2009年8月アーカイブ

あるべきよう

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こうすべき、こうしたい、こうあらねば、と、あくせく。

こうできない、こうならない、こうなれない、と、しょんぼり。

あるべきよう。

ある・べき・よう。

現実・理想・状態。

コレデイイノダ。

あるべきよう。

「現実」と「理想」を「状態」でくしざしにしてみると、

たいそうふしぎでおかしなじゅもんになるもんだ。

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昨日は大学のゼミ40周年記念パーティに出席。恩師をはじめ、たくさんの懐かしい面々と語る。楽しかった。「雁は八百、矢は三本」と揮毫された恩師の著書もありがたく頂く。心惹かれる対象はたくさんあるが、自分ができることは限られている。目的を持ち、目標を明確にするためには、自分が心惹かれる対象から何かを選りすぐることが必要。なぜなら、矢は三本しかないからね。確か、この言葉を聞いた若い頃は、そんなふうに素直に解釈していた。しかし久しぶりに意味を考えてみると、少し変わっていた。自分が心惹かれる数多くの対象について、それらを束ねる独自の視点を見いだし、そこからまず、自分にとって意味のある目的を創造し、その目的にあった目標を設定すること。こうして目的と目標が設定されたなら、矢は三本で十分なのかもしれない、むしろ、矢は三本もあると考えた方がいい、と。自分の「興味」に対する作業が「比較・選択」から「統合・創造」に変化した。その変化によって、必要な矢の数も異なる。自分の中の発見を刺激してくれる師の存在は本当にありがたい。

時間

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窓を開けると、ベランダが濡れていた。そういえば、さっき雨の音がしていた。

灰色の雲の切れ間から太陽の光が漏れている。

土曜の早朝、窓を開けても車の音が小さい。  

 

家族は寝静まっている。    

 

3週間ほど前、病に倒れたひとが退院するらしい。

とある居酒屋で待ち合わせをしていたが、私は事情があって遅刻した。

一足先に店に着いていたそのひとは病院へ向かい、私はもぬけのからの居酒屋への道を急いでいた。

事情を聞いた私は、もぬけのからの居酒屋で静かに呑んだ。 

 

切れ目なく、重なりなく、ただただ流暢に過ぎてゆくばかりの時間も、

今日は土曜、

時折立ち止まり、ひだのように折り返しながら、たどたどしく丁寧に過ぎてくれる。

すれ違う時間よりも、共にある時間。    

 

家族はまだ寝静まっている。

年を歴た鰐の話

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「としをへたわにのはなし」である。レオポール・ショヴォ原作、山本夏彦訳。

年を歴てリウマチになり、捕食ができなくなった鰐(彼)は、女の曾孫を食ってしまう。

曾孫を食ってしまった咎で、鰐の一族から追い出された鰐の「彼」は蛸の「彼女」に出会う。

蛸の「彼女」は、昼間、そのよく動く足を活用して鰐の「彼」に餌をふんだんにとってくる。

ところが、夜、鰐の「彼」は寝ている蛸の「彼女」の足を食べるのだ。毎晩一本ずつ。

そして、最後には足のなくなった献身的な蛸の「彼女」さえも食べてしまう。

鰐の「彼」はひとりでにがい涙を流すのである。

この話には続きがあるが、興味を持って頂いた方に読んでいただくとして、

蛸の「彼女」の足が最後の一本になったときに、そして、最後の一本の足さえ食ってしまった鰐の「彼」について描写されたくだりを抜き書きしてみる。

「夜になって、蛸が眠ってゐるあひだ、年を歴た鰐の蛸に對する二つの愛の間に、恐しい葛藤が生じた。その高尚な性質と、貞操と、献身と智慧に對する愛と、その足に對する愛との間に。

 その夜ふけ、最後の足は消えて失くなつた。」

「また夜中になった。蛸を愛してゐる鰐は、不吉な鰐にかわつた。彼は彼女をたべたくてたまらなくなつた。たうとう我慢しきれなくなつて、食べてしまつた。

 哀れな鰐よ!

 彼は彼女を、ほんとうにうまいと思つた。

 けれども、食べ終わるや否や、にがい涙を流した。

 それから、彼は退屈した。たつたひとり、岩の上で。」

「葛藤」と「にがい涙」、そして「退屈」。この3つのことを同時に想っていると、頭がもやもやしてくる。

私の爬虫類脳。

ずっと脳の奥深くに鰐のようにじっと潜んでいる本能に近い私の何かがもやもやして、じっとしていた鰐が身をよじっているようにおもえてくる。

数字

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ビジネスと数字。

覚えておいてほしいのは、数字は「精密さ」を与えてくれますが、「正確な答え」を与えてくれることはあまりない、ということです。

これは先日紹介した「ブレーキングボックス」の中の一節。数字に対するイメージは「客観的」で「正確」だとする認識とは異なるが、「正確さ」は通常、精密さに判断が加わってこそ得られ、その判断は容易に定量できない要素に基づく場合が多い、と。

最近つくづくそう思う。

インターネットのおかげで、統計数字や調査データが飛躍的に簡単に手に入るようになったと同時に、いつも気になるのは「精密さ」と「正確さ」の混同だ。

議論の中で数字が出てきたとき、それは数字のイメージ=客観的・正確の力を借りて、話を進めようとしているのか、ここでなぜイメージを借りる必要があるのか、どういう判断が加わっているのか、そしてその判断の根拠は何なのか、見極めながら聞くことはとても重要だと思う。

しかし、こういう作業は、集中力が必要になることはもちろんのこと、判断の正しさを問う際に、相手を困惑させるかもしれない質問をする必要もあり、今度は質問する側の態度の適切さも問われる。

「数字」というのは、「伝家の宝刀」みたいに使われていることも多いし、出す方もそのつもりで出す。

建設的な批判だとしても、「正確さ」に至る判断の正しさを問うこと自体が、相手の顔をつぶすことになるかもしれない。

日々、お勉強です。

インフルエンザ

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今年の5月どころではない。周囲のそんなに遠くない関係の人たちが罹った、という話をちょくちょく聞く。しかし街を見渡しても誰もマスクをしていない。朝夕涼しくなってきたし、忍び寄る秋の気配にのって秋の深まりとともに大流行するのではないか、と戦々恐々しつつ、いや、もうこうなったら早く罹っておいた方が免疫ができていいとか、夏休みのうちに罹っておいたら学校を休まなくて済むとか、そんな話も出ており。一学期の前にインフルエンザで学級閉鎖になったせいで、娘の小学校は夏休みが短くなり、8月27日に例年より一足早く始業式。事態は夏休みよりも悪くなっているのに、さらに追い打ちをかけるように早く登校して接触の機会を増やしてしまう。でも、だからってどうしたらいいの?そう考えると、しぶとく生きる庶民感覚センサーに反応して早く罹っておいた方がいいかも、なーんていう話が盛り上がるわけです。

