いた心地よい疲れ。

家から40分ほどでこんなところに行けちゃうことを今更ながらに発見して、幸せ!

マティスの素描

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マティスが腰に手をあてて、とてつもなく大きなデッサンをしている。

巨匠はこんなふうに描けてしまうものらしい。

パリで1993年から1994年にかけて行われた展覧会のポスター。

額装して家の廊下にかけてある。

その頃、パリに留学していた絵描きの友人からもらった。

彼女の連絡先がわからなくなってしまった、が、今、むしょうに会いたい。

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似合うもの

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病院の待合室で読んでいた雑誌に、ちょうど40代半ば以降になると、どんな洋服を買ったらいいかよくわからなくなる、というようなことが書いてあった。

世の中を見渡してみるとたくさんモノがあふれており、ちょっと好きなものぐらい買えないわけではないけれど、なんだか買いたい気持ちにならない。

考えて見ると、結構これは根深い問題が関連しているのかもしれない。

「ワードローブの格上げをして、当たり前に見えるけれど、自分をきれいに見せてくれる上質なものを選びましょう」なんていう記述がアドバイスとして載っているが、

何せ、お手本が極めて少ないから、そんなアドバイスも宙に浮く。

中途半端に買ってしまうとクローゼットがぱんぱんになるだけ。そういうブレーキを超えて「上質らしきもの」を着てみてもなんだかぱっとしない。

「高いの買わされてだまされた感じ」、こんな苦虫感覚満載のお買い物感だけが残る。これはまずいね。

老いた日本人は本当に洋服なんか似合うのか、自分もきっと似合わない、みんな似合っていないし。

結局、仕方なく着ているだけではないのか、そんな風にも思える。

マーケットが高齢化していくと、求められるコンセプトも変化してくるのはもちろんだが、そのコンセプトに合致したモノのありようや質も根本的に違うモノが求められてきている、と思う。

洋服に限ったことではなく、さまざまな情報の断片をつなぎ合わせてみると、女性についてはあらゆるカテゴリーに共通する傾向のような気がする(男性はよく知らない)。

求められるコンセプトやモノのありようの集積は、つまりはブランドのエクイティ(のれん)のありよう、会社の存在理由、を左右する大きな問題にじわじわと進展していく。

戦略ということばは嫌いだけれど、これを「生き残る確率の高い道筋探索」として考えてみると、大きな会社こそ、対応が遅れる、ということもあるだろう。

 

病院通いはしばらく続きそうなので、その周辺をきょろきょろしていると渡辺橋近辺にこんな緑が。

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    白とグレー、ガラスとコンクリートの街が苦手な私は、

