2009年7月アーカイブ

色を感じる皮膚

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色鮮やかな夏野菜カレー、じゃなかった、「五条橋ハヤシライス」を食べた翌朝。もう一日「色」がらみで。

色の三原色は、赤・黄・青。一方、眼に見える光(可視光)の三原色は赤、緑、青。これをおおよその波長で示すと、赤は750から620ナノメートル、緑は580から500ナノメートル、青が480から450ナノメートル。

一方、波長が380ナノメートルより短い光線を紫外線と呼ぶ(ちなみに780ナノメートルよりも長い波長は赤外線と呼ばれる)。

「日焼け」などの例にあるように、皮膚は、紫外線を感じる。

一方、眼に見える光(可視光)の影響は受けない、と長い間考えられていた。

ところが、最近の研究では、皮膚は可視光の三原色(赤・緑・青)のそれぞれに異なる反応をしている、つまり、ひらたく言うと、「色を識別している」らしい。

皮膚の角層バリアをセロハンテープを貼ってはがすことで壊す。そして、そこに赤・緑・青のLEDの光をあてる。

赤い光をあてるとバリアの回復が速くなる。

緑は変化なし。

青だとバリアの回復が遅れる。

その後の研究で、培養した皮膚(つまり、神経も血管もない皮膚)でも同じ結果が得られた。

                        (以上、傳田光洋著「第三の脳」より)

「昔は、黒だとか紺だとか、シックな色合いのものが好きだったけれど、最近、なんだか赤いものが好きなのよねー」

50歳を過ぎた女性からよく聞くコメント。

自らの再生力では不十分なことを身体が感知して、補う要素を外に求めているのだろうか。

失礼を承知の仮説だが、「素直な表現には、思いがけない真実が潜んでいる」のかもしれない。

五条橋ハヤシライス:夕餉記

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ライスは黒米を混ぜて炊き、全体を小豆色に仕上げ、牛肉とタマネギ、ナス、トマトで煮たハヤシライスのルーをかける。

さらにトッピング。

みじん切り細青ネギ、ボイルしたミニアスパラとオクラの輪切りを塩こしょうでさっくりあえ、ルーの1/3程度の分量を右寄りに盛り、さらに完熟トマト生と赤パプリカをキューブ上にカットしてのっける。

名付けて五条橋ハヤシライス。

飲料。飲み残しの白ワインをオンザロック、上からスパイス入り梅酒「星子」をそそぎ入れ、厚すぎるくらいの輪切りかぼすをのっけて、フォークを突っ込んでおく(無骨な作りのロックグラスなら、フォークでかぼすの輪切りをつぶしながら飲んでも割れない)。

まあ、 飲料はよしとして、五条橋ハヤシライスって何よ?

コトのはじまりは今朝。とある情報誌を読む。

ナス、トマト、オクラ、パプリカ...、夏の野菜はなぜ色鮮やか?

太陽のエネルギーを貯蔵するとともに、強い日差しから種や実を守るため。

日差しを浴びれば浴びるほど、その色は濃くなって、防御力が強くなるそうな。

ふーん、 あのおいしそうな色、太陽エネルギーを蓄えつつ、日差しからこどもをしっかり守っている証拠なのね。すごいぞ、夏野菜。

「これからの時代は、WIN-WINが基本です。」

なーんて聞かされても右から左にスルー。そんなつまんない台詞よりも、感心な夏野菜たちのことを考えて振る舞おうよ。

カップ底のコーヒーを流し込み、さて、とばかり、新聞に目を移すと、国立文楽劇場「夏休み文楽特別公演」、8/5まで。まずい。来週で終わってしまう。

テレビはなぜかカレーを紹介し始める。間髪入れず、娘が一言、カレーが食べたい、あ、やっぱり、ハヤシライスがいい。そうですか、えっと、カレーじゃなくてハヤシライスね。はいはい。