8月19日の舛添厚生大臣のメッセージ

新型インフルエンザ(A/H1N1)の流行入りを迎えるに当たって 国立感染症研究所が、昨日、発表した調査結果によれば、2009年第32週(8月3日から9日の週)における定点医療機関当たりのインフルエンザの患者報告数が、全国平均で0.99(インフルエンザの患者報告数4,630)となりました。例年、この数値が1を超えると、インフルエンザは流行期に入るものとされております。 急激な感染の拡大を防止するために、最も効果的なことは、国民の皆様お一人お一人が感染防止対策を自覚をもって自ら実践することです。  手洗い、うがいの励行 ・ 症状が出た方のマスクの着用、外出の自粛、人に咳やくしゃみをかけない咳エチケットの徹底 等の適切な対応を講じていただきますよう、改めてお願いしたいと思います。 一方、今回の新型インフルエンザについては、慢性呼吸器疾患や慢性心疾患等の基礎疾患を有する方や妊娠中の方、乳幼児が重症化するリスクが高いとされております。特に、こうした方々については、早期受診、早期治療を心がけていただくよう、是非ともお願いいたします。

「1」を超えたら流行期とするならば、19日現在、患者報告数の全国平均が0.99のときにわざわざメッセージが出るってことは、「来るぞ-」ってことでしょうね。で、やっぱり、「うがい・手洗い・罹患者のマスク・外出自粛・エチケット」以外、対処がないんですね。罹らないようにするにはうがい、手洗いが大事って、テレビの番組で言ってました。で、マスクは罹った人がするというのも、科学的には正しいのでしょうが、社会的なインパクトを考えるとすごい話。罹った人「だけ」にマスク着用が徹底されると、私は保菌者です、という宣言をわざわざすることになる。そんな宣言をしたい人はいないでしょう。メッセージを伝えれば伝えるほど、マスク着用の敷居をあげて、結果、感染を広げてしまう?そうは言っても、「マスクをしていれば罹らない」と言えるわけではないし、「防疫」というのはかなり社会的心理的な割合が多いのですね...。

 

ブレーキングボックス

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おとといと昨日の内容が、サルとカメだったので、たまにはきちんと人間界に帰ってこよう。今日は「ブレーキングボックス」という本の話。

「常識に囚われない仕事の考え方」という副題がついている。アンドリュー・J・サター著。2007年11月30日第一版。リーマンショック前、確か去年の初めに購入して読むのを忘れていた。本棚に置いたまま。「これ何だっけ?」と思って、週末に読んでみた。リーマンショック前に刊行されたビジネス書の多くは、今読むと赤面モノの内容が多いけれど、この本の大半の内容は生き残っている、と思う。

第一話、第二話、第三話、ずんずん読む。とっつきがよいには中身が詰まっているので、まず、自分の問いを立てながら読まないと内容に流される。うーん。どうしよう。最後はどう終わるんだろう?と思って「おわりに」を読んでみる。なんと、問いが書いてあるではないか。

成功するには、ビジネスを完全にコントロールしないといけないのか? 定量的に測定できるものだけを考慮しなくてはならないのか? ビジネスは戦争だと思わなければいけないのか? 知的所有権が侵害されそうになったら、いかなる相手に対しても徹底抗戦しないといけないのか? 高い株価とビジネス上の成功は同義としなければならないのか? 経済的・社会的な問題の解決は、政府ではなく、「自由市場」を主軸としなければならないのか?・・・これらは全て「しなければならない」、つまり「義務」ではないのに、結局「そうすべきだ」と思い込んではいないか?  これらの問いのほとんどに対して、アングロ・サクソン系のビジネス本や企業PRは「Yes」と答えることでしょう。また、Yesと答える企業が、西欧諸国や日本で、そして経済興隆著しいアジアで増加しています。 この本を読むことによって、これらの質問に対する答えは全て「No」なのだと発見していただければ、と願ってやみません。 ただし、基本的にNoだとはいえ、「常に」そうであるとは限りません。.....

本ははじめから読まなくてもいいよね。「はじめに」のところで、「章立ての通りに読む必要はありません」、と書いてあるし。それにしても、「おわりに」に問いが書いてあるなんて、常識の囚われ具合を試すような編集。

いろんな意味で視野を広げるのにおすすめの本ですが、終章の第30話「ビジネスにおける人間性の意味」はお粗末です。というか、ビジネスそのものがこのテーマに関してはお粗末なのかもしれませんね。

あ、自分で書いて忘れてた。おととい、人間は「半分ぐらいサル」って書いたっけ。ビジネスにおける人間性の意味は、「半分ぐらいサル」のわれわれ人間には誰も明確に答えられないね。未来に向けて試行錯誤しなきゃ。

生存率

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遠州灘。ここで生まれて約20年後の夏に、アカウミガメが産卵のために帰ってくる。

砂の中に生み付けられた卵が3-4週間後に孵化する。

孵化したばかりの赤ちゃんアカウミガメは砂浜を懸命に海に向かう。 ぱたぱたぱたぱた...。

この赤ちゃんアカウミガメのうち、生き残る確率はなんと5千分の1程度とか。

うまく生き延びたとすればアカウミガメの寿命は80年ほど。卵が生めるのは最大60年。毎年、もしくは、隔年産卵で、2時間ほどの産卵で一回に生む卵は130個ほど。

ということは、一頭の母アカウミガメが毎年産卵したとして、その一生に生む卵は単純計算で最大7800個。

すべてが孵化するとは限らないので、成長してから一生涯かけて毎年生んでも、生んだ卵から自分の子供が成長したアカウミガメになるのは、一匹、うまくいって2匹。

こんな確率でどうやって種が保存されるのだろう。

まだまだわからないことが多いらしい。

ともかくも確率5千分の1、と言われている賭けのような産卵のためにはるばる海を泳いで生涯何千個もの卵を産みに帰る母アカウミガメ。

すごいな。

そもそも、確率の低さをいちいち怖がっていたら、生き物なんてやってられないのかもしれない。

たんなる勢力争いなら、

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サルでもできる。何を?タイトルから続けてもう一度どうぞ。昨日の朝日新聞夕刊「私の09総選挙リーダー論」掲載。霊長類学者の長谷川寿一さんがチンパンジー研究から導き出したそうだ。

チンパンジーは集団内では序列一位の雄がその維持のためにさまざまな術策をこらしている。また、二つの集団があると集団間はいつも敵対しており、場合によっては殺し合いになる。チンパンジーのリーダーの要件は、力で勝つことだ、と。

一方、チンパンジーと比較して、人間が人間らしさを発揮するのは、他の集団との争いを避け、利害を調整し、協働して現状を改善する創造力、強者の暴走を抑え、弱者に目配りすること、だそうな。

この話は選挙の文脈で取り上げられていたのだが、なかなかに含蓄がある。

人間が人間らしさを発揮する「サルとの違い」として列挙された部分は、まだまだ地味な、それこそ「人道的な」行いに見られることが多く、よっぽどでなければ賞賛の対象として大きく取り上げられることはない。むしろ我らの多くはガチンコ勝負に熱狂するし、戦いに勝った英雄を崇める。どんな出来事がマスコミに取り上げられ、扇情的に表現されやすいか、内容を観察・分析すればそれは一目瞭然だろう。人間とサルの違いは現象としてあるにはある。が、違いとして存在する美点を選択的に認識し、他者に伝え、それを相対的に高く評価できるほど、人間は進化していない。

知能指数や成績の高低にあらわれる人間の個体差なんか些細な問題で、実は我らみんな、まだ「人間」になりきっておらず、「半分ぐらいサル」?