    こういう片隅を街中で見つけると、本当にほっとしてしまう。

    小さくて元気のあった会社がその勢いのお陰でめでたく社屋も大きなビルになった途端、

  ああ、と、 なんだかイヤになってしまう。 私には似合わない環境なわけだ。

    ビルだけでなく、(自分を含む)人まで変えてしまうのだから。

    まあ、そういうことが繰り返しあったな、と思いつつ、

    大きくなることなんか考えもせずに、小さな会社でごちゃごちゃやっている今の私は

    とても幸せなのだろう。

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台風の産物は、

破壊の爪痕、青空の置き土産。

思わず口をあんぐり開けたまま、澄み切った青空にしばし見入った。

いつもは白くかすんだ大阪の空、

暴風警報の風のおかげで、きれいに洗われ、

今まで見たことないほど青いよ。

同じはずのものが違って見えるときの驚き。

「くう」とも読める「空(そら)」であるから、

「くう」とも思えるわたしのしごとは「どんな色の空(そら)」になるのか。

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台風と古伊万里

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大型の台風。昨日のうちに出張をすませておいて良かったと胸をなでおろす。大阪に台風が近づいた昨晩は家族の誕生日。特別な時に使うお皿を水屋から出してきた。江戸後期のもの。阪神大震災で古いお皿のあらかたは壊れてしまったけれど、生き残ったうちの一枚。はじめて大きさを測ってみたら38センチ四方。お皿の左端の模様が切れているのは、組の大皿だったらしき名残。片割れはまだどこかに残っているんだろうか。台風の接近で雨脚が強くなった帰り道、重い買い物袋を下げて帰宅を急ぐ。一夜明けて今朝、大阪市内は雨が残っているが風はそれほどでもなく。しかし暴風警報が発令されているので、娘の学校は休み。地域からは過ぎ去りつつある台風、その名残のような解除前の警報で学校が休みになる。このなんともいえないウキウキ感が懐かしい。 昨日のささやかな宴で使ったお皿を片付ける前にパチリ。

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ブログだけをご覧になっている方からはいったい何の仕事をしているのか、と聞かれるので、たまには一部の仕事の話をしようかと思い、私のキャリアのうちかなりの時間を占める市場調査のことを書いてみようかと。

ただし、市場調査のテキストに書いてあるようなことではなく、私がクライアントの立場にたったとき、サービスを提供するものとしての立場にたったとき、それを使って何らかのアクションを考えるという立場にたったとき等、いろいろなスタンスで思ったこと、考えたことを綴る 、というスタイルで始めてみる。一応、毎週水曜更新予定。

*****

第一話:クライアントとの対話・隠れたテーマについて

何が真実かという問いは厳しいもの。真実っていったい何?というところから入ると迷宮入り。ところが、マーケティングの現場では「このブランドがウケている理由は何がホントのところなの?データは?」みたいな会話がよくあり。調査なんかでホントのところなんかはわかりません。わからないけれど、調査は「それに基づいて判断した方が誤りが少ない・確からしそうなこと」に向かって、数字などの量的データや言語、場合によっては絵なども入る質的データを集めながらアプローチするための方法。調査の教科書を読めばいろいろな方法論があり、各調査会社のサイトを見れば、その会社が「独自」ということにしている各種方法が紹介されてます。ま、テキスト内容や方法はそちらにおまかせするとして、今日は調査がらみの議論でよく出てくるコメントについて。

1)「現状を調査しても、当たり前の結果が出てくるだけでしょ」

2)「その調査結果が正しいとは限らないでしょ」

3)「調査なんかにかけるお金はない」

というようなこと、よく聞きますねえ。

今回はこの3つのコメントに隠れている問題について、がテーマです。

1)「現状を調査しても、当たり前の結果が出てくるだけでしょ」

「はい、多くはその通りです。」とお答えしておきます。お考えの路線でプランすれば、ぱっと見てわかる結果から判断できることは、想定していたことが10だとすれば9はその範囲内でしょう。発見は残りの1より少ないかもしれない。で、次に、

@「当たり前の結果をどう解釈して、そこからどのような解決のためのオプションを考えられましたか。」

当たり前と言い切れるほどわかっているのなら、そこからの解決策(そこにはチャレンジしないというオプションも含め)を考えるステージに進行しているはず。

もし、解決策のオプションが出ていないのなら、問題は「調査」の「あたりまえな結果」によるものではなく、「現状をよく考えていない」ことにあるわけです。

こういう場合、解決策のオプションを作ってから調査にかけてみると、惨憺たる結果だったりします。で、発見は、「あ、こういうことが現状把握に対して必要だとわかっていなかった」となるわけです。問題は現状を切り取る「視点」にあった、と。

現状調査の場合、視点がすべて。

その視点の柔軟性は、現場の人だけが持つことだけでは十分でなく、決裁権やプロジェクトの意志決定権を持つ方の柔軟性が問われている、ということになりますが、視点が柔軟な会社の方は1)のようなことはおっしゃいません。新しいことを考える会社は「現状」を違った視点で見たときの怖さをよくわかっておられるものです。

