2009年9月アーカイブ

妄想し続けても何も整理されない。そんなことはわかっている。 が、

もやっとしたイメージの塊がからだの底から湧いてきて駆け巡り、止まらないときがある。

そんな日には、「びていこつ」に効く音楽を聞く。

もともと、「低音好き」なので、耳に突っ込んで音楽を聴くのは好みじゃない。

凝り性ではないがスピーカー派。 

今は亡きチェロの名手、ジャクリーヌ・デュ・プレのCD17枚組の連打。

R0010040.JPGジャッキーはチェロという媒体で血潮を弾く。

身体の前面にチェロを抱えて奏でる血潮は

びていこつから背骨へと、力強い流れを作る。

妄想が飼い慣らされるようだ。

こんな天才が、

中枢神経を侵す難病、多発性硬化症を発病し、

晩年は話さえできなかったらしい。

ああ、生演奏が聴きたかった。

銀行に用事があり、5枚目終了を区切りとして外に出た。

○△×、○△×、○△×、飼い慣らした妄想とお散歩。

夢見心地で谷町筋を渡ろうとしたらクラクション。

信号はまだ赤だった。

あやうく車にひかれて死ぬところだった。

あたりは寺だらけ。

助けてくれたのはどこのお寺さんかしらん。

勝ち取らない価値

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価値あるものは、「かち(勝ち)」取るものではなく、育むもの・分かちあうもの・消失するかもしれないもの。

そして、自分の等身大を大きく超えないもの。

等身大を大きく超えないことを限界ととるか、リスクヘッジととるか、

それはその人の考え方次第なんだろうけれど。

価値あるものを作ろうとするとき、自分がちょっとずつ大きくなろうとする、

自分自身の等身大がわずかずつでも大きくなることで、

消失するかもしれない危うさをヘッジできる。

そうしてできてきたものは、けっして独りよがりなものでなくて、周囲からもかわいがられて育まれたものだろう。

育みの時点で、周囲とその価値を分かち合っていることになる。

そういう価値あるものをめざそう。

バッキーさんと古漬け

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先週末、「京都 店 特撰-たとえあなたが行かなくとも店の明かりは灯ってる。」を上梓しはったバッキー井上さんのお話を聞く機会がありましてん。

お漬け物やさんということも関係あるんやろけど、古漬けの良さをわかってはる御仁は年を重ねるんも、まあしゃーないけどええもんや、と思えるんやろし、相手にもそう思わせるもんやな。

バッキーさん、どうやって、あのすごい最初のフレーズ考えはるんですか?

