太陽黄経165度

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になるのが、9月8日午前2時頃。

実は、今日の夜中、二十四節気、「白露」の日なのである。

 

「白露」

いかにも涼しそうな響き。

陰気ようやく重なりて露にごりて白色となれば也(暦便覧)

野には薄の穂が顔を出し、秋の趣がひとしお感じられる頃。朝夕の心地よい涼風に、幾分の肌寒さを感じさせる冷風が混じり始める。

この頃から少しずつ、秋が深まってくるはず、はず。

 

なのに、なのに。

昨日の京田辺市は39.9度。

9月になっても手を通したくなるのが麻だし、

秋の幻想と妄想で生き延びる日々。

 

イマジネーション豊かにしつつ、熱中症に気をつけましょうね。

「なぜこの人は

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こんなに変な世界をもっているのか」という問いへの答えです。

と著者大野英士氏が語る新著。

ユイスマンスとオカルティズム

下記、新評論社から送られてきたニューズレター掲載の著者インタビューより抜粋。

 

問:本書の「神の死=ニヒリズム」が世紀末を規定しているというテーゼが、現代においてもつ

積極的な意味とは?

  我々人間は地球という生態系が成立しゆく時点で、様々な偶然の戯れによって偶々生まれた

狂った種なのかも知れません。けれどいずれにしても我々は「意識」を持ってしまったのだから、

自分たちの素材の根拠や意味をもとめざるを得ない。19世紀はそんな「意味の根拠の喪失」を

オカルティズムで埋めようとした時代でした。いや、現在もなお我々オカルティズムに囚われて

いるといっていい。超越と内在の問題を、オカルティズムを媒介させずに解きうるか。

ユイスマンスが突きつける「問題」があるとしたら、突き詰めればそこです。

 

問:人文的営為を蔑ろにするこの趨勢のなかで、文学研究は時代批判とどう関わるのでしょう?

  慢性的な「利潤率の傾向的低下」という資本主義の根本矛盾を糊塗する手段として新自由主義が

登場した。そこでは単に「生き残る」だけでなく「人間らしく生きる」ことを可能にする人文的教養に

集中攻撃がかけられ、それは日本でさらに露骨な形をとった。だがいまや「生き残り」に動員されて

いる人々ですら、そんな生き方に辟易しているのが現実ではないか。目先の利益を考えずテクスト

を読む喜びと欲望を手放さない覚悟こそ学問本来の姿ですし、そうした文学の意味に共感してくれる

読者がいるのだと確信しています。

***

 

私にとって印象的だったのは、

「生き残り」に動員されている人々ですら、そんな生き方に辟易しているのが現実ではないか

というくだり。

 

MBAもしくはコンサルティングファームでの経歴をもっていて、さまざまな業界のベストプラクティスに通じ、

引く手あまたな人材の中に、「そんな生き方に辟易」している人がいるのを垣間見る。

彼らが個人的に必要としているのは、おそらく、近視眼的なROIを確かにするものではなく、

コミットしてしまった相手との間にもうけた「自分の子供をどう導くのか?」という長期的な(生物的な)問い。

 

今日明日の雇用とお金に苦労していない彼らの小さくくぐもった声は景気回復大合唱の波の中で消えている。

彼ら自身の寄る辺となる思想が、今、見あたらないように思えることこそが底深い問題なのであり、

だからこそ、今、オカルティズムに対する思考が重要なのだと思う。

 

19世紀末から100年を経た今、「神は妄想に過ぎない」と、どこかの脳科学者が言い切る時代なのだ。

だったら、次の100年、どうすればいいのだろう。

 

下り坂の時代

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日本は後退戦の時代に入ったという人がいる。

それについて私はどうの、という意見を持たないが、

自らが下り坂にさしかかっている世代がしたり顔でそれを語るのを見ると、

やりきれないずるさを感じる。

自分の老化と戦うことはつまり、後退戦を戦うことであり、

日本がそういう状況にあるということは、自分の個人的な戦いと社会的な文脈での戦いが

枠組みとして同じであることを言っている。

言い換えるなら、それはつまり、

自分が老化と戦うという個人的な後退戦すらも、社会的な文脈に重ね併せて、

「自分が主流であること」を訴えているのだ。

 

今まで、老いることや介護ということについて、語る気もなかった人たちが、

(無意識的に)自分たちの主流感を保つために、そういうテーマを持ち出しているとすれば、

日陰のテーマに日の目をあててくれてありがとう、とお世辞として言ってはみるものの、

本音では、どこまで行ってもつきあいきれないよな、と思っているのである。

ぐりとぐら

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帰りの飛行機では、2歳くらいの子供連れの母親が隣で、

さすがに仕事でぐったりしていた私は、正直うんざり。

 