「はい、多くはその通りです」の次に、上記@の問いは「つきつけ」になり、きつくなりすぎますよね。プライドの高い方からは、出入り禁止にされてしまいます。

まあ穏当には、「現状のとらえ方によって、調査結果はいくらでも変わりますよ、その現状、とはどういう視点でお決めになられたものですか?」

そんな問いから、始めます。

2)「調査結果が正しいとは限らないでしょ」

そうなんです。さまざまな誤差がつきものの調査。抽出法なんていう言葉は死語か?と思うほど。ネットでの調査が広まってから、サンプル誤差の話はよく出てきます。のべつまくなしにやってしまうと、つじつまのあわない結果が出てきて、何が正しいか、調査すればするほどわからない、そんな事象も出てきます。

こういう疑い、重要です。問題は、「正しいと限らない」という起点からどういうアクションを想定するか、です。たとえば、、問題となった調査(サンプル設定、呈示する刺激、質問項目の内容、分析等々)の前提から問う、ならば成果有り。なぜその調査結果が正しいとは思えないのかということについて、さまざまな視点から考察し、マーケットでの再現性の高さを考えつつ別のありようについてのアイデアを作る等々。そんな仕事ばっかりだと楽しいですね。ただ、調査が簡単にできるようになって、調査の基本のキが身についていないので、数はこなしているが、正しさを議論できる方がめっきり減りました。古いやり方の中にあるキホンのキは重要なんですけどね。

実は、このコメントの多くは、コメントする人が期待する結果を調査結果がサポートしなかったときによく出てきます。そんな場合は、「この調査結果が正しかったら大変だから、調査を信じない、よって結果を無視する、以上。」というのがコメントをする方の本音だったりします。逆を言えば、誰よりも調査結果を信じている、とも言えます。なぜなら、「何よりも調査が本当だったときの恐怖」に裏打ちされた合理化ですから。今の商品、開発中のアイデア・製品が否定されると自分自身の信念や存在意義、自分の昇進、○年度の売上計画の根本まで問われてしまうということに耐えられない、という「叫び」がコメントになったものですね。

そういう場合は、どんなに平静を装っていても、「焦りと怒りの叫び」に彩られたコメントをしっかり受け止め、次、どうするか考えます。いや、もうこれは調査の正しさについて言及する問題ではないですね。ビジネスで味わう恐怖にに対する個人のコーチングか、組織としてサポートするプロセスコンサルティングのアプローチが必要です。

3)「調査なんかにかけるお金はない」

本当にお金のない会社は仕方がないのですが、R&Dその他の予算に比して調査関連に割かれる予算が極めて少ない会社はたくさんあります。会社の組織自体、「しらべる」プロセスにお金をかけても評価されない仕組みになっています。経営を司る方々のサクセスストーリーも大いに関係あるでしょう。会社の有り様や、上の方の意図が最もよく表れるコメントです。

ちなみに、テストマーケット、というのもビジネス結果であるとともに、「テスト」ですから調査の一つです。ネットの波及によって、ちょっと売ってみる、というのも随分簡単になりました。テストマーケットの場合、ビジネスの結果=テスト結果が出てくるわけで有効に思えますけれど、「しらべる」というキホンがわからない方はその検証も不十分になりがちでテストの用をなさないことも多い。そりゃそうです。ビジネスの結果の高低に左右されて、冷静かつ客観的な判断ができにくいわけですし、多くの場合、結果しか出てこないですから。そのビジネス結果に至るまでの顧客の動きについての仮説が成熟していなければ、結果は本格的なマーケット参入についての先行指標にしかなりません(もちろん競合がそれに気づいて手を打ってくれば、先行指標という機能さえ崩れますが)。

雲をつかむような顧客の意向と、自らの会社が提供できるもの、その接点を見出すことは、会社の活路を考える上で非常に重要なことですが、なんせ面倒です。一点突破の商品で財をなした会社、追いつけ追い越せで勝ってきた会社、そういう体質の弊害がまだ残っているところもあって、「確からしいことを調べてみる」という基本的なことさえ、まったくその存在価値が認められていない場合も多いのです。