聞いてみてんけど、そのお答えよりも、

それに答えてはる風情の醸してる古漬け進行形にやられたな。 「もう、しんどいんですわ」、そやろな、そりゃ。そんだけ酒飲み続けて五十やもんな。

そんな許し、クライアントにしてもろてカネもろたら超一流やねんけどな。

アメリカ風マーケティングの洗礼らしき、なんだかな、を一通り受けて、これをコピペすることが生き残りの条件やろとばかりに、費やした年数、急に惜しくなってしもた。

ほっとけばええ感じに醸してくるキュウリを無理矢理冷凍にしてしもて、取り出してみたらこりゃいかん風に細胞がやられてしまったんちゃうか、と落ち込んでみたり。

塩味もしみてへんのに解凍したらしおしおやん。

これから毎晩酒場に通うわけにはいかへんし、今更キュウリを取り替えるわけにもいかへんし、どないしよう。

週が開けてしもた。月曜やんか。しゃーないな。

青花ミミカキグサと洛中洛外図

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花の大きさも形もミミカキみたいな青白い花。

「青花ミミカキグサ」を娘が買ってきた。例のごとく、「ちっちゃくてカワイイ!」とか言って。

花のサイズは5ミリほど。

花の中心部分はどうなっているのかと、じーっと目を凝らしてみたら、進行している老眼のせいか、焦点がぼやけてくる。

そういえば、狩野永徳の洛中洛外図を一昨年だったか、京都国立博物館の狩野永徳展で見たとき、

その大きさと描写の細かさ、総勢2500人あまりの描かれた登場人物という説明に驚きはしたが、じゃあ、どんな風に描いてあるの?と目を凝らすと、

描き込まれた細かい描写に目の焦点が合わなくて相当悔しかった。

単眼鏡でも持ってきたら良かった、と地団駄をふむ。

永徳の若き時代、23歳頃までに描いたものと知り、さもありなん。裸眼で細かいところまで味わう年齢の旬をすでに私は過ぎていたのである。

娘と一緒に見に行ったのだが、その時9歳だった彼女の目には、見えたらしい。

洛中洛外図の中に描かれた木にはこのミミカキグサほどの葉っぱが、幾重にも描き込まれており、

その葉っぱの中にはさらに、髪の毛より細いかもしれない葉脈が何本も描き込んであったそうな。

そんなことを思いながら、裸眼ではもう焦点の合わない、ミミカキグサの写真を拡大してみたら、あ、この花はこんな感じだったのね、とやっとわかった。

じっくり見ることができる。

ありがとうテクノロジー。

うれしくなって、ブログにアップしてみた。

洛中洛外図に描かれた葉っぱの中の葉脈も見てみたいものである。

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赤秋

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地下鉄トンネル窓ガラスは人間の生気だけをうつす。

細かい皺がうつるわけではないのに、顔のたるみや輪郭のゆがみがそのまま出る。

髪の一本一本が見えるわけでもないのに、髪の健康や分量までみてとれる。

ちょっとごまかしたつもりの年齢も窓ガラススクリーンの上ではバレバレだ。

テレビで俳優の仲代達矢が、「人生の秋を赤く燃えるように生きる」という意味合いで、

「青春」になぞらえた造語として「赤秋」という言い方を紹介していた。

この名優さえ、滑舌は悪くなり、台詞は覚えられず、新作の稽古に苦労しているようすが同時に放映されていた。

これを「赤秋」の姿と呼ぶことには、申し訳ないが、どこか共感できない。

老い方の肯定的すぎる呼称は、表現が素敵であればあるほど実像とはずれて感じて、第三者目線ではただ哀しい。

どこかに「青春」の基準では評価できない、強力な何かが「赤秋」にはあるのだろうか。

「哀しい」姿に目を背けなければ、そこに何かが見えるのだろうか。

ほんとうに「赤秋」にある人を地下鉄窓ガラススクリーンに映してみたら、色はなくとも炎の影が見えるのだろうか。

感情処理速度

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「女性は他者の感情を見るとき、脳内の複数の異なる領域が動員される。人の表情の写真を見せると、女性は左右両脳が活性化され、扁桃体(脳の奥のほうにあるアーモンド形の器官で、情緒を司る)の活動が盛んになる。一方、男性では感情の知覚はたいてい左右どちらかの脳に局所化され、とくに人の声を写真に対応させる必要があるなど作業が複雑になると、右前頭前皮質(皮質は脳の表面を包むひだ状の薄い細胞の層で、学習や分析にかかわる)活動が増す様子がPETスキャンに表れる。これまでの研究で、右脳と左脳をつなぐ神経の束である脳梁は女性のほうが太く、左右の脳の間での情報のやりとりが速いことが明らかになっている。したがって、言語と同様、感情を処理する「ハードウェア」も女性のほうが領域が大きく、男性より効率的な伝達路をもっていると考えられる。このおかげで女性は感情をきわめて迅速に処理できると、研究者らは推測している。」 

Susan Pinker 「The Sexual Paradox:Men,Women,and the Real Gender Gap」より引用

要するに男性は他者の感情を読み取るのは女性よりも苦手で、共感性は低い、というわけだ。

確かに実際の仕事の場面でも、本に書いてあるような、マーケティングに関する様々なフレームを語ることは得意でも、いざお客様の話を聞いて(お客様はロジックではなく感情優先で話す)、その内容を聞いたその場ですぐさま処理して、プランやアイデアに転換することが苦手な人は、経験則だが、「世間的には優秀と言われている」男性に多いような気がする。

共感性については、さまざまな議論があったようで、女性の共感性の高さは社会的な押しつけの結果だとする向きもあるらしい。

ところが今や神経科学や神経内分泌学の分野から共感性に関する新たな情報が蓄積しつつあり、社会的要因の前にある生物的要因として理解できるようになってきた、と。

確かに、「女はすぐ感情的になるから」という侮蔑のコメントを頂戴することは社会的にひとつ「負け」だと認識しがちだった。だからといって鉄面皮を装うのは自然ではない。

「つまりは感情処理が男より速くて効率的ということなのよ」とジャブを入れながら、すばやいアクションプランを出してみるというのが、したたかな方略だろう。

組み合わせ

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秋の山には紅葉のきざしがあった。紅葉をもっと見ようと、近づくとバッタがいた。バッタと紅葉のバックには海が見えた。秋の紅葉と夏のバッタ、この山野の組み合わせの後ろに海。「典型整理」で満足しがちな了見の狭い「頭の抽斗」には背く要素ばかりだ。観察はこざかしい典型を壊してくれる。  写真の真ん中あたりにバッタがいるのだが、枝葉とまざりあって、ほぼわからない。

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普請

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和歌山の宿は昭和の名残。普請がいいのかわるいのか。

のこす・こわすのハラ決め先延ばす中途半端さ。

白黒で撮影してみた。

写真の中に残れば十分なのかも。

そんな部屋から見た夕日は、時代を超えた文句なしの普請。

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Eye Adaba

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シーカヤックの後、湯浅の海岸線を車で走っていたら、平田さんのシーカヤックツアー参加記念に頂いた「私家版CD」の冒頭、Eye Adabaという曲があんまりにもぴったりだったので、しばし自分の存在と時間を忘れた。かたい殻をもった自分自身の境界がとけて、ゆったりした音の海の中にたゆたう海藻になったよう。Asaというナイジェリアの女性ボーカリストがうたっている。ネットでEye Adabaという言葉の意味を調べてみると、ヨルバ語で鳩、らしい。ざっと歌詞も調べてみたが、意味もわからず音だけで聞いているイメージと大差なし。こういうのがすごい音楽なんだろうな。