「半分ぐらいサル」なら、先ほどの「人道的」とは、これまた言い得て妙な表現があったものだ。 

ハンバーグとひとふでんず

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「ひとふでんず」のワークショップを終えて、なんだか幸せな気分だった。そう、気分はハンバーグ。少し早めの帰宅。ところで、前回作ったのはいつだっけ。子供のいる家庭には思えないね。タマネギ4個分をみじん切りにして、飴色になるまでバターでゆっくりいためる。やり始めてから、うーん30分はかかるなと思ったが乗りかかった舟、仕方がない。結局40分強かけ、最初のみじん切りが1/3ぐらいのかさになったところで飴色タマネギ完成。あら熱を取る。ビシソワーズを作るには冷やす時間がない。じゃがいもポタージュに変更。もちろん、飴色タマネギも入れてこくを出す。ほっくりした仕上げにしたかったので、じゃがいもを蒸したものを飴色タマネギと一緒につぶし、コンソメ、塩、胡椒を加え、牛乳そして生クリームで溶いてポタージュを完成させる。ポタージュを作っている間に、タマネギのあら熱が取れたので、卵と合い挽きミンチをまぜ、塩・胡椒・ナツメグを入れてこね、小判型にして、両手のひらで交互にぽんぽんとキャッチボールならぬキャッチバーグ、まんなかをくぼませて焼く。その間に、ケチャップ、ソース、バター、赤ワインとコンソメでソースを作る。完成。ありあわせの野菜でサラダを作って食べる。

ぐたぐた難しいことを考えずに無心に取り組むことはいいことだね。身体にしみこんだステップでやるハンバーグは簡単に思えるけれど、身体にしみこんでいない「ひとふでんず」はシンプルな絵でも最初は難しかった。繰り返すと何とも言えない楽しさが広がってくる。筆を置かずに一気に描くことは、ふだんの脳の使い方と違うのか、かなり刺激される感じがする。ワークショップをやってみて、使う素材や大きさについていろいろ学びがあった。今度は、季節のいい時に戸外でやりたいな。太いロープで、力強い「ひとふでんず」。やかんの水で一気に書く「ひとふでんず」。生きていくことは、ごくごく小さな実験の積み重ね、と思えば思い悩む前に発見の山ができて楽しい。

「ひとふでんず」を作ってくれた「サトリ」さんありがとう。

ソリューションと伝耕

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「楽(ラク)に楽しく、ひきだす、ひもとく、くみたてる」プロセスを提供することで、「伝えることを耕して、伝わるようにする一歩手前まで行く」お手伝いをすることが伝耕という会社の基本の成果物である。

これはソリューションそのものではない。

そういうものをソリューションと呼んでいる会社はいくらでもあるではないか。

そのとおり。

では、なぜそれをソリューションと呼んでしまわないのか。 

だからこそ、ソリューションとは呼ばない。

ちなみに、ソリューションという英語を何回もカタカナで書いていると、気持ち悪くなってきたのでやめる。

受験生風に日本語訳して、「解決」としてみる。

ううーん? 「解決」としたとたん、一気に「解決」と呼ぶにふさわしい用件が増えたような気はしないか。

ならば、「ソリューション」、「解決」って何が違うのだろう?

さまざまなことばの使われ方を見て、私が感じている意味の違いは、

「ソリューション」=なんだか知らないけれど解決できた気になれる結果

「解決」=問題がすべて解かれて、次の段階に進める結果

どうもソリューションということばが使われる時には、それはいったい、どのような問題なのか、という突き詰めが甘くても許される、というニュアンスが強いように思われる。

問題の突き詰め、よりも「正しいことをした感じ」を重視する。いちおう、世間では、この業界では、これが問題とされていますよね、という了解を相手に取り付けてから、対処法を提案するときに使われる表現が「ソリューション」。 

対して、「解決」とは、個別性があり、明示されているとは限らない問題をどの程度見極めたか、そして問題の要求する水準に対する答えをどの程度用意したかによって結果の精度が変わる、というイメージを与えることばだ。

緊張感のある表現だと思う。

「解決」ということばを使う者の態度として、問題の個別性と潜伏性を認識し、時には責任も追及して、それらについての適切な対処について厳しく問う「突きつけ」の姿勢がある。

残念ながら、そういう「突きつけ」の姿勢に理性的に粘り強く対処することは、我らの社会の得意とするところではない。

なので、外来語の言い方を借りて、もやっと「ソリューション」としておこうよ。意味をよく知らない人もいるかもしれないしね、となる。

便利なコトバがあって良かったね。

ちなみに、もやっとさせたい、突き詰めたくないときには、よく英語やその他外来語が使われる。

私もよくやる。 

「ってな感じ」の演出が重要なわけだ。

この社会はいろんな意味で、器用さに満ちている。

(ちなみに、私が一時期お世話になった外資系の会社では英語は外来語ではなく公用語。意味の定義は今にして思えば明確だった。「ってな感じ」ということではなく、ことばの定義が明確に共有されているからという理由で、かつての同僚と会うと「ルー大柴」のように話してしまうこともある。一種の用語病?である。)

逆に、「突きつけ」がやたらに多く見られる場面もある。

またこれが厄介なことに、突きつけて自分で問題を解決したいのではなく自分の正しさを誇示したい人々が出現する場面でよく出くわす。

たとえば、

「○○○等の重篤な問題がある。この問題については議論を尽くして判断し、解決に努めるべきだ」

なぜか、そこでは「ソリューション」という表現は使われない。「解決」なのね。ふーん、「もやっと」じゃないんだ、すごいぞ、で、次はどうするの?  と期待させてくれる。

残念ながら、こういう「突きつけ」型問題提起は当事者から聞かれることは少ない。多くは評論家的立ち場にある人間からだ。

「なんだ、いーだしっぺさんが、リーダシップとってやるんじゃないのね。」 

しかし、我らの社会をぐるっと見渡して、考えてもみよう。

そんなこと、期待する方が間違っている。

これまでの人生で、どれぐらいの人が「自分たちの問題を見極め、議論を尽くして問題解決した」成功体験を数多く持っているのだろう。

自分の数十年の人生で、自分の周りで、議論を尽くして問題解決した成功体験が、そこここに見あたらなければ、

「議論を尽くして判断し解決」ということをしらじらと言えるものではない。

では、なぜそんな無理なことをしらじらとおっしゃるのか?