そういう予算はないけれど、「何とかしなくては」とやる気がある会社の方もいらっしゃいます。もちろん、たくさんの予算がなくても、やりくりしてなんとか意味ある形にできる場合もあります。プロジェクトとその後の進め方次第ですが。

*****

こんなテーマで書いて!というリクエストがあればご遠慮なくどうぞ!(もちろん、私の能力とキャリアでリクエストのすべてにおこたえできないこともありますのでご容赦を)。

阿倍野暮らし

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昨日は仕事を終えてからプールで泳いだ。久しぶりだったので、1時間ぐらいかけて50mずつ、休憩しながら1キロ強。水の中に入っていると、いま・ここで・泳いでいる・わたし、しか居なくなる。頭すっきり。泳ぐのは気持ちいいなとしみじみ思ったので、十数年ぶりに習慣化しようかと思案。大阪市内は公営のプールが充実しているのでスポーツクラブなんかに入らなくても十分良い環境で泳げる。阿倍野プールまでの道すがら金融機関での用事を済ませ、プールで泳ぎ、カフェに本の持ち込みができる喜久屋書店で立ち読みをしてから、近鉄百貨店で買い物をして帰宅。新しいもの・古いもの・便利なもの・よくわからない雑多なもの。さまざまなものの混在具合、阿倍野近辺は面白くて暮らしやすい。さて、今は阿倍野を出て空港に向かっている。高速道路で事故があり、伊丹までちょっと時間がかかりそう。

香林堂と逢坂

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ごくごく近所で由緒正しきお香が手に入る環境はやはり寺町の特権。

お香の製造販売をてがける香林堂の白檀香林は慎み深くさわやか。まだ冷たくなっていない秋の風を家の中にいれながら漂わせるのが似合う。

お茶よりも、常温の軟水をちびちびなめながら(お酒みたい!)お香を楽しむと、身体のなかにいい香りが入っていくよう(あくまでも、わたし個人のやりかた)。

筒一把840円の贅沢。

志野流香道を指導されて55年、香林堂の黒田さんは地元の生き字引のよう。昭和30年代頃はお店の前が市電の停留所で、新世界の市場やなんばまで市電で行けたそうな。

新世界につながる道は逢坂という名のとおり、けっこうな勾配のある坂道。お店は坂道を上がりきったところにあるので、市電がなくなってからは帰りの坂道がきつくて新世界の市場から足が遠のいてしまったとのこと。

いい市場なのにね、と寂しそうだが、もう足腰が辛い。

まあ、でも八十路を超えても嗅覚はまったく衰えずお香の種類なら百発百中。

お香と一体化したような素敵な妖気の漂うおばあちゃん。

こういう年齢のこういう女性、魅力あるなあ。

 

 

アンチ・アンチ・エイジング

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 ますます老人だらけになり、老人が多くのお金を握る日本で、アンチ・エイジングは最大のマーケティングチャンスのひとつである。そういえば20年ほど前は、おばちゃんとひとくくりにされて何の違和感もなかった40代もアラフォーなんて呼ばれて格上げされ、そうこうするうち、かわいい、なんて呼ばれてもそれほど違和感がない50代セレブも表れた。その他大勢の人々がそれに追従するように動機づけられるしくみが日々細胞分裂するかのようにできあがっていき、情報や商品に形を変えて社会に出回っていく。そのうち、かわいい60代もどんどん表れてくるだろう。

 で、「動的平衡(福岡伸一)」より以下抜粋。

 全身の細胞が一つの例外もなく、動的な平衡状態にあり、日々、壊され、更新されている。(中略)