さて、湯浅は日本の醤油発祥の地。角長に寄って、ちょうど切れていた濁り醤(にごりびしお)を買いに行く。通りにはもろみの匂いが充満。酵母がそこここに生きている、まさに「もやしもん」な世界だった。それがまた、Eye Adabaの音楽と符合。今文章にする段になって、その調和の不思議さにやっと気づいた。素敵な休日。

 

 

誘い

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海を見ていたら、そのまま波の一部になって水平線の向こうに誘われているみたいだった。

Follow me to a land across the shining sea

Waiting beyond the world that we have known

Beyond the world the dream could be

And the joy we have tasted

Follow me along the road that only love can see

Rising above the fun years of the night

Into the light beyond the tears

And all the years we have wasted

Follow me to a distant land this mountain high

Where all the music that we always kept

Inside will fill the sky

Singing  in the silent swerve

A heart is free

While the world goes on turning and turning

Turning  and  falling

Follow me, follow me, follow me, follow me 

少し前に、読み始め途中で、「どっかで読んだはなし」と思って放り出した1Q84を連休が始まって、もう一度読み始めた。

そしたら、なぜか伊藤君子のFollow meが聞こえてきた。

あ、そういえば1Q84は押井守の「イノセンス」にモチーフが似ているからだよね、と気がついた。

彼女のFollow meはイノセンスの主題歌だった。

どちらにしろ、所有に価値を置かず、関係性を保つことで(血を流しながら)、あり得るかもしれない着地点を捜しがちな存在の、とある性のDNA?の有り様にヒーローらしくないヒーローが頼りすぎるのはまったくもってずるすぎる想定、との思いに、しばし、やりきれない感情が押し寄せてきて思考停止。

次の日、和歌山県湯浅にてシーカヤック。

寄せては返す波は、まさにTurning and falling.

Falling の後、またいつか。

感覚

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あやしいとか、信じられないとか、いろいろあるけれど、やってみなければわからない。

背中がずいぶん長い間、固まっている感じが抜けないので、気功に行ってみた。

首筋から「気」を入れてもらった。

頭の中が真っ白になって、電流のようなものがざーっと首筋をあがってきて、脳天まで通じたと思った途端、ほんの瞬間、気を失った。

先生によるとこの間1-2秒だったらしいが、はじめての感覚だった。

背中をほぐしてもらったら、ずいぶんラクになったが、手首から堅くなっているらしい。

もともと手は酷使するものだけれど、細かい筋肉の使いすぎはパソコンも関係あるかもね。

みなさんご自愛あれ。

ものごとの解決にふだんと違うアプローチをしてみるというのも、休みならでは。

Off

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今日からの連休、珍しく、仕事はしないでおこう。

そもそも私ができる未熟な仕事などしなくても、誰かが私のかわりができる。

わたしが仕事と呼んでいるものを全部、薄皮をはがすように取り除いてみると、

あとに何が残るだろう。

きっと、なんにも残らない。

できた、と思う気持ちだけで、わたしが満足の笑みを一瞬浮かべて、

それでわたしのまわりの人がちょっと幸せになる、これだけなんだろう。

それこそが誰のかわりもできないことだ、ということにしておこう。

水都大阪

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大阪市内に移り住んで5年が過ぎた。

水都大阪と聞いて、あ、そうかしら?

水都大阪ホームページを見て、あ、そうなのね、と思う。

大阪の中心部に川でできたカタカナの「ロ」の字があることをご存知ですか?
大阪市の中心部に位置する、堂島川・土佐堀川・木津川・道頓堀川・東横堀川がロの字型の回廊を作っています。このような水の回廊が都心にあるのは、世界的にも珍しいと言われています。

素敵な見立てだけれども、実感がないんだよな。

これが単なる俯瞰目線だけなら、一つの見立て遊びの提供にしかならない。

見立てが装置として機能するには、俯瞰目線だけではなく、同時に個人の中に取り込まれた内側からの視点になっていることが必要だろう。

そういう視点も加味されてイベントも組まれているようだが。

その視点を獲得した人が、さらにその視点から認識された新たな手がかりを元に自発的に行動し、その視点を含んだ内容を外向けに発信するに至るには、ずいぶんと手間暇がかかることだろう。

イベントだけではすまないよね。

 

確かに、今、「都」と呼びたい気持ちはわかるが、現実的には、都の風情は地に落ちているわけだし、水と都の関係も現実感覚としてはあまりない。

前の世代にとっては日本の中で中心的な「都」であったかもしれないが、今は単なる地方都市である。

個人的には別に地方都市でもいいんじゃないかと思っている。

東京だって、世界視点でみれば辺境都市の一つなんじゃないの?