周囲への気遣いゆえ、

子供連れで飛行機に乗ることに伴う多大なストレスを知ってはいたものの、

声がけもできず、ただひたすら目を閉じていた。

 

再建がらみで風当たりの強いJALの機内は、最近いささかすいているのだが、

こんな機内でも、3つの座席にたまたまびっちりな組み合わせはどうかな、とも思いつつ。

 

JALの機内に常備してある絵本は「ぐりとぐら」のシリーズ。

母親はそれを2冊ばかり借り、読み聞かせた。

 

子供番組のナレーターみたいに、よどみなく感情をこめながらの読み聞かせは、

完璧で素人っぽくなく、なんだか不思議な感じがした。

 

「ぐりとぐら」と「ぐりとぐらのかいすいよく」の2冊、お子さんへの読み聞かせのご相伴にあずかり、

子守歌を聞いて眠るオヤジおばさんがそこにいた。

 

 

気分転換

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頭の中に炭酸をいれてかしゃかしゃと振りたいな。

炭酸を頭の中でぷちぷちとはじけさせて、

ひろがる不思議な感覚といっしょに遊びたい。

そんな頭の中では、世の中はどんなすがたにみえるのだろう。

今の私の頭の中のありようとはまったくちがったものだろうけれど。

夏富士

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客室乗務員さんのアナウンスで、今日は機上から夏富士を目にすることができました。

富士山は雲の上にぽっかり黒々あたまをのぞかせて。 

 

でも、「夏富士」の期間ももうすぐ終わり。

どんなに暑くても、もう9月。

ということは、今年もあと4ヶ月を切りました。

ということは(しつこいですけれど)、

今年もあと3ヶ月、ということですね。

毎年9月になると、「今年もあと3ヶ月」と唱えて、

気を引き締めるのです。

大きな錠剤

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放射線治療が終わり、ホルモン治療を開始。

ノルバテックスのジェネリックの薬、タスオミンを処方された。

さまざまな副作用が現れる可能性もあるらしいが、

どうなるものやら。

 

とりあえず、今回の出張が終わってからのみはじめます。

続けられれば、直径1センチぐらいの比較的大きな錠剤とともに5年間の予定らしいです。

 

 

 

首筋のブローチ

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伝耕分室では店子さんたちも含めて、月一のお食事会が最初はプランニングされていたのだが、

単に、

大家わたくしの都合で、2ヶ月もしくは3ヶ月に一回になり、それも不定期急襲の迷惑な開催になっていた。

で、今日、急に開催。

いくつかの仕事の切れ目と、私の放射線治療終了、8月末ということで、お食事会。

 

ってのはよかったんだけど、

宴もたけなわの頃、

フォトグラファー長谷川氏の襟元に紡錘形の茶色物体が止まっており、

それが少し首筋方向に動いて止まったかと思ったら、おもむろに飛んで逃げた。

 

目の悪い私、最初、蛾、かと思ったが、それは体長5センチ弱のゴキブリであった。

首筋にブローチのように見えたのはコックローチであったか...。

 

それからが、私の周りは大騒ぎ。

ぎゃーぎゃー言って、

コピーライター古島氏がコックローチをたたきつぶして絶命。

 

ツタがからまるような建物が周辺にあり、古い建物があるところのゴキブリは、

飛ぶ、というのが私の持論。要するに、外ゴキブリ。飛び慣れている。

飛び方が結構正確だったので、おそれることなし(とんでもない奴は顔に向かって飛んでくる)。

もちろん、誰にとって大丈夫かというと、私に。

 

長谷川君は単に虫に好かれるね。2Fでは蟻が大発生するし。

競走馬を撮ってる場合じゃないかもよ、やっぱ、虫かも!

こげぱん

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30日間の放射線治療が終わった。この酷暑の中、往復50分の炎天下通院はなかなかにハードだった。

さらに、病院の中で小1時間ほど過ごすから、合計2時間弱。

この2時間のせいで、土日を除くとほぼ一月半のワーキングタイムの間、午前中がほぼつぶれていたので、

常に時間貧乏の日々であった。

あー、この通院日課からやっと解放されると思ったらすっきり。

 

さて、

照射した左の胸は、ひどい日焼け状態で、胸板に「こげぱん」がくっついているみたい。

「こげぱん」はこれから1年の間3回ぐらい脱皮してもとにもどるそうである。

 

放射線技師の方々、先生、どうもありがとうございました。

とにもかくにも、少しすっきり。

福岡伸一センセイのコラム

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8月29日、日曜。新聞の求人欄上にあるコラム「福岡伸一が語る仕事」4回目。そうだよなーと思ったので、備忘録として前半部分をここに抜き書き。