 私たちにできることはごく限られている。生命現象がその本来の仕組みを滞りなく発揮できるように、十分なエネルギーと栄養を摂り(秩序を壊しつつ再構築するのに細胞は多大なエネルギーと栄養を必要とする)、サスティナビリティを阻害するような人為的な因子やストレスをできるだけ避けることである。

 かくして私たちは極めてシンプルな箴言(しんげん)に出会うことになる。それは、アンチ・アンチ・エイジングこそが、エイジングと共存する最も賢いあり方だということである。

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 そりゃそうなんだよな、当たり前のことなんだけど。

 若くありたい、美しくありたいと貪り求めるありようが、そうあることから遠ざける。

 貪り求めることは、よく知られているように、煩悩の一つ。

 貪り求め続けることでさらなる貪りの細胞分裂を続け、煩悩を際限なく広げる。その煩悩を「美しく年を重ねる」というようにポジティブなものとラベル付けして購買を刺激する。

 消費財であれば、誰を相手にしようが煩悩がらみのテーマをまるで解決できるかのようにきれいに処理したメッセージを、商品やサービスと不可分であるかのように仕立て見せることが、価値創造のはじまりであり、それこそがマーケティングのキホンのキ、なのかもしれない。 

 

してもらうためにやっているとも言えます。 で、この内容は伝紋のコーナーでも良かったけれど、まあ、今回はお話しとして個人のブログで。

伝紋wsは、基本的にクライアントが「3要素で表される当座な自己概念」を話し、まだ未熟なデザイナーがそれを聞き取って、その内容を伝紋に見立てて作り、作品として展示するというもの。

これまで伝紋wsについてはデザイナー側の視点で書いてきましたが、今日はクライアントに向けての視点で書いてみます。ちょっとエラそーに読めたらすみません。ご批判はお受けします。

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常々、自分探し、なんていうことに「真剣に」時間を使うのはくだらない行為だ、と思っている。

それが大好きな人、ごめんなさいね。

でも生き物としてハッピーに生きられるように「当座の自分を定義しておく」、ということは重要なことだと思う。

この、生き物としてハッピーに生きられるように、当座の自分を定義して、それを世間にさりげなく表明するということを知らない、もしくはその行為をサボっているがために、つらい目にあっている人を見かけたりする。

「あの、一様、私個人としては、こういう感じで生きていきますのでよろしく」、と世間や世間のリクエストに対して、相手にはちゃんと見える、ゆるやかな結界をひくのが難しい人たち。

世間に過適応して精神的に辛くなっている人、半端な数じゃない。周囲にどこまで合わせたらいいかわかんないうちに、結界を超えられて自分だけの領分を侵されてしまっている。 いやだよね、そんなの。

そんな世の中で、カンパレベルの費用3000円で、今の自分が思う、大切なこと、好きなこと、挑戦したいことをデザイナーにお話しして、それをふんふんと聞いているデザイナーがどんな形にしてくれるかに驚く、ということは精神衛生上いいんじゃないかと思う。

単なるおせっかいかもしれないけど。

伝紋は、企業に自分を買ってもらうためのセルフプレゼンテーションのツールとしてあるわけではない。そんなことには役に立たない。

けれど、伝紋wsを通じて、自分と世間との関わりを構築するために「自分はどんな自分ってことにしておくのか」、ということについては、最初のアタリをつけることはできるんじゃないか、と思う。 

だって、自分について「大切なこと、好きなこと、挑戦したいこと」なんていう、どこまでも脳の中の妄想のような出来事を語ったとき、聞き手は内容を解釈するわけだけど、そこで聞き手の頭の中をかちわって、その中身がどう伝わっているか見ることなんかできないもんね。相手がデザイナーだとそれを形にしてもらえる。

この3要素で定義された、当座の自分がどう伝わったか見てみたくない?