対東京、とかいう意識がまだあるとすれば、そんなの本当にくだらないと思う。

相手にするライバルの大きさによって、自分が規定されるわけだし。

 

「水」と「都」に関するそれぞれのプライドと想いについて、そこに住んでいる人の生活感覚からひもといてみると何が出てくるだろうか。

ヨシモト、タコヤキ、コテコテではない、今ある大阪の「ふつうのひとがもつ」プライドって何だろうかと思う。

夕暮れ

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今日は夕暮れが長い。

いろいろと用事はあるにはあるが、なかったことにしたからである。

残った仕事を気にしながらの夕食の買い物や支度、干した洗濯物の取り入れ、子供のおけいこや塾の手配や同行。

いや、もう、いい。

そんなことは、なかったことにしてみる。

今ここにいる自分だって、なかったことにしてみたら、と考えてみる。

ずっといないと近しい人にとっては哀しいお話しになるが、

ここしばらくは、ここにいないことにしてみても誰も知らない。

仕事がひけたら、酒場に向かわずにいられない男たちは

昼間のにおいをなかったことにしたいのかな。

狩猟に出かけたら、自分がなかったことになった時代もあったのだろう。

いつそれがやってくるのか、自分では選べないリセット。

そんなときに生まれた方がぴったりだったよね、と言ってあげたくなる人もいる。

ぴったりな時代に生まれてくるって、簡単じゃないんだ。

場との関わりをぐちゃぐちゃ書いてある本を読んでそう思った。

わかる

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「わかる」は「わける」と「わかつ」ことによって、複雑な全体をときほぐして理解することを言葉の上でもあらわしている。(外山滋比古)

どんな人間でも、「わかりたい」と言葉の上で表現しながら、いざ、「わける」、「わかつ」段になると、急に否定するような態度を取ってしまう場合がある。

実のところ何かがとても怖くて、わかりたくないというのが本音。それ故の「あがき」が態度として出てしまう。

「わける」、「わかつ」の作業による表出事項は、まずは自分の行動についての根本的な変革を指令する内容に違いない。

変革は成功を保証しないから危険である。

そういう危険を察知しているから、「わかりたい」と表現しつつ、作業自体を否定する。

変革を望む姿勢を見せながら、自らで変革の目を摘むという自作自演を繰り返して、今一瞬の安泰をひきのばしたい。

誰もがもつ弱さである。

 

 

 

仙太郎六方焼

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ふだんのおやつなら六方焼が好き。ほうじ茶・紅茶・ウーロン茶・コーヒー、ホットミルク、なんでも合ってしまうのが六方焼のふところの深さ。先ほど空港バスで阿倍野に着き、そのまま近鉄百貨店で夕食の買い物。ただでさえ重い出張帰りの荷物に夕食の食材が腕に食い込む。ふと正面に仙太郎。六方焼がお行儀よく並んでいる。なんだか救われたような気分。迷わず買って帰宅。ダージリンと一緒にいただいてほっこり。

しっとりほどける口当たり、やさしい甘さの素朴な味、小さいけれど満足感のある六方焼。六方焼きクン、人間ならば、いつもそばにいてほしくなるような人柄なんだと思う。

ふと興味を持って調べてみると、仙太郎の丹波神(吉)工場ではおねがいしておくと、熱々できたての六方焼をいただけるそうな。

秋の深まる丹波に行ってみたくなった。

広がりと深まり

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会社をはじめてみると、新しい出会いがいろいろとある。

初めてお会いする方が、こんな小さな会社のささやかな想いに耳を傾けてくださる。大層ありがたい。

出会い、って大事だな。

縁がしみじみと広がっていく。

昔からの知り合いであっても、「こんなこと考えて、はじめてみたの」と話してみると、またこれまでとは違ったスタンスでおつきあいできたりする。

まずは自分が変わる、って大事だな。

関係がだんだんと深まっていく。

なにげに日々を過ごしていたけれど、ふと気づくと、

会社をはじめてから、人様とのおつきあいに、「広がりと深まり」が生まれてきた。

何を置いても、これはすばらしいことだと思う。

 

 