それは、

その意見を表明している人の「問題提起の正当性のレベルを上げたい」からである。

つまり、

みんなが、だれも、まだしていないけれど、ここは「議論を尽くして問題解決に向けて解決すべき!」宣言するほどに、すごく重要な問題を、私は、わざわざここで教えてあげているのよ、と。

そんな大切な問題を教えてくれてありがとう、すごいね、と言われたい。

お叱りを受けるかもしれないが、そんな気がする。

さてさて。 

それにしても、なぜまた、私たちの会社が提供するプロセスに、「楽」という字がふたつも入っているのか。

それは、「議論を尽くして判断し解決する」という突き付けの姿勢が要求されたときに、「快楽を与える」という工夫なくしてはほとんど成功しない、というある種の諦観の上に我らが立っているからである。

突き付けられる、と思った瞬間、「閉じる、だまる、逃げる」ことが明らかなのであれば、雰囲気をスライドして、楽(ラク)に楽しくできる方法で、問題の本質を、するすると、「ひきだし、ひもといて、くみたてて」みようよ。

「あー大変なことも出てきちゃったね、でも誰のせいでもないからね。」

「まあ、とりあえず出てきた問題を何とかしようよ。」

責任の所在は「空」となるが、少なくとも確からしい解決を「和」をもって追求することには成功する。

ひとりひとり、何ができるか、よく考えて、みんなで、できるだけ、楽(ラク)に楽しく取り組んでみよう。

そういうことを、大人だけでなく、小さい頃からやってみない?

そんな提案である。

残念ながら、責任の所在を「空」としないプロセスを我らは持っていない。

我らが取り組むのは、解決なのか?

とんでもない。しかし、どこまでも問題解決に近づくためのプロセスを目指している。

じゃあ、ソリューションなのか?

もやっとした予定調和的問題提起で始めたくないし、それで終わったことにしたくないから、ソリューションとは呼ばない。

ここらでぐっと視点を変えてみれば 、

「突き付けられ議論型」ではなく、まずは、「楽(ラク)に楽しく問題に対処」してみようよ!

ってことはつまり、大上段に構えると、

コミュニケーションにおける「太陽政策」を推進するためのツールやプロセスづくりにチャレンジすることである。

2009年8月18日、

対話をもとに隣国の体質変化を目指した「太陽政策」を掲げ推進した韓国の巨星が落ちた。

「太陽政策なんか、そんな甘っちょろいこと、効果あんのか」という国内の突き上げにあいつつ、推進を目指した。 

ご冥福をお祈りする。

薬師香

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朝5時すぎ、いつものように起きて体操をしようとするが、何となく調子が悪い。昨晩は夕食の用意をしたが手を着けずに寝入ってしまった。30分ほど身体を動かしてから、いったんあきらめてPCを開く。昨夜連絡をくれていた西野さんに「ごめんなさいメール」を送信してから、さて、どう巻き直すか。

「脳の髄に効き、身体全体を目覚めさせる。(と自分で決めている)」薬師香を焚くことにする。興福寺に娘と参詣した折り、薬師堂を包んでいた香りに二人して魅せられ売店で買い求めた。疲れている時に焚くと効く。そう信じて点火し、気を取り直してもう一度体操の続きをする。お香の香りが左右の鼻腔粘膜をつきぬけ、そのまま左右の耳上あたりの頭表面に到達し、そこを起点にじんわり広ってから脳の髄に落ちていく(生物学的医学的根拠はない。あくまでも「感じ」である)。この感覚を数回トレースすると、頭がすっきりしてくる。1時間少しの瞑想&体操コース無事終了。「Brand New Day」の始まりにふさわしい状態になった。

名のある人の麻薬にまつわる事件が世間を賑わせている。

教養と耽溺の淵ぎりぎり、山登りで言えば馬の背をたどるようにして楽しむことができるお香の世界もあるよ、と年若くに教えてあげる人はいなかったのだろうか。

「銘香 薬師香 法相宗 興福寺」。製造元は京都の松栄堂である。

ひとふでんずのうた

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ひとふでんずのワークショップが近づいてきました。というわけで、今日は最終の打ち合わせ。

ひとふでんずを描くときの「うた」も作ろう、ということになり、うたを考えてみることに。

ひとふでんずのうた、ならば、しりとりだよね、ということで、草案1号です。

***

ひとふでんず

ひとふでん

んずんかける気がす

んるんなぞると楽し

ちばん上手にかきたい

ぜか息することも忘れ

がぶるぶる震えが

ょっと 休んでみる 

んばって描いてみたいひ(日)

とふでんず

ひとふでんず

***

吉田さんの8月16日ブログで上がっているひとふでんず人物バージョン「居酒屋浩司のふたり」、

謎のひとふでんず作家、トリヤマさんが作ってくれました。

彼のもつ才能への軽い嫉妬(笑)、「やっぱ、手が違うんだよなー」」をもじって、「ずるいな手違ひ」としてみました。

 

 

 

伝紋ワークショップ

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9月6日から始まる伝紋ワークショップの新メンバーと話した。

大学三年生。私との年齢差はゆうに20才を越える。

デザインや伝紋について話すにしても、お互いに感覚を理解できる部分は多くはない。

どの共有地を選んで話すか、というのが重要になる。

こういうときは「コミュニケーションの触手」を発動させて、何に興味がありそうなのかについて探りを入れる。

探りを入れる、とはまた、言い得て妙な表現だ、と思う。

あまりに身体感覚に直結しすぎて、良い意味で使われることは少ない。

が、この身体感覚自体は非常に重要だと思う。

こどばだけでなく、表情や身体の動きを判断して、まずは相手の中にセンサーを埋め込む。

そのセンサーの発信情報と自分の中にある情報を参照して、感覚の共有地を探る。

伝紋ワークショップでは、大切なこと、好きなこと、挑戦したいこと、という、

おそらく人間として興味があろうかと思われる共有地に向かって、

デザイナーがクライアントを誘導しつつ、デザインの素案まで持って行く。

今日は私の方が触手を出す方だったが、

伝紋ワークショップでは、

デザイナーの卵さんが自分のもつ「コミュニケーションの触手」で、

クライアントに「いい意味での」探りを入れる番。

表現の前提となる触手の感度を磨ける、

貴重な機会になれば、と思っている。

夕餉あれこれ

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大文字五山送り火の16日は旦那の誕生日。朝から、どんな夕食がいいか聞いてみるが、毎年のことながらお盆で好物のめぼしい鮮魚はなく、帰省したばかりでごちそうにも飽き、じゃあ、エスニックにしようか、と何となく決めて家族で買い物に出た。とりあえず阪急メンズ館に行ってぐるぐる廻ってみるが、欲しい物がない、と一言。結局、お誕生日には似つかわしくないインナーのコーナーに行き、室内着兼寝間着&インナーを買う。室内着といっても、ジョン・ガリアーノ?なんでまた?ブランドってどこまでも手広いね。でもこうやって、売れ残るわけだ、と思い50%オフで買う。ああ、そういえば20年ほど前、香港のグランドハイアットのブティックで彫刻的なカット&つぎはぎの紺のスカート、何だこれ?と思ってタグを見るとジョン・ガリアーノ、聞いたことなかったが面白いと思ったので、確か70%オフのバーゲンで買った。それ以来のご無沙汰でございました。非日常感覚満載の買い物ってのもカリスマデザイナーならではの恩寵かしらん。はっと気がついて時計を見ると、もうすでに7時すぎ。帰宅してからエスニックを作るどころではないので、成城石井でハモンセラーノ、ハーブサラミやチーズ、イタリアンパセリ、テリーヌ、生マシュマロ、レーズンバターの入った白いどら焼きなど脈絡なく非日常的食品を買い漁って帰る。いつもと変わり映えしない簡単なサラダを作り、買ってきたものをカットし盛りつけ。昨晩の残り、揚げ出し野菜を取り分けて、夕餉。ワインはドメーヌ・グローザン・ソーヴィニオン・ブラン2008、1239円也。お安いが偉ぶらない程度にかなり旨いよ。それはそうと、大文字五山送り火は、お盆に戻ってきた先祖の霊をあの世に送る行事とされている、らしい。送り火の中では、私は舟形が好き。ご先祖の皆様、お舟に揺られて機嫌良くお帰りあそばせ。生きている人間は大気の海の底に沈んで暮らしている、と言ったのはどこぞの気象関係者か。大気の海の底は澱みの宝庫ですが、それもまた楽しき日々でございます。大気の海を舟で越えて帰路につかれた皆様、また来年!明けて17日はすがすがしい朝。今日から通常稼働のお方も多いのかしらん。近くの谷町筋を走る車の通行音に活気があります。

