レジリエンス

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オープンマインドに話を聞く、ことの重要性はよく説かれる。人の話を聞くことが多い私は、そりゃそうだ、と思っていた。虚心坦懐に人の話を聞かなきゃね。

昨日、今日とDV(ドメスティックバイオレンス)やモラルハラスメント、トラウマなどによる心の傷つきに焦点をあてている「レジリエンス」というNPO団体のセミナーを終日受け、帰宅後の今、話を聞く、ということについて、しばし考えさせられている。

DVなどでも起こるショッキングな出来事やトラウマが原因で、主にその出来事に関する記憶が失われる一方で、前後の意識についてはしっかりしている場合がある。こういう現象を解離性健忘というらしい。この場合、記憶の忘却は自らの身を守るための自然な適応現象の一つであると考えられる。

問題は、一切合切忘れているわけではなく、一部の記憶がない、ことにある。この状況が法廷に持ち込まれるたらどうなるだろうか。

トラウマなどの原因で被害者が解離性健忘状態にあると、被害状況の証言を完全に行うことができない。証言の記憶があやふやで、つじつまが合わず、一方、目に見える証拠は皆無、だとする。

そのような場で、私が裁判員であったらどう判断するか。被害状況に関する情報として、被害者とされる人からつじつまがあわない証言を聞く。他の証拠如何だろうが、その人に虚言癖があるのではないかと疑ったり、判断能力がそもそも低いがゆえに事件を招いた、とバイアスをかけて判断してしまう可能性も否定できない。

オープンマインドとか虚心坦懐に人の話を聞く、とは、何を問われていることなのか、と今一度考えてみる。

心をまっしろにした状態で、情報を浮かせたまま何も判断できない状態が続いてしまうと、それ自体がストレスになる。こんなとき、苦しまぎれにせりあがってくるのは常識による判断への誘惑だ。

常識的な判断とは、つまりは常識的なバイアスをかけて判断を行うことである。

真実に少しでも近づくためには、常識的な判断を安易に導入するまえに、他の可能性は?と愚直に問い続けるエネルギーが必要になる。

本当はいついかなるときでも、自己認識としてまずは「無知の知」を持ち出してみるべきなのだろう。けれども、常識的に判断してしまえば頭の働きを楽(ラク)にできそうな問題に対しても、「無知の知」発動による「なぜ」を続けることは辛い。

じつは、単に話を聞く、というあまりにもシンプルな行為の中に、足腰の強い知的判断のベースになる「オープンマインド」・「無知の知」・「問い続けるエネルギー」の3点セットのありようが問われている。

自分の仕事枠内で、ありていに「傾聴」を考えていた自分を恥じる。

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全国で初めてとなる裁判員裁判が3日から東京地裁で始まる。裁判は4日間連続。6日に判決が言い渡される予定。

市民から選ばれる6人の裁判員が、重大な事件の審理に参加。

3人の裁判官とともに有罪・無罪や刑の重さを判断する制度のスタートで、 日本の刑事司法は大きな変革期を迎えることになる。

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