違いの認識と変化

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政権交代によって、日本が変わる・変わらないという、評論家風コメントよりも前に、

我らがふだんの生活で、お互いの差異をどの程度肯定的に認識し、適切に扱えるのか、まず考えてみよう。

大人と子供、男と女、高齢者と若者、日本人と外国人の違い。家庭で、近隣で、学校で、職場で。

どの組み合わせの取り扱いも結局、一対一、「個人の違いの認識と個別性への対処」に帰結される。

また、デモグラフィックでは区別できない一見似通った同士でも、内面においても、実は異なる個人同士。

それにどう向き合い、どう対処するのか。 先例と同じことである。

対処のバリアは、お互いの違いを認めると、適応行動の種類が増え、調整の手間がかかることである。

つまり、調整のための、違いを明確化するコミュニケーションが飛躍的に増えてしまう。

そして通常、コミュニケーションなんてものは尽くせるわけがないので、

「軋轢を含んだ調整」というアクションが先行することになる。

「理想的な調整状態」に至るまでは、「軋轢を含んだ調整」をいやがらず、途中で投げ出さずに行うことが求められる。

「軋轢を含んださまざまな調整」、実は、これこそが変化の様相だ。

「軋轢」が未来への鼓動と聞こえるか、悲鳴と聞こえるか、

結局、違いに対処した個々人の経験の深さが問われる。

その個々人の経験の深さが、世間のトレンドとして違いを乗り越え、変化を呼び込む基盤となる。

さて、どうなるのだろうか。

違いの認識すら、避ける傾向のある国民性から問題の根を考えてみようか。

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