とにもかくにも、2800円破格プライスで親子チケット引換のできる夏休み文楽特別公演(ありがとう大阪市)、いかねば。母は楽しみにしているのだ。

2週続けて週末返上仕事となれば、ええい、本日休業じゃわい。文楽、行くことにする。

最初の出し物は、牛若丸と弁慶が主従の契りを結ぶ有名なくだり。

まず女性と見紛うばかりに優美で華奢な牛若丸登場。その装束は、「紅」裾濃の御着背長、糸算織の大口に「薄緑」...。

色鮮やかにしてさわやか。最近、街で妙な色柄の浴衣を見過ぎて疲れた目がすっきり。

ほどなく現れた荒ぶる弁慶。鎧は「黒」革...、さしずめブラックのヘビーデューティ。

お手合わせするも、自由自在な牛若丸にさしもの弁慶もたじたじ。ついには弁慶が降参し、牛若丸の家来に。

演目名は「五条橋」。最後のシーンは弁慶がかまえた薙刀の刃の上に牛若丸が立ち(舞台上手側)、それを弁慶が牛若丸ごとかつぎあげるというシーン。

このシーンをハヤシライスにしてみたら?

弁慶はどんと構える「黒」いハヤシライス、牛若丸は、舞台上手側にあたる右に、「薄緑」と「紅」であざやかなトッピングに仕立ててこじんまり置く。

薄緑ぴったりの野菜はなかったので、細切りのネギを小口切りにして濃い緑と根に近い白い部分をよくまぜあわせると、各々が画素のようになって、きれいな薄緑ができた。

これにオクラとアスパラを加えると、なんというか、さらに奥行きのある薄緑になったような。

紅は言うまでもなく、完熟トマトと赤パプリカ。

ハヤシライスと夏野菜(だけじゃないけど)、そして文楽という組み合わせで、作ったらどうなる?

ただそれだけにチャレンジして、作って、食べてみた。

そんな、楽しい休日でした。

あ、そうそう、五条橋ハヤシライス、

娘はおいしい、と言ってくれました。 

ちなみに邪道ロックワインの合わせ技は大正解。

早朝点景

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朝。家のベランダは朝だけ日当たりが良い。日当たりを選って置かれた鉢の、てんで勝手にのびた枝葉や、出張前よりも黒赤く色づいたトマトの実が半端に開いた窓から縦長に切り取られて見える。蝉とカラスの鳴き声。カラスが鳴くと雀はひそんで黙る。遠く野太いバイク音。室内は中途半端にたたまれた洗濯物、テレビを見ながら涼をとるために定位置から動かされた扇風機、捨て石のようにころがるいくつかの荷物と散乱した小物、そして直に命がつきるカブトムシのケースが端に佇む。

秩序をつけられる前の状態。朝の光が色と質感の見え方を刻々と変え、遠近のバリエーションにも富む。蝉とカラスもしくは蝉と雀のBGMをバックに、この風景をデッサンすれば、きっと面白いものになる。

当座の仕事として私はこれを片付けるのである。片付ける前に、片付けられるものをじっくり見てみる。片付けられるものにも価値を見いださなければ、片付けなんてやってられない。逆説的だが、解決される前の状態も慈しんでじっくり腹に落とさなければ、その解決は居心地の悪い解決になる。

想定の範囲

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雨の日は、独特のにおいが鼻にぷん、とくる。その地独特のにおいと混ざり合って。

人工物のうえに人工物を塗り固めたような東京のど真ん中でも雨の日は、単なる人工物のにおいとは違うにおいがする。

ふと、

「青蛙おのれもペンキ塗りたてか」  芥川龍之介

という句を思い出した。

「雨と土と草がまざりあったにおい」、そんなにおいが濃厚な場所で周囲に目をこらすと、昔はよく見つかった青蛙。

「ペンキ塗り立て」の看板にうっかり近寄ってしまい、その、つん、と鼻をつくにおいに思わず顔を背ける。

東京のまんなかで降った雨は、いろんなにおいがしたけれど、一瞬、「雨と土と草とペンキ塗り立て」のにおいを混ぜたよう、と思う瞬間があった。

青蛙とペンキのぬらぬらした緑色。

その組み合わせの妙は、もちろん作者の意図だが、

まざりあうにおいについては想定していただろうか。

そんなことを思った。

仰臥漫録

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あてもなく書店をうろついていると、正岡子規の「仰臥漫録」に出会う。いつか手に取ろうと思っていて忘れたままだった。