海からの贈物

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昨日夕方は商工会議所に行ったのでスーツにヒール。作業もしたのでパソコンの入った鞄に明日の出張準備の紙袋。用事が終わると夕方6時。夕食の買い物。スーパーに寄り、2割引きの刺身、あさり、一個100円の桃太郎トマト3個を真剣に選り、特売のオクラ、きゅうり、おつとめ品のブドウの品定めをし、朝食用のチーズを買い、さらにおやつを買って、かごが一杯になる。レジを済まして、袋に入れる段になって後悔する。大きさで選ったトマト3個とブドウのせいで結構重いし、2割引きだの、おつとめ品だの、とでかでか書かれた品物を中身が透けるレジ袋に入れて、スーツ、ハイヒール、パソコンケースとともに電車に乗るのはあまりにも不似合いか、と。「海からの贈り物」を書いたリンドバーク婦人は自分自身の生活を確か「牡蠣」になぞられえていた。さまざまな役割と雑事で、自分では望まないのに、ごてごてと不格好になってしまった牡蠣の殻が仕事を家庭を持つ女の生活のようだ、と。パソコンケースを持って、明日出張の用意の入った紙の袋と、特売品だらけの思いスーパーの袋を下げた私は、まさに都会の中の牡蠣。地下鉄の大波に流されないように、鞄と紙袋を足の間に挟み、スーパーの袋がかさばらないように身体と一体化させている様は、荒波の中、岩にしがみつく牡蠣のよう。こんなときは、谷町4丁目あたりで電車に乗ってくる、「定時退社の罪悪感を消すために、定時を1時間ほど超えて、用意万端出てきたお気楽サラリーマン」と妄想したくなる「ほとんど手ぶらのふぬけた表情のサラリーマンらしき人々」を見つけると、妙に憎々しくなある。私って、なんて嫌なやつ。ああ、でも娘が小さかった時、このぐらいの荷物に家のストックが切れて仕方なく買った紙おむつがさらに加わるという悲惨な日もあったが、それがないだけマシか。つまり、こういう日はちょっと疲れているということだ。お風呂にアロマオイルでも入れてゆっくり入ろう。明日も東京。

岡本太郎の「生きる」

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 生きる-それは本来、無目的で、非合理だ。科学主義者には反論されるだろうが、生命力というものは盲目的な爆発であり、人間存在のほとんどといってよい巨大な部分は非合理である。われわれはこの世に何故生まれて来て、生き続けるのか、それ自体を知らない。存在自体、肉体も精神も強烈な混沌である。そしてわれわれの世界、環境もまた無限の迷路だ。

 だからこそ生きがいがあり、情熱がわく。人類はその、ほとんど盲目的な情感に賭けて、ここまで生きぬいてきたのだと思う。

 ところが、科学主義・合理主義は割り切れたものだけしか問題にしない。そのシステムによって動く現代社会、産業、経済機構のなかで、すべては合理的に、また目的化される。「生きる」ということの非合理、猛烈な情感は顧みられない。ほとんどの現代人は己の存在のなかの芸術家を圧殺している。だから人々は疎外され、知らず知らずのうちに絶望しているのだ。絶望しているということさえ知らないほど、深く、空しく。

(「自分の中に毒を持て」岡本太郎より抜粋)

 自分の存在に関わる欲求は非合理。自分の中の非合理性欲求を充たす手段として、「合理性のセット」を提供して売り、対価を得るのが「知的労働」と呼ばれるものの本性だ、ということを忘れると傲慢になり果てる、と思う。

昨日から東京。朝からクライアントさんのところで一日ワークショップ。その後、さっくり飲みながら振り返りをして、浅草の居酒屋浩司へ。退院されたM氏を拝見し、ほっと一息。

吉田のブログ、今度おじゃまする時は、こんな感じで!に掲載した、「超絶」ひとふでんず「居酒屋浩司の二人」を退院のお祝いにさしあげることができた。ひとふでがきだよーとお話ししたら、周囲の人々もびっくりでした。

さて、今日は帰阪して午後から伝紋ws=伝紋ワークショップ(DMはこちら)。

日本人を素敵に発信しよう!という思いで始めたワークショップも、今年の春に第一回実施して展覧会を開催し、今回は2回目。先週の日曜と今日に分けて伝紋づくりのワークショップを行い、今回もできあがった伝紋の展覧会を開催する。

じんわり深~く楽しいのが伝紋作りの過程。かつて、職人が街にあふれていて、顔の見える作り手が当たり前だったころは、こんな風にお客さんの意向を聞きながらいろんなものをこさえたんだろうな。伝紋の作り手であるデザイナーの卵さんと、作ってもらう人のやりとりを側で見ているだけでうれしくなります。 (伝紋はなぜ生まれた?はこちらからどうぞ)。

伝紋の展覧会に向けての準備も着々と進んでいるよう。単に伝紋をつくるだけでなく、伝紋のDM作成や展示方法なども手がける伝紋プロジェクトチームのあゆみも少しずつブログにアップしていきますね。

