ソリューションと伝耕

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「楽(ラク)に楽しく、ひきだす、ひもとく、くみたてる」プロセスを提供することで、「伝えることを耕して、伝わるようにする一歩手前まで行く」お手伝いをすることが伝耕という会社の基本の成果物である。

これはソリューションそのものではない。

そういうものをソリューションと呼んでいる会社はいくらでもあるではないか。

そのとおり。

では、なぜそれをソリューションと呼んでしまわないのか。 

だからこそ、ソリューションとは呼ばない。

ちなみに、ソリューションという英語を何回もカタカナで書いていると、気持ち悪くなってきたのでやめる。

受験生風に日本語訳して、「解決」としてみる。

ううーん? 「解決」としたとたん、一気に「解決」と呼ぶにふさわしい用件が増えたような気はしないか。

ならば、「ソリューション」、「解決」って何が違うのだろう?

さまざまなことばの使われ方を見て、私が感じている意味の違いは、

「ソリューション」=なんだか知らないけれど解決できた気になれる結果

「解決」=問題がすべて解かれて、次の段階に進める結果

どうもソリューションということばが使われる時には、それはいったい、どのような問題なのか、という突き詰めが甘くても許される、というニュアンスが強いように思われる。

問題の突き詰め、よりも「正しいことをした感じ」を重視する。いちおう、世間では、この業界では、これが問題とされていますよね、という了解を相手に取り付けてから、対処法を提案するときに使われる表現が「ソリューション」。 

対して、「解決」とは、個別性があり、明示されているとは限らない問題をどの程度見極めたか、そして問題の要求する水準に対する答えをどの程度用意したかによって結果の精度が変わる、というイメージを与えることばだ。

緊張感のある表現だと思う。

「解決」ということばを使う者の態度として、問題の個別性と潜伏性を認識し、時には責任も追及して、それらについての適切な対処について厳しく問う「突きつけ」の姿勢がある。

残念ながら、そういう「突きつけ」の姿勢に理性的に粘り強く対処することは、我らの社会の得意とするところではない。

なので、外来語の言い方を借りて、もやっと「ソリューション」としておこうよ。意味をよく知らない人もいるかもしれないしね、となる。

便利なコトバがあって良かったね。

ちなみに、もやっとさせたい、突き詰めたくないときには、よく英語やその他外来語が使われる。

私もよくやる。 

「ってな感じ」の演出が重要なわけだ。

この社会はいろんな意味で、器用さに満ちている。

(ちなみに、私が一時期お世話になった外資系の会社では英語は外来語ではなく公用語。意味の定義は今にして思えば明確だった。「ってな感じ」ということではなく、ことばの定義が明確に共有されているからという理由で、かつての同僚と会うと「ルー大柴」のように話してしまうこともある。一種の用語病?である。)

逆に、「突きつけ」がやたらに多く見られる場面もある。

またこれが厄介なことに、突きつけて自分で問題を解決したいのではなく自分の正しさを誇示したい人々が出現する場面でよく出くわす。

たとえば、

「○○○等の重篤な問題がある。この問題については議論を尽くして判断し、解決に努めるべきだ」

なぜか、そこでは「ソリューション」という表現は使われない。「解決」なのね。ふーん、「もやっと」じゃないんだ、すごいぞ、で、次はどうするの?  と期待させてくれる。

残念ながら、こういう「突きつけ」型問題提起は当事者から聞かれることは少ない。多くは評論家的立ち場にある人間からだ。

「なんだ、いーだしっぺさんが、リーダシップとってやるんじゃないのね。」 

しかし、我らの社会をぐるっと見渡して、考えてもみよう。

そんなこと、期待する方が間違っている。

これまでの人生で、どれぐらいの人が「自分たちの問題を見極め、議論を尽くして問題解決した」成功体験を数多く持っているのだろう。

自分の数十年の人生で、自分の周りで、議論を尽くして問題解決した成功体験が、そこここに見あたらなければ、

「議論を尽くして判断し解決」ということをしらじらと言えるものではない。

では、なぜそんな無理なことをしらじらとおっしゃるのか?

それは、

その意見を表明している人の「問題提起の正当性のレベルを上げたい」からである。

つまり、

みんなが、だれも、まだしていないけれど、ここは「議論を尽くして問題解決に向けて解決すべき!」宣言するほどに、すごく重要な問題を、私は、わざわざここで教えてあげているのよ、と。

そんな大切な問題を教えてくれてありがとう、すごいね、と言われたい。

お叱りを受けるかもしれないが、そんな気がする。

さてさて。 

それにしても、なぜまた、私たちの会社が提供するプロセスに、「楽」という字がふたつも入っているのか。

それは、「議論を尽くして判断し解決する」という突き付けの姿勢が要求されたときに、「快楽を与える」という工夫なくしてはほとんど成功しない、というある種の諦観の上に我らが立っているからである。

突き付けられる、と思った瞬間、「閉じる、だまる、逃げる」ことが明らかなのであれば、雰囲気をスライドして、楽(ラク)に楽しくできる方法で、問題の本質を、するすると、「ひきだし、ひもといて、くみたてて」みようよ。

「あー大変なことも出てきちゃったね、でも誰のせいでもないからね。」

「まあ、とりあえず出てきた問題を何とかしようよ。」

責任の所在は「空」となるが、少なくとも確からしい解決を「和」をもって追求することには成功する。

ひとりひとり、何ができるか、よく考えて、みんなで、できるだけ、楽(ラク)に楽しく取り組んでみよう。

そういうことを、大人だけでなく、小さい頃からやってみない?

そんな提案である。

残念ながら、責任の所在を「空」としないプロセスを我らは持っていない。

我らが取り組むのは、解決なのか?

とんでもない。しかし、どこまでも問題解決に近づくためのプロセスを目指している。

じゃあ、ソリューションなのか?

もやっとした予定調和的問題提起で始めたくないし、それで終わったことにしたくないから、ソリューションとは呼ばない。

ここらでぐっと視点を変えてみれば 、

「突き付けられ議論型」ではなく、まずは、「楽(ラク)に楽しく問題に対処」してみようよ!

ってことはつまり、大上段に構えると、

コミュニケーションにおける「太陽政策」を推進するためのツールやプロセスづくりにチャレンジすることである。

2009年8月18日、

対話をもとに隣国の体質変化を目指した「太陽政策」を掲げ推進した韓国の巨星が落ちた。

「太陽政策なんか、そんな甘っちょろいこと、効果あんのか」という国内の突き上げにあいつつ、推進を目指した。 

ご冥福をお祈りする。

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