今から100年以上前、コンピュータなど、かけらも生まれてはいないが、中身はさしずめ重病患者本人による病状ブログ。日付、天気、食べたもの、雑感、スケッチ、そして俳句。まず、食事の記録に驚かされる。

たとえば、仰臥漫録が始まって3日目の昼食の記述。

   昼  鰹のさしみ 粥三椀 みそ汁 佃煮 梨二つ 葡萄酒一杯(これは食事の例なり 前日日記にぬかす)

とある。肺がすでに左右空洞で、生きていることすら奇跡とされていた。にもかかわらず、昼からこれだけの分量。食事の例らしき(!)、昼から葡萄酒。そして、昨日書き忘れた、と記す完璧主義。

そして、この日は俳句3句と訪問者の動静、会話の中身。天気は、変化も記録。「朝曇 後晴」、「雨 夕方遠雷」など。

とんでもない観察力と描写力、そして書き(描き)記す執念である。

また、この35歳の重病人は結婚に失敗した妹を、看護婦 兼 料理人 兼 秘書 兼 あらゆる家政雑事担当者として側に置く。この妹「律」のことを、

「律は理窟詰めの女なり 同感同情のなき木石の如き女なり 義務的に病人を介抱することはすれども同情的に病人を慰むことなし 病人の命ずることは何にてもすれども婉曲に諷したることなどは少しもわからず...」と書きつらねる。

まったく。不治の病を看病させた肉親だからこそ、スケープゴートの対象でもあったよう。でも「律」なしにはあり得ない、と後に記したり。今ならさしずめ精神的DVか。「律」さん、ご苦労さんだったねえ。

この日記の一月後、こんな記述にも目が留まった。

「十六、七歳の頃世の希望は太政大臣となるにありき 上京後始めて哲学ということを始めて哲学ということを聞き哲学ほど高尚なる者は他になしと思ひ哲学者たらんことを思へり 後また文学の末技に有らざるを知るや生来好めることとて文学を志すに至れり...」

ふんふん、なるほど。自分探ししてたんだ、と読み進めると、健康だったらやってみたかったこと、として、

「幼稚園の先生をやつて見たしと思へど財産少しなくては世には出来ず、造林の事なども面白かるべきもその方の学問せざりし故今更山林の技師として雇はるるの資格なし...」

なんと、正岡子規が幼稚園の先生?! 造林?!

30代半ばで生涯を閉じた、それでも偉大な功績のある正岡子規。仮に、現代の医学で生き延びていたら?

林の側に立地する幼稚園の理事長。出戻り妹の「律」は兄にこき使われて、園の運営をしていたのだろうか。

なんだか笑えてきた。

無音の青い空

日曜の早朝、ホテルの窓からは晴天。きれいな青空。

しかし、はめごろしの窓なので何も聞こえない。「目」だけへの刺激。

見えているだけで、何も聞こえない、におえない、さわれない、味わえない。

目には、音・におい・感触・味への感覚転移がおこりそうなイメージが流れ込んでくるが、

その感覚は実際には経験できない。

目に偏重したイメージの流入のあとに残るのは、見ているだけで、結局は得られない感覚への根源的な渇望。

その渇望は、たとえば、購買意欲になってあらわれる。

青い空から転移した他の感覚のおあずけ感が、例えば、リゾート旅行購入の動因となったりする。

旅行パンフレットは、お金を出したら、見るだけの青い空じゃなく、青い空と共にあるハズの素敵な感覚を全部体験させてあげる、とささやいている。

こうなりたい、こうありたい、ニーズとかインサイトとか、マーケティングのための顧客理解にはいろんなコトバが使われ、アプローチもさまざまに見えるが、

とどのつまり、得られそうで得られない感覚を満足させたい、という動物的な部分を、いかにうまく切り取って提供するかということに行き着くのでは、と思う。

遊牧出張

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昨日金曜から火曜まで東京出張である。 来週木曜からも異なる目的の出張で上京。