この伝紋ワークショップ、志を同じくする方々や団体とコラボできたらな、と思い始め、お会いする方に少しずつお話ししています。

お話しすると、興味を持っていただける方が多いのがうれしいですね。

では、今から帰阪して、伝紋ワークショップ開催しまーす。

伝耕メンバーの名刺、裏の英語表記面のロゴは、ちょっとだけ、「ばらん、ばらん」になっている。

西道・西野・吉田のキャラが違うから、ロゴも違う。

だから、「ばらん、ばらん」もべつべつ。 

こんな感じ↓

誰がどの「ばらん、ばらん」かは内緒。

ご縁があった方には名刺をお渡しできるのですし。

ばらんばらん.jpg

「伝え、伝わる」ように「耕されて」いるから、ちょっとだけ、「ばらん、ばらん」。

われわれと一緒にいると、「ひきだし、ひもとかれる」から、いったん「ばらん、ばらん」。

けれど、ちゃんと素敵に、元よりきれいに「くみたてられて」、戻れるのでご心配なく。 

 

ロゴがほんとに「ばらん、ばらん」になっちゃったねー、と女三人で喜んでいたら、インテルのTVコマーシャルに、分解くんが登場。

お家の中のものを「ばらん、ばらん」にしちゃう分解くん、そこに、ゆるく、ごきげんにかぶさるBGM「ばらん、ばらん♪」。

なので、最近は「ばらん、ばらん♪」というのが私の中での伝耕BGMになっている。

ちなみに、名刺の表の日本語表記面は、もちろん、各人きちんとした「伝耕」ロゴ。

実は、3人のロゴはどれも、会社全体のロゴとは違う。

伝耕サイトのトップページに掲載されているのは、ロゴの原型。 なので、どの名刺にも載っていない。 

 

デザイナーは伝版を作ってくれたナカタニくんです。

はじめて名刺を手にとってくださる方は、表裏を見返しながら、興味を持って見てくださる。

激務をぬって制作してくれたナカタニくん、ほんとにありがとう。 

おじさんの媚び

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わたしが社会に出たとき、

お茶くみとセクハラの一通りは通過儀礼だった。

通過出来ない者は、「女性の人間」として素養がないとみなされた。

あ、そう。

ま、いいか、と思って欠点ぎりぎりで通過した。

ムリしてあわせて、「優」取るために、媚びる必要なし。

どうせ、この人たち、20年したら7割は私の周りからいなくなってるし。

そうおもって、すごしてきた。

ら、

本当にそうなった。

むしろ、消失率は想定したより高かった。

そう、パレートの法則のように。

「俺らも、年取ったし、な。」

いまさら、同意という名で媚びを売られてもね。

私は計算しただけで、媚びた覚えはない。

***

 

伝紋ワークショップ、この週末も!

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伝紋ワークショップ

9月6日に引き続き、この週末の13日も大阪の玉造、「結」にて開催します。

とっても楽しく、なごやか、でも、どきどき、そしてすごーく勉強になります。

で、伝紋使用者n1(わたし)の感想。

「現在の自分を伝えるマーク」って、使ってみると、さりげなく「ウレシイ」ですよ。

もちろん、考案者が言っているので手前味噌かもしれないけれど。

自分のノートパソコンに、「私の伝紋」シールを貼っています。

晴れ舞台は飛行場の荷物検査の時。

係の人に必ず「じーっ」と見られます。

「これ何?」って感じで。興味津々目線です。

昨日の日帰り出張でも行き帰り、そんな感じでした。

パソコンって、間違えられたら、嫌だし。

自分の考えが入った分身みたいだし。

テクノロジーガジェットにはあんまり興味はないですが、

パソコンやネットがあるから、子持ち主婦が仕事できるわけなので、

大事にしなきゃね。

なので伝紋シール。

この年になると、自分をじーっと見られるよりも、伝紋をじーっと見られた方が、

気恥ずかしくなくていいです。

自分をじーっと、見られても、

「えっ?顔になんかついてる?」とか、

「変な顔してる?」とか、思ってしまうようになりました。

まあ、自分を見られて自惚れる年齢は終わっているのですね。

でも伝紋なら素直にウレシイです。

みなさんに、お見せしたい気半分、内緒にしたい気半分。

今回は内緒にしておきます。

興福寺阿修羅像塑像原型

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阿修羅像のX線CTスキャン調査でまた興味深いことがわかったらしい。