四天王寺

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四天王寺近くに転居してはや5年。夜7時、これまで帰省やなにやかやで行く機会のなかった四天王寺の盂蘭盆会万灯供養に家族で行った。蝋燭を1本700円で2本買い求め、ひとつは先祖代々、もうひとつは60才で他界した義理の母の戒名を記す。蝋燭を5、6本握りしめている人も少なくない。係の人に蝋燭を託して、火を灯してもらう。中心伽藍内には一万本と言われる蝋燭のゆらめく炎と人出のせいで賑々しく暑い。午後7時20分、僧侶がお経を唱えながら蝋燭で囲まれた中心伽藍内を廻る。四天王寺の界隈は寺町なので、お盆の頃は大変な賑わいとなる。近くにお骨佛で有名な一心寺もあり、朝から大層な人出である。この界隈はお寺の数が多く、松屋町筋と谷町筋、上町筋の間にお寺がひしめきあって南北に並んでいる。大阪は京都や奈良よりもお寺の「数」が多いことは、あまり知られていない事実だ。特にお寺が集積している下寺町界隈は、秀吉が西から大阪城に攻め入られたときを想定し、その防壁として寺を配置したのがはじまりらしい。結果として寺町としての賑わいも生んだ。しかし秀吉なら、そんな経済効果も想定済みか。僧侶のあとについて中心伽藍を行道しながらそんなことを考える。最盛期よりは少ない、とささやかれてはいるが、盂蘭盆会の期間中、何万本ともなろう、おびただしい数の蝋燭、屋台、人出、車。そして、人出の中に占める老人の割合の高さ。誰に対して、何を用意し、どうしつらえ、システムとして如何に成り立たせ、継続していくのか、不景気の最中、カタカナ語ばかりのビジネス書が虚ろに見える現実がここにはあった。

興福寺阿修羅像

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興福寺の阿修羅像は今、九州におられる。

三面六臂の奇異な姿でありながら、不思議と均整がとれた姿と憂いのある表情に人気がある。

そういえば若い頃、私はこの阿修羅像が好きだった。

奇異の美というものに心惹かれた。 

 

ついこの前、この阿修羅像がCTスキャンにかけられた。

さぞ重かろう三面六臂の上半身を軽量化するためか、木材の種類も一種類ではなく、組み合わせて使われていることが判明したらしい。

つまり、ふつうのことをしていてはあの形はムリ、ということがわかった。

阿修羅像が奈良を留守にされる少し前、興福寺まで出かけて久しぶりに阿修羅像を見た。

やはり美しいと思ったが、好きかと問われるとそうでもなかった。 

 

若い頃は、あり得ないことを現実化させるような夢を見せてくれる、弁舌さわやかな、切れ者風の人に憧れた。

最近はそうでもない。

弁舌さわやかで切れ者風の人の前に居ても、話している息が浅かったら要注意、と思うようになった。

プロジェクトを一緒にやっていても、それが泥沼化すると、途中でこのタイプの人間はバテる、人に切れる、気がついたら途中でいなくなる。

阿修羅のような三面六臂を駆使して、うまくやってくれるかと思いきや、そうでもないことが多い。

なぜなら、身体の芯からそうできていないからだ。

三つの頭で正しく状況分析ができて、六本の手ですばやく全体像は描ける。

が、実際に歩みを進めると、泥に、罠に足を取られる。

そんな状況に耐えられるか、プランを語る息の浅さ、深さが可能性を物語っているような気がする。 

 

絶妙のバランスをとる阿修羅像は、その内部構造からそうできている。

息が浅い人は、問題をときほぐし、解決をめざす道すがらで起きる不測の事態をどう担保するかについて、

身体の奥深くまで神経が回っていないような気がする。

逆に息が深ければ、まずは信用してみる。

まったくの独断だが、内容についての吟味とは別に、最後はそんなふうに判断している。 

 

それはそうと、あの阿修羅像はどう戦うのか。

戦いの神なのに、一歩も前に出ない。

ただし三面の情報センサーと六臂のツールで常に最適同時処理の采配をふるう。

采配はいかに優れていても、戦いは戦いである。

物は壊れ、人は死ぬだろう。

しかし戦いの神であるからそれ以外は何もできない。

ただ見ているだけ。

だから、あの憂いの表情なのか。

そう思うと、美しくも哀れな存在に見えてくる。

病床見舞いにかえて

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病は治るもの也

何かをしなくとも自ら治るもの也

治らざるは 自分が病んでゐるから也

自分が病まねば病は自ら去る也

それが病むといふこと也

病を恐るる人あり 病を避けんとしてゐるから也

病に怯える人あり 病を防がんとしてゐるから也

病に苦しんでゐる人あり 治さんと気張りすぎてゐる為也

ただ病を病むことと知る人 病を活かし これによりて新鮮な生を湧きたたす也

居眠りした体に対しては目覚ましのはたらきをもつ也

古びた体には 新陳代謝を促進する更新作用あり

錆びついた体には それを磨いて裡の力を喚び起こす也

病むことに受け身の人のみ 病に害さる

受け身で害されること病に限らず 貧でも 富でも 失敗でも 成功でも 同じこと也

病を治すといふことなければ 病は生の安全弁也 自然の健康恢復法也

このことを悟らず病んでをることを 病に病むといふ也

病む限り病は続く也

思へば人間は随分と長く 病に病んでゐたもの也

可笑しなこと也

(「苦楽」 偶感集より  野口 晴哉)

***

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盆休みというまとまった休みが無くても、墓参りなどすれば、亡き人々のことを思い出す。強い感情を伴わず、死というものについて思いを巡らす機会となる。今まで、この世に生まれてきた人間のうち、今、生きている人々をのぞけば、「ほとんど」すべては死んでしまった、という事実。いったい、今までどれぐらいの人間が生まれ、そして死んでいったのだろう。おびただしい数の「死」でできた層の上に今の「生」が一時的にちょこんとのっかっている。しばらくすると、今の「生」は巨大な「死」の層に吸収される。ちなみに、「ほとんど」と表現したのは、未だ生まれ出でていないが故に「生」としてカウントするわけにいかず、そしてもちろん「死」と対極にある、胎児という存在を意識したからである。今の「生」とその上にぽっかり浮かんでいる「胎児」たち。「死」の層の奥底から見えない何かがへその緒のように「胎児」につながっている心象。輪廻を信じるとか信じないということではなく、墓参りをした後には、なぜか妊婦に視線が吸い寄せられる。人に寄り添ったときのような生ぬるい温度と湿度に包まれて過ごす実家での盆。