ドキドキだよ。 

で、作ってもらった人の評価は当たり前だけど2通り。「気に入った」、「思ってたのと違ってムッとした」。

で、商業ベースでご回答すると、以下の2通り。

「気に入った」→それは何よりでございました。今後ともよろしくお願いいたします。

「思ってたのと違ってムッとした」→それは申し訳ありませんでした。お怒りになりませんように。今後一層精進いたします。

「気に入った」、「思ってたのと違ってた」、この違い、もちろんデザイナーの力量とデザイナーとの相性の影響はオオあり。 それは、個々のデザイナーは痛いほどわかってる。彼ら、若くて未熟でも実力勝負の世界の人たちですから。

伝紋wsでは、クライアントとデザイナーのマッチングは指名性ではない。指名したら「オーダー」になってしまい、「学びの場」を提供するワークショップという本来の趣旨とはずれてしまう(ちなみに、デザイナーをオーダーできる伝紋もあるけど、これはもちろん3000円じゃない)。

で、誤解を恐れず、デザイナーの力量と、デザイナーとの相性を棚上げして、第三者目線で私の本音を言わせてもらえば(下記括弧内赤字)、以下のような感じ。

「気に入った」→「あーよかったですね」 (でも、本人の印象と比べるとちょっとできすぎ!)

「思ってたのと違ってムッとした」→「それはすみませんでした」 (でも、本人の印象とぴったりなところありますよ!)

ってことだったりする。

「思ってたのと違ってムッとした」方、自分の欲しいものと何が違ってたんだろう?

お叱りを受けるのを覚悟でちょっと書かせていただくと、

「大切なこと」「好きなこと」「挑戦したいこと」この3つの内容を語るにあたって、その内容を自分がこうありたいというトーン&マナーを反映して、うまく表現できただろうか? 

もちろん、相手は学生だったり、若手デザイナーだったりするので、ほとんどの場合、クライアントの皆さんより若いし、人生経験はないし、聞き取り方は上手くない。

コミュニケーションするのなら、相手のコミュニケーションの力量も測って語らないと、自分の意に添うものはできない。

これができるかどうかって、実は、ふだんの自分の出し方の巧拙と関連しているはず。せるふぷれぜんてーしょんのレベルってやつですかね。

そういうことをいつも考えていて、自分という発信に慣れている人は、できた伝紋と実像の違いが少ないような気がするんですよね。

 

そんなこんなの気づきも含めて、

「こんな伝紋で表される自分じゃないぜ」とムッとしていただくことが、その日にたまたま出会った相手(デザイナー)の創作活動に対するエールであるとともに、デザイナーに伝わる自己表現のあり方と、自分自身でお気づきでない新たな結界を見つけるヒントになると思っています。

ムッとした方にもそれを活かしていただけるような、相手に伝わる自己表現のあり方や新たな結界の考え方についても、何かイベントを考えますね。

もしよろしければ、またいらしてくださいね。

以上、失礼をお許しください。

時限切りの練習

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右の胸に「良性とされる腫瘍」が3つある。

半年間隔のつもりが、いつの間にか1年、あー行かなきゃと思って結局1年半間隔で、ずぼらな定期検診を受けてまる6年ほどになる。

先週、「良性とされる腫瘍」がない方の左の胸から出血した。

昨年行ってから、1年経った頃合いで大阪「ほたるまち」にある「大阪ブレストクリニック」に行く羽目になった。

9時20分の予約で終了したのは11時20分。2時間仕事だ。

何回やっても、あと5ミリ「はさみこみ締め」られたら胸がつぶれると思わせてくれるマンモグラフィーではあるが、手慣れた感じのお姉さんのおかげで随分助けられた。

お姉さん自ら、撮影ほやほやのマンモグラフィー画像が診察用に十分鮮明であるかどうかチェックするというので、その判断のちょいとのあいだ、カーテンに隔てられた丸椅子でちんまりと待つ。

