批評の刃

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「だが、はやるということはいいことだから、それについては私はとやかくいいたくはない。ただ、はやりすぎると芸が荒っぽくなるのを恐れているのであって、書きすぎると筆が荒れるのとそれは同じことなのである」

(白洲正子 「名人は危うきに遊ぶ」 より抜粋)

何について、「だが、はやるということはいいこと」と白洲正子は書いているのか。

野外の能舞台で薪の明滅する炎に揺らされ、演じられる能、「薪能(たきぎのう)」のことだ。

薪能が花火のようにあちらこちらで行われるようになった趨勢について「はやる」と言っている。

言わずと知れたように、白洲正子は幼少の頃から能の稽古に励み、初めて能舞台に上がった女性として、能に対する造詣の深さは人後に落ちない。

その彼女が、「はやりすぎると芸が荒っぽくなるのを恐れている」と書いている。

なるほど、確かに。そんなもんだろうな、となにげに読み進める。

そしてこの文章は、「書きすぎると筆が荒れるのとそれは同じことなのである」と唐突に終わる。

なぜだろう、と思い、この文章の出典を見て、はっと息を呑んだ。

「第九回世田谷薪能」パンフレット 平成6年10月

おそらく、だが、

能に対する彼女のたぐい希な造詣をたのんで、市民も楽しめる薪能「イベント」のパンフレットに寄稿が依頼されたのであろう。

能鑑賞の初心者も多いと思われるこの会の気軽に読まれる可能性も高いパンフレットに、「はやりすぎると芸が荒っぽくなる」との文章を寄せる。

まさに一刀両断とはこのこと。演ずる方は、さぞ背筋が凍っただろう。

しかし、彼女はそれだけでは終わらない。

文章を綴る自らにも同等の刃を向ける。

「書きすぎると筆が荒れるのとそれは同じことなのである」

「美」と対峙するとき、一切の妥協のなかった白洲正子。

有名だろうがなかろうが、権威があろうがなかろうが、真摯に「美」を探求し、見出し、はぐくむ。

そんな姿勢と常に共にある彼女の強さと厳しさに、ふと思いを馳せてみる。

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