聞く

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昨日、地震について書いた自分の文章を見返すと、音の記憶についてやたらに書いていることに気づいて、ちょっと調べてみた。

人間の感覚の中で最後まで残るのは聴覚だと言われている。意識がなくなっても聴力だけは残っている場合があるらしい。

朝、こうして文章を書いているとき聞こえる音は、すずめや鳩、ときおりカラスの鳴き声、朝刊配達のバイク音など、たいして風情のないものではあるが、私にとっては「なにげない日常」を確認するための重要な要素だ。

東京のホテル、高層階はめ殺しの窓の部屋では聞くことのできない朝のBGMである。家よりもはるかに掃除の行き届いた部屋で目覚めても、なんだかうんざり、と思ってしまうのも、よくよく考えてみれば音の影響が大きい。

一方、日常の生活はどうしても視覚中心でものごとを判断することが多いから、視覚の影響を大きく捉えがちだ。

今日のテーマは聴覚。

人間の最後の五感は聴覚である、ということを心に留めて、一日を過ごしてみよう。

地震の身体記憶

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一昨日の8月9日、東京のホテルで夜7時半頃から一人夕食をとっていたら、いすの底の方から微細な震えがしつこく迫ってきて、あ、地震だと思った。微細な揺れのあとに、はっきりとわかる横揺れを感じた。あとで聞くと震源は東海道南方沖、東京23区は震度4程度であったらしい。昨日帰阪。自宅にて今朝5時過ぎ、地震で目が覚めた。テレビをつけたら、今度は駿河湾震源、静岡では震度6程度、交通機関にも支障が出ているようだ。大阪は震度3程度。

地震、と感じると、阪神大震災あの朝、とその後の余震の身体記憶が瞬時によみがえってしまう。大地震の早朝、最初は地面に埋め込まれた圧搾機が自分にむかってくるような感じ、これは夢ではない、と思って目が覚めた。昔は地震といえばナマズ。「ナマズが地中を走る」絵で伝えたい体感とはまさにこのことだったのか。数秒のちには、まるで自分がシェイカーの中に詰め込まれて、横、そして縦と激しく振られるような状態になり、平衡感覚がやられてしまった。強い地震になると「地震音」が想像以上にすさまじい。横揺れで家の中のたんすやテレビや大小様々なものがぶっとび、ぶつかる音、さらに縦揺れが激しくなると、マンションの鉄骨がすさまじい圧力とねじれに耐えているせいか不気味な金属音を出し、同時に建物の奥で何かが崩れていくような鈍い響き、まさに建物自体がのたうち回って吠えているようだった。

もう、これ以上シェイクされると建物が持たない、きっとマンションの天井が落ちてくる、こうやって死ぬのか、と思ったことを覚えている。

幸運にも生きながらえてここに居る。

地震の身体記憶は刻まれていて、その後の余震の感じのパターンで、今身体に感じている地震はひどくなりそうなのか、収まりそうなのかを判断している。

自分の身体を守るために身体で覚える学習、とはこういうことなのか、と思う。

護る(まもる)

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赤坂見附から永田町駅につながる坂道、衆参両議院の議長公邸が並び佇んでいる。衆議院議長公邸はコンクリート壁で覆われ中は見えない。参議院の方はなぜか庭が鉄柵で囲まれており、蝉が大音響で鳴く庭の様子が歩道からうかがえるつくりになっている。

庭の鉄柵にすり寄るように歩道を歩く。日中でも柵沿いの庭は木々が茂り直射日光が差し込まない。しばし炎天下のアスファルトの歩道を歩いてきた私は、庭木の枯れ葉が朽ちて地面から漂うにおいをかすかに嗅ぎ取り、冷たく湿った空気を吸い込んで日陰を楽しんだ。木々の根元に目をやれば蝉が羽化のために這い出てきた穴が一つ。別の穴を目が勝手に探す。ぽこ、ぽこ、ぽこ。 蝉の蛹は夜になると静かに、しかし渾身の力をこめて土を押しのけ地上に這い出て、いちばん近い幹を上って羽化するのだ。夏の終わりまで毎晩。

永田町までの坂道。3メートル幅ほどの歩道をゆるゆる登る。

直射日光が照りつける車道側の歩道すれすれにさきほどからなにやら大声で叫びながら街宣車の一群が通る。車道と歩道の際にころがった蝉の死骸が、街宣車が一台通過するたびに風圧でからから回る。

ふと顔をあげて視線を向こうにやると、坂道の庭側少し先に国会議事堂へ通じる交差点が見えた。警備の配置を変えるタイミングなのか、二人の警官がざっと動いて一瞬止まった。車道側の歩道と庭側の歩道の両端に一人ずつ。視線もそれぞれ車道側と庭側に向けて。

二人の間に短いが確かに存在する距離と異なる方向への視線。相容れない正反対の立ち位置。

何かを何かから「護る」とき。

それぞれに異なるスタンスについての思いがふとよぎった。

爆発の心象

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日経新聞朝刊に岡本太郎が特集されていた。有名なフレーズ「芸術は爆発だ!」についての彼自身による説明の紹介が面白かった。

「爆発というと、みんなドカーンと音がして、物が飛び散ったり、壊れたり、また血が流れたりする、暴力的なテロを考える。僕の爆発はそういうんじゃないんだ。音もなく、宇宙に向かって精神が、いのちがぱあっとひらく。無条件に、それが爆発だ」

これを爆発と呼ぶのなら、爆発ということばの選択自体なんと挑戦的なのだろう。

「爆発」と聞けばすぐさま思い浮ぶ「爆発シーン」の情景によってかき立てられる「死へのおそれ」と「芸術」の意外な取り合わせ。

その意味が、「芸術と死」から「芸術といのち」という心象に変化したとき、作品の力が発揮されたことになる。

それを目にすれば誰しもが不思議な心象をいだく「太陽の塔」。

なぜ、不思議な心象が浮かんでくるのか?

「死ではなく、いのちの爆発のイメージ」が込められたせいなのか、

新聞に掲載された「太陽の塔」の写真を見ながら考えてみた。

批評の刃

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「だが、はやるということはいいことだから、それについては私はとやかくいいたくはない。ただ、はやりすぎると芸が荒っぽくなるのを恐れているのであって、書きすぎると筆が荒れるのとそれは同じことなのである」

(白洲正子 「名人は危うきに遊ぶ」 より抜粋)