飛行機も新幹線もホテル生活も大嫌い。

飛行機も新幹線もホテル生活も大嫌いだが、一所にじっとしているのはもっと苦手である。

なので、結局こういう羽目になる、と最近悟った。

運命なるものは自分の根源的な志向に対して、わりと忠実である。

また、持つことに固執しないと、人生かなり楽ちんになる、ということも、最近、身にしみて思う。

どんなに偉い人よりも、本当に必要なものしか所有しない遊牧民にあこがれる。

もうこれ以上動けなくなったら、その地が墓場になる、と いう暗黙の了解。

つながりの面倒くささに疲れたとき、皆が去り、自分はその地で土に還る局面を思う。

自分の中途半端さに唖然とする。

不言実行

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Talk the talk (言うだけ番長のふるまい)、Walk the talk(有言実行)。では、不言実行の英訳は?

ぴったりした英訳をご存じの方がいらしたら教えて欲しい(「寡黙な実行者」という程度の甘いものではなく、「不言」でよろしく)。

良い意味で使われる「不言実行」であるが、そんなこと普遍的にありうるのだろうか、と思っているから気になる。

不言実行のもと、一言も言わないのに「何らかの価値有ること」の実行について、観察者と実行者の間に共通認識を持ち得るのはどんな状況で、どれぐらいの期間なのだろうか?

たぶん、けっこう長い間、周囲が評価しうる共通コードが存在し、当事者だけに通じる「寡黙な実行」の結果、それをわざわざ言わんでもわかってやってるぞ、という意味で「不言実行」という寓話が生まれる。

一皮むけば、いつ何時も本質的に不言実行であるなんて考えられない、というのが私の仮説である。 少なくとも、不言のベースとなりうる有言かつうるさいくらい強力なメッセージ(言葉だけでなく、身体的なものも含め)が集中的に流されたポイントがあるのでは、と。

つまり、不言実行って、規律が明確な共同体だけで観察されるもので、その共同体だけに通じる価値基準にそった行動。それが評価されること自体、その価値を知らない人に対しては、けっこう排他的に使える。

なので、実は胡散臭い?

むしろ、離散集合が激しい時代の節目には、「有言実行」の中の「有言」の中身と、「実行」の中身について、わやわやとやりとりしつつ、どちらにもありうる「修正」を奨励することが重要なのでは、と思っている。

仕事のことを考えていたら、こんなところに行き着いた。まずは、「有言実行」の「有言」の中身を、仮にでも定義し、議論することがすべて。「不言実行」の「不言」の後ろにある「価値」を語らずして実行するのは、当事者の意識・無意識に関わらず、排他的になりえるので、危険な状態を生むな、と思ったからである。

手描きパース

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伝版やひとふでんずのことをつらつらと考えながら本屋を歩くと、おもしろい本に出会う。建築にはまったく無縁だったけれど、最近、「手塚貴晴の手で描くパース」という素敵な本に出会った。パースとは遠近法を利用して描かれた図のことで、主として建築・インテリアなどの設計者やデザイナーが描く、透視図・完成予想図・デザイン画などのことらしい。手描きパースの描き方が、とっつきやすく、わかりやすく、シンプルながらセンス良く説明されており、この分野に関係ない人でも、思わず描いてみたくなる。やってみて、ちょっと描けるようになるとかなりうれしい。ちなみに、「とっつきやすく、わかりやすく、シンプルながらセンスよし」、これぐらいの数珠つなぎメリットがあると、門外漢をもひきつける、ということも、自らをサンプルn1として体験できた次第である。