脱乾漆技法によって空洞化された内部のスキャン情報を3次元処理して原型の姿が復元された。

テクノロジーというものはすごいものだ、と素直に感動する。

その復元された写真が新聞に掲載されており、なるほど、と思った。

戦いに集中した表情である。

愁いのある表情として人気のある現在の阿修羅像は、戦いの対象が眼中にありながら、そこを突き抜けたはるか向こうに視線があるようなのでとこか哲学的な表情に見える。

一方、原型の表情は、戦いの対象に鋭い視線が集中し、神経はこの瞬間、戦いの対象だけに向いているように見える。

それを見る人は戦いの姿の本質を先鋭化したものととらえ、自分が戦う姿を少しばかり美化した鏡像として受け取る人もいるだろう。

ようするに、見たいようで見たくない代物である。

実際の阿修羅像は、あなたは戦いながら何を見ているのか、と問いたくなる表現になっている。

それを見る人の心の動きを想定し、計算したような周到な創造。

どういう経緯で、だれがこの着想を得たのか、好奇心がまたかき立てられる。 

ここまで書いたところで、大阪あべの発空港バスは伊丹に着いた。

バスの窓ごしに空を見上げると見事な鰯雲。大阪の空にしては青空の色が濃く、コントラストが心地よい。

空港バス降り場の植木の存在感が際だった。

秋の風が、植木をたおやかに揺らしたからである。

空港のラウンジから見える雲は鰯雲だけでなく、変化に富んでいて楽しい。 

いまからさっくり東京に行って、夜には戻る。

では。

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朝晩が涼しくなってきた。秋刀魚は脂がのってきた。松茸をはじめ、ちょっと珍しいきのこや栗が店頭を賑わせている。朝晩、昨日とは違う冷たい風が吹き抜けるのを感じるとき、サンダルに足をいれるのに違和感を覚えるとき、氷がすばらしく素敵なものに見えなくなったとき、網戸に耳を寄せると虫の声が聞こえるとき、季節の変化をしみじみと感じる。風流ばかり、というわけでもなく、体調の変化もおきやすい時期だから、季節の食材とちゃんと向き合った夕食で、家族の顔をみながら食事をすることは、家族の健康管理をする人間にとってはいいチャンスだ。季節の変わり目は、賢く、楽しくがキーワード。

 

 

譲れないもの

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セミナーでお会いしたKさんと、「やっぱり、この年になると譲れないものがあるよね。」と話していた。

「譲れないもの」、まあ、信念みたいなものだろうか。

かたや、柔軟性も大切にしなくては、どんどんがちがちになるばかり。

がちがちのまんま伝えても

耳を貸してくれる人は少ない。

それはそれでいい、と思えるテーマもあるにはあるが。

少しは広まって欲しいというテーマならば、柔軟なとらえ方をあらかじめ考慮しておこう。

「譲れないもの」をしっかり伝えたうえで、その表現系をどの程度、柔軟にとらえられるか、

そのとらえ方を検討した結果として、魅力的な表現系のオプションをどのぐらい用意できるか。

魅力的な表現系のオプションができたら、

もう一度「譲れないもの」に照らし合わせて、

確かにそれが表現されており、曲解される可能性が著しく低いか、

そんなことを確認する作業が必要になってくる。

この作業、「コンセプト」の考え方・伝え方と同じなんだけれど。 

「譲れないもの」が多い世代が人口の大半を占める社会、

ことさらに柔軟性を意識して鍛えておかないと、

社会全体がつまらなくなるよね。

レジリエンス二回目

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昨日は、DVの被害にあっている方のサポートやそれに関する相談・啓蒙教育活動を行っているNPO法人レジリエンス主催のセミナー、先月に引き続き、第二回に行ってきた。

その中で出た話。

日本では平成20年まで連続7年、年間約3万2千人の人が自殺をしている。

平均すると、毎日90人弱の人が、この世から去っていることになる。

ほとんどメディアで紹介されないが、それほどの数らしい。

日本は自殺大国なのである。  先進国の中では自殺率が最も高い。

仮に、インフルエンザで毎日90人弱の人が亡くなると、きっと日本はパニックになる。

同じ数の人が世を去っても、

自殺は個人のせい、インフルエンザは国のせい、なのか、と。

ちなみに、自殺者のトップは、辞職者、続いて非雇用者、年代と性別では50代の男性が最も多い。 

そういえば、ちょっと前、インフルエンザの水際作戦とかなんとか、飛行機で行った厳戒態勢。

「隣国と地続きで国境を接している外国の目」からするとちゃんちゃらおかしい。

ほとんど喜劇。

そういえば、こんなのもあった。

「関西方面から来られたお客様は、手を消毒してからお入りください」

企業の受付。

「関西と菌」というのは組み合わせが良いのか、

ま、たしかに「笑いの菌」を振りまいてはいるが。

違いの認識と変化

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政権交代によって、日本が変わる・変わらないという、評論家風コメントよりも前に、

我らがふだんの生活で、お互いの差異をどの程度肯定的に認識し、適切に扱えるのか、まず考えてみよう。

大人と子供、男と女、高齢者と若者、日本人と外国人の違い。家庭で、近隣で、学校で、職場で。

どの組み合わせの取り扱いも結局、一対一、「個人の違いの認識と個別性への対処」に帰結される。

また、デモグラフィックでは区別できない一見似通った同士でも、内面においても、実は異なる個人同士。

それにどう向き合い、どう対処するのか。 先例と同じことである。

対処のバリアは、お互いの違いを認めると、適応行動の種類が増え、調整の手間がかかることである。

つまり、調整のための、違いを明確化するコミュニケーションが飛躍的に増えてしまう。

そして通常、コミュニケーションなんてものは尽くせるわけがないので、

「軋轢を含んだ調整」というアクションが先行することになる。

「理想的な調整状態」に至るまでは、「軋轢を含んだ調整」をいやがらず、途中で投げ出さずに行うことが求められる。

「軋轢を含んださまざまな調整」、実は、これこそが変化の様相だ。

「軋轢」が未来への鼓動と聞こえるか、悲鳴と聞こえるか、

結局、違いに対処した個々人の経験の深さが問われる。

その個々人の経験の深さが、世間のトレンドとして違いを乗り越え、変化を呼び込む基盤となる。

さて、どうなるのだろうか。

違いの認識すら、避ける傾向のある国民性から問題の根を考えてみようか。

天水

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出張帰りの朝、呆けた頭でテレビを見ていたら、阿波踊りの番組の再放送をしていた。