何について、「だが、はやるということはいいこと」と白洲正子は書いているのか。

野外の能舞台で薪の明滅する炎に揺らされ、演じられる能、「薪能(たきぎのう)」のことだ。

薪能が花火のようにあちらこちらで行われるようになった趨勢について「はやる」と言っている。

言わずと知れたように、白洲正子は幼少の頃から能の稽古に励み、初めて能舞台に上がった女性として、能に対する造詣の深さは人後に落ちない。

その彼女が、「はやりすぎると芸が荒っぽくなるのを恐れている」と書いている。

なるほど、確かに。そんなもんだろうな、となにげに読み進める。

そしてこの文章は、「書きすぎると筆が荒れるのとそれは同じことなのである」と唐突に終わる。

なぜだろう、と思い、この文章の出典を見て、はっと息を呑んだ。

「第九回世田谷薪能」パンフレット 平成6年10月

おそらく、だが、

能に対する彼女のたぐい希な造詣をたのんで、市民も楽しめる薪能「イベント」のパンフレットに寄稿が依頼されたのであろう。

能鑑賞の初心者も多いと思われるこの会の気軽に読まれる可能性も高いパンフレットに、「はやりすぎると芸が荒っぽくなる」との文章を寄せる。

まさに一刀両断とはこのこと。演ずる方は、さぞ背筋が凍っただろう。

しかし、彼女はそれだけでは終わらない。

文章を綴る自らにも同等の刃を向ける。

「書きすぎると筆が荒れるのとそれは同じことなのである」

「美」と対峙するとき、一切の妥協のなかった白洲正子。

有名だろうがなかろうが、権威があろうがなかろうが、真摯に「美」を探求し、見出し、はぐくむ。

そんな姿勢と常に共にある彼女の強さと厳しさに、ふと思いを馳せてみる。

出張前夕餉記

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今日から月曜まで東京。昨日は出張準備で1日が暮れた。住まい近くに母子で行ける「食事もきちんとしたバー」を持つのが子持ち職業主婦のセイフティネットの心得。が、最近娘が外食を嫌う。よって、おうちごはん。夕餉は如何に。私が頼んだ白ワインが一昨日6本到着、いただきもので旦那が持ち帰った純米酒が6本、計12本の透明な液体。そうは言ってもがぶのみできる水じゃないからね。ワインセラーのない我が家、ワインと純米酒、計12本のせいで野菜が隅に押しやられる非常事態。ならば、到着したばかりの白ワイン消費と意気込む。鮭に塩胡椒、トマト、アスパラ、マッシュルームを加えて、アルミホイルで蒸す。さあ食すぞ、というときにかぼすを絞りまわしかける。とうもろこしの冷たいポタージュ、オクラのバター焼き、キュウリのスティック。梅酢で炊いたお焦げご飯(わが家に炊飯器なし。土鍋でご飯を炊く。)にて夕餉開始。ワインは野菜室を脅かす白。野菜室オープンスペース増床を期してどこから攻める?こんな時は迷わず直球スパニッシュワイン。ラッチ・デ・ライム2008。ミネラルの直球が心地よい。こんなとき、いちいち繊細に媚びるワインはむしろ邪魔。娘がお腹に居て安定期を迎えた頃、周囲に黙ってスペイン旅行。歴史古城・宮殿など歴史的、芸術的建築物を改装した国営の宿泊施設「パラドール」を巡る旅。アーモンドの並木道を時速120キロで突っ走る。十分すぎるぐらいとばしていたはずが、途中、臨月を迎えたかと思われる妊婦に見事に抜き去られた。US女ほど派手なアグレッシブさはない、が、侮るべからずヨーロッパ女。 ハンドルの下部を突き出たお腹で支え、鋭角的な横顔を見せつけて。八重桜の押しつけがましいピンクを思わせるアーモンドの花が満開の並木をバックに、鷹の目、鷲鼻、隙のない横顔がフラッシュして消える。妊娠して優しい顔になったね、ってどこの国でよく言われること?安易にまとまるな。そんな声が聞こえる遠い記憶。

空気抵抗としての伝版

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「まるで軽やかな鳩が空気の中を抵抗なく飛び回れるようになると、真空の中ならもっと楽に飛べるのではと想像するようなものである」 

(カント 純粋理性批判序文)

「白い紙にあなたの気持ちや考えを自由に書いてください」

「あなたの思いを自由に話してください」

なかなかに難しい話である。

それは、「鳩よ、この真空の中を自由に飛び回れ」と命じているからだ。

ならば、コミュニケーションの空気抵抗を作ろう。

それを、「コミュニケーションのための型紙=伝版」とした。

鳩の飛べない「真空みたいな白い紙」に、花や木、雲など、人間が存在する以前に存在した自然のモチーフを描いて、空気抵抗を加えてみる。

使われた伝版の中の表現を見ると、

与えられた制限そのままに、表現する人と、

制限を超えようとして、表現する人の2種類に分かれる。

興味深いことに、制限をまったく意識しないで表現する人はいない。

伝版の中のモチーフを意識することはつまり、制限に対する意識になる。

そこに描かれたモチーフを前提に表現の逸脱を試みている。

制限があるから、人はそれを越えようと思うのだ。

自分のことばが添えられた伝版を使って、発表してもらうと、

与えられた制限そのままに表現する人は、安心した様子で、

与えられた制限を超えて表現する人は、誇らしげに語ってくれる。

まるで、空気の中の軽やかな鳩のように。

音の記憶

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足裏で、「ジャリッ」、と音がした。

きっと「アレ」だ。

二三歩先を行ってから、後ろを振り返った。

やっぱり「アレ」を踏んだのだった。

そう、「アレ」とはクマゼミのおだぶつ。すっかりひしゃげてしまった。

解体の算段に忙しい蟻さんの仕事を減らしたに違いない。

それにしても、

クマゼミのおだぶつを踏んづけたことなど、40数年生きてきて、片手ほどもないはず。

なのになぜ、音だけで即座にそれとわかったのだろう。

かたや、

気合いと共に頭にたたき込んだはずの知識は、ごくごく最近のことですら、忘却の彼方に押しやられているのに。 ああ。

その瞬間、

「ジャリッ」という音は、頭の中で妙に響いて聞こえた。

右の耳と左の耳から入った音が、ちょうど真ん中でシンバルを打つようにあわさって頭蓋骨の中を共鳴し、その瞬間、目の前の風景が凝固した。

そういえば、

アイデアを思いついたときも、目の前の風景が凝固し、右耳と左耳の間が急に開通したように一瞬ジーンとした後、音が妙に大きく響いたり、あるいは聞こえなくなったりする。

今得たばかりの感覚と、昔の感覚記憶との照合の瞬間と、

要素同士がはじめて出会うことによって新たにアイデアが生まれる瞬間に頭の中で起こっていることを、

どちらも刺激が頭の奥深くにしまわれた何かの記憶をひきだし、その刺激について照合とラベルづけを行うまでのプロセスだ、と捉えてみると

とても似ているのかもしれない。

 

それはそうと、

ここ5年ほど、毎朝、ヨガや整体をミックスした自分なりの体操を続けているのだが、

ふしぎなことに、

最近、頭と身体の感覚のつながりをはっきりと感じられるようになった。

はじめたころは、

単に健康とダイエットの効果を期待していただけだった。

継続するということは、期待した力をもたらしてくれるだけでなく、

思ってもみない力をプレゼントしてくれるような気がする。

消失者たち

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生命の基本仕様は女性である、というのが最近の通説であるらしい。