カーテンがぱらっと開いて、腫瘍の影が数個あるわたしの画像を見たはずの彼女は、「映像が確認できました」とまるで表情を変えずに言ってくれた。

腫瘍の形を見るとき、でこぼこしたシルエットであればアヤシイらしい。彼女はこれまでいくつアヤシイ「でこぼこ」を見てきたのだろう。

そのたびに何度、顔の筋肉を無表情に固めたまま、「映像が確認できました」「次の検査でお呼びするまで、待合室でお待ちください」と伝えてきたのだろう。

なんでかわからんが頭が下がる思いがした。

 

私の右胸の腫瘍はでこぼこはほとんどなく、比較的つるんとしている。なので今回も良性と判断された。前回と変化なし。

一方、出血した左胸の血液の細胞診結果が出るのは来週なので、まあ宙ぶらりんな感じで一週間が過ぎる。

がんであっても存命率は高くなっているし、それほど恐れるものではない。

ただ、仮に残された時間が2年だったら、3年だったら、と考えて見ることは決して無駄じゃない。

生きることは死ぬまでのひまつぶし、というようなことを言っているのはみうらじゅんだったか。

時限を仮定して、その間のひまつぶしをどうするか、ちょっとは真剣に検討してみたりする。

平均寿命まで生きるという想定はうんざり。でもそこに至るまでに死ぬ、としたらいつ?

わからん。

であれば、2年、3年というイメージ可能な時限設定はある意味、ありがたい話である。  

 

さて、堂島のほたるまちは、ここ数年で整備されてきたリバーサイドのビル街である。

大大阪よもう一度、という想いがあるのかどうかは知らんが、洗練と学問のにおいをまとうことを意識したまち。

クリニックのあるビルの一階には、大阪は十三発祥の「ねぎ焼きのやまもと」が入っている。

名物はすじねぎ焼き。

最初に行ったのは今から25年以上も前、すじねぎ焼きという食べ物がまだ珍しく、十三のやまもと本店までわざわざ足を運んだことが懐かしい。

十三の店の前はつぎはぎでこぼこのアスファルト。店の排気口から出た油がしみこんでアスファルトが黒光りしているような通りの状景。

店の壁と鉄板の間は大人二人分ほどの幅。食べている人の後ろに順番を待っている人が立っているからぎゅうぎゅう。鉄板に囲まれたスペースでは太ったお姉ちゃんとやせたお姉ちゃんが休みなくねぎ焼きを焼いていた。

鉄板と人の熱で店内は最高にむんむん。冷房も何もきかん。生ビールでしのぐしかない。 

 

で、ほたるまちにやまもと、てか。

ガラスと樹脂とコンクリートとステンレスのつるんとした無臭の箱の中に、すじねぎ焼き登場。

冷房が効くゆったりした店のなかで、すじねぎ焼きに合わせて、ここは軽めの赤ワイン?

十三まで行くパワーがないもんにはありがたいが、それってどうなのか。

すごい進化なのかもしれない。

が、よくわからん。

あと10年もしたら、周囲がいい感じに薄汚れてきて馴染んでくるのかもしれんけど。

ああいう街っていい感じに薄汚れて活気が保たれている、ということはあるんやろか。 

ちっこいあたまとからだでできること

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借りてきた知識は、一通りの言い方でしか説明できない。

そんなことだから、説明しても相手に刺さらない。

そして、その内容は決して独創だとは思ってもらえない。

ところが、世間は不思議なもので、借りてきた知識でも輸入モノだと言うと真に受ける人も多い。

逆に、輸入モノの知識が鼻につくから、度を過ぎた国内回帰路線を選ぶ人もいる。

借りモノでなく、審査なしの輸入モノでもなく、未来適用不可能な回帰でもないもの。

どこにあるんだろう。

捜さなくても、ほら、自分のちっこいあたまとからだをよくよく使えばできるんだよ。

そんな風に言ってもちっとも嘘に聞こえない人、全然威張らない人、

そんな人にたくさん会いたい。

いや、もうこの年なら、自分で嘘偽りなく言えなきゃいけないんだけど。

そうなんだけど。