ひとしきり遠近法の説明が終わった後に、「点景の描きかた」という章があり、その内容も目からうろこだった。傘の絵を組み合わせて、さまざまな枝振りの木を描く。傘をモジュールとして、妙にリアルな木々の点景ができていくさまは、なんだかいつも格好のつかない絵を描いてしまう私にエールを送ってくれているようだ。

最近はCADが当たり前になっているが、CADはあくまでも道具。かたちのありようとしては様々な可能性があるのに、手描きに比べてコピー&ペーストがいとも容易くできるようになったせいで、いつの間にか道具側のCADにコントロールされてしまったかのよう。「CADで描きやすいパース」が学生の作品にはごろごろしているらしい。また、CADのおかげで、手描きでは難しかった3次元曲面の屋根なんかも簡単に描けてしまう。なので、現在、3次元曲面形態の建物が次々と生まれているとのこと。ふーん、そうだったのか。

「しかし、大切なことはどのような曲線が作れるか、ということではなく、どのような曲線がその建物にふさわしいかということである。」と手塚氏は説く。

なるほど。

便利なものを得すぎると、原点を見失う。

どのような曲線がこの建物にふさわしいか、を決めるということは、頭の中にもやっとある建物のありようをひきだして、ひもといた結果としてできることなのだろうな。

ひきだし、ひもといてから、どのようにくみたてるかについての作業と時間を担保する手段が、「手描きでパースを描く」ということなのかもしれない、とふと思った。

思いつき

「思いつき」でやってしまった企画。ありがちである。「思いつき」でやってしまった会社、まさに「伝耕」そのもの。はてさて、コーナーぎりぎりで叫ぶなら、「思いつき」そのものは悪くない!だって、天啓?!かもしれないし。「思いつき」そのものは、偶然がもたらす一つのキーで複数の扉を開くためのある種の表現形、と言い切ってしまう可能性はあり。そんな可能性について、誰が否定できるだろうか。

「天啓あった!」、と、大いなる誤解が稼働、その後が重要。どうして自分に天啓が降臨?したのか、答えの「端緒」、は、自分の中以外にあるわけでなく。その「端緒の根本にある何か」について、はらわたをさぐって、「ひきだし、ひもとき、くみたて」、どんなふうにするの? そもそも「ひきだし、ひもとき、くみたて」やるの?なんとか、やれた、として、次は、それをどう開示し、どう共感を得て、どんなふうに運命共同体らしき人々を募ると素敵な未来が訪れるのかしらん?絵が見えている???

天啓その後、水晶玉の中に見える運命の行く末をたどるように答えられる人がいるなら、ご教示願いたい。私はといえば、相変わらず遠回り、めんどくさいアプローチ。なんで、こんなことが自分に降ってきたんだろうという問いに対して、①自分では気づいていなかったが、押しとどめていた思いはいったい何だったのか、②押しとどめていた思いは、どんなきっかけで、こんな形で自分に降ってきたのか、③そのきっかけを生んだ要因は何か、④、なんでこんな全体プロセスに関して、今、私は、マジメに問うているんだろう、⑤ところで、今日時点の私って? ぐらいしか、問えない。

むずかしいこと置いておいて、当座、そのままやっとくからさ、というスタンスをモザイクのようにあわせ仕込みながら、これから出会うであろう人と、出会いのありようについて、妄想を続ける(ほかはなし)。

さて、今日、昨日のおでんはさらなる味の染みいりモードに突入させ、別の小道、白ワインフェーズに突入。売れ残りのヒラマサに生バジル&ディジョンマスタード&白ワインバルサミコでソースを作りまわしかける。作り置きのビシソワーズは、ムース状に変身しており、5ミリ幅のバケットにのっけてパテ風に食す。そこまでは完璧。でも、今日の白ワインの合わせ技に失敗。甘さと果実味の方向性が、用意したモノには合わず。