受精後6週間までは染色体がXXだろうがXYだろうが、すべて女の形状で成長する。

7週目を過ぎた頃、ある特別なタンパクが作られる。

このタンパクは、染色体がXYの場合にのみ、Y染色体の上にあるSRY遺伝子と結合し、SRY遺伝子は司令塔として活動可能な状態となる。

この時すでに生命の基本仕様である女性に必要な卵管や子宮、膣などのもととなるミュラー管ができており、次なる成長を待っている。

ところが司令塔SRY遺伝子が活動すると、ミュラー管を抑制する因子が放出され、せっかくできたミュラー管は徐々に小さくなり、ついには消失してしまう。

さて、

「○○とは、」で始まる定義によって、世界観が左右されることがある。

「染色体XYの彼ら(男性)とは、最初はあった子宮(のもと)を消失してしまった存在である」 と、定義してみる。

この定義のままにみえる色眼鏡をかけて世界を眺めるとどんな風景が見えるだろうか。

なくしてしまった子宮構造を内包するランドマークを現実空間に仕立てようと、もしくは仮想空間のシステムに再構築しようする「彼ら」の企み。 

その企みを眺めるのは「子宮を内在化している」彼女たち。彼女たちの内在をわざわざ外在化しようとする彼らの企てに込められた意味をはかりかねる。

しかし、少なくとも敬意は表してみる。

「染色体XYの彼ら」が「Y」をもつのは、その片割れとしての「X」を運ぶためである。

メッセンジャーとして優秀な「Y」の存在はつまり、「Y」を魅了した偉大な「究極の母・X」の存在を暗示している。

「Y」は彼らの「究極の母・X」を未来につなげるために存在した。

彼女たちの敬意はおそらく、存在が暗示された「究極の母・X」に向けられている。

                                    (参考文献:できそこないの男たち 福岡伸一) 

おばさんジャニーズ

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夏休み。小5の娘を観察していると面白い発見がある。

①二人でテレビを見ていた。タマホームCMにキムタク登場。娘(タマホーーーーーム、と歌い終わってから):「ねえ、ママ、キムタクっておばさんのジャニーズなんやろ?」 私:「えっ???」 娘:「だからア、キムタクのいるSMAPはおばさんのためのグループなんやろ?」 私:「えーっ!!!」 

私が説明するまで、「SMAPは自分の母親のようなおばさん世代用に特別に結成されたジャニーズ」だと彼女は思っていたそうな。そりゃそうだ、あなたが生まれたとき、彼らはすでにスターだった。草彅剛が事件を起こそうが、おばさんジャニーズに属する彼らのことなど、彼女の眼中にはない。私だって、SMAPに興味があるわけではない。が、娘にそう言われてしまうと、草彅クンの事件後、久々にSoftBankのCMでそろい踏み出演した(やや痛々しい)彼らと彼らの再登場を歓迎する私と同世代の女性たちに妙に同情的になる。

②自分で描いたイラストを、当たり前のようにネットの投稿サイトに投稿したり、街で見た洋服とネットショップの中の洋服を比べて迷ったりしている。

携帯だけでなく、私が先を行っていたはずのコンピュータの使いこなしも、すでに彼女は私のはるか先を行っている。

③もう終わってしまったテレビシリーズ「ごくせん」のファンである彼女は、YouTubeで番組を検索して6分程度ずつに分割されたドラマをちょっとずつ見ている。

親がDVDを借りて見せている間はおつきあいのあったレンタルショップ。しかし、彼女自身が「何か映像を見る時の媒体」として、レンタルなんか「考えもつかない」らしい。ローティーンの想起集合に入らない業態がここにも....。

レジリエンス

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オープンマインドに話を聞く、ことの重要性はよく説かれる。人の話を聞くことが多い私は、そりゃそうだ、と思っていた。虚心坦懐に人の話を聞かなきゃね。

昨日、今日とDV(ドメスティックバイオレンス)やモラルハラスメント、トラウマなどによる心の傷つきに焦点をあてている「レジリエンス」というNPO団体のセミナーを終日受け、帰宅後の今、話を聞く、ということについて、しばし考えさせられている。

DVなどでも起こるショッキングな出来事やトラウマが原因で、主にその出来事に関する記憶が失われる一方で、前後の意識についてはしっかりしている場合がある。こういう現象を解離性健忘というらしい。この場合、記憶の忘却は自らの身を守るための自然な適応現象の一つであると考えられる。

問題は、一切合切忘れているわけではなく、一部の記憶がない、ことにある。この状況が法廷に持ち込まれるたらどうなるだろうか。

トラウマなどの原因で被害者が解離性健忘状態にあると、被害状況の証言を完全に行うことができない。証言の記憶があやふやで、つじつまが合わず、一方、目に見える証拠は皆無、だとする。

そのような場で、私が裁判員であったらどう判断するか。被害状況に関する情報として、被害者とされる人からつじつまがあわない証言を聞く。他の証拠如何だろうが、その人に虚言癖があるのではないかと疑ったり、判断能力がそもそも低いがゆえに事件を招いた、とバイアスをかけて判断してしまう可能性も否定できない。

オープンマインドとか虚心坦懐に人の話を聞く、とは、何を問われていることなのか、と今一度考えてみる。

心をまっしろにした状態で、情報を浮かせたまま何も判断できない状態が続いてしまうと、それ自体がストレスになる。こんなとき、苦しまぎれにせりあがってくるのは常識による判断への誘惑だ。

常識的な判断とは、つまりは常識的なバイアスをかけて判断を行うことである。

真実に少しでも近づくためには、常識的な判断を安易に導入するまえに、他の可能性は?と愚直に問い続けるエネルギーが必要になる。

本当はいついかなるときでも、自己認識としてまずは「無知の知」を持ち出してみるべきなのだろう。けれども、常識的に判断してしまえば頭の働きを楽(ラク)にできそうな問題に対しても、「無知の知」発動による「なぜ」を続けることは辛い。

じつは、単に話を聞く、というあまりにもシンプルな行為の中に、足腰の強い知的判断のベースになる「オープンマインド」・「無知の知」・「問い続けるエネルギー」の3点セットのありようが問われている。

自分の仕事枠内で、ありていに「傾聴」を考えていた自分を恥じる。

***

全国で初めてとなる裁判員裁判が3日から東京地裁で始まる。裁判は4日間連続。6日に判決が言い渡される予定。

市民から選ばれる6人の裁判員が、重大な事件の審理に参加。

3人の裁判官とともに有罪・無罪や刑の重さを判断する制度のスタートで、 日本の刑事司法は大きな変革期を迎えることになる。

瞑怒雨(めいどう)

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さっきまで晴れていたのに、みるみる空が暗くなり、雷とともに降ってくる雨を「瞑怒雨(めいどう)」と表現するらしい。それらしい表現である。夕方頃にざっと降る雨を夕立というが、長崎県の一部の地方では、夕立のことを(おそらく古い表現だろうが)、「婆威し(ばばおどし)」というらしい。「庭一面に干していた豆に雨が降り込んで、あわてふためいて片付ける婆。他の家族は田畑に出ており、借りたい手はなし。」 そんな情景なのだろう。

怒ったり、あわてふためいたり、人の感情や行動に喩えた雨の表現には面白いものが多い。

今日は午後に出先で大雨が降って電車が遅れた。鬼のしわざかと思われるような、並外れた大雨の呼称は「鬼雨(きう」。人ではなく、鬼、という見立てが、起こりうる災害までも示唆していてなるほどと思わせる。