興福寺阿修羅像

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興福寺の阿修羅像は今、九州におられる。

三面六臂の奇異な姿でありながら、不思議と均整がとれた姿と憂いのある表情に人気がある。

そういえば若い頃、私はこの阿修羅像が好きだった。

奇異の美というものに心惹かれた。 

 

ついこの前、この阿修羅像がCTスキャンにかけられた。

さぞ重かろう三面六臂の上半身を軽量化するためか、木材の種類も一種類ではなく、組み合わせて使われていることが判明したらしい。

つまり、ふつうのことをしていてはあの形はムリ、ということがわかった。

阿修羅像が奈良を留守にされる少し前、興福寺まで出かけて久しぶりに阿修羅像を見た。

やはり美しいと思ったが、好きかと問われるとそうでもなかった。 

 

若い頃は、あり得ないことを現実化させるような夢を見せてくれる、弁舌さわやかな、切れ者風の人に憧れた。

最近はそうでもない。

弁舌さわやかで切れ者風の人の前に居ても、話している息が浅かったら要注意、と思うようになった。

プロジェクトを一緒にやっていても、それが泥沼化すると、途中でこのタイプの人間はバテる、人に切れる、気がついたら途中でいなくなる。

阿修羅のような三面六臂を駆使して、うまくやってくれるかと思いきや、そうでもないことが多い。

なぜなら、身体の芯からそうできていないからだ。

三つの頭で正しく状況分析ができて、六本の手ですばやく全体像は描ける。

が、実際に歩みを進めると、泥に、罠に足を取られる。

そんな状況に耐えられるか、プランを語る息の浅さ、深さが可能性を物語っているような気がする。 

 

絶妙のバランスをとる阿修羅像は、その内部構造からそうできている。

息が浅い人は、問題をときほぐし、解決をめざす道すがらで起きる不測の事態をどう担保するかについて、

身体の奥深くまで神経が回っていないような気がする。

逆に息が深ければ、まずは信用してみる。

まったくの独断だが、内容についての吟味とは別に、最後はそんなふうに判断している。 

 

それはそうと、あの阿修羅像はどう戦うのか。

戦いの神なのに、一歩も前に出ない。

ただし三面の情報センサーと六臂のツールで常に最適同時処理の采配をふるう。

采配はいかに優れていても、戦いは戦いである。

物は壊れ、人は死ぬだろう。

しかし戦いの神であるからそれ以外は何もできない。

ただ見ているだけ。

だから、あの憂いの表情なのか。

そう思うと、美しくも哀れな存在に見えてくる。

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