生態系の中に人間を位置づけてみる

 人類には約700万年の歴史がありますが、その大半の時間、飢餓と不足と欠乏にさいなまれていました。そのために足るを知るリミッターのほうはほとんど必要なかった。だから現在、どんなものでも必要以上に占有しがちになるのですね。土地を占有し、お金を占有し、男は女を占有し、女は男を占有する。

 他のほとんどの生物は、分を知っていて、自分が食べる食べ物はこれ、自分が行動する半径はこれくらい、鳴き合う周波数はこのくらいというように、資源をすみわけて禁欲していますね。すべての生物が、ありとあらゆるところに棲息しつつ、自分の分を守って、そこで、情報、物質、エネルギーをパスし続けている。それはものすごく多数でたくさんの球をけり合い、勝ちも負けもないサッカーをやっているようなもの。動的平衡を支えるために、できるだけ多種多彩なプレーヤーがいればいいというのが、生物多様性の理由です。

 ところが人間は、根深く占有という呪縛に固執して、そのパス滞らせ、結果、自然が持つ持続可能性を阻害してしまう。この世の中の生物すべては、絶え間ない合成と分解の中にあってそれに身をゆだねているわけですが、人間だけは自分を担保する分子的な基盤がないと不安で仕方がない。だから、外的な制度に依存してしまいます。ロハス(Lifestyle Of Health And Sustainability/健康で持続可能なライフスタイル)という考え方は、外的な制度から人間を自由にしてくれる思想ではないでしょうか。

 私たちのパラダイムを占有から少しだけ共有のほうに戻すことができたら、本来の生物の生態系の中に、人間を位置づけることができるんじゃないかという発想ですね。

 

 「経済活動において、過度の占有の欲求を持ち続けられるヒト」というのは、世間的には「やる気がある、パッションがある」などと肯定的に評価され、そういう欲求を持ち続けられないヒトは、「やる気のないヒト」と扱われ、総じて評価が低くなりがちである。

 過度の占有とは、もう少し言うと、「対象となる領地が明確で、そこにおける競合との競争に勝ち寡占すること」、つまり、「すでに数値化された領域での経済活動での勝者」。そこで活躍する可能性が高いのは「過度の占有欲求=競合と競り合い続ける欲求のあるヒト」。企業はそういう人材を欲しがるし、転職者や新卒者もそれを知っていて、道具としての能力が自分に伴っていることと同時に、本当はそうでもないのに、自分の欲求エンジンのタイプが「競争系」であるフリをすることになる。

 競り合いを前提としない、勝ち負けの制度すら存在しないオープンスペースでこそやる気が出るヒトもいる。経済が牛耳る世界でその活動自体が窮した今、オープンスペースに向いたやる気から何かが生まれる仮説は成立しても、現実のものとしてその価値を斟酌する余裕も基準も周囲にはない。福岡センセイがお書きのように、すでにそこにある外的な制度に身をゆだねるのが人間なのであるから。

 一方で、人間は、他の動物に比べて長寿であるから、欲求のない対象に対して、欲求のあるフリを瞬間的に演じることだけで人生を終われない。長寿ゆえに、欲求のあるフリをし続ける呪縛をかけつつがんばってみても、結局、あとに残るのは、多大なストレスである。人間が営む活動の中で、経済活動の割合が寡占である、と言ってもよい日本の中では、欲求のあるフリをすることによって生じる社会全体のストレスは膨大なものであろう。米国にいたっては、これで破綻しかけている。

 あー、なんだか、いっぱいため込んで安心するためにがんばっていたつもりが、気がつくと、モノだけは山盛り、でも、自分は老い、子供は少なくなり、周囲の自然は消え、みんななぜか不幸そう、というのが日本の現状であるとすれば、「じゃあ、どうして、過度の占有欲求があるフリをしなくちゃいけないのか?」と思い始めたヒトは多いんじゃないかと思う。過度の占有欲求の残骸をみてしまった今の若い人や、過度の占有欲求があるフリをしなきゃ認められないんならやってやるわよ、と思って化けた男女雇用機会均等法組のなれの果て組(過度にオヤジ化したおばさん)とか、最近会社を辞めた人、過度の占有競争を興じた肉食系男子の腐敗を目にして転じた草食系男子とか。

 しかし変わってきたのは、社会の空気として、そういう人たちを「負け組」と呼ぶことに、ちょっとためらいのある空気。

 もしかしたらそれは、人間が、どこまでいっても自分を担保する分子的な基盤がない存在であることを認めはじめ、そういう存在自体が招く限界について、具体的にイメージしはじめたのかな、と肯定的にとらえてみる。 

  

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