白ワインはCono Sur.安くて評価高いが、少し油の回った魚介類カルパッチョNGです。そういうときは、やっぱり、シャブリか特別純米酒にしておこうね。

ソムリエ、ではなく、ノムリエ、は、合わなかった取り合わせをオープンにすることに抵抗がない。 なので、表現するに際しての折衝がいらない、なあなあの間柄。いいね。

西道 広美

夕餉記

7月3連休最終日。昨晩は真夜中に雷雨。翌日からりと晴れるかと思いきや、きわめて高湿度を保った大阪らしい一日。雷のせいで、よく眠れなかったし、と恨み言。微妙に反自然ムード。夕餉は冷房をぎんぎんにきかせた室内で、おでんと日本酒、と腹決め。仕事ながら主婦の味方、シャトルシェフ鍋よろしく。3時のおやつを食べながら、メールチェック、文書校正をしつつ、おでんをさっくり仕込む。夕方、娘のリクエストで「ごくせん」をなんばの映画館へ観に行く。とっても強い白雪仲間姫と小人じゃなくてたくさんのイケメンっていう構図なのね、いっそのこと、強い女王蜂になればいいのに、なんとも中途半端な位置づけ、と思うのは私の世代(男女雇用機会均等法1年生)のサガでしょう。高島屋にて、日本酒物色。宮城は塩釜の「株式会社 佐浦」の酒、試飲販売中。ちなみに日本酒試飲販売は素通りできない。最初に、純米吟醸の「浦霞禅」いただく。上品、かすかに華やか、すっきり。瀬戸内の魚でいくなら、サヨリか。でも、今日はおでんだからね。特別純米酒「生一本浦霞」のほんわかの後に来る日本酒くさい(いい意味で)ほどけ方とかすかな酸味、これにしよう。売り場の女性とも同意見。帰宅して、夕餉。シャトルシェフの中から味のしみたおでんがお出迎え。「浦霞」とともにいただきご機嫌。さて、今はこれを書きながら、コップの底に残ったぬるい「浦霞」とデラウエアつまむ。なんとなく肩の力抜けた同士、わりといけます。

ずらしてやってきたジャグリングな日々

アラフォーというにはもう図々しい年齢、クライアントさんは東京なのに大阪在住、自由のきかない子持ちの女が、会社をはじめてみた。マーケティング(視点の解決)を標榜する会社の経歴があるにもかかわらず、はじめた会社は第一義的にソリューションを約束しない、おかしな会社。

はるか20年以上前、大学の卒業文集に、「20年後の自分」を書く欄があった。そこに私は、「頭にカーラーを巻いたまま、昼ドラを寝ながら見ているいかにも中年の専業主婦」といったようなことを書いた。さて今の私は、頭にはカーラーを巻くほどの髪の長さはなく、ここ数年、昼ドラは見たことがない。「結婚していて、家事を主担当している」という意味では主婦だが、専業主婦ではない。「家事や仕事や子育てを、すべて並行処理しているジャグリング中年女性」というのが現在の姿。つまり、中年というゆるぎない人生の時間帯と関連する内容以外は、推定した自己像はすべて外れている。

思えば、そのとき、私は、どうなりたいのか、を考えずに、どうありそうなのか、だけを考えていた。全体としてどうなりたいのか、ということをそれぞれの時代状況でつきつめると、何かを選び、何かを捨てなくてはならない。それはイヤだから、つきつめることを無視した。

結局、怖がりなのにあきらめの悪い私は、まず手近にどうありたいのか、ということを考え、そして、いろんな手近要素の部分について時期をずらしてチャレンジしてみた。そしてそれらの部分部分をくっつけてみて、全体から眺め、なんとなくOKか、ということを直観的に判断して次のステップを決めるということを、ずっとやってきた。そう、わかりやすいソリューションを避けてきたのである。そもそも。

そして今日に至り、ジャグリング並行処理な人生を送っている。過ぎ来し方、そのままである。個人のブログでは、そんな日々を、徒然に綴っていこうと思う。