徳島で“天水”といえば、天からの水と踊りさえあればいいという無類の踊り好きのことらしい。

まさに「踊るアホウに見るアホウ、同じアホウなら踊らにゃソンソン」のうたい文句を表す言葉。

学生の頃、ゼミで連を組んで学生連として阿波踊りに参加したことを思い出す。

女踊りはまるでバレエのようにつま先立ち、

男踊りはヒンズースクワットの最も低い腰位置をキープしたまま、歩みを進める。

20代前半の体力でも街を練り踊ると、ふらふらになった。

踊り終わった後のビールの旨さは、今に至っても人生のベスト5に入ると思う。

 天水たちが熱く舞う四国・徳島の阿波踊り、配信-NHKオンデマンド

さて、踊りというのはすごいな、と改めて思うのは、表情も踊り、ということだ。

体力的にどんなにきつくても「口角があがって」いないといけない。

にっこり笑うまでいかなくても、「しあわせの表情」を出すことが最低条件。

そういう気持ちで仕事もしたいね。

もう9月。

今年は夏らしいことは何もせず夏が終わってしまったが、「天水」の心意気を感じて、頭がすっきりした。

ひと踊りして、息があがり、一汗かいた時からがやっと本番。

労をおしまず、汗かいて、楽しくやろう。

腑に落ちる

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話したり、書いたり、そしてそんなことを簡単にやりとりできる機械やしくみはたくさんあって、伝えたり、伝えあったりするコミュニケーションの量は増えている。

逆に減っているのは、伝えたり、伝えられたりする内容についての意味を消化する作業。

「腑に落ちる」の「腑」は「はらわた・内蔵」のこと。意味は「納得する」。

この意味を「内容が消化されて、自分の体内にとどまっている感じ」として身体感覚で示したものだろう。

伝える・伝えられるということは、お互いにわかり合うということを目的とし、身体感覚として表現するならば、「腑に落ちる」感じをお互いに共有することができれば成功したことになる。

「伝耕」という会社のロゴには、「耕」の前にレ点がついていて、「耕して伝える」と読んでもらえることをひそかに期待したしかけがある。

同時に、レ点の形を鍬(クワ)になぞらえて「耕す」道具をあらわしている。

それは「伝えようとする内容、伝えられた内容」が腑に落ちるまで、身体感覚を耕す、といったニュアンスも含まれている。

最初、一人で耕しているうちは、何のソリューションらしきものも見えない。

相手も一緒に耕す作業に参加してくれるように働きかけて、それに成功しないと、単に相手は傍観者としてイライラするだけである。

内容という土に鍬を入れ続けて、その作業自体から少しずつ発見が生まれてくることに共感してもらうことがたいせつなのだ。

そう。

とても。

だが、

「耕す」のだから、知的労働というよりも、肉体労働に近い。

つまり、格好は悪いのである。

「スタイリッシュなスーツ」には似合わない。

まあ、だから、

時には手を休めて、

鍬にこびりついた土を洗い流し、おいしそうにお茶を飲む姿を見てもらおう。

水五訓

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東京に向かう。

飛行機から見える外の空気が澄んで見えるのは台風一過のおかげか。

羽田着陸前、眼下の海はとてもおだやかで、

うろこのように見える波がきらきらと光っていた。

機内で読んでいた本に水への賛歌。

王陽明作とされているらしい。

 

自ら潔くして他の汚濁を洗い

清濁合わせ入るるは水なり

洋々として大海を充たし

発しては雨となり

雲と変じ

凍っては玲瓏たる氷雪と化す

而もその性を失わざるは水なり

 

自分のスタイルは何だろう、と考えると、

「水」も範たり得るが、

この境地、はるか遠い。

覚醒

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毎日のことなのに、

夜が明けて

チー、チュン

最初に鳴く雀の声には

なぜか宣言の声音が含まれる

「これからどんどん明るくなる。朝を宣言する。」

まるで朝に慣れていないかのように 

 

毎日のことなのに、

目覚めの一瞬は

私という存在を手探る

覚醒までの隙間

とけあっていた黒いどろどろが

よりあって筋になる

筋は白い意識を呼んでくる

宣言してみようか

「意識がもどってきました。意識工場の始動を宣言する。」

まるで朝に慣れていない最初の雀のように